恋するきっかけ 1
 美凰は夢を見ていた。
 5年前、初めて小松尚隆に出逢った頃の、幸せな夢を・・・。



 二人が初めて出逢ったのは、花總美凰が18歳の時である。
 その日、赤坂でも老舗と名高い料亭『青葉』で、美凰はお見合いの席に居た。
 父は宮家の流れを汲む旧華族出身の高名な日本画家で、花總蒼璽(そうじ)という。
 母は美凰が小さな頃に亡くなっており、彼女は後妻として蒼璽の妻となった継母静香と、母の実家からつき従って花總家に入った乳母の春に育てられた。
 継母の静香は赤坂の芸者出身で、美貌だったのを父に請われ、モデルとして父の傍近くに居る間に愛人となり、やがて正式に結婚したのである。
 静香は父との間に男の子を一人産んだ。それが弟の要である。
 また、蒼璽にはかつて中国人の愛人もいて、その愛人との間には女の子を一人もうけている。
 それが文繍であった。
 美凰はそれぞれに母親は違う複雑な環境ではあるにも係らず弟妹を可愛がり、継母静香との親子関係もそれなりによく、幸せに暮らしていた。
 お嬢様学校として名高い高校も卒業間近となり、女は学問などせずに早々に結婚して家庭を護るべしとの父の厳しい教育の言いなりになって進学を諦めた美凰は、このお見合いの席に居たのである。
 眼前に居る相手は東大卒、外務省勤務、容姿端麗、と三拍子揃ったとても洗練された男性で、同級生達が見れば誰もが憧れる相手に違いない。
 相手はと言えば、今時珍しい日本人形の様に類稀な美貌の娘にぼーっとなっている様子で、一目で気に入られたことは間違いなかったが、話がちっとも弾まず、美凰は退屈な時間を過ごしていた。

「お母さま、わたくしちょっとご不浄に行って参りますわ」

 美凰は静香にそっと囁くと、和気藹々を装っている両家の両親と相手に軽く会釈をしてから席を外した。


〔退屈・・・。なんだか機械仕掛けの人形の様な男の人だわ・・・。結婚したら家の中でもあんな風なのかしら?〕

 薄暗い廊下に出て溜息をついた美凰の前に、不意に大きな人影が見えた。

「君、どこか、人に見られないで裏口へ出られないか?」

 美凰はあっけにとられた。
 見上げる程に背が高く、堂々とした体躯はスポーツマンの様にも見える青年である。
 年齢は恐らく24、5くらいであろうか。

「この家、裏口はないのか?」
「あると思いますけれど・・・」
「この庭は伝って行けるのか?」
「あの、わかりませんわ・・・」

 青年はガラス戸を開けて庭に下りようとしていた。
 その様子に美凰は、もし悪い人だったらどうしようと不安になった。

「あの、どうして人に見られないように裏口にいらっしゃりたいの?」

 青年は苦笑した。

「逃げ出すんだ」
「ですから、どうして?」
「別に悪い事をしたわけではないぞ」
「あの、理由を仰ってくださらないと・・・、あなたを見逃していいものかどうか・・・」

 美凰の言動に青年は面白そうに彼女を見返した。
 やがてその涼しげな目元は、驚いたかの様に眼前の娘の美貌に気づき、食い入るように繁々と眺めた。


「理由を仰ってくださいませ。そうしたらご一緒に裏口を探して差し上げますわ」

 花の様な美貌の娘に見惚れていた青年ははっとなった。

「君は…、芸者じゃないな。その振袖…。舞妓にしては化粧が普通だし…」

 美凰は華やかな絞りの振袖に一別をくれ、自分を繁々と見つめる青年の視線に顔を赤らめた。

「わたくしの質問に答えて戴いてませんわ」
「要するに…」

 青年は面白そうにやれやれと肩を竦め、綺麗に整った髪に手をやった。

 何気ない仕草なのに、美凰の胸はどきどきした。

「俺が藤の間に居ると、色々迷惑がかかるのさ」
「藤の間…?」

 先程、母の静香が言っていた小松財閥の御曹司のお見合いとやらが確か藤の間だったのでは?

〔ではこの人は、お見合いから逃げ出すと言うのかしら?〕

「なあ。助けてくれないか? 君には迷惑かけないし…」

 拝む様な恰好をしたのがひどく子供っぽかった。

「解りましたわ。ではわたくしもご一緒します…」

 なんとなく美凰は笑ってしまった。
 そのやわらかな微笑みに、青年の眼が再び釘付けになった事は言うまでもない。
 足袋のまま庭に降り立ち、塀についてまわるとやがて内玄関の脇に出た。

「まあ、あそこが裏口みたい。でも、靴をどうなさるの?」

 青年も靴下のままであった。

「なんとかなるさ…」
「でも…、あっ! いいものがありますわ」

 ふと、庭の植え込みに眼をやった美凰は、おあつらえ向きに庭下駄が一組転がっているのを発見した。

「せめて、これをはいていらっしゃれば?」

 表玄関へ靴を取りに行っては、逃げ出す事がばれてしまう。

「すまんな…」

 青年は靴下を脱いで下駄をはき、ふと美凰の足許を見た。

「君、足袋を台無しにしてしまったな…」

 そう言うと上着の内ポケットから札入れを取り出し、1万円札を無造作に抜いて美凰の手に握らせた。

「なんですの? これ?」
「付き合ってくれた礼だ。これで新しい足袋を買ってくれ」

 そう言うなり、大きな体躯を折り曲げてあっという間にくぐりを出て行った。

「待ってください!」

 続いて美凰がくぐりを出た時、青年はもう大通りを曲がっていた。
 追いかけてみたものの、あっという間に見失った。
 丁度、赤坂の夜が華やかに開幕する人の出の多い時刻であった。



 結局、長々とした美凰の中座のせいで、見合いは不成立に終わり、その日帰宅した後に父の居間に呼ばれ、散々叱られた。
 静香に宥めすかしてもらい、父の座敷から漸く解放してもらえたのは翌日間近の時刻である。

「お嬢様ったら、お見合いの最中なのにご不浄に行ったきりで、足袋もどろどろにしておしまいだし…、一体何なさってらしたんですか?!」

 父のお小言の上、乳母にまでねちねち責められるのは堪らない。
 寝間着に着替えて漸くほっとした美凰は、些かうんざりしたように乳母の春を見た。

「もういいじゃない。結局ご縁がなかったのよ。わたくしだって、あんな機械人形みたいな男性のお嫁さんになるなんて嫌だわ」

 春は美凰の振袖を点検しながら口を尖らせている。
 お嬢様命の乳母はこちらから断ったのでなく、先方から断られた事に憤慨しているのだ。

「そんなことばっかり仰って…。あら?」

 ほっと一息ついて紅茶を飲んでいた美凰に、春は声をかけた。

「お嬢様、どうしたんです? この一万円札…」
「あっ!」

 手渡されたお金を美凰は複雑な顔で受け取った。

「いけませんよ。お金をむき出しでお持ちなんて…、お行儀の悪い…。本当に困ったお嬢様だこと…」

 春はとりたてて不審に思わなかった様子で、そのまま部屋を出て行った。
 美凰はお札の皺を伸ばし、ほっと溜息をついた。

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