家の近所では誰に見られるか解らないと思った美凰の心中を図り、彼女を車に乗せて世田谷方面に向かった尚隆は、偶然眼にした瀟洒な喫茶店の駐車場に車を停めると、困惑する美凰を促して店に入った。
「少しだけ、時間をくれないか?」
「……」
「夢を壊すようで悪いが、俺は君が望むようなロマンチックの塊じゃないし、普通の男は大抵が物語の主人公の様な格好いいもんじゃない。だが…」
尚隆は俯いたままの美凰をじっと見つめた。
「俺は君と付き合いたい…。価値観の違いなんて、直ぐに埋まると思うのだが?」
「……」
「君は、俺のことが好きだと言ったな?」
美凰は耳まで真っ赤にして更に小さくなる。
「あの…、お、お誘いを受けて、と、とっても嬉しかったんです…。あ、あなたは誰が見てもとても素敵な男性で…、さ、最初は戸惑いましたけど、でも、今日お逢いするのを、と、とても楽しみにしていて…」
「……」
「わたくし、夢見がちな子供ですから、あなたにご迷惑をお掛けするのが辛くて…。それに、夢が壊れるのもとても哀しい…」
「傷つくのが恐い?」
美凰はゆっくりと頷いた。
「あ、あなたは…、恐くありませんの?」
「……」
そのストレートな言葉は尚隆の心を貫き、彼は動揺を見透かされまいとことさら厳しい表情になった。
ウェイトレスが注文したレモンスカッシュを運んできたので、話は中断された。
美凰はハンドバッグの中から大き目のハンカチを取り出し、膝の上にかけた。
無礼な事には違いないのだが、尚隆は興味深げに美凰のハンドバックの中を覗き込んだ。
「ずっと思っていたんだが…、凄い中身だな?」
「?、なにがですの?」
「いや、君のバッグの中身さ」
「?」
ハンドバッグの中身が乱雑になる事を嫌って、美凰は自分で作った小物入れに財布、手帳、万年筆、簡単な化粧道具にティッシュやハンカチなど、をきちんと区分けしてしまってある。
尚隆はその事を言っているのだ。
「その小物入れ、どこで買ったんだ? ブランド物?」
「じ、自分で作りましたの…」
「自分で?」
「はい。亡くなった母の残していたはぎれを使って…」
美凰は感心したような尚隆の視線から隠すように、急いでバッグを閉めた。
「そのバッグは? 随分手入れしているんだな?」
「今の母が高校入学のお祝いに買ってくださいましたの…。とってもセンスの良い方で…。巷で流行っているものには程遠いですけれど、このモラビトはわたくしもとっても気に入ってて、お手入れを欠かしませんの…」
「……」
花柳界出身の義母だけあって、確かにセンスがいい。
高級で洒落たバッグを娘に買い与えている。
継母ではあっても仲のよさが窺える様な気がして、尚隆はレモンスカッシュに口をつけている美凰をしげしげと見つめた。
〔彼女の性質のせいだろうな…。おそらく…〕
高貴な血筋でありながら、美凰は今まで一度としてその出生を鼻にかけて喋った事がない。
寧ろその出生から生じる、世間に対する自らの無知度をひたすら恥じ続けていた。
〔こんな女、今まで逢った事がない…〕
「幼い頃に亡くなった母から教わりましたの。バッグは女性にとって身体の一部の様なものですから、粗末に扱うと、女として何か大切なものが欠けているのではないかと看做(みな)されますよと…。よく解らないのですけれど、ものは大切にしろという事ですかしら? ものに執着するのは大抵女性の方だと聞き及びますし…」
含羞の表情でぽつりぽつりと話す美凰に、尚隆は眼からウロコの状態であった。
おぼろげながら蘇る記憶の断片。
自分を捨てた母が常に持っていたバッグは高級ブランド物だったが、中身はメチャクチャだった。
今まで付き合ってきた女達も大抵がそうだ。
趣味は悪くないし、持っているものは総てラインを揃えた超一流物。
