既に切れてしまっている携帯電話を美凰はじっと見つめた。
『愛してる…』
この世の総ての幸せが、我が身に降り注いでいるかの様な微笑を浮かべた18歳の自分がぼやけてゆく…。
尚隆が「愛している」といってくれたのは既に遠い過去。
愛する人の為に初めて購入した携帯電話はあの日、あの事故の時に粉砕された。
5年経ってもまだ痛む、心と背中に傷を負ったあの日に…。
幸せな夢から、美凰はぼんやりと目覚めた。
現実の世界に…。
「莫迦ね…。未だにあの方を愛しているなんて。報われる事はもう二度とないのに…」
ぐるりをそっと見廻すが、寝室に尚隆の姿はなかった。
〔一体、何時なのかしら?! あっ?!〕
下腹部の痛みとある感覚に、美凰はシーツにくるまったままなんとか立ち上がる。
まだふらふらするが、薬が効いているのか先程よりは少しだけましな気分であった。
足許に落ちていた自分の下着や洋服を手に取ると、顔から火の出る思いだった。
清潔ではあるが、とても質素な白い下着を見て彼はなんと思ったのだろう?
そして、そんな事を考える自分が羞かしくも情けない…。
〔わたくしは、あの人に…、愛もなく身体を奪われた。それも意識の無い間に…〕
怒りはなかったが、虚しさはあった。
零れた水は元には戻せないのだ。
どんな理由があろうと、結局尚隆を裏切った自分に非があることに間違いないのだから…。
そして、彼を愛している自分がどんな反応を示したのかを知るのが怖かった…。
弱々しく頸を振り、先程尚隆が出入りしていたと思しきバスルームに向かおうとした美凰は、今の自分にはバッグの中の小物入れが必要である事を思い出した。
〔あっ…、バッグが…〕
美凰はきょろきょろと自分のバッグを探したが、記憶が蘇り、キッチンに置いたままであることを思い出した。
リビングに通じるドアに手をかけようとした美凰は、扉の外で怒鳴り声が響いているのにびくりとなり、そっとドアを開けて様子を窺った。
先程、視野に入ってきたバスローブ姿の尚隆が缶ビールと煙草を片手にソファーに腰掛け、美凰の鞄を開けて中身を点検していた。
その向かいに金髪の少年が腰に手を当てて立っている。
背姿しか見えないが、要より4、5歳年長ぐらいの子供の様であった。
「あ〜あったくよ! 毛氈の奴が慌てて電話してくるもんだから…。尚隆、いい加減にしろよ! とーしろーの女を強姦する気だったのか?!」
「言葉に気をつけろよ、六太。俺は強姦する気なんぞ、これっぽっちもないぞ!」
尚隆は美凰の手帳を流し見ながらぞんざいに答えた。
「毛氈の言い方じゃいかにもって感じだったぞ。仕方がないからおれ様が様子を見に来たんじゃねーか! つまんない悪さはやめて、言う事きく女とだけ楽しくやれよ…」
「……」
六太と呼ばれた少年は、肩を竦めて溜息をついた。
「はぁ…。とにかく頼むぞ。毛氈、下に待たしてあっから女は返せよ。ここはアメリカじゃないんだからな。世界に名高い小松財閥会長が婦女暴行なんて騒がれたら、えらい事だぞ…」
尚隆は六太の言葉に受けたらしく、楽しそうに笑った。
「莫迦莫迦しい! 心配せんでも強姦などといって騒いだりせんぞ。そうだな、美凰?!」
立ち聞きしていたのはお見通しだったらしい。
美凰はふらつく身体をドアで支えながら、そっと顔だけをリビングに見せると金髪の少年にそっと会釈をした。
異常な状況下なのに、どうしてこんな行動が取れるのだろう?
