悪夢の始まり 3
 予想以上の仕上りに瞠目し、呆然として立っている美凰を凝視して尚隆はごくりと喉を鳴らした。

「如何でございますか? 会長」

 尚隆ははっとなり、見惚れていた美凰から視線を逸らすと軽く咳払いをした。

「…、流石は唐媛だ。見違える程に…、いい女になったではないか?」

「お褒めに預かり光栄ですわ…。ともあれ仰せの通り、素材がダイヤモンドの原石でございましたから…」
「請求は俺個人宛で廻してくれ。ではな。…、行くぞ!」
「あ、あの…、どうも、お、お世話になりました」

 美凰はサロンの女性たちに深々と頭を下げると、沈んだ様子で尚隆の後に続いた。

「今週末、お待ちしております!」

 笑顔で見送る一流エスティシャンたちは、二人の姿がエレベーターに消えると途端にくすくす笑い出した。

「先生〜 すんごい綺麗なお嬢様でしたねぇ〜。おまけに会長好みのボンキュッボンだし!」
「ほーんと。真珠みたいなつるつる肌でしたよ。な〜んのお手入れもしてない様子だったのに〜」
「会長のお顔、見ました? もう蕩けそうなご様子でしたよ〜」

 李花はくくっと笑った。

「それにねぇ、爪は清潔にしときたいって仰るの。弟さんのお弁当を作る為ですって…。あたしもう面白くって、お話している内にすっかりファンになっちゃいました。だってお嬢様っぽいのに全然タカピーじゃないんだもん」

 明霞も相槌を打った。

「そうそう! メイクも派手にならない様にして欲しいって言われるし、香水は弟が敏感だからつけたくないんです、だもん。会長の為に装う目的でここに来てるって感覚が全然ないのが可笑しくって…」

 若いエスティシャン達がきゃぴきゃぴ騒いでいるのを尻目に、桂英はそっと唐媛に囁いた。

「でもあの背中はお気の毒でしたねぇ。梅雨時や冬場なんか随分痛むでしょうに」
「本当に…。それにしてもあの会長にしては初めてまともなお嬢様を連れてこられたわ。今日帰ったら夫に報告しておかないと…」

 唐媛はそう言うと看板を一時クローズにして、頑張ったスタッフ達を遅い昼食に連れ出した。



「おい! 眠るか食うか、どっちかにしろ!」

 面白そうな尚隆の声が耳元で聞こえ、美凰ははっとなった。
 記憶がない…。
 なんて事だろう。
 どうやら食事の最中に、ほんの一瞬だけ居眠りをしていた様である。
 しかもナイフとフォークを持ったまま…。
 非礼とはしたなさに美凰は真っ赤になり、慌てて手にしていたカトラリーを置いた。

「ご、ごめんなさい! わたくし…」

 緊張の中、朝から6時間近くエステティックサロンで全身を触られて、血の巡りが良くなったせいか、美凰は嘗てない睡魔に襲われていた。
 遅い昼食に誘われ、尚隆と共に特別席について30分もたっていないだろう。
 まばらに食事や喫茶を楽しんでいるセレブな人々は、まるで映画から抜け出してきたような美男美女のカップルに目線が釘付けであった。
 美凰は人々の眼差しが居心地悪く、案内された奥まった席にそそくさと着いた。
 時間外であるにもかかわらず特製ランチが提供され、支配人と料理長が挨拶に出てきた所までは覚えている。
 中途半端な時間だというのに、尚隆が最高級のステーキを健啖に食しながら、明日からの行動予定を説明し始めた所からふっと眠気に襲われた。
 眼前の舌平目は殆ど手をつけられていない。
 という事は、尚隆の話の半分も聞けていないのだろう。

「あの…」

 耳まで真っ赤になった美凰が顔をあげると、尚隆は楽しそうに笑っていた。
 眩しい笑顔…。
 5年前を思い出させる、それは眩しく男らしい笑顔に美凰の胸はドキドキした。

