恋するきっかけ 6
 月曜から不貞腐れた様子でなにやらキーボードを叩いている小松尚隆の事を、同僚の佐竹と梅田が3時のコーヒーブレイク楽しみながら噂のネタにしていた。

「小松の奴、最近様子可笑しいな? 心ここにあらずって感じでさ…」
「そうだよな。今朝の会議も酷いもんだったし…。さては昨夜、彼女となにかあったのかな?」
「彼女って? あの女子大生か? すっげーナイスバディの…」
「お前、その言葉は死語だぞ?! 違う違うっ!」
「何? じゃ銀座のあのホステスか? あの女は小松の為に自分でボトル買って入れあげてるて聞くぜ」
「それも違う…」
「じゃ、また新しい女かぁ〜? なんで小松ばっか…」

 羨ましげな声に佐竹は頷き、梅田の耳元でそっと囁いた。

「今度の相手は、この春に高校を卒業したばっからしいぜ!」
「えぇぇぇ〜!!!」

 羨望の眼差しで同僚に睨まれている事など気にも留めず、尚隆は真剣な面持ちでインターネットの画面を食い入るように見つめている。
 佐竹と梅田は偵察の為にこっそりと尚隆の背後に近づいた。



 尚隆と美凰の秘密裡の交際が始まって三ヶ月余りがたつ。
 最初はその美貌に心惹かれてデートを申し込んだものの、純情可憐な箱入り娘の美凰との付き合いは新鮮な驚きの連続で、尚隆は程なく真剣に彼女を愛する様になっていた。
 今まで垢抜けた女たちとばかりお気軽に付き合ってきた尚隆にとって、女とは連れて歩くのにステイタスな存在でなければならなかったし、肉体上不可欠なものであったので、愛や恋などの感情に重きを置いた事などなかった。
 縛られる事なくいい女たちと楽しく遊べて、楽しくベッドイン出来れば満足であったのだ。
 恋愛感情など初めての想いだったので、自分のペースで事を進められない尚隆の苛立ちがついに爆発してしまったのが、昨日の事である。
 涙を浮かべて哀しそうに俯いたその時の美凰の顔を思い出し、尚隆は苛立たしげに煙草を銜え、火をつけた。

〔門限は8時…、電話もできんとくる。くそっ! 俺は毎日でも逢いたいんだぞ…〕

 しかも無意識に美凰への義理立てのつもりか、この三ヶ月は他の女に近づいていないのだ。
 尚隆にしてみればこれは大変な記録であった。
 眼の前の携帯を見つめ、なかなかかかってこない電話に昨日の後味悪い別れを思い出した。



「なんで外泊ができんのだ?! たった一日、友達の処に遊びに行くと言えばいいだけの事じゃないか?!」

 大きなお邸から少しだけ離れたいつもの場所に車を止めた尚隆は、憤慨した様子でハンドルを叩いた。

「そんな無茶を仰らないで…。両親に嘘をつけと仰るの? そっ、それにディズニーランドに遊びに行くのにどうして外泊しなければなりませんの? ここから車で1時間もかかりませんのよ」

 びくりとなった美凰は、なんとか尚隆の機嫌を直そうと必死で言った。

「門限8時では花火だって見れないぞ! 見たいんだろう?!」
「門限ならなんとかお母さまにお願いして…」
「なら1日ぐらいの外泊も、お母さまにお願いできないのか?」

 尚隆の意地悪い言い方に、美凰は傷ついた様な顔で俯いた。
 先週のデートの時には自宅マンションに誘われたが、部屋に入る事を激しく拒んだ事で彼を不機嫌にさせた。
 いくら箱入り娘でも、男女の仲の事は朧げに解っている。
 尚隆の言う外泊がどういう意味であるかも…。
 作り話をすれば、家に誤魔化しはきく。
 嘘をつくことに勇気がないのでなく、尚隆の希望を受け入れる事に勇気がないだけなのだ。
 それは乙女のごく自然な本能であった。
 美凰はしょんぼりした様子でドアに手をかけた。