美凰は自分が不思議でたまらなかったが、眼前の少年の美しさには眼を逸らせないものがあった。
〔なんて綺麗な男の子なのかしら?!〕
吃驚したのは六太の方もである。
熱のせいで上気して潤んだ双眸ながら清々しく澄んだ瞳、今まで見た事のない花の様な面差しに六太の胸はきゅんとなった。
〔なんて綺麗な女なんだ?!〕
「俺たちのSEXは合意の上だ。今後もな…。そうだな?! 美凰」
美凰は明眸を見開き、尚隆の生々しい言葉に顔を背けた。
「…。あの、子供さんの前でそんな事を口になさるのは…」
「こっ、子供さんって?! おれの事かぁ〜?!」
六太はといえば、頑なな態度の尚隆と眼前の哀しげな美女を訝しげに何度も見交わす。
確かに、今までの尚隆の相手には見られないタイプの女に違いない。
毛氈が慌てて救援を求める筈だ。
六太の胸ですら動悸を打ってときめいているのだから。
「あの、わたくし…、バッグを…」
「相変わらず綺麗に整えられた中身だな」
「中を、お調べになったのですか?!」
美凰の咎める様な視線を無視すると尚隆はつかつかと美凰の傍に歩み寄り、小物入れを熱っぽい繊手に握らせた。
「これが必要なんだろう?」
「……」
彼は自分の体調の変化を知っている。
知っててからかっているのだ。
美凰は顔を真っ赤にして小物入れを受け取ると、そのままドアを閉めようとしたが尚隆の手に引き止められた。
「今度から、ベッドの相手をする時はあんな女学生みたいな下着はやめてくれ。金は充分用意してやるから、俺をそそる様な派手な女らしいものを着て来い」
「……」
「それとも俺が用意してやろうか?! フランス製のそれはセクシーな…」
尚隆の言葉を最後まで聞かずに、美凰は俯いたままふらふらとバスルームへ向かった。
傷ついた表情を見られまいとして…。
そんな二人の姿を、六太は複雑な表情で黙って見つめていた。
「週明けの午前9時きっかりに迎えに行く。俺自らが新しい職場に案内してやろう」
「……」
着替えを終えた美凰は、同じく着替え終えて彼女がバスルームから出てくるのを待っていた尚隆にそう言われ、再び部屋の外に連れ出された。
今度は六太という少年も同行している。
地下駐車場には大型のリムジンが毛氈という運転手と共に待っていた。
「お嬢様、ご無事で?!」
「毛氈さん…」
美凰は無理に微笑んでみせた。
「毛氈、今回の件は痛いぞ。給料から大幅に差っ引かれる事を覚悟しておくのだな?!」
不機嫌そうな尚隆の声に、毛氈は溜息をついて俯いた。
「六太、お前は前に乗れ」
「あんだよ、お前っ!」
「俺はまだこの女に話がある…」
尚隆の冷たい声に、美凰は溜息をついた。
車は美凰の自宅に向かって走っていた。
時刻は既に11時を過ぎている。
豪華なリムジンの後部座席で、美凰はぐったりとシートに沈んでいた。
意識のない間に起こった出来事、そして狂った月経…。
全身が痛みと苦しみに限界の声を上げている。
心はおそらく、もう暫くして一人になった時に悲鳴を上げるのだろう。
この5年の間に、一人で堪える事には慣れたのだから…。
顔を上げると、煙草を吸いながら尚隆がじっとこちらを見つめていた。
〔そういえば話があると…〕
「お兄様方の事はお気の毒でしたわ。確か、飛行機事故に巻き込まれたとか…」
「……」
「あなたは…、あれからすぐご結婚なさって、アメリカでお暮らしだと伺いました」
「離婚した。三ヶ月ももたなかったな…」
吸った紫煙と共に淡々とした言葉が吐かれる。
「わたくしの…」
「自惚れるな! 君のせいなんかではないぞ!」
ぴしゃりと言い切られ、美凰は哀しそうに俯いた。
「……」
高速道路の灯りが沈んだ花顔の頬をオレンジ色に点滅させる。
「君はどうだったんだ?」
ふいの問いかけに、美凰の肩がぴくりと慄えた。
「わたくし?…」
会話は聞こえないものの六太と毛氈は眉を顰めつつ、しきりに後部座席を気にしていた。
「過去に興味はないと…、そう仰いましたわ」
「……」
「夫との事は、お話したくございません。あなたは借金のカタとしてわたくしを好きになさった。それだけなのでしょう?」
「……」
美凰は未だに手離せずにいる亡き父の最後の遺品の事を考えていた。
18歳の美凰をモデルに描いた『雪月花』。
収集家に売れば、おそらくは3千万はくだらないだろう…。
どんなに苦しくとも、あれだけは手離さずに今まで持ち続けていた。
それはひとえに美凰自身の我侭であった。
尚隆と愛し合っていた頃の幸せな自分の姿がそこにはあったのだから…。
「もし…、もし現金で2千万、ご用意出来たのなら、あなたはわたくしの事をそっとしておいてくださるの?」
煙草を挟む指先が僅かに慄えた。
「あてがあるというのか?」
「……」
「そうだな。考えてやってもいいが…」
尚隆は卑猥な眼が舐めるようにこちらを見つめてきた。
「まあ…、利子のことも考えてもう少し楽しませて貰うとするかな?」
美凰の身体が微かに顫えた。
「卑怯な…。人を脅迫なさって恥ずかしくないのですか?」
尚隆はただ肩を竦めただけだった。
「俺は亭主より良かったか?」
ふいに問いかけられ、美凰は訝しげに尚隆を見た。
質問の意味が解らない。
「……」
「身体は楽しんでくれていた様に思うが?」
尚隆は窓の外を見ながら意地悪そうに呟く。
「…、意識の無い間のことを仰られても、解りませんわ…」
真っ赤になって美凰は顔を背けた。
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