美しき脅迫者 4
「美凰…」

 尚隆は驚きに双眸を見開き、慌てて立ち上がった。
 深夜に別れを告げてきた筈の、愛しい女が目の前にいる…。
 パレードのスタートが放送されて周囲が騒々しくざわめく中、爽やかなミントブルーのワンピースを着た美凰は奥まったベンチの前に立ち尽くす尚隆の傍にゆっくりと近づいてきた。

「尚隆さま…」
「……」
「間違いだったらという恐怖もありました。成田のボーディングゲートでお待ちした方が良かったのかもと。でも、間違っていなかった…。あなたは、ここにいらっしゃったわ…」

 尚隆はぷいと横を向き、わざと不機嫌な表情を作った。

「…、何の用だ! 君には朱衡から…」

 美凰はバッグの中から小封筒を取り出した。

「離婚届…。持参しましたの…。少しでも早く、お眼にかけたくて…」
「……」

 美凰は青白い顔で咳き込んだ。
 微熱になったとはいえ、身体はかなり辛い。

「掛けてもよろしくて? 少し、眩暈が…」

 その言葉に尚隆はさっと美凰の近寄り、彼女の身体を支える。

「なんて無茶を! 君は昨日まで高熱を発していたんだぞ! 病院を抜け出してくるなんて、信じられん!」
「抜け出してなどおりませんわ。ちゃんと月梅先生と山城さんもご一緒です。それに、朱衡さんも…」
「……」
「ここまでは、朱衡さんに連れてきて戴きましたの…」

 美凰はベンチに腰掛け、ふうっと息をついた。





「尚隆さま…。お手紙に書かれていたお言葉、ご本心ですの?」

 美凰の隣に腰掛けた尚隆の逞しい肩が、ぴくりと揺れた。

「……」

 美凰に自分を憎ませる為に、愛しているといった言葉を忘れて貰う為に、尚隆はわざと惨い言葉を簡潔に書き連ねたのだ。
 殺人者の自分は美凰に相応しくない。
 彼女を救出してからこれまでの間、美凰は一度として自分に愛の言葉を囁いてはくれなかった。

〔美凰はついに、俺を愛しているとは言わなかった…〕

 愛されていない哀しみ、そして汚れた手で彼女に触れる事が許されないであろう将来の生活に尚隆は疲れてしまったのだ。

〔美凰はきっと、俺の汚れた手を嫌がる…〕

 このまま結婚生活を続けていれば、美凰の意向に反してでも無理矢理に身体を奪ってしまうだろう。
 光明のない八方塞りの生活から逃れる為には、何もかも捨ててなかったことにするのが一番だ。
 傷つく事を恐れた尚隆は、美凰を傷つけてでも逃げる事を選んだのだ。

〔忘れ去られてしまうより、憎まれている方がずっとマシだ…〕

「本心だとも! 君にはもう厭き厭きだ…。慰謝料はたっぷり払うと伝言させた筈だぞ。俺は今まで通り、沢山の女を好きにして自由に生きる。君は…、君の好きにすればいい…」
「…。では、わたくしはあなたに生涯ついて参りますわ。どこへでも。どんな所でも。そして、どこまでも…」

 美凰の柔らかな言葉に、尚隆は双眸を見開いた。

「美凰…」
「わたくしは、あなたが思っていらっしゃる程に心栄えの美しい人間ではありませんわ。とても汚い、醜い女ですのよ…」

 手元の離婚届を撫でつけながら、美凰は遠くを見つめる眼になった。

「隼人さんとの結婚の事、以前に伺っておいででしたわね?」
「……」
「父の借金、要の病気、そして事故の為に身体を悪くしたわたくしは不慣れな就職…。お金に困って、身売りしたも同然。隼人さんはわたくしが職業安定所で紹介された就職先の社長さんだったんです。自分のことを愛していなくてもいい。自分が愛しているからそれでいいと。彼の…、彼の望みは、子供を産むこと。癌に侵されて、余命が幾許もない彼の、この世に生きた証が、あの方は欲しかったんです…」
「……」
「今はもう総てが誤解だったと解りましたが…。あなたに捨てられたと思い込んで、自殺まで図ったわたくしにとって、世間を知らず、愛も希望も失ってしまった子供同然のわたくしにとって、お金の事ばかりで悩み続ける生活が本当に辛かったんです…」
「……」

