落花 7
 火曜日の午後、美しいツーピースに身を包んだ美凰は、関西空港のエグゼクティブラウンジで居心地悪げに紅茶を飲んでいた。
 眼前には氷の浮かんだウイスキーを片手に、第一秘書の楊朱衡に書類の最終説明を受けている尚隆が居る。
 俯き加減の美凰は尚隆をちらちら見つつ、喉元のネックレスを苦しげにまさぐった。
 美しく光り輝く大粒のダイヤモンドは、空港前のホテルに宿泊した昨夜、辛くおぞましい情事の際に頸につけられた物である。
 愛の証ではなく、奴隷の…、彼の情婦の証。
 プラチナの細い鎖は、美凰にかけられた無制限の鎖だ。
 一体、いつになったら解放されるのだろう。



 微かな溜息を聞きつけ、尚隆が書類から顔をあげた。

「どうした?」

 面白そうに笑っている眼が嫌だった。

「いいえ…、別に…」

 美凰は沈んだ様子で俯き、半分ほど残った紅茶をじっと見つめた。
 憂鬱そうであってもその花の様な面は、眼を逸らす事の出来ない美しさである。

「お退屈でしたら、免税店へお買い物に行かれては如何ですか? 香蘭がお供をいたしますよ」

 香蘭とは、美凰の為に新たに雇われた運転手兼ボディガードの美しい女性である。
 朱衡の優しい気遣いに、美凰は申し訳なさそうに頸を振った。

「いいえ…、特に欲しい物はございませんし」
「……」

 午後、ホテルのロビーで落ち合った瞬間から、疲労困憊の沈んだ様子で尚隆に連れ廻されている美凰を哀れんでいるのか、朱衡の態度は優しいものであった。
 仕事とプライベートははっきり区別している会長が、出張に愛人を連れて行くなど初めての事。
 パスポートの切れている美凰の為、一日で渡航準備の総てを用意しろと厳命され、昨日は大変な時間と金を費やされた。
 嘗てない上司の行為に朱衡は驚きを隠せないでいたが、眼前の美凰を見れば、尚隆が彼女を一時も手離せない思いで一杯なのがありありと見て取れる。

「ご搭乗まではまだございますし、北京までは三時間程かかります。ご本でもお求めになられれば宜しいかと存じますよ!」

 なにか言おうとしたが、美凰はぐっと言葉をこらえると静かに立ち上がった。

「…。それでは少し、お店を見て参りますわ」

 ぐったりした様子で豪華なラウンジを出て行く美凰の背姿を、尚隆は黙って見つめていた。



 美凰は何をするともなしに免税店をうろうろとした挙句、とにかく朱衡に奨められた通りに推理小説の文庫本を一冊購入し、ベンチに腰掛けた。
 香蘭という女性はとても気さくな雰囲気の人だったが、つかづ離れずで身辺を見張られているのは不慣れな上、息苦しいものである。

〔逃げたりなんか…、しないのに…〕

 些かうんざりした様子で溜息をつく美凰には、何故自分にボディガードがつけられているのか、その意味が今ひとつ理解出来ていなかった。
 尚隆は彼女の逃亡を防ぐためにボディガードをつけているわけではない。
 小松財閥の権力と財力にむらがるハイエナ達が、いつ何時、どんな手を使って小松尚隆を陥れようとしているか判ったものではないのだ。
 当然の如く、尚隆と寝室を共にする女はマークされるだろう。
 今まで愛人にしてきた女たちには執着心など欠片もなかったから、細心の注意を払って護衛する必要もなかったが、美凰は明らかに違う存在なのだ。
 そのことを、尚隆の周囲にいる人間達は無自覚な尚隆本人より却って敏感に察知していた。



