北京にて 3
 世界中の王侯セレブ達の舌を満足させてきた、釣魚台国賓館の最高級レストラン『養源斉』
 素晴らしい料理を眼の前に、傍目から見てもお似合いの美男美女カップルが互いを見交わし、微笑みながら楽しげにディナーを満喫していた。

「まあ! ほほほっ…。相変わらずお口がお上手なのね?! あの秘書とかいってた小娘の事はもういいの?」

 尚隆はリンダのグラスに極上のワインを注ぎ、恭しく彼女に奨めた。

「リンダ! 磨き上げられたダイヤモンドの君と比べれば、あの女は路傍の石ころだ。結局、俺の眼は節穴だったという事さ!」
「まあ、ダーリン…」
「今の俺には美しい君を幸せに出来るだけの豊かな財力があるぞ。それに、こんなに美しい君を見て他の女に眼が向けられる筈がない」

 尚隆の甘い声音に、リンダはとろんとしたサファイヤの瞳を輝かせた。
 まだワインを2杯程度しか飲んでいない筈なのに、凄く酔っ払った様な気がする…。

「リンダ…」
「なあに、尚隆…」
「今夜は君と共に過ごしたい。俺にもう一度チャンスをくれないか?」

 そう言うと、ワイングラスを傾けながら尚隆は眩しげにリンダを見つめ、胸ポケットからリボンのかかった包みを取り出して彼女の前に置いた。

「これ、なあに?」
「再会を祝しての俺からの気持ちだ。結婚している時はプレゼント1つ贈ってやる事もしなかったからな」
「開けてもいい?」

 セクシーに微笑む尚隆にドキドキし、リンダは媚びる様に男を流し見ながら包みを開けた。

「まあっ! 尚隆! 素敵っ!!!」

 宝石箱の中には、ダイヤとサファイヤが散りばめられた美しいブレスレットが入っていた。

「君に似合うものをと思って急いで買いに行ったのだが、安物だとしたらすまない。気に入らなければ溝に捨ててくれて構わないぞ」

 リンダは感嘆の声を上げ、尚隆の頬にキスをした。
 安物どころが、100万円はくだらない宝石の筈だ。
 刻印も一流のブランド物である。

「君を手放した事は、俺の人生最大の失敗だったな…」

 男の哀しそうな声音にリンダは有頂天になり、そして勝ったと思った。



 楽しそうに食事を進めている尚隆たちを遠目に睨みつける様にし、六太は乱暴に箸を投げた。
 朱衡は眉を顰め、六太の無作法さを窘めた。

「六太様、まだお食事の途中でございますよ?!」
「おれ、なんかすっげームカつく! 食いたくないっ!」

 やれやれと首を振り、朱衡は静かに箸を置いた。

「……」
「おい朱衡。あいつ、なんかおかしいぞ? なんであんなパツキンねーちゃんに媚ってるんだ?! あいつ、美凰にベタ惚れの筈だぜ? なのに…」
「会長にもお考えあっての事と思いますよ。あの女性は、会長の元奥様だそうで…」

 六太は信じられないとばかりに眼を剥いた。

「ええっ〜!!! ほんとかよぉぉぉっ!!!」

 朱衡は頷いた。

「なにやら確認したい事がおありだそうで、現場視察で忙しい最中だというのに市街の宝石店まで出向かされました。100万円程度の当たり障りの無い宝石を見繕って来いと仰せになられて…」
「元女房に賄賂使ってまで確認したい事って?…」
「それはわたくしにも…」

 六太は頭をがりがりと掻き回した。

「だぁぁぁっ! んな事はどーだっていいや…。それよか、美凰がどうしてるか心配だ!」
「こちらと同じコースディナーをルームサーヴィスでお届けする旨、会長から仰せつかっておりますが…」

 六太は唇を尖らせた。

「飯は豪華でも一人で食べろってか?! そこがあいつの思考回路のおかしいとこなんだよな。飯はわいわい話しながら食った方が美味いに決まってるのによ。美凰の事だ。例え食ったってスープを一口啜って終わりに決まってるよ。あんなに優しくて遠慮深いお嬢様が、一人ぼっちでがつがつ飯食うわけねぇーっての!」

 確かに六太の言う事はもっともである。
 朱衡も美凰を一人にしていていいものか、尚隆に何度も確認したのだ。

『気分が悪いそうだから放っておけ。食事だけはルームサービスで届けろ。リンダとの話が終わったら俺もすぐ部屋に戻る…』
『しかし…』
『あれは俺のものだ! 俺の女だ! どう扱おうとお前の知った事ではないっ!』
『……』

 尚隆の狂気の様な眼の色に、朱衡は押し黙るしかなかったのだ。
 六太は気分悪げに立ち上がった。

「おれ、ちょっと様子みてくるわ。長城からの帰り、本当に具合悪そうだったんだ…」
「では、後程、わたくしめも参りましょう」

 遠目に主と金髪美女の睦まじい様子を眺め、朱衡は溜息をつきつつ頷いた。



 リンダは再びワインに手を出し、口をつけながら身を乗り出した。

「それって、もう一度やり直したいって意味?!」

 尚隆は双眸を瞬いて、寂しそうに凛々しい顔を背けた。

「君の素晴らしさを理解していなかった男が、未練がましい事を言ってはいかんな。あんな小娘にまで手を出そうとした莫迦な俺が…」
「ダーリンったら何を言うの?! あんな小娘を貴方が本気で欲しがる筈がないじゃない。ちょっとした気紛れよね? そうだったんでしょう?!」

