北京にて 1
 夕刻の北京空港に到着した美凰は、黄昏れてゆく空をウィンドウ越しにぼんやり眺めていた。
 その美しい姿に、行き交う人々の視線が釘付けになっているとも知らずに…。
 尚隆は煙草を吸いに喫煙室に向かったが、瞬く間に美凰の元に戻ってきた。
 哀しげに夕暮れの空を見上げている彼女の横顔の美しさに、尚隆は瞬時憎しみの心を忘れてしばし見惚れ、そしてそんな自分に愕然としてしまうのだ。

〔なんて美しい女なんだ! 本当に俺のものになったのか? いや、身体はほぼ手に入れた。だが心は…、心はどんどん遠のいている…。莫迦な! 心なんかいらんぞ! 俺には…、女の身体だけでいい! 一度手に入れる筈だったものを手に入れただけだ。心なんかいらん! 心なんか…〕

 昨夜から今日の昼過ぎまで飽くことなく翻弄し続けた類まれな女体…。
 散々彼女を辱めたというのに、尚隆の要求はとどまる所を知らなかった。
 羞恥に身悶えて涙を流し、快楽に流されまいと男の動きを弱々しく拒否し、全身を熱く顫わせながらひたすら解放を懇願していた美凰のぐったりした姿を思い浮かべるたび、弑虐の欲望が湧き起こる。
 この五年、心底憎悪していたにもかかわらず、長年欲していた女を自分のものに出来た喜びは喩え様もなく、尚隆は逞しい身体中に駆け巡る狂おしいまでの願望を、悲惨な状況下でSEXを知ったばかりである美凰にぶつけ続けずにはいられなかったのである。

〔今夜も、昨夜の様に…〕

 嘗てない己の欲望の激しさに瞠目しつつも、昨日の貪婪な快楽のひとときを思い起こさずにはいられない…。
 尚隆は敢えて淫猥な笑みを浮かべつつ、静かに美凰の傍に近づいた。

「朱衡はまだか?」

 美凰は静かに頸を振った。
 到着している筈のリムジンが未だ迎えに来ていないとの情報に、朱衡は出迎えの車の確認に向かっているのだ。



「ナオタカ…!」

 ふいに、尚隆は華やかな声に呼び止められた。
 美凰はその声にびくりとなった。

〔どこかで、どこかで訊いたことのある声…〕

『ナオタカニナンノゴヨウ? マダベッドニイマスカラ、ゴヨウナラ、ツマノアタシガキキマスワ』

 あの残酷な一瞬が、美凰の脳裡に走馬灯の様に蘇った。
 振り返ると眼前に人目を惹く、それは美しい長身の金髪女性が驚愕の表情で立っていた。

「…! やあ、リンダか? 凄い偶然だ。久しぶりじゃないか?」



 リンダと呼ばれた美女は、嬉しそうに尚隆に抱きつくと早口の英語で何事か囁き、情熱的なキスを彼の唇に浴びせかけた。
 尚隆は苦笑しつつ、抱きつく女性から身を離し、それでも懐かしそうにゆっくりと英語で返事を返した。
 片言程度しか出来ない英語力だが、美凰の眼から見れば二人が話している内容や態度から相当親密だった事が伺える。
 美凰の胸を再び、刺すような嫉妬の痛みが走りぬけた。
 背が高く手脚が長く、素晴らしいプロポーションの上、驚く程巧緻な美貌である。
 傍で見ていて見惚れるほどに、尚隆と二人並んだ姿はお似合いのカップルであった。



〔ツマノアタシガ…〕

 美凰は蒼白になって顔を背けた。あの声の主だ。

〔わたくしが自ら、知らされていた尚隆さまのご自宅にお電話を差し上げた時に、電話を取られた女性。あの方の奥さま…〕

 忘れようとしても忘れられるわけがない…。

〔あのお電話が…、わたくしに総てを諦めさせた〕

 美凰が顔を俯けている間に、尚隆とリンダは別れの挨拶を済ませ、金髪の美女はちらりと美凰に一瞥をくれ、余裕の微笑みを浮かべながらその場を立ち去った。
 そこへ朱衡が急ぎ足で戻って来た。