 無言の尚隆に、美凰は身じろぎもせずに言葉を続けた。

「あなたとご一緒になれないのなら、男性は皆同じだと思いました。当時はよもや子供が望めない身体などとは露ほども思いませんでしたから…、切羽詰っていたわたくしは隼人さんのお申し出を受けて、結婚しました…」
「……」
「でも、結婚式の夜…、わたくしはあの方を受け入れる事が出来ませんでした…」

 口許を引き締めた尚隆は拳を握り締めていた。

「ど、どうしても駄目だったんです…。あ、愛していない人に身体を許すなんて、と、とても、出来なかった…。あなたのお顔が…、浮かんできて…」
「もういい…」
「あ、あなただと思おうとしたけど…、駄目だったの…」
「……」

 美凰は懸命に嗚咽を堪え、言葉を続けた。

「隼人さんには、本当に惨い仕打ちをしてしまいました。騙したも同然です…。そ、それなのにあの方はわたくしの事を心から大切にしてくださいました…。もう少し長生きが出来たなら、いつか愛し合える様になればいいんだけどね…、そう仰ってくださったの…」
「美凰…」
「本当にご立派な方でした…。わたくしとの事は、さぞかし無念でいらっしゃったと思います…」

 その言葉に尚隆は心の中で頷いた。
 男として、さぞ無念の思いを抱いて死んでいった事だろう。
 嫉妬心を抑える事は出来ないが、今初めて、亡くなった神宮司隼人という人物を同性として哀れに思う尚隆であった。

「隼人さん、陽性の癌摘出手術が成功して、お医者様に寿命が3年から5年延びたと太鼓判を押して戴いたんです。それなのに…。突然の死亡は、阿選さんが兄に対して毒を持った為だという事が今回初めて判明致しました…。阿選さんは、わたくしを手に入れる為に、実の兄まで…」
「……」
「あなたが彼を…。わたくし、心から感謝してますの…。あなたの事を人殺しだなんて、これっぽっちも思ってなどおりません…」
「だが、俺は人殺しだ! 間違いなく!」
「尚隆さま…」



 華やかなパレードが近づいて来ている音が、風に乗って聞こえてくる。

「俺は、後悔していない…。あいつらを殺した事、そして直人叔父を殺した事…。俺は…」

 美凰はベンチから立ち上がり、尚隆の前に跪いて彼の手をそっと取ると憔悴した男の眼を愛情込めて見上げた。

「わたくしも、両親を自らの手に掛けた殺人者ですわ。ご承知の通り、あなたの元へ行こうとして車に撥ねられた時、わたくしを引きとめようとした父と義母は事故に巻き込まれて、間もなく死亡しました…。その事に罪悪感を持ちながら、それでもわたくしはあなたの元へ行こうとしました。あなたとの愛を貫きたいと思いました…」
「……」
「お訊ねします。お手紙に書かれたお言葉がご本心であるならば、美凰の眼を見て、今一度仰って…」
「……」

 なんという残酷な脅しだろう。
 眼前にいる美しき脅迫者。
 この世で只一人、心から愛する女は血の滲むような思いで書いた文面を口にしろという。
 これが、今まで散々に彼女を脅し、辱めた事への復讐だというだろうか?

