悪夢の始まり 4
 美凰は最後のグラスを食器棚に丁寧に仕舞うと、ほっと息をついてエプロンを取った。
 大阪平野の素晴らしい展望が望める広々としたテラスから眺める空は、夕刻に近い。
 ここは宝塚市内の高台にある超高級マンションの最上階。
 尚隆がアメリカ出張に出かけた翌日、つまり昨日の事だが、迎えに来た毛氈の車に乗り、送り届けられた場所がこのマンションだったのである。
 先日連れて行かれたマンションも豪華な造りだったが、こちらは更に凄かった。
 内装は総て、一流のコーディネーターがその力量を如何なく発揮してインテリアを纏めている。
 リビング、キッチン、バスルーム、客室、そしてベッドルーム…。
 総てが美しく設えられていて、毛氈に従ってマンションに入った美凰は、吃驚したまま呆然と室内に立ち尽くしていた。

「如何です? お気に召されましたか?」

 背後から声をかけられ、呆然とキッチンに佇んでいた美凰は驚いて振り返った。
 洒落たブランドスーツを着た、目元の涼しげなとてもハンサムな男性が立っている。
 尚隆と同じくらいの年頃だろうか?

「あの…、貴方は?」
「申し遅れました。わたくしは小松会長の第一秘書で、楊朱衡と申します」
「…、朱衡さん? あっ!」

 あの時、尚隆が携帯電話で喋っていた相手だと気づき、美凰の頬はかっと赤くなった。

〔この男性は、あの人とわたくしとの事を知っていらっしゃるんだわ…〕

 美凰は羞恥のあまり言葉を失ったが、黙ったままなのも非礼になると思い、そっと頭を下げた。

「あの…、花總、美凰です…」

 朱衡はといえば少し驚いた表情で、眼下で羞かしそうに俯いている美凰をじっと見つめていた。
 確かに、六太や毛氈、そして院取締役夫人でエステティックサロンのオーナーを任されている唐媛が大騒ぎしていたのが納得できる。
 今までの会長の愛人達とはまったく違うタイプの女性だ。
 けばけばしい化粧やマニキュアもせず、ダイヤもブランド物も一切身に纏っていない。
 一見地味な様子だが、こんなに巧緻な、繊細な面立ちの女性を朱衡は今までに見た事がなかった。
 女はSEXの為だけの道具だと言い切る、あの会長の相手には考えられない、優美な花の様な女性である。
 つい見惚れてしまった朱衡は、毛氈にそっと声をかけられ、はっと我に返った。

「会長からのご伝言です。そのままお読みしますので、文章の失礼はどうかご容赦ください。『ここがお前の職場だ。自身に磨きをかけ、俺の帰りを焦がれて待て』と…」
「……」

 美凰はますます身を硬くして朱衡と毛氈の視線を避け、顔を背けた。
 しょげかえっている様子を気の毒に思った毛氈が、気遣うように声をかけた。

「お嬢様、ご気分でもお悪いんじゃありませんか? お掛けになったら…」
「いいえ、大丈夫ですわ。すみません、毛氈さん、お気遣い戴いて…。あの…、楊さん?」
「はい?」

 美凰はぐるりを見廻し、そっと溜息をついた。

「わたくしは…、ここで何をしていればいいのでしょう? ハウスキーパーの方がいらっしゃるご様子ですから、お掃除するのも…」

 朱衡は形の良い眉を不思議そうに吊り上げた。
 会長の愛人から、そんな質問をされたのは初めてだったからである。

「さて?! 日中はお好きな事をなさって過ごしておられれば宜しいと思いますよ。取り合えず通帳とキャッシュカード、それにプラチナクレジットカードを2社分と当座のおこづかいとして200万円ばかり持参致しました。現金は寝室にセキュリティーボックスがございますので、そちらにしまわれても宜しゅうございます。それと、移動の度に毛氈を使われるのも何かとお困りかもしれないと思いましたので、お車をご用意して参りました」

 朱衡はそう告げると無造作にマンションのキー、車のキー、セキュリティーボックスの専用キー、クレジットカードを2枚、そして現金が入った紙袋をテーブルの上に置いた。
 美凰は、吃驚したような表情になって朱衡を見つめた。

「車?」

「はい。最新のメルセデスを…。会長がメルセデスなら安全だろうし、女性は自分の様な大きな車に乗るのが好きだろうと仰いましたので…」

 生々しい尚隆の裸身を思い出し、淫猥な揶揄に、美凰は真っ赤になって閉口した。

「……」
「ですので、宝石でもお洋服でもお好きなものをショッピングなさったり…。そうですね、エステティックサロンやフィットネスクラブに通われたりなされないのですか? 今までの会長の愛人の方は、短期間ではございましたが皆さんそうしていらっしゃいましたよ…」
「しゅ、朱衡さまっ!」

 慌てた毛氈に袖を引っ張られ、美凰を見た朱衡ははっとなった。
 黒々とした美しい双眸から涙が零れ落ちている。

「あの…、おっ、お金は要りませんわ。高価なものは分不相応ですし…、お買い物もあまり好きではありませんの。おっ、お洋服も、昨日買って戴いたものがありますし…。第一、わたくし、ここに住むわけではありませんから…。あっ、あの方はここに住まわれるのですか? でっ、でもここに置いておかれては、あっ、あの方が出張からお戻りになられるまで、無用心ですし…。ですから、カードも現金もお持ち帰りください」
「……」