「会長、美凰様…。申し訳ございません。高速内での事故により道路状況が…。とにかく、リムジンが漸く到着いたしましたので、こちらへ」
「おい…、何をぼんやりしている! 行くぞ!」
「……」

 返事の無い美凰に苛々した尚隆は、彼女の手頸をぐっと掴みしめた。





 リムジンは黄昏の高速を北京市内、釣魚台迎賓館に向かって速度を上げていた。

「この一週間のご滞在はゲストハウス十七号楼を借り切りました。最近内部を新しく改装したそうですので、以前にも増して快適にお過ごし戴けるかと存じます…。会長には明日から早速、会議と現場視察の予定が組まれておりますので、ご夕食の後はお早めにお寝みくださいませ」

 怜悧な第一秘書は言いたいだけ言うと、インターフォンを切った。
 尚隆は、愁いの表情で大人しく窓の外を見つめている美凰に声をかけた。

「腹は減ってないのか?」
「…、ええ。特には…」
「昨夜も、今朝も…、機内でも殆ど食ってないぞ。ハンストでもしているのか?」

 美凰は静かに頸を振った。

「そんな事考えていませんわ。単にお腹が空いていないだけです」
「…、さっきの女だが…」

 嫋々した肩がぴくりと慄えた。

「存じていますわ…」
「なに?」
「あなたの…、奥さまでいらっしゃるのでしょう? お声を聞いて、すぐに解りましたわ」

 尚隆は不思議そうに美凰を見つめた。

「その通り、五年前に別れた女房のリンダだ。昔は二流紙のモデルをしていたんだが、今じゃヴォーグの表紙を飾るトップモデルだそうだ。俺はあの業界には疎いものでな、さっき話していて驚いていた所だ」
「……」
「何故知っている。声を聞いたことがあるのか?」
「ええ…」
「いつ? どこで?…」
「…、それよりもわたくしは一体、ここで何をしていればよろしいのでしょう? 一週間のご滞在と伺いましたわ…」
「俺のベッドでの相手だ。君の勤めはそれだけだ」
「……」
「不服か?」

 美凰は俯き、小さく囁くような声で問いかけた。

「…。あなたはお忙しい身でいらっしゃいますわ。あなたのいらっしゃらない昼間はどうして過ごしていればよろしいの?」

 尚隆は革シートにどさりともたれかけ、煙草を銜えて火をつけた。

「ショッピングでも観光でも好きにしてればいいだろう。金もカードも用意してやってる筈だ。それに、宿泊先の迎賓館は君の好きそうな美術品の宝庫だし、プールやフィットネスもある。但し、すべ香蘭と一緒でなければならんがな…」
「……」

 やがて日が沈んで間もなくの頃、リムジンは釣魚台の門をくぐり、世界中の王侯元首が会議し宿泊する中国でも最高峰の高級ホテルが目の前に現れた。
 皇帝の御殿の様な建物の前にリムジンは止まり、大勢の従業員に出迎えられ、かしずかれる様にして尚隆と美凰は宿泊予定の十七号楼のプレデンシャルスウィートに入った。



 その日の夜、とうとう美凰は抑制がきかなくなってしまった。
 尚隆の妻であったリンダに出会った事は、彼女の心に激しい感情の嵐を呼び起こしていた。
 誰もが振り向かずにはいられない程に美しい、金髪の美女。
 有名な雑誌の表紙を飾るトップモデル。
 完璧なプロポーションに、吸い込まれそうな程美しい、サファイヤの瞳…。

〔ツマノアタシガ…〕

 たとえ期間は短くとも、尚隆の妻として彼女は彼に愛されたのだ。
 何故離婚してしまったのか?
 由は知る由も無いが、自分の仕事に誇りを持ち、光り輝いていたリンダに引き比べ、自分は何と惨めな存在なのだろう…。



 夕食を済ませて朱衡たちと別れた後、すっかり萎れた状態の美凰は尚隆に半ば引きずられるようにスゥイートルームへ戻ってきた。
 部屋に入った途端、激しいキスを唇に受け、抱き上げられた美凰はベッドに運ばれた。