「相変わらず退屈せん女だな…。君は…」
「…、すみません…。本当に、わたくしったら失礼な事を…」

 焦りの為に喉が渇いた美凰は水を飲もうと何気なくグラスを取り、慌てて口をつけて一口飲むと忽ち咽んだ。
 間違って甘い白ワインを飲んでしまったのだ。

「これ…、ワインですわ?!」

 尚隆はボルドーの高級ワインを口に含みながら、にやりと笑った。

「君が魚を頼んだからだろう。相変わらず酒は駄目なのか?」
「駄目もなにも…、ご勤務中でいらっしゃいますのに…」
「海外じゃ当たり前だ。それより少しは酒に慣れてもらわんと困るぞ!」
「……」

 お酒を飲めないと、何か困る事があるのだろうか?
 微かにマスカットの味が口の中に広がり、美凰の頭はくらくらし始めた。

「ど、どうしましょう…。わたくし…」
「おい?! どうした?!」
「なんですか…、め、眼が回って…」

 そういうと美凰はその場でぐったりとなり、近寄ってきた尚隆の腕の中に崩れてしまった。

〔身体が火照ってる。熱い…、とても熱いわ…〕

 素敵なスーツの上着が脱がされ、ブラウスのボタンが外されるとつい先程、羞恥しながら身につけたとても美しい、ライラック色の絹とレースの下着が男の眼下に晒された。
 スリップの紐が肩から滑らされると、繊細なレースの刺繍が美しいブラジャーが露わになる。
 男の手がスカートのホックとジッパーにかかり、楽しむように脱がせてゆく。
 夢現(ゆめうつつ)の状態で美凰がゆっくり目覚めたのは、柔らかなベッドの上だった。
 ぼんやり目覚めた双眸に、扇情的なナイトテーブルの灯りがしみる。
 反対側に頸を廻らすと、閉められたカーテンの僅かな隙間から夕日に照らされた高層ビルが眩しく見えた。

「いい眺めだ…。女の下着はこうでなくてはな…」

 背中がぞくりとする様な官能的な声に、美凰はもう一度頸を廻らしてはっとなった。
 眼前にバスローブ姿の尚隆が立っており、自らはいつの間にか下着姿にされている。

「あっ…」

 起き直ろうとした美凰は、素早くのしかかってきた尚隆にベッドに押さえつけられた。

「もう我慢できん…。今度こそ楽しませてもらうぞ…」
「いやっ! やめて! 離し…、んっ!」

 美凰の唇は男の激しいキスに捕らえられ、翻弄された。

「やめ…、やっ…」

 逃れようと頸を振ってもがくが、尚隆の唇は執拗に襲ってくる。
 美凰は両腕を伸ばし、懸命に逞しい胸や肩を打って押しやるが彼女の非力さではびくともしない。

「いい匂いがする…。薔薇の香りだな…」

 尚隆の唇と舌の妙技が柔らかな耳朶や耳の裏、頸筋を這い廻る。
 官能を呼び覚ます愛撫に、美凰は恐れおののいた。

「ここが、感じるんだな?」

 尚隆は美凰の性感帯を敏感に察知し、巧みに愛撫の枠を広げてゆく。

「あっ! やっ…」

 仰け反った瞬間にブラジャーの上から乳房を掴まれ、頂点を避けて円を描く様に揉まれる。
 ああ! なんということだろう!?
 めくるめくキスの雨、そして乳房に触れられただけで、秘密の箇処が喜びの蜜を溢れさせ始めている…。

〔なんてこと! 身体が…、いう事をきかない…。駄目よ…、絶対駄目っ!〕

 血液とは別のじんわりと濡れていくその感覚に、美凰は涙ぐみ下半身を護ろうと必死で身を捩らせた。
 尚隆の指が豊満な胸の谷間を弄り、手馴れた仕草でフロントホックを外した。
 豊かな美しい乳房がブラジャーから零れ、尚隆は繁々とその双顆を見つめて感嘆と同時に嫉妬の声を上げた。

