再会 1
 それはニューヨークの午後三時に始まった…。


 上着を無造作に脱ぎ捨てた小松尚隆は、摩天楼高層ビル最上階にあるオーク張りの重役室でくつろいでいた。
 窓ガラスの彼方に見渡せる美しい日差しのハレーションを見つめつつネクタイを緩め、糊のきいた白いワイシャツの襟ボタンを外して椅子にもたれ、両足をテーブルに乗せる。
 二日前にイタリアから飛んで来たばかりで、それから休む間もなく仕事のことで部下に追い回され、へとへとに疲れていた。会長の意見を聞いてからでないと、何一つ出来ないニューヨークの部下が嘆かわしい。彼らには自主性というものがないのだろうか…。
 尚隆はクリスタルのデカンターから高級ウイスキーを一杯注いだ。強い酒が喉の奥にしみわたり、彼は目を閉じて溜息を一つつく。
 この二日間、自分の時間というものがまるでなかっただけに、この安らぎの時を大事にしたかった。
 世界の五指に数えられる、権謀術数渦巻く国際的な財閥を切り回すのは並大抵の苦労ではない。
 尚隆は重い瞼を開け、黒曜石のような瞳で威厳に満ちた会長室を見渡し、冷ややかな笑みを口角に刷いた。
 彼はここまで昇りつめた自分の業績に満足していた。けれど、人間は満足してしまったらおしまいだ。そして彼は暇をもてあます事を極端に恐れた。
 この五年間、心の奥底に仕舞いこんだものに翻弄されない為、自分の事は何一つ考えまいと決めた日からずっと、尚隆は多忙である事を旨に生きてきたのだから。

 何か新しいことに挑戦したくてうずうずしている。
 今は、総てが順調過ぎて物足りない。指を鳴らせば、欲しいものはなんでもすぐ手に入るのだから。
 また昔のような生活に戻り、もう一度トップを目指して闘ってみてもいいとさえ思うこともある。
 望むと望まざるに係わらず、行く手を阻む者は片っ端から踏み潰し、策略と力を駆使して叔父の勢力を追い落とし、亡くなった父と兄達が瓦解させかけた財閥を必死になってここまで立て直してきた…。
 人々は彼の容赦のないやり方に恐れをなし、今では小松尚隆と一戦を交えようとする者も殆どいなくなった。彼に歯向かえば命を落としかねないからだ。
 そうして小松尚隆は自他共に世界で認められるセレブとなった今、目標を見失って疲れていた…。

 尚隆は疲労困憊を嘆くかの様に吐息をつき、目をこすった。
 自分は確かに疲れている…。
 デスクの端に置かれた大きな封筒が、ふいに霞みかけた眼にとまった。

〔ああ。また例のものだな…〕

 この四年ばかりの間、何度となく肩すかしを食らった興信所の報告書…。
 どうせ今回も、果々しい答えは得られないのだろう。
 封筒の余りの薄さがその証拠だ。
 尚隆は胸ポケットのシガレットケースから煙草を取り出して一本銜えると、うんざりした様な仕草で火をつけながらおもむろに封筒を開けて中身を取り出し、懇切ご丁寧な調査不能の知らせの文面を流し見ようとした。

『今回、ご依頼の件につきまして簡単ではございますが、下記の通り調査結果をご報告申し上げます…』

〔?! 見つかった?! 女が見つかった?!〕

 疲労していた筈の五体に血が駆け巡る…。長い間探し続けた女の消息…。
 尚隆は、列記された簡素な文面に貪るように眼を走らせた…。


 たった一枚の調査報告は、五年前に自分を裏切った女の足跡を簡潔に明記していた。

『200X年10月 死亡した父親の借金返済に家屋財産を手放すが、仲介人に現金の殆どを持ち逃げされる』
『200X年03月 借金返済の為に商事会社社長〔45歳〕と結婚』
『200X年09月 夫と死別。会社は社長の親族が引継ぎ、未亡人は僅かな財産のみ相続』
『200X年10月 家族と共に、急遽大阪へ引っ越す。なお借金は引き続き未亡人名義となっている』
『200X年01月 現在の中小企業会社「○×商事/財務課」勤務三年目。義妹は東京でモデルをしている。本人は義弟と乳母の三人で同居』

 ぶるぶる顫える尚隆の指先が、煙草を灰皿にぎゅっと押し付ける。

〔見つかった…、見つかった…!〕

 そして、ナイフで一突きにされた様なこの胸の痛み…。
「結婚?! 45歳の男だと?!」
 尚隆の怒声が豪華な会長室中に響き渡り、手にしていた書類は勢い余ってぐしゃりと鷲掴みされた。

〔俺を裏切って僅か半年足らずで結婚した?! それも自分の年齢のほぼ三倍の中年男とだと?!〕

 全身をアドレナリンが奔流する。
 怒り、恨み、一抹の苦悩、そして激しい嫉妬…。
 彼女は自分のものだった筈なのに…。


 類稀な美しさの仮面の下に隠された真実に気づかず、人を信じない筈だった尚隆の心は無防備に奪われ、そして叩きのめされた。
 善良で清らかなふりをして、彼の精神をずたずたに切り裂いた罪深い女。
 元々、刹那的に生きてきた人生は最愛とも思えた女の裏切りにより、更にどん底へと堕ちていった。
 楽園を追放されたアダムは、きっとこんな心境だったに違いない。
 小松財閥の覇権争いという仕事をこなしていなければ、この五年の間に気違いになっていただろう。
 多忙な仕事と時の流れが少しずつ、膿んだままの彼の心を瘡蓋で覆い隠した。だが…。
 一生では使い切れない程の金があっても、世界帝国の皇帝の様な権力を持っていても、そしてありとあらゆる名だたる美女が彼の足許に跪いたとしても、尚隆の心は決して満たされないのだ。
 そう…。ただ一人、小松尚隆を跪かせて陳腐な愛を告白させた、あの汚らわしい雌猫に復讐を果たすまでは…。

〔復讐…、か…〕

 くしゃくしゃにしてしまった書類をぎこちなく伸ばしてデスクに置きなおした尚隆は、心の動揺を落ち着けようと傍らに置きっ放しにしていたグラスをぐいっと煽り、ウイスキーを一気に喉に流し込んだ。
 灼ける様な液体が多量に臓腑を通り抜けた為、暫し眉を顰めて俯いた彼の眼に、足許に落ちていたクリップ留めの写真が眼に飛び込んできた。

〔?!〕

『念の為、ご依頼賜りました捜索人の近況を撮影した写真を報告書に添付いたします。一枚目は義弟の授業参観に出席した時の物、二枚目は住居近所の知人結婚式に招待された時の物です。引き続き、調査をご希望の場合は直接ご連絡賜りたく存じます。また調査打ち切りの場合は当事務所秘書宛にご連絡を戴けます様、重ねてお願い申し上げます…』

 拾い上げた写真を見て、尚隆は愕然となった…。

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