「待ってください! 先にシャワーを…」

 ホテルに到着した途端、尚隆は美凰をベッドの中に連れ込んで思うさま彼女を抱いた。
 その後、シャワーを浴びる時間もなく支度を急かされ、レストランに夕食に向かったのだ。
 美凰にしてみれば、せめて身を清潔にしてからにしたかった。

「後で一緒に浴びればいいだろう」

 尚隆は聞く耳を持たない様子で、美凰の衣服をどんどん脱がせてゆく。

「あの…」
「なんだ?」

 瞬く間に下着姿にさせられ、美凰は羞恥に俯きながら小さく囁いた。

「あのスチュワーデスさんの所へお行きにならなくても、よろしいの?」

 尚隆はくつくつ笑いながら、自らの衣服を脱ぎ始めた。

「行って欲しいのか?」
「…、あなたはお行きになりたいのでしょう? あちらもきっと待っておいででしょうし、わたくしは、別に、あっ!」

 美凰は尚隆に押し倒された。

「なかなかいい心がけをしてるんだな? よかろう。とにかく君で遊ばせて貰った後、気が向いたらあの女の所に行くとしよう…」
「……」

 尚隆はわななく女体を楽しげに愛撫し始めた。
 彼はこの時だけは完璧な誘惑者であった。
 戸惑うほど優しく、蜜の様に甘い経験豊かなその手管を、尚隆は美凰の身体の上に緻密に施した。
 そして美凰は、憎むべき脅迫者である筈の尚隆を未練がましく愛し続けて、彼の暴挙を拒むことなく受け容れているのだ。
 本当にこれしか道はないのだろうか?
 よくよく考えれば、こんな残酷な運命に甘んじる必要はないのかもしれないというのに…。

「ああっ…」

 美凰は声をあげた。
 一度堰を切ってしまった急流は、とどめを知らなかった。
 彼女は尚隆の腕の中で快楽に酔いしれ、身体をしなわせて彼の愛撫に応えた。
 どうしようもなかった。
 尚隆に対する怯えも、憎しみも、心の奥底に閉じ込めようとしている愛でさえも頭から消え、美凰は放縦に官能のさなかに溺れていった。
 羞恥はその後に来た。
 尚隆に対しても、自分の良心に対してもであった。
 快楽に我を忘れた自分の肉体への嫌悪感があった。
 まだ性の興奮がさめやらぬ顔と身体を、美凰は尚隆から隠すように彼に背を向け、枕に顔を埋めていた。
 心の中で快哉を叫んでいるかと思った尚隆は、何故か何も言わなかった。

「あの…、お出かけに…」

 かろうじて囁く美凰の言葉を制し、尚隆は自分に背を向けている女の身体を胸の中に抱き寄せた。

「今動くのは面倒だ。また後で考える事にする」
「…、わたくし…、シャワーを…」
「後で一緒に浴びればいい…」

 先程と同じ言葉を呟くと、ぐったりと涙ぐんでいる美凰を離すまいとただ抱き締め続けていた。





 翌日、早朝から尚隆を送り出した美凰は、手持ち無沙汰の様子で美しい庭園をぶらぶらしていた。
 ベッドでの勤め以外に、美凰に与えられた仕事はなにもない。
 香蘭は相変わらず、つかず離れずに見張っている。
 美凰は息が詰まりそうだった。

「あれっ? あんた…」

 ふいに声をかけられた美凰が振り返ると、見覚えのある少年と目が合った。

「まあ…、あなたは確か、六太、さん?」



 それから一時間後、六太に連れ出された美凰は北京動物園でパンダを見ていた。
 愛らしくタイヤ遊びをするパンダ達は、日本で厳重な警戒の許に硝子越しで並んで見るのと違い、のびのびと開放的に過ごしている。
 動物園に来るなど、何年ぶりだろう。
 嘗て、尚隆とのデートで上野動物園に行って以来の事だ。
 大阪に来てからは忙しく、要を連れて行ってやる事も出来なかった。
 姉思いの弟は、家計の事や姉の多忙さを気遣い、遊びに行きたくともずっと我慢し続けてくれた。
 それゆえに、美凰はこの夏休みには、なんとか要をディズニーランドに連れて行ってやろうと、こつこつ貯金を続けていたのだ。

