美凰は尚隆の嘲笑を無視したまま、車外を流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
昨日、電話で話をした東京の美術商は、花總蒼璽の幻の遺作の存在に驚いていた。
それが本物なら好事家にとっては垂涎の的であるとも。
最低でも3千万から値が付くだろうから、まずは実物を見たいと申し出てきたのだ。
結局、今週の金曜日に大阪に来る用事があるので、ついでに寄って貰う事になった。
絵が売れて現金さえ手に入れば、こんなむごい仕打ちを我慢する必要もなくなる。
残金で要に手術を受けさせる事も可能なのだ。
裕福でなくとも穏やかな暮らしが待っている。
逃げるように東京を離れ、この大阪へやってきた。
今では街にも人にもすっかり溶け込み、もうずっと昔から住んでいるような心持である。
車は淀川大橋にかかり、美凰は乍驍宗との約束をふと思い出した。
「花火見物?」
ホテルからの帰りのメルセデスの中で、驍宗は沈んだ様子の美凰を気遣い、要と二人揃って今週末の花火大会の見物に誘った。
「あの、でも…」
美凰の狼狽に驍宗は笑った。
「わたしの同僚や看護婦達も一緒ですよ。まあ、急患で携帯が鳴らなければゆっくりと見物は出来ますがね…」
「うわーい! 先生、ほんとに?」
要のはしゃぎ様に美凰は軽く弟を窘めながら、バックミラーに映る驍宗を見つめた。
「でも…、ご迷惑では?」
「迷惑なら最初から誘いませんよ。それとも逆に、誘われたら迷惑なのかな?」
「いいえ! そんな!」
結局押し切られ、美凰と要は週末の土曜日、驍宗と共に大学病院が借り切っている高層ビルの一室で花火見物をする約束をさせられていた。
恋愛には疎い美凰だったが、流石に驍宗の想いには朧に気づいていた。
三十歳にして世界的に高名な外科医、真面目で礼儀正しく、優しい好青年で、なにより要に心から好かれている。
春などは驍宗の事になると、美凰の夫として一押しの男性だと常に大騒ぎであった。
驍宗自身を気に入っているという事もあったが、春は長年父に仕えていただけあってステイタスというものに非常に弱いのだ。
美凰が大学病院の教授夫人になる事が、最近の春の夢なのである。
完璧な乳母でその人となりは大好きだったが、人間として玉に瑕な部分も持っている事を美凰は否めないでいた。
実際、5年前に美凰が尚隆の事を愛していると言っても、春は両親に味方して、美凰の恋を認めてくれなかったのだから。
〔乍先生は、とてもいい方…。わたくしなどには勿体無い程素敵な男性だわ…〕
ステイタスではなく、乍驍宗と結婚すればそれは穏やかで幸せな暮らしが待っている。
それが、現実のものとして手の届く範囲にあることはよく解っていた。
だが…。
美凰は尚隆の熱い唇を思い返していた。
〔彼は今頃…、あの美しい女性と…〕
先程からじわじわ心をしめつける嫉妬に、美凰は叫びだしそうになるのを懸命に抑えていた。
帰宅して週末の予定を話すと、春は大喜びだった。
幸い、自分は田舎の親戚の結婚式に呼ばれていて土曜・日曜と留守にするので、坊ちゃま共々花火見物を楽しんでいらっしゃいませと春はにこにこ言い、驍宗と出かけるという話になると、浴衣ではなく夏の紗の着物をと慌てて箪笥の中を引っ掻き回し、母の形見を出して来て虫干しまでする始末だった。
大阪市内にある高級ホテルの会員制美容サロンにつれてこられた美凰は、従業員一同に恭しく出迎えられ、有無を言わさず唐媛と名乗る厳格そうな老婦人に引き渡された。
どうやらこのホテルも、尚隆の持ち物の様だった。
「お早うございます。会長…」
「あ、あの…」
「磨き上げろ。素材は最高の筈だ」
「畏まりました…」
「いくらかかっても構わんぞ。すべて終了したら携帯に連絡を寄越せ。迎えに来る…。ああ、それから…」
尚隆は美凰のひっつめた髪をじっと見つめ、軽く舌打ちをした。
「髪は絶対に切るな!」
そう言うと、靴音を響かせて大股にサロンを出て行った。
唐媛を始め、何人かの女性達が美凰の姿を頭のてっぺんから爪先までじろじろ見つめ、やがて羨望の眼差しでほうっと息をついた。
「確かに、素材は最高のご様子ですね? 会長にしては珍しくまともな方を、それもご自身で連れて来られ、おまけに注文まで明確に仰るなんて…」
美凰はどうすればいいか解らず、困惑していた。
こんな所に来るのは初めてなのだ。
「あ、あのう…、わたくし…」
唐媛はにこにこ微笑みながら、美凰の手を取った。
「さあ、それでは始めましょうか! 会長の厳命ですからね。お嬢さん、こっちへいらっしゃい!」
「あっ、あの…、ちょっと待ってください!」
焦る美凰の言葉は、誰にも聞いてもらえなかった。
「まずは服と下着の採寸を…、それからバスを使って戴きますから…」
