悪夢の始まり 1
 嫉妬と心ない尚隆の言葉が美凰の激情を駆った。
 キレてしまったと言っていいだろう。

「2千万、耳を揃えてお返しします! ええ、必ず! お金さえお返しすればあなたにあれこれ指図されるいわれはなくなりますもの!」

 先程まで萎れていた花顔が凛と言い放つ姿に、尚隆の倣岸な態度に僅かばかりの動揺が走った。

「昨日もそんな事を口走っていたが、確固としたあてがある様だな? あの医者か?」
「なにを仰っていらっしゃるの? 男性にはもう二度と頼りませんわ! もう二度と…」
「……」

 美凰はきっぱりとした態度でそう言うと、尚隆の横をすり抜けてテレフォンボックスから出ようとしたが、そう簡単に逃げられる筈もなく、男の手が伸びてきて、彼女の腕は再び掴まれた。

「話はまだ終わっておらんぞ!」
「おっ、お話する事なんて、ありませんわ! はっ、早くお部屋にお戻りになったら? 待っていらっしゃるのでしょう…。まっ、万里子さんって方…」

 尚隆は美凰の言葉尻に口角をあげた。
 5年たっても変わっていないどもり癖。
 美凰は緊張したり焦ったり、もしくは嫉妬すると、双眸を潤ませてどもる癖がある。
 今、眼前にある様子はまさしくその姿であった。

〔莫迦な! 今更…〕

 尚隆は揺るぎそうになる心を戒めた。

〔この女は俺を裏切った。約束の場所に現れず、電話も手紙も寄越さなかった。電話をかけても不通、手紙を出しても一通の返事すら寄越さず、金欲しさにどこかの野郎のものになった…。俺を傷つけた最大の裏切り者だ! 俺は絶対に赦さない!〕

「何を考えているのかは知らんが、どうしたってお前は俺から逃げられん! 昨日も言った筈だぞ。今の俺にはそれだけの力があるんだ。よく覚えておく事だな」
「……」
「月曜の9時、迎えに行く。先程も言ったが君の仕事は俺の秘書だ。その…、立派な身体で公私共に頑張って世話をして貰うぞ」

 そう言うと、尚隆は喘いでいる美凰の唇に激しいキスをした。
 拒もうと逞しい胸を押しやるが、却って強い腕に抱き締められ、身動き出来ない。
 男の舌が巧みに女の口腔を愛撫する。
 美凰の膝はがくがく震え、立っていられない程だった。

〔身体が勝手に応えてしまう…。駄目っ! こんなこと駄目よっ!〕

 背後の公衆電話機が背中に押し付けられ、傷に痛みが走ったお陰で、なんとか抵抗しきる事が出来た。

「うっ!」

 陶酔しきらない美凰に焦れた尚隆の歯に甘く噛みつかれ、芙蓉の様な唇は忽ち腫れ上がってしまった。
 罰する様なキスが終わって身体を離すと、尚隆は肩で息をしながら懲りもせずにやりと笑った。

「淫らな顔をしているぞ。俺が欲しくてたまらないって顔だ。まったく感度がいい身体だな…」
「……」

 心臓が止まってしまいそうで、尚隆の言葉に返す言葉すら浮かんでこない。

「口紅、剥げ落ちたな…。もう一度塗りなおして来ないと、あの男が不審がるぞ?」
「……」
「本当に、俺と部屋へ来ないのか?」

 囁くように誘う悪魔の声に、美凰は顔を背けた。
 おぞましくも心のどこかで、尚隆の身体を望んでいる自分が居る事を、気づかせられてしまった。
 自分の中に居る欲望の芽に、美凰は恐れおののいた。
 無言の拒否の態度に尚隆は肩を竦めた。

「残念だ。では、予定通り万里子で我慢するとしよう。お前の感度に比べれば…、かなり落ちるが、あれもなかなか楽しませてくれる女だからな…」
「! わたくしと、こんな事をなさった後で…、あの女性を?」

 それ以上の言葉を口にする事は出来なかった。

「言ったろう? お前は昨夜から使用禁止なんだから、他の女で用を足すしかなとな!」

 尚隆はそういい残すと、言葉に出来ない嫉妬に身悶え、涙を浮かべてぐったりとしている美凰をテレフォンボックスに残したまま、くつくつ笑いながら立ち去った。



 翌週の月曜日、朝9時きっかりにアパートの前に豪華なロールスロイスが停車した。
 後部座席の扉を毛氈が恭しく開けている。
 その様子に、要も、乳母の春も眼を丸くしていた。