「どーだ! ちったぁ〜元気でたかぁ〜?」

 金髪の美少年が、ふいに美凰の横に並んだ。

「六太さん…」
「六太でいいよ! さんはいらねー」
「…、あの…、有難うございます。ここへ連れてきてくださって…」

 六太はパンダを見つめている憂愁の美女の横顔を、うっとりと眺めやっていたが、不意ににっこり微笑まれ、どきまぎと真っ赤になった。

「へっ! あっ、ああ、いいってことよ。まさか北京で偶然逢うとは思ってなかったもんな〜 あいつ、そのう…、愛…、いっ、いや、女連れで出張するって事、いままでなかったもんだしさ」
「……」

 美凰の哀しげな微笑に六太は慌てた。
 どうも調子が狂う。
 尚隆の嘗ての愛人達とは、一度も交流した事がなかったし興味もなかった。
 だがこの花の様な美女だけは違った。
 初めて出逢った時から気になって仕方がなかったのだ。
 だが、あれからすぐにアメリカに行かねばならない用事があったし、日本に帰国せずにそのまま北京に来た。
 まさか此処で出会えるとは思ってもいなかったのだから。

「えーと、おれも美凰って呼んでもいいかな?」

 黒曜石の様に美しい双眸が煌き、六太は顔が赤くなった。

「勿論ですわ…」
「んじゃ〜 今日は一日、おれに付き合って貰うぜ。他はどこ行きたい? どこでも案内するぞ」

 美凰は困った様な表情を、その美しい面に浮かべた。

「でも、あまり遠出をしては…。あの、あの方に断ってきたわけではありませんし…」

 六太は不思議そうな表情になった。

「尚隆は仕事で忙しいし、別にいいじゃん? あいつが帰ってくるのは恐らく夜だろうし、金やカード貰ってんだろ? 好きにしとけって言われたんじゃねーのか?」
「…、確かにそうですけれど、香蘭さんにお手数をおかけするのも…」

 美凰は俯き加減にしょんぼり囁いた。

「香蘭? 誰だ、それ!」
「…、わたくしが逃げ出さないように、あの方がつけている見張りの女性ですわ。観光でもショッピングでも好きにして構わないそうですけれど、絶対に香蘭さんとご一緒でなければいけませんし。それに、あの方のお金は使いたくありませんの。どうしても…」
「……」

〔逃げ出さないようにって、それボディガードの間違いじゃねーの? 愛人にガード! こりゃ相当に参ってる証拠じゃんか! それになんだって? あいつの金使いたくないってか! それすら既に奇跡の発言じゃん!〕

 六太は頭痛がするかの様に額を押さえた。

〔逃げ出すって、あいつ…、やっぱ無理矢理系なのかよ? 強姦なんかしてないってほざきながら、それともなんか弱み握って脅しで言う事聞かせてんのかよ?〕

 なんだか沸々と怒りが湧いてきた。

〔なんでこんなか弱い綺麗な女が、あの莫迦の虐めに合わないといけないんだ! 釣魚台の庭園から連れ出すのだって四苦八苦したんだぞ! くそ!〕

「いいよ。金のことは心配しなくていいし、尚隆に断って行動する事もないさ。おれ様と一緒なんだからな!」

 そう言うと、六太は美凰の白い手を引っ張った。

「あっ、あの…」
「いーからいーから。おれに任せとけって!」

 自信満々な少年の勢いに美凰は巻き込まれ、ただわけもなく従うしかなかった。





 その頃、会議が終わった尚隆は不意に訪ねてきたリンダと共に豪華なラウンジでつかの間の休息をとっていた。

「彼女ね…」
「ん?」
「とぼけないで! 貴方の心の中から消し去る事の出来なかった女よ」
「……」
「あんな小娘にあたしが負けただなんて…。認めたくないわ!」

 コーヒーカップを乱暴に置き、苦々しげに煙草の煙を吐き出すリンダに尚隆は苦笑した。

「莫迦莫迦しい! あれはただの…」
「ただの、何?」

 尚隆はふいと顔を逸らすと、煙草に火をつけた。

「色々追及される謂れはないぞ。俺たちはもう…」
「ええ。確かにもう夫婦じゃないわね。…、まったく、勿体無い事しちゃったわ!」
「……」
「あの頃は、貴方が世界的に有名な財閥の跡取り息子だなんて知らなかったんだもの! 知ってたら…」
「離婚には応じてくれなかったろうなぁ…」

