〔新婚夫婦でもあるまいし…、わたくしったら一体何をしているのかしら?〕
昨日は結局、朱衡と毛氈に付き添われ、近所のデパートへ日用品の買い物に出かけた。
そして今朝は自分に買い与えられたメルセデスに乗り、再びマンションに来て細々とした片付けに明け暮れていたのである。
運転手の毛氈は美凰に気遣い、5時頃に迎えに参りますと言って姿を消した。
美凰は与えられた携帯電話をじっと見つめた。
あれからすぐに自らの短気を反省した美凰は、電話の電源を入れた。
するとどうだろう。
何の用事もないのに、閉口するほどに何度も電話やメールが着信するのだ。
朱衡や毛氈にくすくす笑われ、羞かしさの余り美凰は再び電源を切ってしまった。
今日は仕事に集中してくれているのか、電源を入れていても電話が鳴らない。
お陰で、何にも邪魔をされずに片付けに時間を費やせた。
迎えに来て貰うのも悪いと思った美凰は、毛氈の携帯番号をダイヤルすると、帰りの送迎を丁寧に断った。
毛氈は不安そうな声を出していたが、美凰が寄り道をしたくてと言うと、渋々納得してくれた。
電話を切った途端、美凰の背中に微かな痛みが走った。
今日は少し、無理に動き過ぎたかも知れない。
痛み止めはないのだから、今夜はお風呂でゆっくり温めて早く床につこう。
美凰は溜息をつきながらマンションを後にした。
バスに乗って山手を降り、宝塚の駅前に着いたのは午後6時前だった。
「美凰さん?!」
要に好物のプリンを買って帰ろうとケーキのショーウィンドゥを覗いていた美凰は、聞き覚えのある声に呼ばれて振り返った。
「まあ! 乍先生!」
つややかな黒革の鞄とデパートの手提げ袋を持った驍宗は、微笑みながら近づいてきた。
「やはり! 一体…、どうしたんです? なんだか、素敵なイメージチェンジですね?!」
美凰の雰囲気が先週会った時と比べて明らかに垢抜けしている事に、驍宗は瞠目している様子であった。
「こんにちは…」
美凰は羞かしげにそっと会釈をした。
「奇遇だな…。買い物ですか?」
「ええ。要にお土産をと思って…。乍先生こそどうなさいましたの?」
「今日は早く上がりましてね…。丁度、貴女の所へ行こうと思っていた所なんだ」
「わたくしの家へ?」
「そう。先週の忘れ物を届けにね…」
「忘れ物?」
忘れ物などした記憶はないのだが…。
美凰が頸を傾げると、驍宗は楽しそうに笑った。
「相変わらずですね。まあいい。折角お会い出来たんだから…、どうです、一杯? ああ、そうだ。貴女は飲めないんでしたね。なら食事に行きましょう!」
「あのっ! 困りますわ、先生!」
「たまには二人だけの食事もいいものでしょう。要君にはわたしから電話をしますから…」
「あの…、本当に、困りますわ…」
美凰は眼に見えない何かに脅え、困惑した様子で驍宗を見つめ返したが、常の冷静さに似合わぬ珍しい強引さを振り切ることが出来ず、そのまま腕を取られて地下駐車場へと連れ立った。
驍宗との距離を置いた付き合いは、3年近くになる。
彼の真摯に想いに美凰は気づいていた。
驍宗の事が嫌いではない。寧ろ好もしい男性に思える。
ただ、美凰には忘れられない男がいるだけなのだ。
だからこそ、どんな誘いにも要に同席して貰い、自分には彼の想いを受け入れる意志がない事を仄めかし続けてきた。
それは驍宗にも通じていた様に思えたのに…。
メルセデスの助手席に乗り、シートベルトを締める美凰を驍宗はうっとりと眺めやっていた。
元々人目を惹く大変な美貌だが、明らかに素晴らしいイメージチェンジを成し遂げている。
薄皮が剥ぎとられた大人の女性への変貌…。
彼女の身に一体、何が起こったのだろう?