それなのに、バッグの中身はゴミ箱も同然だった。
財布もコンパクトも汚れたハンカチも口紅を拭いたティッシュも、予定がぎっしり書き込まれた手帳やペンも、買い物をしたレシートも、みんなごちゃ混ぜに入っていた。
中には食べかけのチョコレートやガムの紙屑まで散乱しているものも見たことがある。
高級ブランドの上、何年も使ったとは思えないバッグは中身も外見も汚れっ放し。
襞や留め金も汚れ放題だった。
そしてそんなバッグを使っている女達同様、自分もその女達をバッグの様に扱っていた。
ごちゃ混ぜの汚れも気にせず、とっかえひっかえ買い換えては気に入らなくなればぽいっと捨てる。
気の向くままに刹那の楽しみに溺れていた…。
そう、美凰とのデートに出かける直前でさえ…。
眼前の流行も廃りもない美しいクラシカルなバッグは、留め金すらきちんと磨かれている。
持ち主の性格が現れているかの様に、使い込まれる程につややかな輝きに満ちていた。
「すまない…。俺は、君に対して本当に失礼な事をしてしまったようだ…」
「?」
美凰は解らないといった顔をして、不思議そうに尚隆を見た。
「……」
〔そうだ…。俺は、彼女には相応しくない。住む世界が違う男なんだ…〕
慙愧というものを初めて知った尚隆は、酸っぱそうな顔でレモンスカッシュをがぶ飲みした…。
自宅まで送るといった言葉を柔らかく拒絶した美凰の為、尚隆は不承不承に最寄駅まで送って行った。
眼前にある商店街を抜ければ、直ぐに駅がある。
「あのう…、有難うございました…。ここからは歩きますから…」
「車は路上駐車する。そこがパーキングだから…」
「あの、でも大丈夫ですわ。商店街を抜ければ駅ですし…」
「駅まで送る…」
「……」
頑なにそう言って車を停車した尚隆に、美凰は溜息をついた。
レモンスカッシュを飲み終わった後の尚隆は、喫茶店に入った時とは打って変わって、もう一度付き合って欲しいとは言わなくなった。
心のどこかでホッとすると同時に、美凰はとても寂しかった。
〔やっぱり、夢を見ては駄目なんだわ…〕
尚隆とは住む世界が違うのだ。
自分は彼の様な大人ではないし、例えお付き合いをしたとしても、きっと彼に恥ずかしい思いをさせ、飽きられて哀しい思いをするだけなのだ。
傷つくのが恐い…。
他の女性に取られるくらいなら、いっそ最初から身を引いたほうがいいのだ。
そう思いながらも初めて知った淡い想いに、美凰の心は千千に乱れた。
無言のまま気まずく歩く二人の眼の前で、その騒動は起こった。
年季の入った魚屋の前を通りかかった尚隆と美凰は、甲高い声を響かせて子供を叱っている母親の言葉を不意に耳にしたのだ。
「汚いから触っちゃ駄目って言ってるでしょっ! 何度言えば判るの! この子はっ!」
「だってぇぇぇ〜!!!」
どうやら好奇心一杯の子供が剥き出しの魚に触れた様子で、母親が子供を叱り、子供は聞き分けなく泣き叫んでいる様子であった。
魚屋の主人はと言えば、複雑そうな表情で母子の様子を見つめている。
自分の商売物を触られ、汚いと言われれば立つ瀬がない。
しかも相手は客だから、怒鳴る事すら出来ないのだ。
「なんだ? あの女っ! 子供なんだから仕方がないだろうに! 魚が汚れているって言うのか!」
憤慨した様子の尚隆に、美凰は不思議そうに頸を傾げた。
「ど、どうして怒っていらっしゃるの? あ、あのお母さんは子供さんの手が汚れているから、ふ、触ればお魚が汚れると仰ったのでしょう? よ、汚れてしまったら、せ、折角のお魚が売り物にならなくなると思うのですけれど…」
「!」
その言葉に、尚隆は激しい衝撃を受けた。
再び、眼からウロコが落ちたと言ってもよかった…。
