恋するきっかけ 3
 朝の光がカーテンの隙間から差し込む…。
 いかした身体をした美人を一晩中楽しんだ尚隆は明るい日差しにふっと目覚め、思い出したかの様に熱いシャワーを浴びるべく緩慢な動作で起き上がった。

「ねえ…、今夜も泊まっちゃ駄目? どうせ明日は日曜なんだし…。いいでしょ?!」

 自分に伸びてくる女の白い手を、尚隆は無造作に払いのけた。

「悪いが今夜は先約があるんだ…」
「……」

 ぷっとむくれた女に苦笑しつつ、尚隆はシャワールームへと向かった。
 淫らに乱れたベッドに横たわったままの女は、そんな尚隆の逞しい裸身を賞賛するように眺めている。
 なんという名前だったか…。
 昨夜、仕事帰りの麻布のバーで知り合ったばかりの女子大生。
 その場で意気投合し、いつもの如く部屋に連れ込んだ。
 名前すら覚えていない女との刹那の楽しみ。
 女に夢を見る事など、尚隆は考えてもいなかった…。



 今日は待望の土曜日。
 過日、尚隆の許へわざわざ金を届けに来たお嬢様との初デートの日なのだ。
 今までに出会ったことがない、優しげな薔薇の花にも似た美貌。
 皇族の血筋である高貴な姫君は、なんとも不思議な雰囲気で尚隆の心を捉えた。
 目に見えない不安感が一瞬、男の脳裡を過ぎったものの、あの美少女をモノにしたいと思う欲望に打ち勝つ事が出来なかったのだ。

〔俺の人生観を根こそぎ覆してしまう様な…、危険な少女…〕

「はっ! 何を考えているんだ俺は?! 未成年者だからか?! 莫迦莫迦しいっ! 18歳ならどうって事ない。もう立派な大人じゃないか! ちょっと甘い言葉を囁いて、ブランド物を買い与えてから高級ホテルのスイートに連れ込めばいい。そうさ…、聖心女学院だからって初物とは限らんし…」



 シャワーを浴びて頭を拭きながら浴室から出てきた尚隆は、時計の針が9時を過ぎているのを見て慌てた。
 約束の時刻は10時。
 お姫様は迎えに行くと言った尚隆の言葉に遠慮がちに頸を振り、目黒駅での待合せを希望したのだ。
 六本木から目黒までさほどの距離ではないが女を追い出さなくてはならないし、道もそろそろ混み始める。
 今日のランチは横浜港のクルーズ船を予約してあるし、夜の予定を考えると午後の映画も早く済ませたい。
 ドライブを楽しみながら横浜を目指す為には、遅刻したくない尚隆であった。

「おいっ! 早く起きて出て行ってくれないか?! 約束の時間に遅れてしまう!」

 疲労した裸身をベッドに横たえたままうとうととしかけている女に向かって、尚隆はぞんざいに言いながら着替え始めた。

「…。なんなの? デート?」
「まあ、そんな所だ」
「……」

 洒落たブランド物の服装に着替え始めた尚隆を、むっくり起き上がった女は怨じる様な眼差しで見つめた。

「ねえ…、また連絡くれる?」
「ん? ああ、メルアド置いていってくれ。気が向いたら連絡するから…」
「……」

 興味なさげな尚隆の様子に、女は唇を噛み締める。
 誰もが認めるこの美貌、誰もが欲しがるこの身体。
 そんな自分を一晩中翻弄し、気儘に遊んだ男が…、そして今はあっさりと、自分に見向きもせずに他の女とのデートの準備をする男がとてつもなく憎い。
 だが、一夜の遊びにしてしまうには、あまりにも惜しく思える程に素敵な夜だった。
 つい最近フリーになったばかりで、イイ男を捜していた彼女は気を取り直してベッドから起き上がり、美しい裸身を惜しげもなくさらして、ダンヒルの財布の中身を確認している尚隆に近寄った。