「会長…、そんなにご心配されなくても香蘭がついておりますよ」

 美凰が姿を消して五分と経っていないにも拘らず、既にそわそわしている尚隆に、朱衡は呆れた様子で声をかけた。

「心配? 何の事だ?」

 苛々した声で煙草に手を伸ばす尚隆に、怜悧な第一秘書は溜息をついた。

「やれやれ…、ここまで自覚症状がないとは。呆れてものが言えませんね。いや…、これは相当に傷が深いという事ですか?」
「何を言っている?」

 朱衡の態度に尚隆は精悍な顔を顰めつつ、立ち上がった。

「おや、どちらへ?」
「煙草を買いに行く。書類の内容は解ったから、後はお前に任せる…」
「会長…、お待ちくださいませ!」

 引き止める朱衡を無視し、尚隆は大股にラウンジを出て行った。





 泥棒に家を荒らされた日曜日、必要最低限の荷物だけを纏めさせられ、美凰と要は尚隆の保有する大阪のホテルに無理矢理連れて行かれた。

「ばあやが戻ってきたら、ちゃんとここへ連れて来る様に人を残す。心配するな」

 放心した状態でなす術のない美凰は、大人しく尚隆の言いなりのまま、要と共に移動した。



「引越し業者を手配する」
「ひっ…、引越しですって?」

 驚愕に、美凰は尚隆を見上げた。

「君は俺の秘書という事になってるからな。別に社宅に住んだって構わないわけだ…。弟やばあやにはそう言えばいいさ」
「そんな…。でも、要の学校が…」
「心配しなくても、校区が離れない場所にマンションを用意する」
「……」

 尚隆はにやりと笑いながら、所在なさげにソファに座っている美凰を見おろした。

「俺の女に、あんなみすぼらしい住まいは相応しくないからな!」

 さらりと流れる侮辱に、美凰は朱唇を噛み締めた。

「そんな失礼な事を仰らないで!」

 思いがけない強い反抗の言葉だった。

「……」
「決して贅沢な住まいとは申せませんが、わたくし達にはやっと落ち着く事の出来た場所ですわ。ご近所の方々もとても心優しい良い人ばかりです。それなのに…、それにお金があるからといって、その様に侮蔑したものの言い方をなさらないでください!」
「……」

 美しい頬を涙が流れ落ちている姿に、再び心が痛む。
 尚隆は自分自身に舌打ちをした。

「とにかく、迅速に引越しを貫徹する。今日は家族でここに泊まればいい。明日には弟とばあやにはマンションに移ってもらう。君は、明日の夜から俺と出張だ!」
「……」
「北京へ行く。色々やって貰いたい事があるぞ!」
「……」
「それからあの医者に、早く連絡しろよ! ぐずぐずしてたら、例の写真を病院に送ってやるからな!」

 尚隆は嗚咽したまま返事のない美凰に苛々した声でとどめの一言を言い放つと、不機嫌そうに部屋を出て行った。



 田舎の結婚式から戻ってきた春は、訳もわからぬまま大阪でも指折りのホテルに連れて来られ、美凰に事情を聞かされて驚愕する始末だった。

「なんて事でしょう! ああ! あたしが田舎なんぞに行かずに、ちゃんと留守番していればこんな事には!」

 しきりに自分のせいだと嘆く春を、美凰は悄然としつつも慰めた。

「そんな事ないわ…。運が悪かっただけよ。そんなに自分を責めないで…」

 母にも等しい乳母を騙す事は辛かったが、もう後には戻れないのだ。



 翌日の月曜日の昼過ぎには、引越しのあらかたの作業は終わっていた。
 美凰たちは昼食後に朱衡に連れられ、昨日まで住んでいたアパートから徒歩で一時間、駅やショッピングモールに近く、要の通っている学校にも十五分足らずという好条件の高級マンションへと案内されていた。

「これが…、社宅でございますか?」

 ハンサムな朱衡に驚愕し、到着した『社宅』と称される豪華なマンションに、春は腰を抜かしかけていた。

「お荷物はすべて女性スタッフの手で、ある程度片付けられておりますが、お嬢様が出張でお留守をなさる間に、ばあやさんの眼で今一度ご確認くださいませ」
「は、はぁ…」

 朱衡は名刺を一枚、春に手渡した。

「家の仕様でご不明な点がございましたら、こちらに御電話をくださいませ。すぐに対応させて戴きますので」
「……」

 呆然としている春から、朱衡は美凰に向き直った。

「ご出張の荷物は総て当方でご用意済ですので、美凰様、そろそろ参りましょうか?」

 静かに促され、美凰は肩を落として朱衡から視線を逸らしながら頷いた。

「…、はい…」

 美凰は「留守をくれぐれも頼む」と春に言い残し、要に向き直った。

「電話するからおりこうにしていてね」
「うん。いってらっしゃい、姉さま…」

 美凰は要の頭を優しく撫でた後、朱衡に連れられて迎えのリムジンに乗った。
 シートには、尚隆が座って待っていた。
 彼は春と顔を合わさない様に、車の中で待機していた様子だった。
 美凰は無言のまま、静かに革シートに身を預けた。



