悪夢の始まり 6
 ぼんやりと目覚めると、そこは見たこともない部屋だった。
 モダンなインテリアで統一された寝室…。
 美凰は柔らかなベッドの上に、下着姿でうつ伏せに寝かされていた。

「これはひどい! 一体誰がこんな術式を行ったんだ?」

 背中が直に優しく撫でられている気配を感じた美凰は、ぴくりと肩を震わせた。
 次第に意識がはっきりしてくると同時に、羞恥が全身を襲う。
 車の中で背中に激痛が走り、驍宗に無理矢理に…。

「あの…」
「気がつきましたか? ああ、動かないで! 今、軟膏を塗っている所ですから…」
「……」

 驍宗のしなやかな手で丁寧に薬をすり込まれ、背中がとても温かい。
 恐ろしい程の痛みは、既に遠くなっている。
 どうやら意識を失っている間に驍宗の自宅で休ませてもらい、あまつさえ背中の診察して貰っている様子であった。

「これでよしと…」

 丁寧に動く手が離れるのを緊張した面持ちで待っていた美凰は、治療が終わると慌てて起き上がり、手近にあったベッドカバーを身体に巻きつけて露わになった裸身を隠した。
 もぞもぞと身体を探ってみるとブラジャーは外され、スリップは腰の下まで引き下ろされている。

「心配しなくても、わたしは獣になる気はありませんよ。少なくとも、意識を失っている女性に対してはね…」

 些か機嫌を悪くした様な声音に、美凰は卑しい想像をした自分を羞じ、真っ赤になって俯いた。

「わたくし…」
「わたしは医者ですから、女性の下着姿には慣れています…。ただ…」

 驍宗は目を細めて美凰を見つめた。

「貴女は他の女性と違って、魅力的な下着がよく似合う…、その…、とても素晴らしい身体の曲線の持ち主だが…」

 美凰はますます顔を赤らめ、ベッドカバーの中にくるまった。
 その少女の様におどおどした仕草に、驍宗はやれやれと溜息をついた。

「わたしは手を洗ってお茶を入れますから、着替えられる様ならリビングに出てきなさい」
「あの、わたくし…」
「春さんにはわたしから電話をして置いたから…。もし動けない様子なら今夜はここに泊まって行けばいい…」

 そう言い残すと、驍宗は静かに出て行った。
 ナイトテーブルの時計を見ると11時を過ぎている。

〔ああっ! 先週末からこんなことばかり…! なんてことかしら…〕

 美凰は涙ぐみ、がっくりと項垂れた。



 着替えをすませ、顔を直した美凰がリビングに姿を現すと、乍驍宗は紅茶を淹れて待っていた。

「先生にはすっかりご迷惑をおかけしてしまって…。わたくし…」
「お掛けなさい。冷めない内に…」

 美凰は驍宗の向かいの椅子に腰掛けた。

「あの…、背中、とっても楽になりましたわ…。先生のお陰です」

 驍宗は眉根を寄せて紅茶を啜っていたが、カップをソーサーに戻して静かにテーブルに置いた。

「美凰さん…」
「はっ、はい?」

 緊張の為にどもってしまう。

「お父上の負の遺産はどれ程あるんです?」
「……」

 愁いの瞳が眼の前の紅茶茶碗をじっと見つめた。
 なんと答えればいいのだろう?

「わたしは貴女と結婚したい」

 単刀直入なプロポーズに、美凰は双眸を見開いて驍宗を見つめた。
 対する驍宗も真摯な面持ちで美凰を見つめていた。

「せっ、先生…」
「わたしはもう充分待ったつもりです。貴女には解っている筈だ…」
「……」
「考える時間が欲しいというのなら…、結婚を前提として交際して貰えないだろうか?」
「わたくし…」

 追いつめられた小動物の様な眼をする美凰に、驍宗は溜息をついた。

「それとも…、誰か他に想う人がいるのだろうか?」
「……」

〔どうすればいいの?! いいえ! 答えははっきりしているわ! お断りするのよ…〕

 美凰は必死になって、プロポーズを断るための言葉を口にしようとした。
 だが、どうしても出てこない。

〔他に好きな人が居ますって…、そうお返事するのよ…。こんなにいい方に期待を持たせては駄目っ!〕

「わたしは、貴女を愛している…」

 愛しているという言葉の美しさに、美凰の心はぐらついた。
 強く拒否できるだけの心の強さを、今は持ち合わせていなかったのだ。
 先週から自らの周囲に突然起こった嵐の様な出来事と、尚隆からの不当な扱いのお陰で、美凰の中の切ない女心はすっかり参っていたと言ってもいい。