 朱衡は美凰が長く濃い睫毛を瞬いて、子供の様に涙を拭う様をじっと見つめていた。

「あ、そっ、それから、車も…。わたくし、運転免許を持っていませんし…。大きな車は…、きっ、嫌いですの…」

 その時、美凰の携帯電話が鳴り響いた。
 無機質な着信音にがっくりと肩を落とすと、美凰は些かうんざりした様子で電話を取った。

『朱衡から金と車は貰ったか?』

 尚隆の唐突な声に、美凰の我慢も限界に来ていた。

「お金も車も要りません。わたくしは電車で帰りますから…」
『電車は駄目だ! お前は俺の女だぞ! なにをみすぼらしい事を言ってる?』
「みすぼらしくなんかございませんわ! 通勤に電車を使うのは極普通の事ですもの! ご自分がどんなにひどい事を仰っていらっしゃるか、解っておいでなの?」

 朱衡と毛氈は眼前の電話のやり取りに、眼を丸くしていた。
 携帯電話から尚隆の怒鳴り声が漏れ聞こえ、アメリカ支社の会長室で地団駄を踏んでいる姿が二人の眼に浮かんだ。

「もう結構ですわ! 余計なお金を使わないでください! これ以上あなたに借金を作りたくございません! どうしてお解りにならないの? もうわたくしの事は放っておいて!」

 そういうと、美凰は吼えている携帯電話をぷちんと切り、おまけに電源まで落としてしまった。
 毛氈は口をあんぐりと開けて、朱衡はこめかみをぴくりとさせて、眼前の美女の様子を呆然と見つめていた。
 あの小松尚隆に逆らう女性が…、しかも通話の途中で先に電話を切ってしまうなど…。
 朱衡は遠いアメリカの地にいる上司を思い、楽しそうに声を上げて笑った。
 今頃、悪態をついて携帯電話を床に叩きつけているかも知れない…。
 その声に美凰は朱衡に向かって振り返り、がっくりと項垂れた。

「すっ、すみません…、とっ、取り乱して、醜態を…」
「いえ。…、それより大丈夫ですか? 今の電話のせいで余計にご気分が悪くなられたご様子ですね。毛氈、美凰様を座らせて差し上げなさい。それから…」

 朱衡が指示を出すまでもなく、美凰は毛氈に気遣われ、心地良さげなソファーに座らされていた。

「冷蔵庫にはまだなにも入ってないんです。お嬢様、少しお待ちくださいね。今、何か冷たいものを買ってまいりますので…」
「すみません…」

 美凰がハンカチで涙を拭っている様子を見て、毛氈はダッシュで部屋を出て行った。
 途端にベートーベンの運命が鳴り響き、朱衡はやれやれという表情になった。
 美凰の吃驚した眼差しに優しく微笑むと、朱衡は電話に出た。

『朱衡! 女に運転免許を用意しろっ!』
「教習所にお通い戴くのですね?」
『駄目だ。男の大勢いる所はいかん。それに教習所は男の教官と二人きりになる。駄目だ…。俺が自ら教える。免許だけ警察に手を回して作成させろ!』
「お言葉ですが、会長には美凰様に運転を教授しているお時間はございませんよ。やって戴かねばならない仕事が山積(さんせき)しておりますので…」
『…、お前、今、「美凰様」と言ったな?』
「? 何かご不審な点でも?」
『六太といい、毛氈といい…、お前もか?!』

 尚隆の悪態に朱衡はふっと笑った。

「唐媛様の事をお忘れですよ。取締役にも随分褒めちぎっておられたご様子ですから…。とにかく、暫くは毛氈を運転手として…」
『駄目だ! どうしてもというならガード兼用の女の運転手を採用しろ!』
「…、畏まりました」
『…、そこに居るんだろう! 女に代われ…』
「…、美凰様、会長がお話なさりたいそうですが…」

 ぐったりした様子で黙って頸を振る美凰に頷き、朱衡は電話を持ち直した。

「美凰様はお話なさりたくないご様子ですので…」
『お前っ! 朱衡っ!』

 尚隆の罵声が煩く響いていたが、朱衡は気にもとめず電話を切ってしまった。
 美凰は驚いた表情で、朱衡の様子を見ていた。

「楊さん…、宜しいんですの?」

 済んだ双眸を丸くして自分を見つめている美凰が、朱衡には好もしく見えた。

「どうぞ、朱衡とお呼びくださいませ」
「……」

〔あのスレた会長には勿体無い程に美しく、可愛らしいお嬢様だ…〕

 女性を可愛く美しいものだと感じるのは何年ぶりだろう。
 深く調査していなかったが、この女性がどうして会長の愛人となったのか?

〔借金がどうとか…〕

 その経緯に朱衡は興味を持った。

「構いませんよ。いつもの事です。ああ、それから、お仕事が出来ましたよ」
「?」
「教習所に通って、運転免許をお取りください。会長からの厳命です」
「……」

 そこへ、冷たい飲み物を購入した毛氈が戻ってきた。

「朱衡さま、お嬢様は私が送迎致しますから…」
「会長はそれがお嫌みたいだな…」
「はあ?!」

 意味が解らないといった毛氈の顔を見て、朱衡はくすくす笑っていた。

_23/95
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