「俺は…」

 言える筈も無かった。
 荒れ果てた大きな手の甲に唇を寄せた美凰は、そっとキスをして優しく愛撫を繰り返した。

「本当に、遅くなりました…。5年という月日を、無駄にしてしまって…。でも今度は間に合いましたわ…」
「……」

 美凰は微笑みながら立ち上がり、愛する男の腕の中にぶつけるように全身を委ねた。

「愛しているわ…。あなたを愛しているの…。お願い! ニューヨークへ行くと仰るのなら、わたくしも連れて行って! あなたに見捨てられたら、今度こそ生きていけない!」

 自分の胸の中に崩れ落ちてきた薔薇の花に、そして熱い愛の告白に尚隆は圧倒されていた。

〔信じられない?! 美凰が、美凰が俺に愛を告げた…。愛していると?! 俺がいなければ生きていけないと…〕

「美凰…」

 驚愕に固まってしまった尚隆の唇に、美凰は自ら優しいキスを捧げると、男の首にしがみついてその耳朶に囁いた。

「もう二度と、あなたを他の女性に奪られたくないの! お願い! わたくしだけのあなたでいて!」
「……」
「で、でも…。もし…、もしわたくしがどんなに努力しても、あなたのお心が他の女性に向かれたとしても…、わたくしだけのあなたでいてくださらなかったとしても…、わたくしは生涯、あなたひとりを愛し続けます! 尚隆さま!」

 それ以上の、美凰の言葉は声にならなかった。
 尚隆の熱いキスと抱擁が彼女に襲いかかったからである。

「美凰! ああ美凰! 俺を…、俺を赦すと言うのか?! 信じられない! 俺は…」

 膝の上に乗せた美凰の身体を抱き締め、やっと手にした愛しい女の唇から唇を離しつつ、尚隆は辛そうに首を振った。

「尚隆さま…」
「俺は…、君を愛しているのに、ずっと愛し続けていたのに…、その真実を無視して、君を誤解し、辱め…、そして…」

 美凰はそっと尚隆の口許を塞ぎながら彼の顔を見上げた。

「わたくし…、ひとつだけあなたを脅迫しますわ」

 その言葉に、逞しい男の身体がびくりと揺れた。

「……」
「赤ちゃんを授けて…。授けてくださらなかったら、絶対にあなたを赦さない…」

「美凰…」

 美しい黒曜石の双眸に涙が盛り上がる。
 だが、薔薇の様な美貌の花顔は、男が焦がれ続けた心からの微笑を浮かべていた。

「どんなに年月がかかってもいいの…。あなたの赤ちゃんが欲しい! 亡くなった赤ちゃんが約束してくれたのですもの…。わたくしたちがいつまでも愛し合い、幸せな夫婦でいたなら、いつかきっと…、わたくしたちの所に還って来てくれるって…」

 愛しさの余り、尚隆の腕に力がこもった。
 なんという女なのだろう…。 
 敵わない…。
 そして尚隆はもう、これ以上自分を偽る事が出来なかった…。

「俺は…、俺は君に償いを…。もう二度と、傷つけないと自分自身に誓った。俺は…」

 この期に及んで小さく呟く尚隆に向かい、美凰は頸を振って再びしがみついた。

「それならお願い! お約束なさって! 今夜、愛していると100回仰って! そしてもう二度、美凰を離さないと! それだけでいいの…」
「美凰…」
「償いなんていらない! 傍にいたいの! あなたを愛しているから…、それでいいの! あなたは…、あなたは、そうではないの? 尚隆さま?」

 もう限界だった…。
 骨まで折れんばかりに柔らかな身体を抱き締めた尚隆は、嗚咽を堪えつつ腕の中の美凰が幻ではないか、何度も何度も手探りを繰り返し、確認し続けた。

「俺を赦してくれ! 君を愛している俺を…、君を手離せない俺を!」
「あなた…」
「ああ、愛している! 君だけを愛している!」
「わたくしも! あなただけを愛し続けてきたの! ずっと!」