美凰は真っ赤になって、しどろもどろに言葉を続けた。
「わ、わたくしでしたら、少々人垢が付いていても…、へ、平気ですわ。や、焼いてしまえば消毒されますし、それに…、釣ったお魚はきちんと食べて差し上げるのが、お魚に対する礼儀というものでしょうし…。でも、あ、あの、釣り過ぎはよくありませんわね…。食べれる分だけ、命を分けて戴かないと、世界からお魚が消えてしまいますし…」
「……」
ものの見方とは不思議なものだ。
例えあの母親が魚の事を汚いと言っているにしても、美凰の様な受け止め方をすれば気分を損ねずにすむ。
それでも彼女の様なものの見方が出来る人間は、世間には皆無に等しいだろう…。
〔相応しくなかったとしても、この娘を諦める事が出来るのか、俺は?〕
呆然としていた尚隆を尻目に、魚屋の主人がにこにことした顔で美凰の傍に寄って来た。
「そっかぁぁぁ〜!!! いや綺麗な若奥さん、あんたの言う通りだね! そう考えたが気分が悪くならずに済みますわな! いーこと教えて貰ったよ! すっかり気分良くなったから、これは俺からのおまけだ! とっておくんなよっ!!!」
そう言うと魚屋の主人はとても美しい大ぶりの鯵を3尾、新聞紙に巻き、ビニール袋に入れて美凰に押し付けてきた。
若奥さんと呼ばれ、美凰は真っ赤になった。
「あ、あのう…、わたくし…」
「いいからいいから、とっておきなってっ! 俺の気持ちだよっ! ご主人と夕飯のおかず探しに来たんだろ?! 新婚さんかい?! いいねぇ〜! 若いってのは…」
手にした魚の包みと気前のいい主人を交互に見つめながら、困った様子で真っ赤になっている美凰の姿はなんとも可愛い。
尚隆は呆気に取られ、そして次の瞬間、心の底から笑った。
生まれて初めて、心の底から笑ったのだ…。
「おやおや! 旦那さんが楽しそうに笑ってるよっ! 今日はいい夕飯になりそうだねぇ〜」
「本当だ。有難う親仁さん! おかず代が浮いたぞ!」
何も知らない魚屋の主人にウインクをした尚隆は、呆然としている美凰の腕を取ると辿ってきた道を引き返し始めた。
「あ、あの…、小松さん…。方向が逆ですわ…」
「いや、いいんだ。家まで送る!」
「で、でも…」
美凰を路上パーキングまで連れ出した尚隆は、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「お互い傷つく事もあるかもしれない。だか、俺は君にチャレンジしてみたい。君の言う通り、価値観の違いは簡単に埋まるものではないかも知れん…。だが、俺はチャレンジしてみたい…」
「……」
「明日、君が見たいと言った花を観に行かないか? もう一度、君の弁当が食べたい…」
「……」
美凰は戸惑いながら俯いた。
「わたくし…」
直感が美凰の脳裡を襲った。
この返事如何が、この後の自分の運命を決めてしまうかもしれないと…。
「美凰と、呼んでは駄目だろうか?」
なんと甘い、誘惑の声だろう。
男らしく、優しい声…。
夢見る少女で、そして世間知らずの箱入り娘の美凰に、この誘惑を払いのける術はなかった…。
小さく頸が縦に振られた様子に、尚隆はほっとした。
心の底から安堵したのである。
「乗って! 家まで送ろう!」
「あの、家の前はちょっと…。停めて戴きたい場所をお教えしますから…」
「判った。さあ、急ごう。門限に遅れると、明日の外出がおじゃんだ!」
「……」
二人が乗った黒いスポーツカーは、田園調布方面に向かってゆっくりと走り出した…。
恋するきっかけとは、千差万別である…。
小松尚隆が花總美凰に恋するきっかけは、かくの如くであったのだ…。
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