現在、卒業式までの休みの最中である美凰は、不成功の見合いの翌週、お茶の稽古に出向き、その帰りに丸の内まで足を伸ばした。
オフィス街など普段近づいた事のない場所であったので、平日の昼間に着物姿の若い娘がうろうろしているのは奇異な事で、しかも目立つ美貌はかなり人目を惹いたに違いない。
青葉の仲居に教えて貰った小松財閥の御曹司とやらの会社に辿りつくと、少々勇気がいったが思い切って華やかな受付嬢に声をかけた。
「あの…、すみません…」
受付嬢はにこやかな笑顔を美凰に向けた。
「はい。なんでしょう?」
「こちらの建築1課にお勤めの、小松尚隆さまにお取次ぎ戴きたいのですけれど?」
途端に受付嬢の顔が、すうっと冷たい表情になった。
「貴女、小松さんに何の御用?」
「は?」
女は綺麗に描かれた眉を吊り上げ、美凰を睨みつけてきた。
「小松さんはお忙しいから、今日は会えないと思いますけど?!」
「あの…」
いきなり態度が急変し、切り口上で述べてくる女の様子に美凰がしどろもどろになった時…。
「やあ! 君はあの時の?!」
振り返ると小脇に書類や図面を抱えた例の青年、小松尚隆がにっこり笑って立っていた。
美凰は頬が紅く染まってゆくのが自分でも解った。
明るい日差しの下で見る尚隆は、凛々しく秀麗な面立ちで、その雰囲気は太陽の様に煌いている。
ずっと女子校生活で、男性とは接した事のない美凰にしてみれば、眩しい程に存在感のある相手であった。
受付嬢の態度が再び、掌を返したようににこやかになったのには更に驚かされた。
「小松さん、こちらの方がアポイントをおとりになりたいご様子なんですけど、お忙しいですわよねぇ〜」
小松尚隆は苦笑しながら首を振った。
「美しい女性のアポなら何人でも構わんさ。君、すまないが1課の佐竹に内線繋いでくれないか?」
「あの、わたくし…」
尚隆はおろおろしている美凰を無視したまま、受付嬢が繋いだ内線で専門用語を端的に喋り、指示をした後、持っていた書類や図面、それに鞄まで受付嬢に預けた。
「もうすぐ佐竹が取りに降りてくるから、渡しておいてくれないか? 頼むよ…」
「畏まりましたわ…」
受付嬢の眼はうっとりとなっていた。
「これでよしと。じゃ、行こうか、お嬢さん」
「あっ! あの…、わたくし…」
尚隆は美凰の腕を取り、いそいそと外に向かう。
「あの、困ります。あなた、お仕事中でいらっしゃるのでしょう?」
「いいから、いいから。お茶でもしよう!」
小松尚隆は嬉しそうに美凰の手をとると、道路の向かいにある瀟洒なホテルの喫茶店まで彼女を引っ張っていった。
「コーヒーでいいかな?」
「あのう…」
「それとも紅茶か?」
こくりと頷いた途端、美凰は溜息をついた。
どうも相手のペースに乗せられたままである。
「ではコーヒーと紅茶を」
「畏まりました」
ウエイターが下がると、尚隆はテーブルに身を乗り出した。
「君の名前は? どうして俺の名前や勤務先を知っていたんだ?」
美凰は礼儀に失したとばかりに、美しい顔を顰めた。
「申し遅れました。わたくし、花總美凰と申します」
「君に相応しい、実に美しい名前だ…」
先程からずっと強い視線で見つめられ続けているので、美凰は恥ずかしさの余り俯くともじもじした。
「お褒めくださって、あ、有難うございます…。それで、あの、藤の間から逃げ出されたお客様の事を、仲居さんたちが小松財閥の御曹司だと話していらしたのを伺って…」
尚隆の顔が忽ちうんざりとした顔になった。
「…、小松のドラ息子の情報を仕入れたというわけですか? 流石に女は抜け目がない。ここまで自分を売り込みに来たって訳?」
「は?」
少しく棘のある言葉尻に、美凰は美しい眸を瞬く。
尚隆の言っている言葉の意味がよく解らなかった。
コーヒーと紅茶が運ばれてきたので、話が一旦中断された。
「砂糖は?」
シュガーポットを開けようとした尚隆を、美凰は慌てて押し留めた。
「いいえ、結構ですわ…」
「煙草、吸ってもいいかな?」
「あ、はい。どうぞ…」
別に悪い事をしたわけではないのに、何故か居たたまれない気分になった美凰は、ここに来た本来の目的を思い出し、おもむろにハンドバッグから小さな封筒を取り出して尚隆の前に置いた。
紫煙を吐きながら繁々と美凰の顔を眺めていた尚隆は、一瞬訝しげに眼を瞬いた。
「なんだ?」
「あの、これをお返しに参りましたの。一昨日、戴いたお金ですわ」
「……」
「戴くいわれがございませんもの。足袋を買えと仰いましたけど、お洗濯をしたら元通りになりましたし、それに、裏口をご一緒に探した事へのお礼と言われましても、あなたを、あの、にっ、逃がしたことへの責任を持たなくてはなりませんし…。それは困りますもの。それで仲居さんにあなたの事を伺って、こちらまでお訪ね致しましたの。ご迷惑でしたらごめんなさい。現金書留でお送りしても良かったのですけれど、お金のことですし直接お手渡しした方がいいかと思い立って…」
「……」
尚隆は呆気にとられた様子で不思議な生物を見るかの様に美凰を見つめていたが、やがてくつくつと笑い出した。
「まあ、わたくしなにか可笑しな事を申し上げましたかしら?」
「いやいや、失敬。なんとも面白いお嬢さんだ。そうか、売り込みに来た訳ではないのか…」
「? お言葉の意味がよく解りませんわ。それに…、お礼を申し上げたいのはこちらの方ですの。わたくしもあの時間のお陰で嫌なお見合いを先方からお断り戴けましたので…」
尚隆の眼が微かに細められた。
「そうか、あの振袖…。君も見合いの最中だったんだ?」
「はい…。あの、それではわたくし、急ぎますのでこれで…」
席を立とうとした美凰を尚隆は慌てて押し留めた。
「なんだ? 恋人でも待ってるのか?」
美凰は真っ赤になって尚隆を見返した。
「いいえ、そんな方いませんわ…」
「じゃ、急ぐ事はないだろう? 家まで送ってやるから、とにかく俺の前に座っていてくれないか」
「座っていたらどうなりますの?」
尚隆はニヤリと笑った。
「君を俺の恋人にする」
美凰はますます頬を紅く染めた。
「なっ…、何を仰いますの?」
「実は俺も一昨日から君の事ばかり考えていたんだ」
「?」
「なぜ名前を聞いておかなかったんだろうってな…」
尚隆の視線に男性慣れしていない美凰は、気の利いた返事が出来ず、ただどきまぎとして俯いた。
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