「ごめんなさい。今日はとても楽しい一日でしたわ…」
「……」

 返事のない尚隆の様子に美凰は溜息をついた。

「ごめんなさい…。わたくしもうお電話差し上げない方が…、あっ!」

 その言葉に尚隆はかっとなり、思わず美凰の手を掴んで自分の方に引き寄せると、脅えて声も出せないで居る美凰の唇に唇を寄せた。

「いけませんわ…、んっ!」

 いつもキスしたいと望んでいた柔らかな唇には、優しい珊瑚色のグロスがほんのりと可愛く色づいている。
 甘いラズベリーの香が微かに尚隆の鼻孔に漂った…。
 息も詰まりそうな初めてのキスに美凰は眼を閉じていた。
 心臓がどくんどくんと早鐘を鳴らしている。
 いけないことだと解っていながら、甘い喜びに心のどこかが顫えている。
 貪るように激しく唇が吸われつつ、男の手が服の上から胸の膨らみに触れた途端、恐怖心が浮かんできた。

「んぅ…、! い、いやっ!!」

 はっとなった美凰はいやいやと繊頸を振って尚隆の愛撫を拒み、渾身の力を振り絞って男の身体を押しやるとドアを開けて車外に出た。

「美凰っ!」

 肩すかしを食らった様な恰好の尚隆は、かすれた声で美凰を呼んだ。

「ごめんなさい! わたくし…、あの、おやすみなさいませ…」

 美凰は顔を真っ赤にして消え入りそうな声でそう呟くと、呆然としている尚隆から逃れる様にそそくさと家に入っていったのだ。



 憤慨した様子で帰宅した尚隆はウイスキーを飲んだくれた挙句、誰でもいいからと手帳にある女の電話番号をダイヤルして部屋へ呼び寄せた。

〔くそっ! バージンなんかくそ食らえだ! お嬢様に義理立てする必要なんかないぞ! 俺は俺のやりたいようにやるだけだ!〕

 シャワーを浴びた後、室内をうろうろしてセクシーな女の到着を待ち焦がれながら、尚隆は飲み干したビールの空缶をぐしゃりと握りつぶした。
 所が、いそいそと現れて嬉しそうにしなだれかかってくる女の真っ赤な唇にキスしても、まったく興奮しないのだ。
 脳裡に浮かんでくるのは、無理矢理のキスに涙を浮かべていた花の様な面影。
 おそらくは初めてのキスだったに違いない柔らかな唇…。

〔そうだ…。美凰はファーストキスだったのに、俺は一体何やってるんだ?!〕

 無意識に自分の口を手の甲で拭うと、真っ赤な口紅がべったりと手に認められ、尚隆は気分が悪くなった。
 手の甲からはラズベリーではなく、シャネルの香りが漂っていた。

「なんで…、苺の香りじゃないんだ!?」
「えっ? なあに? えっ! ちょっと?! なんなのよ?! 尚隆…」

 気が付くと服を脱ぎかけている女の腕を掴み、尚隆は玄関にむかってずんずん歩いていた。

「俺はシャネルの匂いは好かん!」
「何言ってるのよ! あんたが好きだって言って買ってくれたんじゃないっ!」
「煩い!」
「何怒ってんのよ! 急な呼び出しに折角来てあげたのにっ! もうっ、痛いってば!」

 喚く女を無視したまま、財布から一万円札を取り出すと尚隆は女に握らせた。

「タクシー拾って帰れ。じゃあな…」

 そうして、玄関のドアを開けた尚隆は女を追い出してしまっていたのだ。
 廊下から響く女の罵声を無視したまま、酔いどれた尚隆は枕を抱いて眠りに落ちた。



 拒まれた女の為にこうやってインターネットでディズニーランド情報なんぞをチェックしている自分が情けない。
 背後に素っ頓狂な声が上がり、尚隆ははっとなった。

「小松〜 お前、なんでディズニーランドの公式HPなんか見てんの?」

 尚隆は溜息をついた。いやな奴らに見つかってしまった。

「五月蝿い! 放っておけ!」
「やあやあ! 玄人主義の小松君が遊園地ですか? お相手はどこのお嬢様ですか〜?」
「女子高生じゃないの〜ん? 素人娘に手を出したら小松の名折れだぜ〜 銀座の麗子ちゃんが泣くぞ〜」
「……」
「なあ、なんでそんなに機嫌悪りーんだよ? 白状しろや。素人女子高生、モノにしたんだろ?!」
「制服脱がせて怒られちゃったか? もうやったんだろ? どーだったんだよ?」