ふいに、驍宗の瞼にあの自信に満ちた倣岸な男の姿が映った。
小松尚隆といった、美凰の上司…。
〔まさか…、な〕
驍宗は静かに車を出発させた。
驍宗の自宅マンションに近い、吹田の高台にあるこじんまりとしたフランス料理店で、美凰は思いがけず彼との食事を楽しんでいる自分に驚いていた。
驍宗は要に電話を入れると、美凰とのデートの許可を申し入れ、要はくすくす笑いながら許可を与えた様子である。
「お土産のプリンを忘れない様にと言われましたよ」
そう言って電話を切った驍宗は、美凰に向かって微笑んだ。
「まあ! あの子ったら…」
美凰は驍宗の微笑みを眩しげに見つめ、そっと俯いた。
病院での苛烈なムードと裏腹に、彼はウィットにとんだ性格で、学生の頃やインターン時代の様々な話を聞かせては美凰を楽しませてくれた。
尚隆と再会してからというもの、一週間すら経っていないというのに毎日がストレスの連続だった美凰は、久しぶりに心から笑えた様な気がした。
デザートを食べていた美凰の背中にずきんと痛みが走りぬけ、白い繊手が慄えたのを驍宗の医者の眼は見逃さなかった。
「美凰さん、痛むんですね?」
「だ、大丈夫ですわ…」
無理矢理微笑む美凰の前に、驍宗はデパートの手提げ袋を渡した。
「なんですの?」
「貴女に差し上げようと思って…」
美凰が中を覗くと、リボンがかかった包装物と薬袋が入っている。
「これ…」
「痛み止めです。先週忘れていかれたでしょう?」
驍宗の好意に驚いた美凰は、とんでもないという風に頸を振って返そうとした。
「そんなっ! いけませんわ! とっても高価なお薬ですのに、こんなに沢山…」
差し出された袋を、驍宗は受け取らなかった。
「我慢もいい加減になさい! いらないと言うなら、捨てて貰って結構!」
明らかに不機嫌になった様子の驍宗に、美凰はおどおどと俯いた。
「ごめんなさい…、わたくし…」
驍宗はふっと溜息をついた。
かっとなった怒りを吐き出すように…。
「…、とにかく嚥みなさい。言う事を聞かないのなら、今から病院に連れて行くぞ!」
「…、すみません。…、戴きますわ」
美凰は申し訳なさげに薬を一包、嚥下した。
楽しかったムードは一転してしまい、気まずくなった沈黙を破ったのは驍宗だった。
「出ましょう。送ります…」
「…、すみません」
美凰はしょんぼりと様子で驍宗の後に続いた。
「すまない。少々乱暴な態度を取りました…」
車を出発させて程なく、驍宗は硬い声で謝った。
美凰はそっと頸を振った。
「いいえ…。わたくしこそ、折角のご好意…。本当にすみません…」
タイミングを逸した為か、薬の効き目は意外と遅く、美凰はじわじわ広がってくる痛みを堪えながら驍宗に頭をさげて謝った。
一刻も早く、独りになって横になりたい…。
「お金の事を気にする気持ちは判りますが、もう少し素直になった方がいい。この間も言ったが、貴女の身体は事故の後遺症とリハビリ不足で相当痛んでいる。思い出したかの様に起こる背筋と腰椎の痛みには耐えられない筈だ」
「……」
「費用の事は心配要らないから、病院に通って欲しい。第二外科に、医大時代のわたしの同期が招聘されたんだ。技術は100パーセント、わたしが保証する。メンタルな部分でも素敵な女性だから、きっと君も安心して治療に専念できると思う…」
「乍先生の…、同期の方?」
頷く驍宗がなんだか朧げに見える。
「…、先生が、素敵と仰るのですもの…。きっと先生にお似合いの、才色兼備の女性でいらっしゃるのね? …、その方がお好きなの?」
〔なにを言っているのかしら? わたくしは…〕
不意に急ブレーキがかかって車が止まると、がくんと前のめりになった柔らかい背中に激痛が走り、美凰は呻いた。
ぼやけていた意識が一瞬、蘇る。
「せっ、先生…。急に、どう、なさいましたの…?」
驍宗はハンドルをだんっと叩くと、美凰に向き直った。
「わたしが望んでいるのは貴女だ! 気づかない素振りをするのはもうやめてくれっ!」
吃驚して黒々とした瞳を見開いている美凰を見つめる驍宗の双眸は、激しい色を帯びていた。
「…、乍せ…、んっ!」
ふいに驍宗の唇が美凰の唇を襲った。
突然の事と背中の痛みに、美凰は身動きできずに、ただ慄えていた。
心臓がどきどき波打っている。
普段の冷静沈着な姿に似合わぬ、熱いキスだった…。
「ん…、やっ…」
美凰は必死になって驍宗の唇から逃れ、花顔を背けた。
「わたしが愛しているのは、貴女だ!」
甘い唇に我を忘れた驍宗が、美凰の肢体を引き寄せる。
抱き寄せられ、動転した美凰は激しく身もがきして抵抗した。
「いやっ! 先生! やめてっ!」
「美凰さん…、美凰…」
「離してっ! 痛いわっ! うっ…、ううっ!」
背中を走り続ける激痛にかすれた悲鳴を上げると、美凰はぐったりと驍宗の胸に崩れてしまった。
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