北京にて 2
 その頃、美凰は流れ落ちる汗をハンカチで拭いつつ歩みを止めていた。
 万里の長城から見渡す夏の風景は、格別であった。
 巨大な龍が緑の峰を這う様に連なっている景色に、美凰はただただ人智の計り知れぬ脅威と、人民の労苦を思った。



 長城何連連    長城 何ぞ連連たる
 連連三千里    連連として三千里
 邊城多健少    辺城 健少多く
 内舎多寡婦    内舎 寡婦多し
 君獨不見長城下  君独り見ずや 長城の下
 死人骸骨相トウ挂 死人の骸骨 相トウ挂するを
 結髪行事君    結髪より 往きて君に事え
 慊慊心意關    慊慊として心意関る
 明知邊地苦    明らかに知る 辺地の苦しきを
 賤妾何能     賤妾 何ぞ能く
 久自全      久しく自ら全うせんや 

                           
             『飲馬長城窟行』陳琳


 長城はよくも長々と続いているものだ。
 それは連なること三千里。
 辺城に駆り出された丈夫な若者は国境に多いが、郷里の留守宅には寡婦が多い。
「君にはこの長城の下が見えないのか? 築城で犠牲になった骸骨が重なり合ってるんだぞ」
 夫からの手紙に妻は答える。
「あなたに出会ってともに暮らし、今日まで何の不満も無く過ごして参りました。あなたが国境でご苦労なさっているのは、十分承知しております。あなたにもしものことがあったら、わたしばかりがどうしていつまでも生き長らえていられましょうか」と。



「物知りなんだな〜 それ、何の詩?」

 ふと見ると、六太が息も乱さずに隣に立っていた。
 身軽な物腰で美凰を追い越し、風の様に頂上まで駆け抜けていった六太の姿には驚きと羨望を禁じえない。

〔弟も健康であれば、きっとあんな風だろうに…〕

 美凰は六太の後を懸命に追ったが、ヒールの靴は登頂には絶対的に不向きである。
 やむなく美凰は途中で靴を脱ぎ、ストッキングが破れるのも構わずに必死で登った。
 その突拍子のない仕草が、六太をますます夢中にさせたのだ。

「これは万里の長城の苦役を痛む詩ですわ。離れ離れになった夫婦の悲惨さと労役の過酷さを今に伝えるものですね。北方の極寒の地で望まない仕事をやらされ、生き抜いていけないという夫を妻が遠くの地からその身を案じてやまない様子が描かれておりますの…」
「ふ〜ん…」

 ふうっと息を吐き、伸びをした美凰の背中をずきんと痛みが走り抜けた。

「ん? どした?」

 美しい顔を顰めた一瞬を、六太は見逃さなかった。

「いいえ…、なんでも…」
「? そっかぁ〜 なんか痛そうだったけど?」
「……」



 明け方、目覚めた尚隆から求められて身体を開いた時から、背筋の痛みを覚えていた。
 これからほぼ毎日続くのであろう激しい要求…。
 美凰が無理矢理に男女の秘め事を知らされてから、まだ五日程しか経っていないというのに、回数からすれば一日に四度も五度も尚隆を受け容れている。
 男の情け容赦のない責め苦に、身体は限界を超えているのだ。
 それなのに昨夜は快楽の声をあげ、今朝も尚隆を満足させるだけの悩ましい身悶え方をしてしまった。

〔ホテルに戻ったら薬を嚥もう…。どうせわたくしは玩具なのだから、痛み止めで眠っていようとあの方は好きになさる…。痛みを訴えても聞いてくださる筈がないし、今はなにも仰しゃらなくても、ほくそえんでいらっしゃるに違いないのだから。言葉で苛められるのはもう沢山…〕

 美凰は瞳に浮かんだ哀しい色を六太に見せまいと、そっと双眸を閉じた。



 美凰の体調を気遣った六太は、下りはロープーウェイにしようと言い出し、二人は必死の思いをして登頂した場所から僅か五分の間に地上に降り立った。
 生き生きと商売をする露天の人々の姿に、何故か胸が熱くなる。
 贅沢は出来なくとも、日々を明るく生きたい。
 美凰の願いはささやかなものであったのに…。

