「リンダとの電話の話を聞いたぞ」
「……」
尚隆は煙草を1本口に銜えたが、ぐったりとしている美凰を見ると眉を顰めて煙草を箱に戻した。
「俺は…、君からの電話を受けていたんだな?」
「……」
美凰は虚ろな双眸を見開いた。
尚隆は知ってしまったのだ。
まさか、リンダが自ら尚隆に話すとは思っていなかったので、美凰は些か驚いた。
「…。成田でお逢いする約束を破ってから、三ヶ月近くも経っていたのですもの…。どういうわけか、わたくしからのお手紙はお手許に届いていないご様子ですし、わたくしにもあなたからのご連絡は一切届いておりませんでしたわ…」
「…。俺がなんと言っていたか、覚えているのか?」
頷きかけて、美凰はゆっくりと頸を振った。
彼女が話したくない思いでいる事が、尚隆には痛いほど解った。
「嘘をつくな! 君は覚えている筈だ…。言ってみてくれ!」
美凰は溜息をついた。
一字一句覚えている。
抉られた心の傷は今なお、血を流しているのだ。
「申し上げなければ…、いけませんの?」
美凰の辛そうな表情に、尚隆は拳を握り締めた。
「言ってくれ…」
「でも、今更そんな事をお聞きになって…、どうなさるのです?」
「頼む…」
初めて見る尚隆の下手に出た態度に、美凰は彼の願いを拒否しきれなかった。
それを聞いても、どうなるものでもないだろうに…。
「ヘイ、ベイビー?! 誰だか知らんが…、俺は忙しい男でね、今から可愛いリンダちゃんと…、ベッドインなんだ。君の順番は、当分廻って来ないと思うから、諦めて…、他の…」
淡々と響く掠れた涙声に、尚隆は双眸を閉じた。
「もういい…」
「他の、男を…」
「もうやめろっ!」
「……」
美凰はこんこんと咳をしだし、尚隆に背を向けると苦しげに胸を押さえた。
間違いない。
己の記憶と一字一句違わない。
何という事だろう。
漸く動けるようになった身体で、美凰は必死の思いで電話してきたのに…。
〔そうだ…。そう言って俺は相手が誰だか確かめもせずに電話を切り、リンダとベッドに転がり込んでSEXに溺れたんだ…。そんなつもりはなかった。目覚める直前、美凰の夢を見ていた俺は、哀しくて…、誰でもいいから美凰の代わりになる女が欲しかったんだ…〕
美凰のぜいぜいした咳の音だけが、空しく室内に響き渡った。
「少なくとも、事故の後、動けるようになってから君は『1度』は連絡をくれていた。その連絡を…、断ち切ってしまったのは、この俺だったというわけだ…」
「……」
自嘲するような尚隆の声に、漸く咳の治まった美凰はぎゅっと眼を閉じた。
愛する男性から投げつけられた、あのむごい言葉が総てを諦めさせたのだ。
あの電話の後、美凰は睡眠薬を大量に服用した。
しかし早々に発見されてしまい、自殺は失敗に終わった。
死の淵から再び戻ってきた美凰の眼の前で、小さな弟や妹はただ泣きじゃくっていた。
その弱々しい姿を見た瞬間、生きなければならないと思ったのだ。
狂いもせずに、よく現実の世界を受け止め続けたと思う。
ひとえにそれは、幼い弟妹を恐ろしく冷たい世間の中に見捨てることが出来なかったからである。
「君を…、誤解した事を謝らなくてはならんな…」
「……」
「君のバージンを奪い、こんな形で関係を始めてしまった責任は取らなくてはなるまい」
「…、責任?」
形のよい唇を真一文字に引き結んだ尚隆は、静かに頷いた。
「日本に戻って君の身体が完治したら、すぐ結婚しよう…」
美凰は信じられないと言わんばかりに、黒々とした双眸を見開いた。
「けっ…、結婚ですって?!」
「ああ、そうだ。埋め合わせとしては充分すぎる程だと思うぞ。借金もチャラにしてやる。君は一躍小松財閥の総帥夫人だ。社交界の女王だ…。どうだ? 嬉しいだろう?!」
「……」
尚隆は美凰に顔を近づけて、そのぼんやりしていても美しい黒曜石の瞳を覗き込んだ。
「それに、バージンだった君に俺は何の予防措置もしていなかった。昨日までのSEX総てに…。そうなると妊娠してしまっている可能性だって…」
「やめてっ!」
美凰は見開いていた双眸を閉じ、悲鳴に近いかすれた声を上げて尚隆の言葉を遮ると、両手で熱に浮かされた花顔を覆った。
些か語気強い美凰の声に、尚隆は驚いた。
「美凰…」
「…、今更、そんなことを仰られても…」
「……」
熱い頬をあとからあとから涙が伝い落ちる。
「あなたはわたくしを、誤解して、恨んで、脅迫して、こんな関係を強要なさった…」
「…。それは、事実を知る前の話だ」
「愛人ですらないと…、仰しゃいましたわ…」
「……」
尚隆は唇を噛み締めた。
「…。お訊ねしてもよろしくて?」
「…、なんだ?」
「わたくしと結婚なさったとして、あなたは一体、何を得るのでしょう?」
「……」
「わたくしを、愛していらっしゃらないのでしょう? それなのに、なぜ…」
「…。男として責任をとると言ってるんだ。それに…、結婚するのに愛が必要なのか? 君は…、神宮司を愛して結婚したのか?!」