「ばあやは喜んでいただろう?」
「……」
「あの医者には、連絡したのか?」

 美凰はぴくりと肩を慄わせた。

「…、ええ…」
「…。あいつは…、何と言っていた?」
「……」

 返事のない美凰に尚隆は苛立ち、フロント座席との仕切りのスモークガラスをあげて完全な密室を作ると、いやいやと頸を振って身もがく女体を引き寄せ、無理矢理にキスをしながら美凰をシートに押し倒した。

「やっ、やめてください! こんな所で…」
「心配しなくても朱衡たちには見えん!」

 そう言いながら、ワンピースの背中のファスナーを引きおろして上半身を脱がせ、スカートの中に手を侵入させていく。

「……」

 尚隆の鋼の様な腕が、美凰をしっかりと抑えて離さない。
 美凰は唇を噛み締めて声を押し殺し、車の天井をぼんやりと見つめながら時が過ぎるのをじっと待ち続けた。
 もう涙は出なかった…。





『美凰さん! どうしたんです? 北京からですか?』

 驍宗の第一声に美凰は肩を震わせて項垂れ、受話器をぎゅっと掴み締めた。
 空港のアナウンスがせわしなく響く中、美凰は公衆電話から驍宗の携帯電話を鳴らしていた。

「…、いいえ。今から出発ですの。…、お忙しい所を申し訳ありません」
『いいえ、構いませんよ。丁度交代で食事を取ろうと思っていた所なんです。どうしたんです?』
「お声を、お聞きしたかったものですから…」
『……』

 驍宗には、日曜日の内に既に連絡を取っていた。
 花火大会観覧の際の非礼を詫び、席を外した途端、気分が悪くなったと嘘をついて…。
 急患の容態に予断を赦さず、慌しく病院に詰めていた驍宗は、美凰の沈んだ声を訝しく思いつつも必要以上の詮索をしてこなかった。
 美凰は自分の身の上に襲いかかったおぞましい出来事以外を、驍宗に淡々と語った。
 仕事で一週間留守のする事、泥棒が家に入って荒らされたので社宅に引っ越しを決めた事、そしてプロポーズに対する返事を帰国まで待って欲しい事…。
 美凰としては、驍宗に辛い返事を言わなければならないのだとしても、きちんと会い、面と向かって心からの詫びを言いたかったのだ。
 患者から眼を離せず身辺が慌しい驍宗は、不審に思う点が多々あったものの、結局は美凰の言葉を受け容れてくれた。

〔わたくしは、こんなにご立派で、素晴らしい男性を、騙している…〕

 美凰は申し訳ない思いで一杯だった。

『わたしは…、期待してもいいのだろうか?』

 ふいに耳元に優しい声が響き、美凰ははっとなった。

「……」

 驍宗の問いかけに、なんと答えればいいのだろう。
 美凰は自分の弱さを蔑み、後悔した。
 電話をするべきではなかったのだ。
 そっと顔をあげると、眼の前にこちらに向かって大股に歩いてくる尚隆の姿が飛び込んできた。
 その堂々とした凛々しい姿に、すれ違う女性たちが何度も熱い視線を注いでいる。
 美凰の胸はちくりと痛んだ。
 尚隆に隠れてこそこそ電話をしている卑屈な自分に、そして美しい女性たちの視線を浴びて優越感に浸っている尚隆に。