「ほらっ! これっ!」

 声をかけられ、振り返った美凰の胸元に可愛らしいパンダのぬいぐるみが突き出された。

「まあ…」
「欲しそうにしてたろ! 買っといたんだ」
「可愛い…。でも…」
「あのな、金払うなんて事言うなよ! これはおれからの気持ちなんだからさ!」

 尚隆の金を使いたくないという世にも不思議な愛人は、欲しそうにしていたぬいぐるみすら遠慮して諦めていた。眼の前でそんな姿を見ていれば、誰だってこうするだろう。

〔尚隆の莫迦だったら、ぬいぐるみの縫製工場丸ごと一つ買うんじゃねぇの?〕

 そんな莫迦な妄想をしていた六太に、美凰は深々と頭を下げてお礼を言った。

「有難うございます…。弟に、お土産にしてあげたかったんですの」
「弟?」
「要はもう十歳ですから、ぬいぐるみなんて年頃ではないのですけれど…」
「ふ〜ん…。弟、居るのかぁ〜」
「ええ…」

 お抱えのハイヤーに乗り込み、美凰と六太はそのまま北京市内に戻った。





「こんな時間になるまで、一体どこへ行ってたんだ!」

 釣魚台に戻った美凰に、尚隆は怒りを爆発させていた。
 時刻は六時を過ぎた所で、夏の陽はまだまだ外を明るく照らしている。
 こんな時間と言われる程遅いとも思えなかったが、美凰は素直に謝った。

「申し訳ございません…。つい…」

 六太と共に紅旗から降り立った美凰の、よれよれの姿に尚隆の怒りは倍増した。
 長城の風に煽られた髪は乱れ散り、ワンピースとハイヒールは土埃にまみれ、よくよく見るとストッキングは破れている。
 おまけに可愛いパンダのぬいぐるみが小脇に抱えられていて、とてもではないが世界でも指折りのセレブである、小松財閥会長の愛人には見えなかった。

「だぁぁぁっ! 尚隆っ! お前なに怒ってんの? まだ日も沈んでないし、子供じゃないんだぜ! 第一、好きにしとけって言ったの、お前だろっ?」

 尚隆は鬱陶しそうに六太を見た。

「なんでお前がここにいる?」
「おれ様もお仕事なんだよ!」
「ならきちんと仕事をしてとっとと帰れ。人の女にちょっかいかけるな!」
「いい加減にしろよ! 美凰はおれに付き合って動物園と長城に行ってただけだ! まさかお前、変な想像してんじゃないだろーな?」

 しょんぼりと俯いている美凰を睨みつけながら、尚隆はふうっと息を吐いた。
 苛々を通り越し、心配していたとは口が裂けても言いたくない。

「もういい。とにかく、今後二度と香蘭をまくのはやめろ。六太、俺がガードを付けている意味がお前に判らん筈がないだろう?」

 六太は顔を歪め、ちっと舌打ちした。

「…。わーってる! 俺が悪かったんだ。とにかく、美凰は悪くない。あんま苛めてやんなよ! それよか、具合悪そうなんだぜ!」

 六太の心配そうな眼差しに、美凰は顔を上げて無理に微笑んだ。

「まあ…、わたくしは大丈夫ですわ。六太」

 親しげに六太の名を呼ぶ美凰の態度が、尚隆に嫉妬の炎を呼び起こした。

「そうだろうとも! 疲れたふりをして仕事を拒んで貰っては困るぞ。君には大金を使っているんだからな!」
「……」

 傷ついた色を刷く美凰の双眸…。
 尚隆の無遠慮な言い方に、六太はかちんとなった。

「おいっ! なんだよっ! そのものの言い方は? お前、なんかおかしいぞっ!」
「煩いっ! ガキが大人の話に首を突っ込むな!」
「なっ!…」
「あらっ? お取り込み中だったかしら?」



 セクシーな声が響き、その場に居た全員が声の主を振り返ると、ゴージャスなゴールドラメのロングドレスを着たリンダがにっこり微笑んで立っていた。
 デザイナーズブランドのロングドレスは滑らかな肩や背中、豊満な胸を惜しみなく露出し、身体のラインを美しく艶かしく見せつけていた。
 大きなダイヤモンドがネックラインを飾り、流れ落ちる金髪は更に輝いている。
 真っ赤な口紅が塗られたリンダの美しい唇を、美凰は呆然と見つめていた。
 女として今の自分の身なりが余りに羞かしく、そして羞かしく思う自分が恐ろしい…。
 抑えきれない嫉妬心を持て余し、美凰の白い繊手がぬいぐるみをぎゅっと掴み締めた。

「尚隆…、お招き戴いたけどあたし、お時間を間違えちゃったかしら? 七時のディナーって伝言だったと思うのだけど?」
「いや…、七時だ。間違いないぞ、リンダ…」

 流暢な日本語を使うリンダは尚隆の腕にしなだれかかり、色っぽく微笑んで美凰を見つめた。

「まあ! 尚隆、ダーリン…。貴方のお友達、どこで遊んでいらしたのかしら? 田舎の子供みたいにドロドロよ? おまけにぬいぐるみなんか持って…。吃驚ね。貴方ったらいつからロリータ趣味になったの?」
「……」