 ディズニーキャラクター達の夢のパレードが、熱いキスを交し合う二人のベンチの前を華やかに通り過ぎてゆく中、恋人達は漸く互いが互いを取り戻したのであった…。





「ひとつだけ…、お聞きしてもよろしくて…」

 縋りついていた逞しい胸の中から頭を起こした美凰は、じっと尚隆を見上げた。

「なんだ…」
「あなた…、あ、あのホテルで万里子さんって方と…、か、関係なさったの?」

 尚隆は一瞬、眼を見張り、それから深々と溜息をついて腕の中の美凰を見つめ返した。

「…。君と再会する以前は…、何度か…」

 小さな嫉妬の痛みに美凰の眸が翳り、身体がびくりと揺れる。
 そんな美凰を離すまいと、尚隆の腕に力がこもった。

「だが君と再会してからは、君以外の誰ともベッドを共にしていない…」
「……」
「君への愛を無視しようとしていた俺は、何度か他の女を抱こうとした…。でも、出来なかった。その時は、君への愛を自覚していなかったから、却って君を憎んだ。君以外の女に身体がいう事をきかなくなったのは君のせいだと、わけのわからない逆恨みを…」
「尚隆さま…」
「あの時は…、あの医者と楽しそうに食事をしていた君へのあてつけに、ああ言っただけだ…」

 見つめる尚隆の眼に偽りはなかった。
 そして嘘をつける筈の事項を、彼は素直に認めた。
 美凰は納得した様にそっと頷くと、再び尚隆の胸に頬を摺り寄せて静かに囁いた。

「わたくしたちの赤ちゃんの事、きっとお約束なさって…」

 尚隆はゆっくりと噛み締めるように頷いた。

「…、解った。きっと…、きっと約束するぞ…」
「今までの事はもういいの…。未来を考えましょう…。わたくしたちは今まで辛い日々を離れ離れで生きてきたのですもの。これから先は、きっと幸せしかありませんわ…」
「美凰…」
「あなたがいて、わたくしがいる。そして家族が…。単純ですけど、普通の幸せが…」
「……」

 不意に、尚隆の胸ポケットの携帯電話が鳴り響いた。
 発信は六太からだった。



「六太か?」

『美凰と逢えたんだろーな?! おれ、総帥なんて絶対やだかんな!!! 解ってんだろ?! お前、変なトコで殊勝になんなよ!!! 色々考えた末なんだろうけど、元からおれには親父やお袋なんて居なかったんだよ。だからつまんない事気にすんな。それにおれ、新しく家族が出来たし、暫くは家族ごっこ、幸せごっこももいいかなって思ってる…。まあ、お前も混ぜてやっから我儘言ってねーで、ニューヨークでちょっと物見遊山して来たら美凰と一緒に帰ってこいや! うだうだくだらない事並べ立てて美凰を悲しませてる様だったら、おれが美凰を嫁さんにすっぞ!!! いいな!!! 解ったな!!!』

 言いたいだけ言うと、六太はぷつんと電話を切ってしまった。

「六太の奴…」

 尚隆は息をついて苦笑しつつ、通話ボタンを切った。

「六太は、子供の様で大人なんですのよ。きっとあなたとは似ていらして、そして正反対なのね…」
「…。ああ…、そうかもしれんな…」

 ほんの一瞬、携帯を眺めていた尚隆は苦笑すると電話を胸ポケットに戻した。
 単純な、当たり前の生活の中の幸せ…。
 それこそが長年、尚隆や六太が求め続けていたものに違いない。
 そしてその希求を、与えてくれる女が腕の中にいる。
 そう。
 長年乾いた砂漠を彷徨い続けた尚隆の許に、やっと幸せが訪れたのだ…。





 漸く落ち着いた二人は、周囲に眼をやった。
 するとどうだろう。
 パレードが終了して三々五々散り散りになった観光客達が、奥まったベンチで繰り広げられていた美男美女の熱いラブシーンをちらちら見ながら通り過ぎてゆく。