「ねえ…。デートはやめにしてあたしと一緒に過ごさない? 一晩じゃあたしのよさは解らないと思うんだけど。お互いもう少し知り合って、存分に楽しみましょうよ…」

 尚隆は財布をジャケットの内ポケットにしまいながら苦笑した。

「フランス料理は充分楽しめたぞ。もう満腹状態でげっぷがどうにもならん。だから今夜はあっさりとした和食にするんだ。お誘いは嬉しいんだけどな…」

〔そう。確かに彼女は和食だな。日本人形そのものだったから…〕

「……」

 尚隆は悔しそうに自分を睨んでいる女の肩を抱いて、形ばかりのキスをした。

「また食べたくなったら連絡する。いい子だからとにかく着替えて電話番号置いて帰ってくれ。10分以内で頼むぞ。タクシー代は渡すから…」
「…。解ったわ…」
「リビングで待ってるから早くしてくれよ! 遅刻したくないんだ…」

 尚隆はそういい残すと、さっさとベッドルームを出て行った。
 自信満々だった女にとって、男の取った態度はショックを隠し切れない。
 しかし傷ついた女のプライドが、なんとか取り乱すまい、見透かされまいと自制しながら身支度にかかる。
 結局、尚隆に執着するのはいつも女の方なのだ。
 そして尚隆はといえば、新しい取り巻きが一人増えた事に何の感慨を覚えることもなく、美凰との待合せの時間のことばかり考えて、煙草を吸いながら苛々と女の身支度を待っていた…。



〔女は基本的に時間にルーズだからな…。ちょっと遅れたぐらいなんてことはないさ。下手すりゃ俺の方が早く着いているかも知れん…〕

 そんなことを考えながら、ほぼ30分遅れで漸く目黒駅の東出口に到着した尚隆の眼に、可愛いラベンダー色のワンピースの上から白いレースのカーディガンを羽織った姿の美凰が写った。
 手にしている小説本に集中している姿は、絵の中の光景を見る様な美しさである。
 周囲を行き交う人々が、ほうっと溜息をつきながら彼女の立ち姿に視線を這わせている事に気づきもせず、美凰は真剣に読書をしていた。
 停車ランプをつけて高級スポーツカーから降り立った尚隆は、サングラスを外しながらゆっくりと美凰に近づいた。

「やあ…」
「あっ!」

 美凰は目の前に立つハンサムな尚隆の笑顔を見上げると、恥ずかしそうに花顔を赤らめた。

「遅れてすまない! 待ったかい? 出掛けに少し用事が出来てしまって…」
「い、いいんですのよ。わ、わたくしも今着いた所ですから…」

 美凰は手にしていた小説本の栞を挟み替えながら、慌ててシックで上品なバッグに仕舞った。
 何が入っているのか、バッグのサイドに持参している小奇麗な紙袋ががさがさと音を立てる。
 つややかに手入れされたバッグを見るともなしに、仕舞われた小説本の栞の差し替え場所を目端で確認した尚隆はちょっと驚いた。
 読まれていた頁数の分量で、少なくとも30分以上は彼女を待たせていたこと事を知ったのだ。

「…。随分、待ったんじゃないのか?」
「い、いいえ! そ、そんなことありませんわ。ほ、本当です…」
「……」

 緊張しているのか、可愛くどもりながらもにっこり微笑む美凰に、尚隆はしばし見惚れてしまった。
 なんという、他愛のない眩しい笑顔なのだろうか…。
 尚隆はほんの少しだけ、平然と嘘をついている自分を後悔した…。



「あ、あのう…、どちらへ?」

 ぴんと背筋を伸ばし、硬直した様子で助手席に納まった美凰の羞かしそうな問いかけに、尚隆はにっこりと微笑んだ。

「横浜までドライブしようと思うんだ。クルーズ船の予約をしてあるから、ランチは横浜港を周遊しながら豪華にしよう!」
「まあ…、ク、クルーズ船で昼食、ですか…」

 後部座席に置いた紙袋にちらりと視線を這わせ、何か言おうとした美凰の声は引き続く予定説明にあっけなく遮られた。

「で、その後は映画。君、映画が好きだって言ってたろ?! チケットはもう買ってあるんだ。何といったかな? ああ、確か封切られたばかりの新作物だったと思うぞ」
「……」
「後は元町通りをぶらぶらしてもいいし、なんなら都内に戻って銀座で買い物をしてもいい…。ま、都内のホテルの方が俺も都合しやすいし…」
「……」