 尚隆は再び、リンダのグラスを満たした。

「電話の件は聞いたぞ。君に随分失礼な態度を取ったらしいじゃないか?」

 リンダはくすくす笑った。

「あら、そんな事ないわよ。ほら、あたし達が初めてベッドを共にした日の事、覚えてる? あの頃、あたしがなかなか振り向いてくれない貴方を夢中で追いかけていて…。あの日も二日酔いだった貴方の家に強引に押しかけた時、国際電話が鳴って…。可愛らしい女の子の声だったからあたし、悪戯心を起こしちゃって…」

 尚隆の眉がぴくりと揺れたのに、リンダは気づかなかった。

「……」
「震える声で『あなたはどなた?』ってお嬢様みたいな口調で問いかけをしてくるものだから、『尚隆はまだベッドにいますから、ご用なら妻のあたしが聞きますわ』って言ってやったの!」

 リンダはワインを口にしながら、けらけら笑い出した。
 尋常な酔い方ではない様子に見えた。

「あの娘ったら、涙声で『嘘です! 尚隆様の妻はわたくしです! あの方を出してくださいっ!』って電話口でわめいて…。詰め寄ってきた時、貴方がベッドルームから出てきたのよ…」

 おぼろげながら…、そうして段々と尚隆は記憶を蘇らせた。





『ダーリン、故郷のファンクラブのお嬢ちゃんから貴方にしつこいお電話よ? 代わる?!』

 不健康そうなどす黒い顔をした尚隆は、煙草をふかしながら肩を竦めた。
 受話器を取るとしなだれかかってくるリンダを抱き寄せ、噛み付くようなキスをした。

『ヘイ、ベイビー?! 誰だか知らんが俺は忙しい男でね、今から可愛いリンダちゃんとベッドインなんだ。君の順番は当分廻って来ないと思うから、諦めて他の男をあたってくれよ! じゃあな!』

 切れ長の眼が見開かれ、尚隆の左手が小刻みに慄えたかと思うと、力を込めた一瞬の内に持っていたワイングラスがしなやかな手の中で砕け散った。





 美凰がとてもではないが連絡を取れる状態でないでいることは、再調査の結果よく理解できた。
 だが、動ける状態になってから何度も連絡したという美凰の必死の訴えを、尚隆は嘘だと思っていた。
 現実には、一度たりとも自分の元に知らせは届かなかったのだから。
 電話も手紙も…。
 ただの言い訳だと…、思っていた。
 結局、尚隆のことを妾腹の卑しい馬の骨と蔑称して猛反対する両親に引き止められて、何の苦労も知らないお嬢様生活を失いたくないと心変わりしたのだろうと、よく確認もせずに結論付けた。
 何度も愛していると囁いたあの言葉は、お嬢様の気紛れだったのだと…。

〔生まれて初めて知った愛に、この俺がどれ程歓び、どれ程傷つき、そして絶望したか…〕

 この5年、美凰へ復讐する事だけが尚隆の生きる糧と言っても過言ではなかった。
 リンダと離婚して程なく、異母兄達の相次ぐ不幸で小松財閥を継ぐ事になった。
 ビジネスは多忙の上、一族・内部の確執や裏切りは日常茶飯事、それを総て平らげて自らの帝国を確立する事に没頭し続けた。
 何でもいいから、夢中になる事が尚隆には必要だったのだ。
 この5年で反分子勢力の台頭は激減し、漸く総てが自らの意志通りに起動に乗り出した。
 ひとつの事をやり遂げると、ぽっかりと心に空洞が出来る。
 そうなると、思い出してしまうのは美凰の事であった。
 一時は忘れてしまおうと思った時もあった。
 自分を裏切った女一人の事ぐらい、忘却の彼方に押しやろうと…。
 それでも忘れられなかった。
 興信所に密かに調査させた結果、両親の事故死の後、多額の借金返済の為の結婚、年の離れた夫は程なく病死、行方をくらました女の居所が大阪と判った時、復讐の思いが再燃した。

〔俺の元に来ていれば今頃は小松の総帥夫人として社交界の女王でいられたものを…。一瞬の選択とはこんなに運命の明暗を分けるものだとは…〕

 落ちぶれた女の姿を見て嘲笑してやりたい。
 さぞかし苦労し、貧乏にまみれて往時の面影すらないだろう。
 そう思って、美凰の勤める会社を買収したのだ。
 何の価値も無い平々凡々な会社を、それだけの理由で。
 それなのに…。
 再会した美凰は、5年前の記憶より猶一層美しく、女らしく成熟していた。
 あの頃も気品溢れる大人びた美少女だったが、今の彼女は辛苦の泥水の中でも凛然と咲く蓮の花の様に清らかで、弱々しげで、そして臈たけた美女に成長していたのだ。

〔欲しい! この女が欲しい! なんとしても…、どんな事をしても!〕

 美しい彼女を恨み、彼女の夫となった男に腸(はらわた)を引き裂かれる様な嫉妬を覚えた。

〔世間の汚辱にまみれ、汚い、平凡な女に成り下がっていて欲しかった。そうすれば、俺はここまで非道な事をしなかったのに…〕

 処女だとは夢にも思わなかった。
 結婚したというのだから当然だろう。

〔だが、俺の眼が眩んでさえいなければ、男を知っていたか否かが解った筈だ。俺は…、あの医者に対する嫉妬で頭がおかしくなっていた…〕

 その上、処女を奪った瞬間、尚隆は狂喜した。
 苦痛を訴え、泣き叫んでいる美凰を眼下に、尚隆は放恣に乙女の身体を堪能した。
 味わった事の無い激しい快楽が心と身体を包み込んだ。
 心が快楽に高揚する事など、初めてだった。
 だが、尚隆の思いとは裏腹に、美凰の心は僅かな隙間を残して閉ざされた。
 彼女にしてみれば、その時の尚隆の行為は強姦以外のなにものでもなかっただろうから…。

_35/95
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