「まあ…」

 美凰は真っ赤になって尚隆の膝から降りた。
 その瞬間…。

「会長…、美凰様…。失礼致します…」
「朱衡…」

 二人に向かって歩み寄ってきた朱衡の顔は少しだけ強張っているようにも見えた。

「やれやれ…、折角、夢と魔法の国を楽しいでいるというのに…、千客万来だな?!」

 片眉を上げて朱衡を見つめる眼の色が、普段の尚隆に戻りつつある。

「失礼なことを仰ってはいけませんわ…」

 尚隆の言動を静かに窘める美凰に、そして久しぶりに眼にする主の穏やかな様子にほっとした朱衡は、静かな微笑を浮かべて深々と一礼した。

「おめでとうございますと、申し上げて宜しいのでございますね?!」

 尚隆はベンチから立ち上がり、美凰を引き寄せると静かに笑った。

「なんて顔をしている?! 朱衡!」
「はは…」

 美凰は朱衡に向かって優しく微笑んだ。

「朱衡さん。申し訳ないのですけれど、急いで車を成田に向かわせて戴けます? 飛行機の出発に間に合いませんわ…」

 その言葉に尚隆は驚いた。

「美凰! 君は…」
「朱衡さんにお願いして、わたくしの航空券も取って戴いておりますの」

 そう言うと、美凰はハンドバッグの中から航空券を取り出そうとし、その拍子に手にしたままの離婚届に気がついた。
 美凰はにっこりと花顔を上げ、手にしていた封筒を尚隆に差し出した。

「サインはしておりません。ご処分は…、あなたに委ねますわ」

 受け取った尚隆はゆっくり頷き、手にした封筒を静かに二つに引き裂くと、上着のポケットにねじ込んだ。

「朱衡、今夜のニューヨーク行きは取り止めだ!」

 その言葉に美凰は眼を見開いた。

「えっ?」

「美凰を休ませてやらなくては…。また熱が上がり始めているぞ!」

 繊肩を抱いている手にじんわりと伝わってくる熱気に気づいた尚隆は、心配げに呟いた。

「い、いけませんわ! 航空券が無駄になってしまいます…」
「構わん! そんなもの君の健康の事を考えればなんでもない。朱衡、とにかく…」
「承知いたしております…。既にディズニーホテルのスイートをご用意しておりますので、直ぐにチェックインいたしましょう。月梅医師と山城婦長にご待機戴いておりますよ」
「まあ、朱衡さん…」

 朱衡はにっこりと微笑んだ。

「3日程はこちらでごゆっくりなさいませ。ニューヨークへはいつでもご出発できます。まずは美凰様のご回復、そして会長もご体調を整えられるべきです。どちらに致しましても、ニューヨークでのご観光をお済ませになられ、ご帰国なさいましたら、ご結婚式、ハネムーンと、慌ただしい行事が続くのですから…」
「まあ…」
「会長にはその前に決算後の株主総会にご出席のお仕事がございますよ! いよいよご家庭をお持ちになられるのですから、腰を据えて職務にもお励み戴きませんと…」

 相も変わらず手際の良い秘書室長の言葉に、尚隆と美凰は互いに顔を見合わせ、そしてくすくすと微笑みあった。

「解った、解った…。煩いぞ、本当に…」

 苦虫を噛み潰した様な、だが晴れ晴れとした表情の尚隆と、嬉しそうに彼に寄り添う美凰の幸せそうな姿に、朱衡は大きく頷いた。

〔総ては終わった…。やっと…〕

 漸く幸せを手にした恋人達を見つめつつ、朱衡は微かな痛みを永遠に胸の奥へ仕舞いこむ事を心に誓った。





「わたくし…、あなたに買って戴きたいものがあるの」

 美凰の言葉に尚隆は大きく頷いた。

「…、ああ。解ってる。朱衡、先に行ってろ。ホテルはどこだ?」
「『ホテルミラコスタ』でございます。エントランスにお車を回しておきますので…」
「解った。車で暫く待っていてくれ」
「畏まりました…」

 朱衡に見送られつつ、尚隆と美凰はおずおずと手を握り合い、そしてワールドバザールのとあるショップへとゆっくり歩み去った。
 そう。
 二人して壊してしまった、あの雛人形を再び手に入れる為に…。