 言葉に窮している尚隆を救ったのは、なんと美凰自身だった。

「初めまして。わたくし、小松会長の秘書をしております花總美凰と申します。こんな失礼な姿でご挨拶いたしますご無礼をご容赦くださいませ。長城見物から今帰って参ったものですから…。それに、これはわたくしの弟へのお土産ですのよ。会長のご趣味ではございませんわ…」

 リンダはわざとらしく青い瞳を煌かせ、耳障りな甲高い声を上げた。

「あらまあ! 秘書ですって! そうなの? あたしったらてっきり…」
「てっきり…、なんでしょう?」

 美凰の静かな巻き返しに、金髪の美女は掴んでいた尚隆の腕にぐっと爪を食い込ませた。

「まあ、ほほほ。ダーリン、随分イキのいい『秘書』なのね!」
「…、ああ。まあな」

 リンダの嫌味な言葉に、尚隆は美凰を睨みつけた。
 しかし堂々と尚隆とリンダの視線を受け止め、にっこり微笑み返した美凰は尚隆に向かって軽く頭を下げた。

「会長、御用がなければわたくしはこれで下がらせて戴きます。今からこちらのお方とお食事でいらっしゃるのでございましょう? こんなお綺麗な方をお待たせしてはいけませんわ。楽しい夜をお過ごしなさいませ。それでは…」

 美凰は踵を返すと、心配そうにこちらを見つめている六太に目礼した後、静かにその場を立ち去った。
 尚隆が拳を握り締め、立ち去る美凰を睨みつけているとも知らずに…。





〔背中が痛い…。でも心はもっと痛い…。辛くて辛くて、引き裂けてしまいそう!〕

 美凰は部屋に戻るとバッグを置き、ぬいぐるみをソファーに座らせると自らもその向かいにがっくりと座り込んだ。涙が溢れてとめどなかった。

〔わたくしは、尚隆さまが好き。こんな酷い仕打ちを受けても、あなたを愛する事をやめられない。でもあなたは違うのね? あなたは奥さまの事が忘れられないのね。そしてあの美しい女性も、あなたを愛している…〕

『ナオタカニナンノゴヨウ? ツマノアタシガキキマスワ』

 花顔が両手で覆われたその時、突然ドアが開き、叩き付けられるかの様に閉められた。
 その乱暴な音に驚いた美凰が泣き濡れた面を上げると、尚隆が恐ろしい形相でこちらに向かって近寄ってきた。

〔ぶたれる…〕

 怯えた美凰は慌てて涙を拭い、眼を閉じると咄嗟に身体を竦めた。
 深い仲になって間もないというのに、美凰は尚隆に二度も殴られている。
 驍宗との仲を誤解されて乱暴された時、そして不潔だと言い放って彼を拒んだ時。
 総ては尚隆の感情の問題であり、決して美凰にぶたれる理由はない筈なのに…。

「心配するな。殴りはせん」
「……」

 尚隆はほくそえみながら、ぐったりしている美凰をソファーに押し倒した。

〔この人は、わたくしを辱めようとしている…〕

 美凰は顔を背け、迫ってくる尚隆の唇を避けた。

「なんだ? 嫌なのか?」
「わたくし、汗と埃で汚れていますから…。それに、あの…、おっ、奥さまがお待ちでいらっしゃいますわ。お食事のお約束をしていらっしゃるのでしょう? きっ、着替えをなさいませんと」
「君にも同席して貰うつもりだぞ!」

 美凰は吃驚した様に、背けていた顔をあげた。

「そんな! さっ、三人でお食事だなんて! おっ、奥さまが気を悪くなさいますわ! あっ!」

 美凰の唇は、哄笑する尚隆のキスに塞がれた。

「おいおいっ! 嫉妬か? これは驚いた。君は俺のことなど愛していないくせに嫉妬だけは一人前なんだな? それにリンダは別れた女房だ。もう俺の妻じゃない!」
「やめて…。放して! あっ、ああっ!」

 弱々しい身もがきは尚隆の獣性に火をつけ、彼は拒否する美凰の身体を無理矢理奪った。





 衣服を引き裂かれた女の絶望の叫びはやがて快楽の声に変わり、強要した男は仄かに漂う花の馨にも似た香しい女体の汗に心地良く酔い、放恣に欲望を放出した。
 ぐったりとした美凰から満足気に身を起こすと、尚隆は自ら引き裂いたワンピースの隙間から覗く白い隆起にちらりと眼をむけ、ものも言わずにベッドルームへと消えた。
 シャワーの音が微かに聞こえる。
 美凰は身体中に走る疼痛に息を呑みながらゆっくりと起き上がり、ずたずたになっている衣服をそっと掻き合わせた。
 対面のソファーにちんまりと座り、一部始終を目撃していたぬいぐるみの眼が、憐れむ様に自分を見ているような気がして哀しかった。

