落花 6
「姉さま、起きて! 朝だよ!」

 うきうきした要の声に美凰はゆっくりと目覚めた。
 カーテンは開かれ、窓からは朝の光が差し込んで室内を明るく照らしている。
 美凰はバスローブを着た状態でベッドの中に居た。
 昨夜、逃げ出した筈の尚隆のベッドに…。

〔わたくしは、要の傍で眠った筈なのに…〕

 美凰はゆっくり起き上がった。

「要…」
「おはよう、姉さま…。すごくいいお天気だよ!」
「……」
「ねえ、早く起きて! ご飯が冷めちゃうよ!」
「…、ご飯ですって?」

 要はこくりと頷いた。

「うん。小松さんがお部屋に朝ご飯を沢山用意してくれたの。姉さまを呼んで来なさいって…」
「……」

 どうやら尚隆がルームサービスを頼んだらしい。
 室内時計を見ると、朝の九時であった。

「ぼく、お腹空いちゃった…。姉さまったら突然いなくなるんだもの。ぼくびっくりしちゃったよ。乍先生も病院に戻っちゃったし…」

 驍宗の名を聞いて、美凰はびくりと肩を戦慄させた。

「乍先生、なにか仰ってた?」
「ううん。でも姉さまの事とっても心配して探してたから、お電話してあげた方がいいんじゃない? 姉さま、ご気分が悪くなったんだってね?」
「…、ええ、そうなの…」
「それで偶然、会社の会長さんに助けてもらったんでしょ? 小松さんからそう聞いたの…」

 美凰はそっと頷いた。
 尚隆が要に吹き込んだ嘘は赦せなかったが、この場を取り繕うには頷くしかなかったのだ。

「起きるわ…。先に食べていらっしゃい。お腹が空いてるんでしょう。尚…、小松さんにちゃんとお礼を申し上げてから戴くのよ」
「はぁーい!」



 要が部屋を出て行くと、美凰はベッドから降り立った。
 立ち上がって吃驚したのは左足に湿布が貼られ、包帯が巻かれていた事だ。
 言い争いをして部屋から逃げ出した美凰を連れ戻しに来た時に、腫れ上がっている足に気づいたのだろう。
 丁寧に治療が施されていた。
 しかしこれではシャワーを浴びる事も出来ない。
 仕方がないので、絞ったタオルでざっと身体を拭った後、洗面を済ませた美凰は昨夜着ていた着物を纏って、そっと居間に顔を出した。



 居間では尚隆と要が、楽しそうに朝食を摂っていた。

「あっ、姉さま! 遅いよ! ご飯なくなっちゃう!」
「えっ、ええ…」

 美凰は尚隆と眼を合わさない様に、ソファーに浅く腰掛けた。
 姉がひょこひょこ足を引いている姿に、要は首を傾げた。

「姉さま、お怪我をなさったの?」
「あっ、ううん。大丈夫よ。ちょっと挫いたみたいなの。こっ、小松さんに手当てをして戴いたから…」
「そうなんだ。良かった〜」

 要はオレンジジュースとりんごを頬張りながら、にっこりと微笑んだ。
 美凰は俯いたまま、尚隆に向かって頭を下げた。
 昨夜の言い争い、抉るような尚隆の言葉は美凰の心を深く傷つけている。
 とても眼を合わせられるものではなかった。

「あの…、手当てをしてくださって…、有難うございます…」
「いや、大した事じゃない…。それより、朝飯を済ませたら家まで送ろう」

 視線を合わさない様にしている美凰をじっと見つめながら、尚隆は淡々と言った。
 尚隆の深いバリトンの声が、激しく突き上げられ、身悶える自身の姿を脳裡に蘇らせた。
 初めて知った男女の秘め事、尚隆の胸の温かみが、腕の力強さがひしひしと思い起こされる。
 容赦なく何度も貫かれ続けた処女の固い蕾は、まだ激しい疼痛を負っているし、激しい愛撫に吸われた乳首も同様であった。
 だが、その疼痛は、何故か決しておぞましいものではなかった。
 むしろ孤独に過ごしてきた自身の総てが変わってゆく、そんな気がする心地良さであった事を美凰は否定する事が出来なかった。
 美凰を傷つけていたのは尚隆の心ない言葉であり、愛情の欠片さえない、彼の態度なのだ。