 慌ただしい尚隆のお喋りと読解不能な内容に、美凰は瞬きしてそっと俯いた。
 男との間に見えない小さな溝を感じ取りつつも、懸命に彼の言動を聞き入り、なんとか合わせようと努力し始めた美凰の様子に気づかず、尚隆は目端で彼女の全身をちらちら偸み見ていた。
 先程別れて来たばかりの女子大生とは、あまりにも対照的なお嬢様…。

〔あの女が枯れかけの紅薔薇なら、この娘はピンクの蕾だな…〕

 柔らかく結い上げられた美しい黒髪。
 黒曜石の双眸は俯き加減に、長く濃い睫毛が微妙に揺れ、白薔薇の様な面差しの中の両頬は少しだけピンク色に上気して、形の良い唇には珊瑚色のグロスが艶めいている。
 そして過日は和服姿で透かし見れなかったワンピースの下にある隠された肢体ですら、尚隆はしっかり観察しきっていた。

〔90・60・87ぐらいかな? 近頃の女子高生はいい発育をしてるもんだ…。せいぜい楽しませてもらうとしよう…〕

 尚隆は、横浜までの短いドライブを素敵な妄想で楽しんだ。



 ビア赤レンガ前乗船場を12時半に出発し、『マリンルージュ』で素敵なランチクルーズを1時間半ばかり楽しんだ二人は元町通りの映画館に入った。
 所が、作品は尚隆が言っていた様な最新作ではなく、かなりなレトロ作品『ローマの休日』であった。
 映画などに興味のない尚隆は、会社の後輩に「何でもいいから新作モノで女受けする映画のチケットを買って来い!」と使い走りをさせたのである。
 後輩は『最新作』というフレーズを聞き逃していたのだ。
 最新映画でなかった事を詫びる尚隆に、美凰は優しく微笑んだ。

「別に新しいものでなくとも、良い映画ならなんでも構いませんの。それにこの映画、わたくし大好きですのよ…。家では滅多に観れませんから、大きなスクリーンで観れるなんて、とても嬉しい!」
「家では観れない?」

 美凰は羞かしそうに俯いた。

「ええ…。父が、映画を好みませんの。音楽も邦楽かクラシックばかりで…。わたくしはジャズやタンゴも聴きたいのですけれど…。仕方なしに自分の部屋でこっそりと聴くか、お友達のお家で聴かせて戴くか、ビデオを見せて戴くかしか出来なくて…。以前一人で映画館にチャレンジしてみたのですけれど、隣に座っていらした男性に声をかけられて…。恐くてそれ以来行ってませんの…」
「……」

 クルーズ船に乗る迄は何かに気を取られたかの様にぼんやりとしていた美凰だったが、爽快な青空の下、潮風の中で豪華なランチを食べながら他愛ないお喋りに耽りだすと、徐々に硬さがほぐれ始めた。
 そして今、嬉しそうにはしゃぐ美凰の姿が更に眩しく、己の欲望を満たす為だけに彼女のご機嫌を取っている自分がなんとなく恥ずかしくなった尚隆は、その秀麗な顔に強張った微笑を浮かべた。



「あのう…。こ、小松さん…」

 そっと肩を揺すぶられた尚隆は、はっと座席に起き直った。
 一番に眼の中に飛び込んできたのは、哀しげに自分を覗き見る美しい花顔のぎこちなく微笑む様子。
 そして、明るくなった映画館内と上演終了のアナウンスであった。

「……」

 恋愛映画等に興味のなかった尚隆は、一晩中のご乱行のせいもあってか映画が始まった瞬間から睡魔に襲われ、ついには最後まで眠ってしまったらしいのだ。

「そ、そろそろ、ま、参りましょう…。か、係員の方々、お客様の入れ替えをなさりたいみたい…。わたくし達が、さ、最後みたいですから…」
「あ、ああ…」

 美凰は俯いたまま尚隆を振り返らず、早歩きで館内を出た。
 尚隆も慌てて立ち上がり、頭を振りながら美凰の後を追った…。

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