 三日後…。
 六太は阪大病院の特別室でワイドショーの生中継を、不貞腐れた様子でじっと見つめていた。

『世界的セレブ、不仲説を一掃! 夫人と和解の上、ニューヨークラブラブ旅行か?!』
『初映像! 小松夫人は薔薇の花の様な美貌! 中世の貴婦人スタイルの清楚なウェディングドレス姿にハンサムな夫はもうメロメロ!』
『ディズニーホテルで二人っきりの極秘結婚式?! ディズニーキャラに囲まれた夫人のお色直しはオーロラ姫のドレス! ラベンダー色の美しいドレス姿にご満悦の小松会長!』
『美女と野獣ならぬ現代のシンデレラと王子様は丸2日間、甘いスイートに閉じこもりっきり?! 1泊50万円のイル・マニーフィコ・スイート内での二人だけの豪華なディナーは、セクシーな黒ドレス姿でプレイボーイの夫を圧倒! 匿名希望の証言、「ちらりと垣間見た小松総帥夫人のダイナマイトバディは圧巻!」』

 どこのチャンネルを回しても、取り上げられているネタは同じである。
 そして、ニューヨークへ旅立つ為に成田空港に現れたカジュアルな姿の尚隆と美凰の周囲には、多数の報道陣が集まっていた。
 サングラスを掛けた尚隆が、同じくサングラスを掛けて目深に帽子を被った美凰を庇うように、足早にマスコミの前を通り過ぎる。
 二人の周囲を何名もの黒服のSP達がカメラマンやリポーターの突撃を阻止するのに四苦八苦していた。

「ちぇ! なんだよ! なにがささやかな二人っきりの結婚式だ! 勝手な事しやがって! 帰ってきたら思いっきりとっちめてやるぞ!」

 今朝、手許に届いた3枚の結婚式の写真を眺めつつ六太は鼻を啜った。
 薔薇と真珠に包まれた美しいウェディングドレス姿の美凰が、シンプルな黒い燕尾服の尚隆と腕を組んで幸せそうに微笑んでいる。
 周囲には盛装したドナルドダックやデイジーダック、そしてミッキーやミニーといったディズニーのキャラクターが花びらを撒き散らして、二人の婚姻を祝福していた。
 六太は写真を丁寧に封筒に仕舞うと、アップになったサングラス姿の尚隆の横顔に向かっていーっと舌を出し、テレビのスイッチをぷちんと切るとベッドに不貞寝をした…。
 


 同じ頃、関西空港で同じ番組を見ていた人物が、出国準備の為にソファーから立ち上がった。
 ブランド物のスーツがハンサムな容貌によく似合い、一目でわかるセレブな雰囲気が通りすがりの女性達の視線をより一層釘付けにしている。

「乍先生…」

 複雑な表情で言葉を詰まらせた要に向かい、乍驍宗は静かに微笑んだ。

「そんな顔をしてはいけない、要君…」
「……」

 今日は奇しくも驍宗が、要の為に日延べしていたドイツへ出発する日でもあったのだ。
 成田と関西、それぞれの空港から今までの人生の足跡への別れと新たなる旅立ちであった…。

「お姉さんは、やっと幸せを手にしたんだ。祝福してあげるんだよ…」
「それはもちろん…。でも、ぼくは…、ぼくは出来れば、先生がお義兄さまでいらしたなら…」

 驍宗は優しく首を振り、要の前に跪いた。

「要君、頑張って早く元気になるんだ。そして君の夢を叶えたまえ。わたしは…」
「……」
「わたしはドイツで、君が立派な医師になる事を心待ちにしている…」
「先生…」
「何年かかっても…。いや、君の優秀さなら、あっという間の事だろうね…」

 要の澄んだ双眸に涙が浮かび上がる。
 美しい姉に良く似た黒曜石の瞳…。

〔さようなら、美凰さん…。どうか幸せに…〕

 フライト情報の放送が交錯する中、涙を拭う要の頭をそっと撫でながら驍宗は、心の中で愛する美凰への別れを告げた。





 この後、ニューヨークから帰国した尚隆と美凰は、文句たらたらの六太を宥める為、極少数の身内や知人を招待し、再びディズニーホテルで披露宴を行わなければならなかった。
 爽やかな風薫る、ジューンブライドである。
 そして待望の第一子はその1年と少しの後、待ち焦がれた青い星の王子様にいたっては、なんと20年近く後に二人の許へと還って来てくれるのであった…。



          完

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