恋するきっかけ 4
「すまない。昨日は仕事が立て込んでて…。今週は残業続きで殆ど徹夜状態だったから、つい眠気に襲われてしまったんだ…」
「…、い、いいえ…」

 映画館を出た二人は、すぐ傍にあった洒落た喫茶店に入った。
 運ばれてきたコーヒーを一口含み、俯いて紅茶を見つめている美凰に尚隆は心にもない言い訳をした。
 無論、残業なんて嘘っぱちである。
 その実、毎日毎晩呑み歩いてはその場で知り合った見ず知らずの女たちと情事の一夜を楽しんでいたのだ。
 そして今朝も、美凰との初デートを約束した日ですら、尚隆は別の女を抱いてベッドで目覚めていた。
 その事に、彼はまったくと言っていい程、罪悪感を感じていなかった。
 箱入り娘の美凰には、尚隆の爛れた私生活は皆無である。
 だがしかし、直感というべきか潔癖な娘心の深層が、彼の言動に不自然な違和感を感じていたのだ。

「…しよう…」

 ぼんやりとしていた美凰は、はっと顔を上げた。

「え? ご、ごめんなさい。い、今なんと仰いまして?」

 尚隆は苛々とした様子で煙草に火をつけた。
 元来、女に向かって低姿勢で謝ったりする事のない男である。
 いくら今までに見たこともない美貌の娘であるとはいえ、尚隆の我慢も限界に近かった。

「だから、お詫びの印に今から銀座のブランド店へ行って、君の好きなものを買ってやろう。バッグでもアクセサリーでも、好きなものがあったら何でも言ってくれ…。その代わり…」
「……」

 続きを耳にせず、美凰はがたんと椅子を引いて立ち上がるとバッグを手に取って一礼した。

「わたくし、帰ります…。ごめんなさい。お仕事でお疲れですのに、貴重なお休みの日をわたくしの為に割いてくださって…」
「えっ?! お、おいっ?!」

 そう言うと美凰は踵を返して尚隆の前から立ち去った。
 一瞬、唖然とした尚隆だったが気を取り直すと、美凰を追いかけて店を後にした…。



〔なんて莫迦な…、愚かなわたくし…〕

 傷ついた美凰は涙を懸命に堪えながら、小走りに駅に向かっていた。
 強引な誘いに戸惑いつつも、素敵な男性との物語の様なロマンチックな交際に憧れ続けていたのだ。
 尚隆からのデートの申し込みに、怯えながらも美凰は有頂天になった。
 この1週間、どれ程この日を待ち焦がれた事だろう。
 着て行く洋服や、髪型、そして手馴れないお化粧の事。
 とにかく、大人の彼の隣にいても子供っぽく見えない様に装う事ばかり考えては、お稽古事にも身の入らない毎日だったのだ。
 夢と現実はかくも違うものなのかと、美凰は改めて思った。
 初めてのデート、しかも他人が羨む程にハンサムな尚隆を相手に憧れと期待を胸に過ごした一週間の夢は音を立てて壊れた。

〔あの方も、身勝手な父と同じ…。ハンサムな顔をして女性を誘惑する胡蝶なんだわ…〕

 溜息をついた瞬間、美凰は背後から二の腕をぐっと掴まれた。

「!」
「ちょっと待て! どういう事なんだ?! 俺は君を不快にする様な事を言ったのか?!」
「……」

 美凰は哀しくなって俯いた。
 涙が零れる…。

「も、物語の様な…、ものではないのですね…」
「なに?」
「わたくし、男性とお付き合いした事が一度もないので…、今日はとても緊張して、反面とても楽しみにしてましたの…。でも…」
「……」
「わ、わたくしがあなたの事をとても好きになる前に、も、もう逢わないほうがいいと思いますの。あ、あなたとわたくしとでは、あまりに価値観が違い過ぎますもの…」

 通りをすれ違う人々が、興味深げに二人の様子を窺っている。
 美凰はバッグからハンカチを取り出し、ぽろぽろ零れる涙を拭った。
 その姿に尚隆が固まってしまったのは言うまでもない。

「……」
「わ、わたくしの様な子供は、あ、あなたの様なご立派な大人の男性には不釣合いですわ…」
「……」
「わ、わたくし、なにも買って戴かなくて、け、結構ですから…。大切なお時間を割いて戴いた上に、お、お食事とか、色々お金を使わせてしまって、ほ、本当に申し訳なく思っておりますの…。あの、なんでしたら後日現金書留で、お、お金をお送り致しますから…。もう二度、会社に訪ねていったり、しませんから…」

 そういうと美凰は尚隆の手を振り解き、雑踏の中に紛れ込んでいった。

「ち、ちょっと待て…」

 しかし美凰は、振り返ることなくそのまま駅に向かって横断歩道を渡っていってしまった。
 尚隆はその場に固まった状態で、美凰を追う事すらせずに立ち尽くしたままであった…。