「今月末に私の両親が韓国からこちらの学会に来る予定で…、その時に、是非貴女を紹介したいんだ」
「わたくしは…」

 不意に電話の音が鳴り響き、 驍宗は溜息をついて肩を竦めると立ち上がった。

「すまない。ちょっと失礼…、はい?」

 話の腰を折られ、不機嫌そうに受話器を取った驍宗だったが、病院からの呼び出しにさっと表情を強張らせた。
 どうやら急患の様だった。

「解った…。すぐ行くからその処置を続けたまえ! ああ、そうだ!」

 的確な指示を出した後に受話器を置くと、驍宗は慌てた様子で寝室に上着を取りに走った。



「急患なので、今から病院に戻らねばならない…」

 美凰は心配げに驍宗を見つめた。

「お気をつけて…」
「ゆっくりしてなさい。もし、どうしても帰ると言うのなら鍵を渡しておきますからタクシーを呼びなさい。間違っても歩いて駅まで行こうなんて考えないでくれ…。いいね?」

 美凰の手の中にマンションのスペアーキーが渡された。

「……」
「なるべく早く、返事が欲しい…。貴女の返事如何で、わたしは…」

 訝しげに驍宗を見上げる美凰に、首が振られた。

「いや。今はよしましょう…。週末はこんな風でなければいいのですが…」

 そういい残して、驍宗は慌しく部屋を出て行った。



 嫌な予感がする…。
 タクシーが到着し、マンションのエントランスに出た美凰はふいに強い視線を感じて振り返った。
 だが、誰も居ない。

〔気のせい…? 電柱が、光ったように思えたのだけれど…〕

 美凰は頸を振りながら、タクシーに乗り込んで自宅を目指した。





 週の後半は尚隆からも驍宗からも連絡はなく、日々が穏やかに過ぎていった。
 金曜日の夜、美凰は東京から出てきた父の旧知の友人であった立浪昴を自宅へ招き、ささやかな夕食のもてなしを済ませた後、『雪月花』を披露していた。
 要と春は夕食後、近所の子供会のお祭りに連れ立って出て行っている。
 立浪老人は感動に双眸から涙を流して、絵に見入っていた。

「美凰さん…、お前さん、本当にこれを手放すつもりかね?」

 美凰は食後の茶菓を差し出しながら、そっと頷いた。

「しかし…、どんなに苦しくとも、これだけは手離さずにおいたのじゃろう? 手離せるものか! お前さんの美しい姿が、溢れる幸せが、この絵には惜しみなく描かれている…。おそらく花總君の最高傑作じゃろうて…」
「悩みましたけれど、父の作品を大切にしてくださる方でしたら…。お恥ずかしい話ですけれど、どうにも切羽詰っておりますの…」
「要君の手術かね?」

 美凰は頷いた。

「幸い妹は独立して東京で頑張ってくれてますし…。後は要が普通に成長して幸せになってくれれば…、わたくしの望みはそれだけですわ」
「お前さんは?」
「?」

 立浪老人はやれやれと溜息をつき、お茶を口に含んだ。

「お前さんはもっと幸せにならんといかんぞ! 一度結婚に失敗した位で、人生を捨ててなんとする…。それだけの美貌じゃ。引く手はあまたであろうに…。最近はどうなのじゃな?」

 立浪老人の優しいお節介を聞いていると長くなる。
 美凰は苦笑しながら話を逸らした。

「借金のある身ではどうする事も出来ませんもの…。わたくしの事はおいおい考えますわ。それより如何でしょう?」
「…。うむ、正真正銘の本物じゃ。公開価格は3千万円でどうじゃな?」

 尚隆へ借金を返済できる上、要の手術費用も賄える。
 美凰には充分すぎる金額だった。

「花總君の絵を欲しがる者は多い。美人花鳥画の大家だったからな。もっと上値をつける者も出てくるかもしれん」
「3千万円あれば充分ですわ。それ以上は望みません。ただ、少しも早く…」

〔そう、少しも早く…〕

 美凰は明日の花火大会の夜に、驍宗に総てを打ち明けようと思っていた。
 小松尚隆との過去、事故の理由と結婚の経緯。
 そして今また…、尚隆との再会…。
 彼によって身体が汚された事を…。
 その上で、万が一にも自分を望んでくれるのなら…、彼と結婚しようと…。
 見込みはないと言っていいだろう。
 彼は韓国でも名家の生まれと聞く。
 純潔を重んじる儒教思想の影響強い民族性はおいそれと変わるものでなく、万が一、驍宗が納得しても彼の両親は恐らく反対するだろう。
 国同士の確執という根深い問題もある。
 だが、あれほど真摯に自分のことを思ってくれている男性から逃げることは出来ない。
 真正面からぶつからねばならないのだ。

_25/95
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