北京にて 4
「まあっ! ダーリン! 貴方ったらなんてことをっ!」

 粉々になったガラスが突き刺さり、尚隆の指の間から滴り落ちる血にリンダは悲鳴を上げた。

「会長、お楽しみの所を申し訳ございませんが…、うっ! 会長っ!!!」

 呆然として手から血を流している尚隆を、近寄ってきた朱衡が揺さぶった。
 尚隆ははっとなって、血の流れている掌をじっと見つめた。

「あっ…。ああ、すまない…。リンダ、君の美しさに見惚れて、つい力が入ってしまったようだな」

 気の抜けたような言い訳をしている尚隆の手に、朱衡が慌ててハンカチを巻きつけた。

「てっ…、手当てをしなくちゃ!」

 リンダは不快そうに眉を顰めた。
 彼女は血が大嫌いなのだ。
 看護婦まがいの事も苦手である。
 だが、尚隆に媚びる為には何でもやらなければ。
 小松財閥総帥夫人の座はもう眼の前なのだから…。
 心配そうに肩に手をかけるリンダの白い手を、尚隆は些か乱暴な仕草で払いのけた。

「いや、いいんだ。リンダ…。君にそんな事をして貰わなくても…。暫時失礼するぞ。すぐ戻るから食事を続けていてくれ」
「ええ、判ったわ。じゃ、早く戻ってきてね…。ダーリン」

 尚隆と朱衡はリンダを残し、テーブルを離れた。



「朱衡、リンダは程なく前後不覚の眠りに落ちる筈だ。様子を見て誰かにホテルまで送らせろ。後の責任は持てんから、美人に興味が無いSPか女にさせた方がいいぞ。まあ、俺にはどうでもいいことだが…」

 朱衡の怜悧な顔が揺らめいた。

「会長?!」
 
 他人に媚びる事に慣れていない尚隆は疲労し、詰めていた息を深々と吐いた。
 しかもリンダの語った事実は、尚隆を衝撃の奈落の底に落としたと言っても過言ではなかった。

「ワインに睡眠薬を仕込んでおいた。なかなか効かないから焦ってたんだが…」

 朱衡は呆れた様子で主を見つめた。

「一体、何をご確認なさりたかったのでございますか?! それとも元奥様の寝込みに不埒な事をなさるおつもりだったのですか?!」

 尚隆は不思議と痛みを感じない掌を眺めつつ、秀麗な顔を顰めた。

「莫迦な事を言うな。俺の女は部屋で大人しく泣いてるさ。俺の事を恋しがってな…」
「……」
「いや…、恋しがってというのは…、もはやないだろうな…」
「会長?」

 小さくそう呟いた尚隆は、自嘲めいた笑いを微かに漏らした。





 その頃、美凰の事を心配した六太はプレデンシャルスイートをノックしていた。
 ガードの香蘭は席を外している様子だった。
 ノックに応答がなく、不安になった六太はそっとドアを開けた。

「悪い。ノックしたからな…。入るぞ!」

 証明をつけていない部屋には、月明かりだけが差し込んでいる。
 ダイニングテーブルには所狭しと豪華なディナーが並べられているが、まったくの手付かずのままだった。

〔それみろっ! 一人ぼっちでこんなもの食えるかってんだ!〕

 六太はきょろきょろと辺りを見廻し、応接セットを見て愕然となった。
 バスローブ姿のままの美凰がパンダのぬいぐるみに縋りつくようにして、絨緞の上に倒れ伏していた。
 六太は慌てて美凰を抱き起こし、額に手を当てた。

「美凰っ! おいっ! 美凰ってば! しっかりしろよっ! うっ! ひどい熱だ…」

 美凰は背中の痛みに呻き、高熱を発してぐったりとしていた。
 洗いざらしの髪に化粧を落とした素顔は、昼間見た美しさとまったく変わらないものの少女の様にあどけない。
 六太の腕の中で、苦悶に呻いていた花の様な白い面がぴくりとなった。
 荒い息と共に激しい咳が続き、泣き濡れて腫れぼったくなった目蓋がうっすらと開かれる。