「くっそう! 何だと言うんだ! あの小娘っ! ちょっとばかり綺麗な顔をしているからって、この俺に向かってよくもあんな態度をっ!!!」

 憤懣やるかたない尚隆は立体駐車場に停めていた自家用車のドアを開け、乗り込むと乱暴にドアを閉めた。

「今夜の予定が全部パーだ! こうなったら誰でもいいから別の女に…」

 そう言いながら携帯電話を操作し始めた尚隆の眼端に、後部座席の紙袋が写った。
 美凰が置き忘れていったものである。

〔忘れ物か! ふんっ! 知るものか! 車に置いていくぐらいなんだから大したものではなかろう! 眼にするのも不快だぞっ! よしっ、ゴミ箱に捨ててやるっ!〕

 尚隆は一旦外へ出ると、後部座席のドアを開け、小奇麗な紙袋を手に取った。
 そしてそれが以外にずっしりと重い事に、彼は驚きを隠せなかった。

「あの娘…。田園調布からこれを持って来たのか? 一体何が入ってるんだ?」

 がさがさと中を開けて入っていたものを確認した尚隆の眼が見開かれ、ハンサムな顔がみるまに青褪めた。

「嘘、だろう…?!」

 袋の中身はなんと、手作りのお弁当だった。
 厳重に梱包してきたのだろう。
 食物が傷まないように工夫して、四方八方を保冷材で固めた上、古めかしい縮緬の風呂敷でくるんである。
 重量感はこの保冷材のせいだった。
 重箱を象った可愛い入れ物にはさほど豪華なものではないが見た目も美しい、美味しそうなおかずが沢山並んでいる。
 つややかな白米は俵型のおにぎりに握られ、香ばしい海苔が巻かれてあった。
 そして食後のデザートだろう。
 何というものかは知らないが、レモンの甘酸っぱい香りがする小さなケーキの様なものが別の箱に4つ程納まっていた。
 クルーズ船に乗船する為に此処に車を停めた時から、美凰が後ろ髪を引かれる様に何度も車を振り返っていた事を尚隆は思い出した。
 そして自分が美凰をデートに誘う時、なんと言ったかも…。

『どこか、行きたい所はあるのか? リクエスト通りにするぞ!』
『で、出来れば、も、桃の花が観れる所が…。向島でも、小石川でも…。足を伸ばして鎌倉くらいですかしら? あ、でもそんなに遠出しなくても、あの、お弁当を持参して、のんびりと休日を過ごすのも、素敵かもしれませんわ…。だって、毎日お仕事でお疲れでいらっしゃるのでしょう?』
『ふーん、弁当かぁ。君、お嬢様なのに料理出来るのか? あ、いや失敬…』
『お、お料理は、だ、大好きですわ。何かお好きなものはございまして?』
『じゃ、玉子焼きと肉じゃがだな。俺、お袋の味ってのに縁がなくってね…』
『? し、承知しましたわ…』

〔彼女は…、俺が何の気なしに言った言葉を真に受けて、弁当を…。本当に、花を観に行きたかったんだ…〕

 怒りが冷めた尚隆は唇を噛み締め、黄金色の玉子焼きとほくほくのジャガイモで作られた肉じゃがを交互に見つめると、その場で弁当を丁寧に仕舞い始めた。
 紙袋に戻した弁当を助手席にそっと置くと、運転席に戻った尚隆はキーを捻り、エンジンをかけて、急いで車を発進させた…。



 時刻は4時を過ぎた所だった…。

「やあ…」

 沈んだ表情で田園調布駅から出てきた美凰は、黒い高級スポーツカーに寄りかかって眼の前に立っていた尚隆に驚き、思わず立ち止まってしまった。

「あっ! こ、小松さん?! どうしてここに…」

 尚隆はゆっくりと美凰に近づいてきた。

「良かった。間に合って…。車、すっ飛ばしてきたんだぞ…」
「……」

 俯いてしまって声も出せない美凰に、尚隆は溜息をついた。

「今日の予定、すっかり狂わせてしまったな…」
「……」
「花、観たかったんだろう? 君の希望を聞いていた筈なのに…。本当にすまない。今日のデートを楽しみにしていたから、俺もすっかり舞い上がってしまっていて…。君に喜んで貰いたくて、色々勝手に計画してしまって…、それで…」

 俯いたままの美凰はゆっくりと頸を振った。

「い、いいんですの。お船もとても楽しかったし…、映画も素敵でしたわ…」
「だが、君の弁当を楽しめなかった…」

 美凰は思い出したかの様に顔をあげ、あっと両手で口許を覆った。

「ご、ごめんなさい! わっ、わたくし、お車の中に忘れて…」
「……」
「あ、あの…。わざわざ届けてくださって、有難うございます…。す、すみません。処分できる様に紙折か何かにしておけば…。わたくし、慣れてないものですからそこまで頭が廻らなくて…。気が利かなくて、ご、ごめんなさい…。も、持って帰りますから…」

 焦っておろおろしている美凰の姿に、尚隆は再び溜息をついた。
 心の中にまともな罪悪感が押し寄せてきた。

「気が利かないのも頭が廻っていないのも、俺の方だ。持ってくるだけで重かっただろうに…」
「……」
「あれは俺の晩飯にする。君、門限があるから一緒に食べてくれないんだろう?」

 美凰は更に慌てた。

「まあ! いけませんわ! 車の中に放置していましたのよ! 傷んでいるものもあるかもしれませんわ。お腹を壊してしまいます…」
「大丈夫だ。さっきつまみ食いして確認した…」
「まあ…」
「とても…、美味かった…」

 悪戯っぽくウィンクして見つめてくる尚隆の視線に、美凰は戸惑い、ますます顔を赤らめて俯いた。

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