〔一体、何台車をお持ちなのかしら? あれだけの車を幾台もお持ちなら、わたくしの借金なんて大海の一滴の様な気がするわ…〕

 ついつい、そんな事を考えながら美凰は、平凡なチャコールグレーのスーツの皺を伸ばし、綺麗に磨かれた靴を履くと、呆然としている二人に声をかけた。

「じゃ、行ってきますね」
「いっ、行ってらっしゃい…」

 二人には嘘をついて事情を説明してある。
 先週の終わりに異動の連絡が入り、美凰は親会社の会長秘書に抜擢されたのだと。
 要は姉の出世?を素直に喜んでいたが、春は疑わしげに美凰を見つめていたのだ。
 だが眼前の礼儀正しそうな運転手と車を見れば、美凰が嘘をついていないという事が納得出来る。
 大切なお嬢様に再び開かれた上流社会への扉を予感し、嬉しさのあまり春は目頭を熱くしていた。
 美凰がおどおどと車に乗り込んでいることなど露知らず、春は要の手を取り、にこにこしながら言った。

「坊ちゃま、今日は鯛のお頭付きでございますよ!」

 要は可愛い顔を歪めた。

「うへぇ…。ぼく、お魚嫌い…」
「なんですか! 水槽泳いでるのは大好きなのに…。お祝いなんですから好き嫌い言っちゃいけませんよ!」
「お祝いならおいもの煮っ転がしでいいよ。ぼく、ばあやの煮物好きだもの」

 にっこり笑われると、春は年甲斐もなく赤くなった。
 可愛い要が本当の孫の様に思えて仕方がないのだ。

「しょうがない坊ちゃまですねぇ〜 よござんす。お芋とお頭にいたしましょ!」
「だからお頭はいいんだってば〜」
「駄目でございます! お野菜ばかりじゃ大きくなれませんよ!」
「大丈夫だよ〜。ごはん食べてるもん」
「いいえ、いけません! お米だけでも駄目なんでございますよ!」

 毎日繰り返されている会話だが、二人とも何故か今日はとてもうきうきする。
 二人は笑いながら家の扉を閉めた。



 車の中には高級ブランド仕立てのスーツに身を包んだ尚隆が、長い足を組んで座っていた。
 手には何社かの新聞が広げられている。

「お、おはようございます…」
「ああ…」

 尚隆は美凰の上から下まで一瞥をくれると、不機嫌そうに低く唸った。
 美凰がおどおどと座席におさまるとドアが閉められ、静かに車が出発した途端、尚隆はインターフォンのスイッチを入れた。

「毛氈、午前の予定は総てキャンセルだ! 白沢と朱衡にそう連絡しろ。それからリッツに向かえ。唐媛の所だ!」
「えっ?! かっ、会長、それは…」
「なに、今日はさほどの予定はない筈だ。このままではとてもじゃないが俺の特別秘書として紹介できん! 先に美容院に放り込んで俺の女らしく仕上げて貰わんと話にもならんぞ!」
「…、畏まりました」

 毛氈の気の毒そうな声に、美凰はますます真っ赤になって俯いた。
 この姿はそんなにもみすぼらしいだろうか?
 秘書勤めをすると言われたから、真面目なスタイルで出てきたのに。
 多少は時代遅れかもしれないが、スーツはきちん手入れをして大切に着ているし、ブラウスだって新しいものだ。
 化粧も目立たない程度だし、髪も邪魔にならないようにほつれ毛一筋なく、アップにひっつめている。
 靴だってちゃんと磨いて光っているのに…。
 朝一番から早速傷つけられ、言葉も出ない美凰に断りもなく煙草を吸い始めた尚隆は、再び新聞に眼を落とした。

「えらく静かだな? 反撃せんのか? 一昨日の勢いはどうした?」
「なにも申し上げる事はございませんわ」
「聞かないんだな? 俺があの後、万里子とどんな風だったか…」

 美凰の肩がぴくりと戦慄した。
 尚隆と美女のベッドシーンを何度も想像しては、暗澹と胸にかぶさってくる嫉妬の思いを押さえつけるのに1日を要したのだから。

「聞いてどうしろと仰るの? あ、あなたは楽しまれたのでしょう。だったらそれでいいじゃありませんか。わ、わたくしには関係ありませんもの…」
「…、ふうん。そのわりにどもっているな?」
「……」

 尚隆は面白そうにくつくつ笑っていた。

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