「ご馳走さまでした。小松さん」

 要は丁寧に手を合わせて朝食を終え、立ち上がって紅茶を淹れている尚隆に向かってにっこりと微笑んだ。
 尚隆は微笑み返した。

「ぼく、歯を磨いてきます。姉さま、早く召し上がってね。帰ったら宿題しなきゃ。昨日はサボっちゃったし」
「ええ、そうね…」

 要が洗面所に向かうと、尚隆は紅茶を美凰の前に置いた。

「食わないのか?」
「ごめんなさい。お腹は空いていませんの…」

 朝の光が無遠慮に、呆然としている美凰の全身を照らして輝かせる。
 化粧もせず素顔のままだというのに、なんという美しさだろう。
 尚隆は我が物にした女の姿に見惚れ、思わず美凰の身体を抱き寄せた。
 はっとなった美凰は、いやいやと頸を振って尚隆を拒んだ。

「やめて! 要が…」
「君が拒まなければすぐに終わる。いい子にしてろ」

 尚隆はそう言うと顔を近づけて美凰の唇を奪い、抗わぬのをいい事に激しいキスをした。
 蕩けてしまいそうな感覚にぐったりとしかけた美凰を、尚隆はやっと離してくれた。
 美凰はソファーにがっくりと座り込んだ。

「飲めよ。紅茶は神経が落ち着くんだろう?」

 美凰は言われた通り、紅茶を口にした。
 温かい飲物が喉を通り抜けていくと、幾分気分が落ち着く。
 器をテーブルに置いた美凰の眼前にふいに数枚の写真がかざされ、何かと思ってちらりと顔をあげた美凰の双眸が見開かれた。
 そこに写っているのは、紛れもない自分の裸身。
 いつの間に写されたのか、淫らな姿で絡み合った自分と尚隆の姿だった。

「あっ!」

 思わず写真を奪おうと伸びた手は、虚しく空を掴んだ。

「あっ、あなた…」

 美凰は声を震わせながら尚隆を見た。

「よく撮れているだろう? デジタルカメラとは大したものだ。現像に出さずとも簡単に印刷できるんだからな。しかも保存も消却も思いのままとくる」

 尚隆はためつすがめつ写真を見つめ、にやにや笑っている。

「いい顔をしているじゃないか…。動画でなくて残念だなぁ…」

「……」

 真っ赤になった美凰の両手がぶるぶる顫えた。
 尚隆の言わんとする処は明らかである。

「…、今度は何の脅しですの?」
「あの真面目そうな医者は、この写真を見たらなんとするだろうかと思ってなぁ…」

 意地悪そうな尚隆の問いかけに、美凰は双眸を閉じた。

「乍先生のプロポーズは、お断りいたしますわ」
「ほほう…。世間も羨む世界的なドクターを袖にするとは…、贅沢な女だな?」
「あなたという方は…。それがあなたの望みなのでしょう?」

 尚隆は写真を封筒に入れて鞄に突っ込むと、ほくそ笑みながらソファーにゆったりと腰掛けた。

「おいおい、俺のせいにするなよ。俺は一言もそんな事は言ってないぞ」
「そんなに、そんなにこのわたくしが憎いのですか?」
「……」
「いいえ。お答え戴かなくても結構ですわ。いずれにしても絵さえ売れれば…、あなたとのご縁も終わるのですから…」
「……」

 美凰の哀しげな問いかけへの返事は、洗面所から戻ってきた要の声に遮られた。

「あれ? 姉さま、もう朝ご飯終わったの?」
「ええ…」

 美凰は立ち上がった。

「さあ、要…。帰りましょう」
「うん。…、あれ? 姉さま、泣いてるの?」

 要の心配そうな問いかけに、美凰は静かに頸を振った。





 美凰と要は尚隆が運転するBMWで、自宅まで送り届けられた。
 車の中での美凰は終始無言で、尚隆と要は楽しそうに話をしていた。
 要は尚隆の事を『素敵な会長さん』と思い込み、驍宗に対してと同じように懐いていた。
 アパートの前に到着すると、ご近所の黒山の人だかりの上、パトカーまで止まっている。
 美凰と要は訝しげに車から降り立った。

「ああ! 美凰ちゃん、要ちゃん! 大変やで!」

 隣家の女性が美凰達に気づき、慌てて駆け寄ってきた。

「おばさま、一体どうしたのです?」
「あんたら昨日留守しとったから! 春さんもいてへんし…。泥棒や!」
「ええっ?!」
「あんたとこに泥棒が入ったんや! もう吃驚やで!」