「美しい! あの夜も思ったが…、本当に他の男に触れさせたのか?! くそう…、もう誰にも…、俺のものだぞ!」

 ふっくらした乳房がじかに揉みしだかれ、美凰の双眸から涙が零れた。
 身体が反応してしまうのが怖い。

「いや…、あっ! やめ…」

 尚隆の唇がつんと尖った薄紅色の二つの乳首に、軽いキスを交互に繰り返し、やがて口の中に含んで強く吸い立てる。
 柔らかな女体がびくんびくんと尚隆の腕の中で跳ねた。

「あふっ! うっ…、あ…」

 美凰の反応に尚隆はほくそえみ、更に乳首をいたぶりつつスリップの裾をたくし上げる。
 繊細なストッキングに手がかかり、びりっと破れる音が響いた。

「いやぁ…、やっ…、あっ!」

「亭主が死んで4年近く経つと聞いたぞ? お前の具合は気にせんからたっぷり楽しめよ。可愛がってやるからな…」

 恐ろしい言葉を囁かれ、ショーツを剥ごうとする男の手を感じた美凰は脚をばたつかせて暴れた。

「やめて! いやっ! やめてぇ…」

 その時…。
 無機質な着信音が鳴り響き、尚隆の動きは一瞬止まった。
 無視しようとするが、着信音は一向に鳴り止まない。
 美凰は頸を振って啜り泣き、膝頭を硬く閉じて慄えながら尚隆を拒み続ける。

「うっ、うっ、…、いや…、こんなこと…、いや…」

 その子供の様な拒否の仕方に、尚隆は舌打ちをした。

「…! くそうっ!…」

 尚隆は悪態をつきながら泣きじゃくる美凰の身体から身を起こし、うっとおしげに携帯電話を取った。

「なんだ! 朱衡!」
『お楽しみのお邪魔をした様でしたら、申し訳ございません』
「お前! 解っててやってるんだろう!」

 こんな声で電話に出られたら、誰だって震え上がるだろう。
 それ程に恐ろしげな、不機嫌な声だった。
 それなのに相手はまったく意に介しておらず、激怒している尚隆に向かって平然と話しかけている様子である。
 美凰はふらふら起き上がると慄える指先でブラジャーとスリップを元通りにし、シーツを身体に巻きつけてベッドから降りると、部屋の隅っこに座り込んでがたがた慄えていた。
 ワインで眼を回したのを好機とばかりに、ホテル内の部屋に連れ込んだのだろう。
 しかも豪華な室内の内装は、最上階のスウィートの様だった。

「いいだろう! 判った! すぐに戻る!」

 尚隆は乱暴に携帯電話を切り、再び悪態をついた。

「くそっ! こんな時になんでそんな問題を起こすんだ! あの莫迦どもは!」

 尚隆は口許を歪め、部屋の隅で啜り泣いている美凰に再び舌打ちをした。

「もうなにもせんから泣くな!」
「……」

 不機嫌な怒鳴り声に、嫋々とした肩がびくりと震える。
 尚隆は余裕がなくなった心を落ち着かようと、深呼吸しながら美凰に近寄った。

「今からアメリカに飛ばなくてはならん! 残念だが…、今日はここまでだ」

 そういうと尚隆はバスローブを脱ぎ捨て、慌てて衣服を身につけ始めた。
 真っ赤に泣き腫らした双眸にそそり立つ恐ろしいものが映り、美凰は顔を背けた。

「早く服を着ろ。毛氈に送らせる。明日からの行動は説明した通りだ…」
「……」

 会長である尚隆自身が渡米しなければならないとは、余程の緊急事態なのだろう。
 ほっとすると同時に、美凰は尚隆の身を案じてしまう自分が情けなかった。

〔こんなひどい目にあっても、わたくしは…〕

 不意に美凰の眼前にピンク色の可愛らしい携帯電話が差し出された。

「?」
「いつ戻れるか判らん。電話をするから持っていろ」
「……」

 シーツにくるまったままの美凰は、呆然と携帯電話を受け取った。

「出張から戻ったら、泣こうが喚こうがもう猶予はやらんぞ! 子供みたいな真似をして俺を拒否するな!」

 そう言うと尚隆は美凰を抱き締めた。

「…、はっ、離して…」

 慄えて身もがきする美凰の唇を、尚隆はもどかしげに激しいキスで塞いだ。

「いいか! 俺を拒否するな! お前は俺のものだ! 絶対に逃がさんぞ!」

 美凰はびくりと慄えた。

 男の言葉は、魔力の様に女の心を捉える。

「お前は俺のものだ!」

_22/95
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