〔もう駄目…。強姦だなんてとても言えやしない。こんな扱いを受けてさえ、わたくしの身体は、歓びを覚え始めているもの…〕

 泣いていてはまた尚隆に嫌味を言われるが、涙が止まらない。
 懸命に堪えようとすすり上げていると、尚隆が戻ってきた。
 黒のイブニングスーツと白のワイシャツに着替えていた彼の姿は素晴らしく素敵だったが、今の美凰の眼には虚ろなものにしか映らなかった。

「何をしている? リンダを待たせると煩いぞ。早く支度しろ…」
「……」



 氷の様に冷たい声に、美凰は信じられないとばかりに眼を見開いた。
 こんなことをしたばかりだというのに、どうすれば食事に行く気が起こるというのだろう。

「わたくしは…、参りませんわ…」
「…。食べたくないのか?」
「ええ…。どうぞ…、楽しんでいらしてください…」

 美凰は声を詰まらせた。

「そうか。なら好きにしろ。言っておくが俺は戻らんかもしれんからな!」
「……」
「リンダを見たろう? 五年前より一層ゴージャスな女になった。ひょっとすると…、離婚は失敗だったかもしれん」

 深く傷ついた心に、更に刃が突き立った様な気がした。

「……」
「君と違ってベッドでも楽しませてくれる女だ。今夜誘われれば…」

 美凰は一分の隙もない紳士の装いをしている尚隆を哀しげに見上げ、再び力なく項垂れた。

〔これ程までに憎まれているなんて…〕

 心も感情も持たない『もの』の様な扱い。
 目の前に居る女に対して酷い仕打ちをしたという思いもなく、何もなかった様な顔をして平然との女性との情事をにおわせる尚隆に美凰の心は冷えた。

「…、どうぞ、楽しんでいらっしゃいませ。わたくしの様な未熟者ではない素敵な女性とお過ごしになれば、きっとご満足なさいますわ…」

 痛々しい姿、深い諦めと悲しみの様子に、今度は尚隆が黙り込む番だった。

「……」

 シャワーを浴びるべく、美凰はゆっくり立ち上がった。
 時計を見ると七時五分を差している。

「お時間を過ぎていますわ。早くお行きなさいませ。お待たせしては失礼ですもの…」
「快楽に溺れるのがそれほど恐いのか?」

 嫋々とした肩がぴくりと揺れた。

「まあいい。SEXのエクササイズだけは、間をおいて感覚が鈍るということはないからな。君がもし、そんな考えを持っているのなら、期待外れだな。気の毒な事に、これだけは間を置く程にずっとよくなる」
「……」

 尚隆は美凰の肩を抱くと、まだ紅く痕の残る頸筋を強く吸った。
 性感帯の一部を刺激され、美凰はびくんと慄える。
 その反応に尚隆はくつくつ笑った。

「俺はまだまだ君を手放す気はないぞ。もっと楽しみたいと思っているし、楽しめる身体だと思っている。例えリンダとよりを戻したとしてもな…」
「……」

 尚隆は口の端をちょっと上げて、皮肉な笑いを残すと部屋を出て行った。
 彼は昨夜や今朝の情事の後でしなかった事を、今しただけなのだ。
 愛のないSEXに我を忘れた美凰を嘲るという事を…。





 尚隆が出て行った後、美凰は機械仕掛けの人形の様にボロと化した服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
 だが、いくら身体を清めても表面だけの事だった。
 洗い晒しの髪にバスローブ姿の美凰はバスルームから出てもベッドに入らず、リビングのソファに座わり、パンダのぬいぐるみを抱き締めた。
 ふわふわした毛触りが心地良い。
 疲れた。
 もうなにもかもどうでもいい…。
 ただ、静かに眠りたい…。
 このまま眼が覚めなくてもいいかもしれない。
 そう、このまま死んでしまっても…。
 ぬいぐるみを抱き締めたまま、美凰はソファーで横になると静かに眼を閉じた。
 背中から腰にかけて鈍痛が走っていたが、薬を嚥むのも億劫だった。
 死への誘惑に駆られるのは、二度目の事。
 尚隆との未来を完全に閉ざされたあの日。
 そして今、この瞬間…。

_34/95
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