 尚隆はくつくつ笑った。
 男のちゃかす様な態度に、リンダは透ける様に白い頬を赤く染めた。

「あからさまに言わなくてもいいじゃない。あたしは貴方を愛してたわ。今だって、未練は残していてよ」

 煌くサファイヤの双眸が、濃い睫毛の下から尚隆を色っぽく流し見る。

「ほう?」
「ねえ。貴方が希望するならよりを戻してあげてもいいのよ? あたしも五年前とは違って寛大だわ。小娘の愛人一人や二人を持つことくらい、赦してあげる…」

 リンダは熟れた女性としての魅力を、存分に発揮するかの様にしなだれかかったが、尚隆は楽しそうに笑うと、静かに彼女から離れて立ち上がった。

「他をあたれよ。俺の方は間に合っているし、君の容姿なら俺以上の金持ちを釣り上げる事が出来るだろうさ。じゃあな。まだ予定が詰まっているんだ…」
「あん、尚隆ったら! 待って!」

 立ち去ろうとする尚隆に、リンダは追いすがった。

 尚隆は腕に食い込む真っ赤なマニキュアをやれやれと見つめ、ふたたび美貌の顔に視線を戻した。

「リンダ。俺達は憎み合って別れたわけじゃないだろ? 結婚前に言った筈だ。総てを曝け出しはしないと。最初、君は頷いたが結局、我慢できずに他の男に安らぎを求めた。仕事への野望もあったし、俺は俺で…、忙しかった。五年経った今じゃ世界レベルのスーパーモデルになったじゃないか。別れるのがお互いの為だったという事だ」

 リンダは憎々しげに尚隆を睨みつけた。

「そして貴方も、望みを叶えて幸せを掴もうとしているの?」
「幸せ? どういう事だ?」
「貴方、あの小娘と結婚するつもりなんでしょ?」

 尚隆の眉がぴくりと揺れた。

「何を言っている?」
「ずっと忘れられなかった女ですものね! 莫迦だわ! あたしがちょっと悪戯しただけで簡単に貴方の事諦めて泣きながら電話を切ったのよ! それなのに、このあたしを振ってあんな冴えない小娘と! 痛っ!」

 尚隆は思わず、リンダの手頸を掴んだ。

「どういう事だ? 電話って何の事なんだ?」

 尚隆は昨夜の美凰との会話を思い出した。
 リンダの事を話した記憶はなかったのに、美凰は彼女の事を離婚した妻だと知っていたのだ。

「おいっ!」
「痛いわ! なによ! そんなに必死になる事なの!」

 リンダは掴み締められた手頸を振り切った。
 白い手頸に指の痕が赤く残っている。

「……」

 一瞬の、尚隆のうろたえた様子をリンダは見逃さなかった。

「尚隆? 貴方…、あの美凰って娘から何も聞いてないの?」
「……」

 青い瞳がキラリと光り、艶やかなグロスを刷いた美しい唇をちらりと現れたセクシーな舌が一舐めする。 まるで得物の弱点を掴んだかの様に…。

「…、知りたい?」
「…、莫迦莫迦しい。俺を脅す気か?」

 リンダはふふっと余裕の微笑を浮かべると、ハンドバッグを持ち直した。

「あら、そんなつもりはなくってよ。そう…、別にどうでもいい事みたいね。まあ、いいわ。それじゃ、あたしはこれで失礼するわね!」
「おいっ! 待て!」
「なによ? お忙しいんでしょ! あたしも貴方にばかり構っていられないんだし…。じゃあ、またね! コーヒー、ご馳走様!」
「……」

 リンダはしなやかに踵を返すと、無言の尚隆を背に優雅にその場を立ち去った。

〔諦めないわよ! あんなジャップの小娘に負けやしない! このあたしこそ、小松財閥の総帥夫人に相応しいのよ。尚隆、今度こそ、貴方を虜にしてみせるわ!〕

_33/95
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