「帰国しましたら、またお電話を差し上げますわ」
『…、ええ、待っています。じゃ、気をつけて』

 美凰は静かに受話器を置いた。



「どこへ電話していたんだ?」
「……」
「あの医者の所か?」

 美凰は公衆電話のつり銭を財布に仕舞い、電話のサイドに無造作に置いた文庫本を手に取った。

「…、帰国後にお会いするお約束を…」

 尚隆は眉を顰め、不愉快げに美凰を見おろした。

「…、会う必要があるのか?」
「ちゃんとお会いして、お申し込みをお断りするのが『礼儀』でございますわ」
「成程…」

 尚隆は、手に持っていた赤いカルティエの袋から無造作に箱を取り出した。
 箱の中から現れたダイヤが散りばめられた豪華な時計を、尚隆は美凰のほっそりした白い左手頸につけた。
 美凰はまた一つ、自分を縛る鎖が増えた事への不快感を示す様に、高価な時計を眺めやった。
 お金のことで苦しみ続けている美凰に対し、尚隆は異常なまでに金と権力を誇示し続ける。
 美凰には尚隆の心が解らなかった。

〔お金で心を買おうとしているの? でも、この人は、きっとわたくしの愛に泥を投げつける。こんなにひどい目にあっても、わたくしが未練がましく愛している事を認めたら…、知られてしまったら、きっと勝ち誇ったかの様にわたくしの心は殺されてしまう…。身体に受けた仕打ちより、その方が恐ろしい…。そして、この人を未だに愛している自分が解らない…〕

「指輪はやらん。欲しいだろうがな?」

 ふいにそう告げられ、左手を見つめたままで物思いに沈んでいた美凰ははっと顔をあげた。

「……」
「『礼儀』を重んじるお嬢様としては、SEXひとつするにしても『結婚』という『形式』が欲しいんだろうが、生憎俺は…」
「…、あなたには、唯一つの事以外は、なにも望んでおりませんわ…」

 美凰は尚隆の嫌味を静かに遮ると、哀しげに微笑んだ。

「ほう…、なんだ?」
「早く…、他の玩具を見つけて戴く事以外は何も」
「……」

 搭乗アナウンスが響く中、美凰の美しい双眸は眼前を離陸して行く飛行機をじっと追っていた。





 ジャンボジェットは瞬く間に空に舞い上がった。
 豪華なファーストクラスの座席に、美凰は所在なさげに納まっていた。
 北京に到着するのは夜になると、朱衡から聞かされている。
 夜になればまた辛く、そして甘美な仕事が待っているのだ…。
 美凰はぶるっと身を慄わせた。
 身体が少しずつ、尚隆を受け入れ始めている。
 心が苦しく傷を膿ませていても、身体は違うらしい。
 そして美凰は、そのギャップが堪らなく恐ろしかった。
 もう何日か同衾を続けたなら、自分は完全に尚隆の意のままに動く性の道具と化すのだろう。
 そして、自分の意のままになった女を完全に打ちのめし、尚隆は何を見出すのだろう…。
 彼もまた、愛憎の果てに自分の不毛を見出すのだろうか?

〔わたくしは、いつ飽きられるのかしら?〕

 溜息をつく美凰の前に、紅茶茶碗がぬっと差し出された。
 見ると、美しい客室乗務員から手渡された紅茶を、尚隆が受け取ってくれていた。
 知らぬ間に注文をしてくれていた様であった。

「あっ、有難うございます…」

 美凰は茶碗を受け取ると、そっと美人スチュワーデスに会釈をしたが、相手は冷たい微笑みを浮かべて慇懃無礼にお辞儀をしただけだった。
 客室乗務員は頬を染めつつ、にっこりと尚隆だけを見つめた。
 彼をターゲットにしているのは明らかな様子である。
 国際線ファーストクラスの常連である尚隆とは、どうやら顔見知りのようだった。

「小松様、お久しぶりでございますわね? いつ見ても素敵ですこと!」
「君も元気そうだな? 最近はどうなんだ? 例のIT企業の社長とやらは?」
「別れましたわ。あの人意外とケチだったんですもの」
「ほほう? それはそれは…、勿体無い事だ」
「今はフリーですのよ! お暇がございましたら携帯にお電話くださいましね。番号は変わっていませんから」
「心得ておこう。軽い食事とワインをすぐに頼む」
「畏まりました。すぐにご準備致しますわ。そちら、秘書の方でいらっしゃいますかしら? そちらの方は?」