「……」
痛い所をつかれた美凰だったが、それでも彼女はかつて尚隆から申し込まれたプロポーズを思い出していた。
〔ディズニーランドでの、あの夢の様な愛の告白と比べてなんという惨めな申し込みなの…〕
美凰はただただ哀しく、切なかった。
ぐったりした花顔が静かに横に振られた。
「愛のない結婚をして、お互いに幸せになれるとは思えませんわ。わたくしは同じ過ちを二度も繰り返すつもりはありません」
「……」
「折角のお申し込みですけれどお断りいたしますわ…。それに、あなたの女性遍歴を考えればいつ何時、離婚を言い渡されるか知れたものではありませんもの。死ぬと解っていて、わざわざ戦いを挑む程、わたくしには勇気はありませんわ…。あなたの為に死ぬのは、一度で充分ですもの…」
尚隆の眉がびくりと慄えた。
「…、君は、死のうとしたのか?! いつ?!」
〔どうしてこう、失言してしまうのかしら…〕
美凰は硬い表情のまま呟いた。
「…、昔の事ですわ…。貴方にとっては残念でしょうけれど…」
「何を言うっ! 俺は…、君に死んで欲しいとは決して思っていないぞ!」
尚隆の意外な反応には些か驚いたが、それでも心を閉じてしまった美凰には、互いの愛がただすれ違っているだけなのに気づけなかった。
然様、尚隆は…、いや尚隆こそ未だに激しく美凰を愛しているのだ。
本人の自覚がないままに、熱い愛の想いは鉄の函(はこ)の中に密閉されており、愛に臆病な性質は、その執着心を憎悪にすり替えているだけなのである。
尚隆の傷はそれ程深く、そして再び同じ傷を負うことが極端に恐かったのだ。
「でも…、それに値する程の仕打ちを受けましたわ。あなたはわたくしの身体を無理矢理奪い、愛の心を殺しました。もう二度と再び、心が息を吹き返す事はありません…」
「…、君の言う『愛』というものが、そう簡単に死ぬものなのかな?」
尚隆の言葉に美凰はぴくりと反応した。
「……」
「ちゃんと解っているんだぞ。君は今でも俺を愛しているんだろう? 君は嘘がつけないし、君の眼を見れば簡単に解る!」
尚隆の態度は自信たっぷりだった。
その傲慢な態度に美凰は傷つき、再び心が冷えた。
「早く自由になりたい…。わたくしの望みはそれだけですわ」
「……」
覗き込んでくる尚隆の視線を、美凰は再び避けた。
「…。それに、わたくしの身体はもう完全にあなたのものですわ。借金がある以上、あなたはわたくしを好きになさる権利をお持ちですもの。その事に関してはもう何も申し上げません。あなたが飽きるまで…、それ程遠い日ではないと思いますけれど…。わたくしの身体はあなたのものですわ…。昨夜の、あなたにお応えするわたくしの淫らな姿をご覧になって…、ご満足なさっていらっしゃいましたでしょう…。それでは充分ではありませんの?」
「……」
〔心は決して、俺のものにならないというわけか…〕
自らに、そして男に対して言い聞かせるように身体だけを強調して宣言する美凰に、尚隆の心は暗澹たる思いに囚われた。
「…。だが、君の態度次第で俺の考えも変わるかもしれないじゃないか」
「?」
「君の努力如何で、俺の心にも愛が蘇るかもしれないという事だ…」
「……」
〔わたくしの…、努力? ですって?! こんなひどい目に合わせた上、この人は…〕
眼前の魅力的な男性は一体、何を言っているのだろう?
そんな努力をする気を失せさせたのは誰だというのだろうか…。
愛している筈の尚隆という男が幻の様にひどく遠い存在に思え、もう話すのも億劫になり、美凰は一刻も早く一人になりたかった。
肺炎に侵された身体は、ただでさえ疲労困憊しているというのに…。
自分の都合ばかり押しつけて勢い込んで話しかけてくる尚隆を、美凰は初めて憎いと思った。
「ごめんなさい…。こんな病気にかかってしまったから、暫くはお仕事が出来ませんわ…。仮病でない事はご理解していただけますわね?」
「……」
「でも…、あなたには他にも大勢の女性がいらっしゃいますから…、別にわたくしで遊べなくても…」
「やめろっ!」
「……」
尚隆は拳を握り締めた。
「…。君の言い分はよく解った。折角やり直すチャンスをやろうとしたのに…。もう二度と俺からの申し込みはないと思え!」
「…、ええ…」
「残念だな…。妻という立場になれば、少なくとも丁重には扱って貰えるだろうに。後で後悔しても、俺は知らんぞ!」
「…。偽りの立場を貫けるほどに、わたくしは強く出来ていないのです。あなたの妻という立場を納める方は他をあたってください。わたくしは、謹んでお断りいたしますわ…」
「……」
そう言うと美凰はぐったりと眼を閉じた。
もう話したくないという意思表示だった。
熱の為に再びうつらうつらし始めた美凰を、尚隆は食い入るように見つめたままであった。
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