 驚いた美凰と要は慌てて自宅に駆け込んだ。
 その後を、尚隆がゆったりとした足取りで二人を追いかけた。



 室内は無残に荒らされており、嫌な予感に美凰の心臓はどくどくと波打っていた。

〔絵は…、『雪月花』は!〕

 箪笥の前に立てかけてあった筈の絵の包みは、忽然と消えている。
 立浪老人に依頼された業者が引き取りに来る為にと、昨日の内に梱包を済ませていたのだ。
 美凰はへなへなとその場にへたり込んだ。

「姉さま…、しっかりして…」

 背後から弟の優しい腕に抱きすくめられ、美凰はがっくりと項垂れた。

「要、どうしましょう! お父さまの絵が…」





「この家の世帯主さんですか?」

 二人の警察官が気の毒そうに、気の抜けた美凰に歩み寄ってきた。

「あ…、はい…」

 警察官達は美貌の被害者に瞠目しながら事情聴取を始め、美凰は半ば上の空で対応していた。
 尚隆もいつの間にか室内に上がりこんで、被害にあった部屋の中を眺めている。
 六畳一間、四畳半二間、狭い台所にバスとトイレ…。
 嘗て美凰が住んでいた、あの広大な日本家屋のお屋敷を思い起こさずにはいられない。
 なんという落差、なんという転落の生活だろう。
 尚隆は眼を細め、清潔だが質素な室内のあちこちに顔を向けた。

『そんなに…、わたくしが憎いのですか?』

 先程の美凰の言葉が蘇る。

〔ああ、憎いとも! 俺を裏切ったのだからな! 幸せになる事など赦さない! 俺と同じ、いや、俺以上にどん底に、惨めになって貰わなくてはならない!〕

 そう思っているのに胸が痛い…。
 何故だろう。
 ふと見ると、要が古びた机の上で接着剤を片手に真剣な面持ちで作業をしている所だった。

「どうした?」
「姉さまがとても大切になさってる置物が…、泥棒のせいで首がもげちゃったんです…」

 尚隆の双眸が驚きに見開かれた。
 それは五年前、ディズニーランドで買ってやった雛人形であった。
 傾げられた女雛の頸がものの見事に割れていた。
 まるで処刑を言い渡され、頸を打たれたかの様な姿は美凰の今の状態に似ている。

「姉さまのたった一つの宝物なんです。昔、ご結婚を約束された人に買って貰ったって…」

 要は頸と胴を上手に接着すると、しっかりと手で押さえた。

「…、その男は?」
「姉さまは事故に遭われて、それはひどい事故で…。ぼくは五歳だったから、よく覚えていないんですけど、ばあやの話では、十日くらい意識を無くして生死の間を彷徨ってたんだそうです」
「……」

 要は哀しそうな顔になった。

「大人の世界は解らないんですけど、命をとりとめた姉さまがご連絡をお取りになられた時には、その男の人は他の女の人と結婚していたんだそうです」
「……」



 幸い僅かな蓄えには手出しされなかったものの、八方塞だった。
 もう尚隆の言うなりになるしか借金を返す方法はない。

「お金の目処がたたなくなりましたわ…」

 引き上げて行く警察官を見送り、ドアを閉めた美凰はぐったりと座り込んだ。
 部屋中を片付けなければならないのに、なにをする気力も湧かない。

「何故、貸し金庫に預けておかなかったんだ? 二千万からする絵なのだろう?」

 大仰に肩を竦めて咎める様な眼をする尚隆に、美凰は返す言葉もなかった。

「さて、俺に返して貰う金の件だがな…」

 こんな状況の中で、なんと酷い事を口に出して言うのだろう…。
 美凰は愕然とした表情で尚隆を見た。
 尚隆の眼の中に、彼の要求はしっかりと映っている。
 びくりと繊肩を慄わせ、美凰は眼を閉じた。
 もう逃げ道はない。

「わたくしに、二千万円の価値があるのでしょうか?」
「…、君次第だな…」
「?」
「ベッドの中でめそめそ泣かれるのは好かん。素直に楽しんでもらいたいのだが?」

 あんな事を楽しめというのか。
 尚隆の言葉に美凰は怖気だって言った。

「いつまで…、いつまであなたの?」
「さて、期限の切れるものでなし…。君の身体はなかなか開拓のし甲斐があるしな…」

 美凰は絶望の思いに顔を背けた。

「……」
「まずは明日からの出張に同行してもらうとするか?」

 尚隆は美凰の身体を舐める様に見廻し、にやりと笑った。

_31/95
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