 美人スチュワーデスとの会話を心から楽しんでいる様子の尚隆にふいに見つめられ、美凰はどぎまぎとして俯き、手にしていた紅茶にじっと視線を落とした。

「わっ、わたくしは結構ですわ…。おっ、お腹は空いておりませんから…」

 美しい花顔を引き攣らせてどもっている美凰に、尚隆はほくそえんだ。

「特製サンドウィッチでも持って来てやってくれ。仕事の最中に空腹を訴えられてはたまらんからな。頼むぞ」

 尚隆は綺麗にマニキュアされた客室乗務員の手を取ると、美凰に見せつけるようにその手の甲をそっと愛撫した。
 胸を締め付けられる様な思いに、美凰は窓の方を向いた。
 嫉妬がじわじわと、身体から脳を支配する。

「畏まりましたわ…。あの、本当に、お電話お待ちしていますから…」
「ああ。覚えておくとも…」

 美人スチュワーデスは一瞬、勝ち誇ったかの様に美凰の横顔を流し見るとにこやかに立ち去った。
 尚隆は紅茶を口許に運んでいる震える手を、にやにやしながら見つめた。

「心配しているのか?」
「…、何のことをですの?」
「潔癖なお嬢様としては、他の女とやった後に抱かれるなんて嫌だろうと思ってな…」
「…、あの女性と、関係なさると仰るの?」

 か細く震える声に、尚隆はくつくつ笑った。

「さて? 暇だと言っていたし、宿泊先も知っている。なかなかいい身体つきをしているから楽しめそうだしなぁ…、どうするかな?」

 絶対に嫉妬している素振りを出すまい…。
 美凰はそう自分自身に誓い、眼を閉じた。

「…、あなたのお好きな様になさればよろしいではありませんか。わたくしにお断りになる必要はございませんでしょう? わたくしはあなたの言いなりでなければいけないのですから。他の女性をお抱きになられた後であろうとなかろうと」
「ふうん…。余裕だな。実際、その状況に置かれた時の君の反応を見るのも面白いかもしれん。ではひとつ、今夜にでも試してみるとしよう」

 さらりとした尚隆の物言いに、美凰はぞくりとした。

〔彼は本当に、あの美しいスチュワーデスと関係した後でわたくしを抱くというの? それとも、わたくしと同衾した後で、あの女性を…〕

 美凰は紅茶茶碗を、座席前のテーブルにゆっくりと置いた。

「…。ひとつ、お伺いしてもよろしくて?」
「なんだ?」
「あなたの女性関係は…、愛人でいらした方の期間は長くて…、一体どれくらいの間なのでしょう?」

 尚隆の顔が不機嫌そうに歪んだ。

「そんな事を聞いてどうするんだ?」
「あなたは、女性関係が多いと伺っております。あの方の様に美しい女性からお誘いがある事など、しょっちゅうなのでございましょう? でしたら、男性の経験など皆無のわたくしの事など、早々に飽きてくださるのではないかと…。だから…、あっ!」

 美凰は突然、尚隆の唇に唇を塞がれた。
 息の詰まりそうな激しいキス…。
 舌の蠢きと乳房に触れられる手の熱さが、美凰を翻弄する。

「公共の飛行機の中であることを感謝するんだな? 自家用機だったら、思い知らせてやる所だぞ!」
「……」

 ぐったりした美凰から身を起こした尚隆は、吐き捨てる様に呟いた。

「何度も同じ事を言わせるな! 俺が飽きるまでといったら飽きるまでなんだ! 期限はない! いい加減、俺を挑発するのはやめろ!」
「……」

 挑発している自分の事は棚に上げ、脅えきった色をしている美しい瞳を覗き込みながら、尚隆は美凰の唇を貪った。
 美凰には尚隆が激怒している理由がまったく解らなかったし、尚隆自身、何故これ程までに余裕をなくして苛々しているのか、まったく解らなかった。
 いや、本能のどこかで解っていながら、封印しているだけなのだという事を尚隆は思考の彼方に追いやった。
 二度と『愛』という言葉を口にする気は…、ないのだから。

_32/95
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