 尚隆はぎりぎり歯を噛み締め、拳を握って同僚を睨めつけた。
 とその時…、携帯電話が鳴った。
 慌てて手に取るが、美凰からの公衆電話ではなく知らない携帯番号からだった。
 尚隆はうっとおしそうに電話をとった。

「はい?」
『…、あの…、美凰です…』
「えっ?…」

 確か番号は携帯だった筈…。

『き、昨日はごめんなさい。わたくし取り乱して…、とっても失礼な事を…』
「いや、いいんだ。携帯…、買ったのか?」
『そうした方がいいと、思いましたので…、今朝、お買い物の途中で…』
「そうか…」
『あの、初めてお電話差し上げるのですけれど、可笑しくございません?』
「大丈夫だ。よく聞こえる…」

 彼女はいつも、家の者に見つからないように公衆電話から電話をかけてくる。
 気づいてやるべきだった。自分が買って渡しておいてやれば良かったのだ。

〔俺は間抜けだな…〕

 美凰はあまり物を欲しがらない性質(たち)で、デートの最中に何かを買ってやろうとしても、いつも笑って頸を振ってばかりいた。
 いつも付き合っている女達とはまったく違うタイプなので、余計に調子が狂っていたのかもしれない。

「昨日は…、悪かった」

 背後で聞き耳を立てている二人の同僚は、初めて聞く尚隆の沈んだ声に呆気に取られていた。
 あの小松尚隆が女に謝っている…。それも嘗てない低姿勢で…。

『あの、実は6月9日が…』
「ああ…、うん…、本当に?! 大丈夫なのか?! ああ…」

 沈んでいた尚隆の顔が少しずつ笑顔になってゆき、いつもの自信満々な表情になりつつある。
 その様子を佐竹と梅田はコーヒーの入った紙コップを手にしたまま、呆然と見つめていた。
 尚隆の頭からは背後に立っている同僚の事など、すっかり吹き飛んでいた。

「それじゃ、週末に計画を立てよう。ああ…、じゃ、いつもの場所で…。あ、美凰…」
『……』
「愛してる…」

 思わず佐竹の指に力が入り、コーヒーカップがぐしゃりとなった。

「うわおっちぃぃぃ!」

 コーヒーまみれになった手の熱さに佐竹は悲鳴をあげ、梅田は慌ててハンカチを差し出した。

「さっ、佐竹っ! 大丈夫か!?」
「聞いたか?! 梅田?!」
「うん…、聞いた…。愛してるんだって…」
「…、嘘だろ?! マジかよ?!」

 尚隆は嬉しそうに電話を切ると、即座に美凰の携帯番号を登録した。
 そうして、背後に突っ立っている間抜け面をした同僚に再び気づき、訝しげに声をかけた。

「なんだ? お前らまだ居たのか? しょうがないな〜 今夜は俺が奢ってやるから、好きなだけ呑んで騒いでいいぞ! だから今はあっちに行ってろよ。俺は忙しいんだ!」
「何がそんなに忙しいんだ?」

 梅田がおずおずと聞くと、尚隆は顎をあげて威張った様子で言った。

「知ってるか? ドナルドダックの誕生日は6月9日なんだぞ。特別イベントがあるから早く予約をしないと色々大変なんだ…」

 今度は梅田のコーヒーカップが潰れ、黒い雫がぽたぽたと床に零れた。
 佐竹が慌ててハンカチを差し出すが、梅田は熱さすら感じられない様子であった。

「ドナルド、ダック…、ですか?」

 満面の笑顔に嬉しそうな様子の尚隆を、二人は呆然と見つめていた。

「だから6時までは俺の邪魔をしないであっちに行ってろ! 俺は今から色々と忙しいんだ! 仕事なんかしてる場合じゃないんだからな!!」

 尚隆はそのままにこやかな様子で、再びインターネットに没頭し始めた。

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