「あっ、あの…、困ります! わたくし…、障りで…」
懸命に抵抗するのだが、女達は美凰の意向を無視したままてきぱきと動く。
「女性ばかりだからどうぞ気になさらずに! 桂英、この三ヶ所のブティックに連絡を取って。服に靴に鞄に小物…、それからランジェリーも。李花、バスの用意はよくって?。ネイルの準備もね。明霞、髪は長さを残して軽めにカットして、少しだけパーマをあてましょう。化粧品は肌に合うものを厳選して…」
有無を言わさず忽ち素っ裸にされ、スリーサイズが測られる。
「96・60・88っと…。すごっ! F75カップと…」
李花と呼ばれた女性が、羨ましげにクリップボードにサイズを書き込んだ。
「羨ましいくらいとても美しい胸をなさってますから、きちんとお手入れされませんとね。大胸筋を鍛える簡単なエクササイズをお教えしますから、今日から毎日なさってくださいよ。ブラジャーのサイズはきちんと守ってください。それとヒップもこのままをキープなさって戴かないと…。う〜ん…、となると大臀筋を鍛えるエクササイズも必要かぁ〜」
美凰は真っ赤になりながら、あてがわれたサロンネーム入りのバスローブをそそくさと羽織った。
「あっ、あの…」
「はい。じゃ、次、バスに浸かってください!」
「……」
素晴らしく良い香りのするジェットバスに浸からされ、化粧を落とされ、髪もほぐされて丁寧にシャンプーされた。
「その背中の傷、どうなさったの?」
訳のわからない緊張した状態だが、それでも一瞬だけ心地良さに浸っていた美凰は、不意に唐媛に聞かれてどきりとした。
「あの…、事故で…」
「随分、痛むのではありませんか?」
「ええ。と、時々…」
「……」
唐媛は痛ましそうに眉を顰めた。
「では今日の所は、背中以外のゴマージュとオイルマッサージね。それが終わったらもう一度バスを使って戴いて、次にお顔のお手入れに入らせて戴きますから…」
美凰はもうぐったりしていて、抵抗する力もなかった。
セレブな女性たちに『神の手』と呼ばれる美顔マッサージ技術を持つ桂英に、入念に顔を触られている間、あまりの心地良さに眠りかけた美凰は、先程の唐媛の言葉をふと思い出した。
〔そういえば、あの方…。わたくしの身体を弄んで、背中の傷に気づかなかったのかしら?〕
尚隆の性格からして、背中の傷を知っていながら何の質問もしてこないなんてありえないことだ。
これ程大きな傷の事なのに何も問いかけず、また傷つくような言葉も吐きかけられていない。
その事が美凰には不思議でならなかった。
「爪はもう少し伸ばしてくださいね。お手入れしづらいし、マニキュアが美しく見えませんわ。今日は付爪でごまかしておきますから…」
爪にヤスリをかけていた李花にふいに告げられ、焦った美凰は差し出していた手をさっと引っ込めた。
「あ、あの…、結構ですわ」
「は?」
「つ、爪にそんなことをすると、あの、お、弟のお弁当を作ってあげられなくなりますから…」
「……」
桂英と李花は吃驚した様に顔を見合わせた。
結局、その日の美凰は高級サロンで三時ごろまで過ごす羽目になり、信じられない程に恐ろしく高価な衣服に靴、バッグや細々したものまで与えられた。
尚隆が迎えに現れた時、家を出たときとはまったく違う自分が姿身に映っていた。
ジバンシィ最先端のデザインスーツは、女らしい身体の曲線を美しくあらわし、腰まである艶やかな髪は、長さはそのままに夏向きに軽やかなカットが施され、柔らかめのパーマでふんわり纏められている。
派手な化粧を拒んだら、明霞というスタッフに簡単だがメリハリのある美しいメイク法を教えてもらった。
普段と余り変わらない顔立ちだったが、明らかに垢抜けた様な気がする。
衣服にいたってはどれもブランドの一点ものを10着ばかり、衣服に合わせた絹とレースのランジェリーは総て上下対でフランス製と日本の有名メーカーのものが半分ずつ、イタリアブランドの靴まで用意されていて、荷造りされていた。
総て自宅まで届けるのだと言われ、春の驚愕する顔が眼に浮かんだ美凰の心は重くなった。
ただでさえ、借金を返済するのに四苦八苦しているというのに、買い与えられた品物の金額を考えただけで、借金に上乗せがかかった様な気分になり、美凰は身も竦む思いであった。
体調の事があったので、流石に全身のエステティックは避けてもらったが、無期限のプラチナカードを渡され、今週の土曜日から通うように厳命された。
何故か解らないが、単なるお客以上に随分気に入られてしまった様子で、女達4人に囲まれて、遠慮して来ない様な事があったら迎えの車まで寄越すと詰め寄られ、その勢いに美凰はこくこくと頷くしかなかった。
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