「まあ…。六太…」
「すげー熱だぜ。大丈夫か?」
「わたくし、少しだけ…、横になってたんですの…。お食事を、受け取った所までは、覚えているのですけれど…、お薬を嚥んで…、それから…、うっ!」
「ああっ! もう喋んなくていいよ。立てるか? とにかくベッドで横になれ。おれ、連れてってやるよ!」
「だっ、大丈夫ですわ…。季節季節で時々起こる痛みですから…。熱も、知恵熱みたいに、明日にはけろりとしていますから…。ご心配なさらずに…」
「駄目だ! 無理してんの、ちゃんと解るんだぜ! とにかく、おれの肩に掴まれよ…」
「……」

 美凰は六太の肩にそっと手をかけ、ゆっくりと立ち上がった。
 薬は効きだしている様で背中の痛みは幾分薄らぎ始めているが、熱の為に息苦しい。
 咳もどんどんひどくなり、まるでインフルエンザに罹ったかの様だ。
 今はそんな季節ではないが、去年の罹病の時と同じくらい苦しかった。

「尚隆みたいに軽々と抱き上げてやれりゃ、いいんだけどさ…」
「あの方の事は仰らないでっ!」

 弱々しい美凰の語気の強さに、六太は瞠目し、そして呻くように呟いた。

「…。あいつ…、一体あんたに何をしたんだ?!」



 不意にドアが開いて証明が灯り、美凰が六太の肩に寄りかかっている姿が照らされた。

「六太っ! 何をしているっ! 美凰から離れろっ!」

 尚隆の怒声に、六太も負けてはいなかった。

「なんだよ! お前っ! 今夜はパツキンねーちゃんとお楽しみのつもりじゃなかったのかよっ!」

 尚隆はつかつかと歩み寄ってきて、美凰の腕を取ると六太からいとも簡単に引き剥がした。

「子供が何のつもりだ! 美凰に触るなっ!」

 嫉妬の余り、恐ろしい形相になっている尚隆に、六太は呆れ果てていた。

「…。お前、なに誤解してんだ?」
「誤解だと?!」

 六太は拳を握り締めて叫んだ。

「莫迦っ!!! なんでお前はそんなに莫迦なんだよっ! 美凰はひどい熱なんだぞ! 早く医者呼ばないと…、美凰が死んだらお前のせいだかんなっ!!!」

 六太に怒鳴り散らされ、腕の中に抱えていた美凰がぐったりと意識の無い事に、尚隆は漸く気づいた。
 美凰の意識は混濁し、柔らかな身体は火の様に熱かった…。





 数時間後の真夜中、美凰は息苦しさに目覚めた。

〔今年は、お墓参りに行かなきゃ…〕

 亡くなった夫、神宮寺隼人の墓参を思いついたのは何故だろう。
 東京を離れて4年の月日が流れている。
 その間、一度も墓参に訪れず、お盆と彼岸、そして祥月命日だけは京都の本願寺へお参りに行っていたのだが…。
 たった1年の、形だけの結婚生活だったが、隼人は穏やかで優しい紳士だった。
 夫婦生活の拒絶には、さぞかし無念の思いを抱いていた事だろう。
 こんな目にあう位なら、隼人を受け容れておくべきだったのだ。

〔お水が欲しい…〕

 ゆっくりと起き上がろうとしたが胸が痛く、身動きできないぐらい身体中がだるい。
 美凰の傍らで、人影が動いた。

「気がついたのか?」

 ゆっくり頸を廻らすと、ベッドサイドに尚隆が腰掛けていた。
 どうやらずっと、ついていてくれた様子だった。
 美凰は意識を失ってからの数時間の事を、朧に思い出していた。
 高熱の為に気を失った美凰の為、即座に医者が呼ばれた。
 急性肺炎と診断され、抗生剤を投与された。
 医者は入院を勧めたが、尚隆はここで治療させると頑なに拒んで看護婦を1名残させたのである。
 水差しが不意に口許にあてがわれ、美凰は尚隆を見上げた。

「喉、渇いているんだろう? 飲め…」
「あ、ありがとう、ございます…」

 美凰は掠れた声で礼を言うと、素直に水を飲んだ。

「一時は40度も熱があったんだぞ…。流石の俺も驚いた…」
「……」

 美凰は別れ際の事を思い出し、荒い息を吐きながら眼を閉じた。

「すみません…。わたくし、あなたのデートのお邪魔を…」
「そんな事はどうでもいい…」
「わたくしは、大丈夫ですから…、どうぞ、お出かけなさいませ…」

 尚隆は拳を握り締めた。 

「今夜はここにいる」
「でも…」
「煩いぞ。病人は大人しく寝てろ!」
「……」

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