美しき脅迫者 3
 真夜中に発した高熱は夕方頃まで続き、美凰は夢現の状態を丸一日彷徨った。
 うつらうつらしていた時、幾度か尚隆の姿を眼にした様な記憶があったがそれも朧な気がし、漸く意識がはっきりする様になったのは熱が沈静化し始めた深夜であった。
 枕元の仄かな灯りの中、ふっと目覚めた美凰はサイドテーブルの引き出しを静かに閉める尚隆の姿を見出した。
 ハンサムな面差しは暗く翳り、強張った口許が何か発したような気がした…。

「尚隆…、さま…」
「気が、ついたのか…」

 ばつが悪そうにしている尚隆に向かって、美凰はそっと手を差し伸べた。
 がさがさに痛んだ手が、熱っぽい繊手を握り締める。

「手が…、とても荒れて、いらっしゃるわ…」

 乾いた唇の小さな呟きに、尚隆は手を引っ込めようとした。

「すまん…」
「お可哀想に…」

 美凰は自らの手の中に荒れた大きな手を握り返し、愛しげに撫でた。

「まだ…、修理を…、なさって、いらっしゃるの?」
「……」

 返事のない尚隆に美凰は柔らかく微笑んだ。

「もう、宜しいんですのよ…。あの、お人形の事は…、わたくしが、いけないのですもの…。また、買い求めますわ…」
「……」

 美凰はそのまま、静かに眼を閉じた。

〔夢かしら? でも、次に目が覚めて、あの方が傍にいらしたら一番に言うの…。『愛しているわ』と…〕

 断続的に続く微熱に苛まれながらも、これから始まる尚隆との未来を思い描く美凰の心は幸せに満ち溢れていた。

〔今度こそ…、5年前に掴めなかった幸せを手にするの…。尚隆さまとの幸せを…〕

 心に何のわだかまりも無くなった今、愛する人との夢にまで見た幸せの日々を思い描きながら、美凰はうっとりとした表情で深い眠りに落ちていった…。
 いつの間にか、大きな手がすり抜けていった事にも気づかずに…。





 朝の光が眩しく室内に差し込み、窓の外には雀が楽しげな囀りを響かせている…。
 重厚な樫のドアには『面会謝絶。関係者以外の入室を禁ずる』という重々しい看板がかけられ、ドアの外には男女のSPが交代で常に警護を固めているというのに、美凰が朝食をとっている特別室内からは子供達の明るい笑い声が響き渡っていた。

「まったくもうっ! いい加減になさいませ! 六太様に要様っ! 美凰様はお熱が漸く落ち着き始めた所なんですよっ!」

 重湯に近いお粥を少しずつ口にしている美凰の傍にいる六太と要に向かい、山崎婦長のキンキン声が響き渡る。

「ごめんなさい…。姉さまのおかげんが良くなったのがうれしくて、つい…」

 申し訳なさそうに謝る要を尻目に、車椅子に座ったままの六太はぶすっと膨れっ面になった。

「なんだよ! 山崎! いいじゃねぇか! 少しくらい! やっと美凰の具合が落ち着いてきて話も出来るようになったんだぜ。要だってずっと寂しい思いしてたんだから…。おれにしてみりゃ、あんたの声の方がよっぽど煩いぞ! 大体だなぁ〜 おわっち!!!」

 山崎婦長は口の悪い六太の両耳をつまみ、遠慮なく引っ張りあげる。

「いでででっ! いでぇよぉぉぉ!」 
「本当にお口の悪い! ご自分も横になっていらっしゃらなければならないというのに…。どうしてこうもいう事をお聞きにならないのでしょうねぇぇぇ!!!」

 細身の女性のわりに婦長の指圧・握力は凄まじいらしく、六太は痛みに顔を顰めて仰け反った。

「お、おれ、肋骨折ってるし、怪我もしてんのよ…。そんな手荒な…」
「なんでございますって? 」

 六太は顔を顰め、両手を万歳して降伏した。

「ごめんなさい! 婦長さん! 山崎さまっ! おれが悪かったよ! 静かにしてるから、お願い…。離して…」
「本当に静かになさっておいでですね?!」
「してるしてるっ! ど、どっちみちもうすぐ朱衡が来るから…」

 六太と山崎婦長のやりとりを、要と顔を見合わせて微笑みながら見ていた美凰はその言葉にはっとなった。

「朱衡さんが?」

 お仕置きの魔の手が両耳から離れてゆき、六太はひいひい唸りながら耳を擦った。

「うん…。なんかおれに大事な話があっからって…。おーっ! いってぇぇぇ〜! まったくひでぇばばあだな…」
「何か仰いましたか?」

 ぎろりと睨んでくる眼に、六太は竦みあがった。

「い、いいえ! な、なんでも! お、おい、要! そこのバナナ取って!」

 要はくすくす笑いつつ、お見舞いとして次々に届けられる果物籠の中からバナナを取って六太に手渡した。

「六太さん、また食べるの? さっき朝ご飯、一杯食べてたのに…」
「いいのいいの! おれの胃袋って無制限だから…」
「お茶、入れるね。そんなに急いで食べてらしたら、さっきみたいに喉つまっちゃう…」
「すまねぇな〜」

 六太はお茶の準備をしている要の姿を、にこにこ微笑みながら見つめていた。
 生まれて初めての、子供らしい幸せの時間。
 彼はやっと掴んだ、ずっと心のどこかで望んでいた単純な幸せをただ楽しんでいたのだ。





 ご馳走様をした美凰の手から半分以上残った朝食の茶碗を受け取った山崎婦長は、溜息をついた。

「美凰様、もう少しお召し上がり戴けませんか? 体力が復調いたしませんよ…」
「でも、もうお腹が一杯なの…。本当にごめんなさい…。夜にはもう少し食べれると思いますわ」
「本当ですね! 嘘をおつきになってはいけませんよ!」
「はい…」

 温かいお茶を服している美凰の横で、不承不承に朝食の後片付けをしていた山崎婦長だったが、気持ちを切り替えて投薬準備をし始めた。

「じゃあ、姉さま。ぼく、家庭教師の先生がいらっしゃる時間だから…」

 時計が午前8時半を差しているのを見た要は、慌てて立ち上がった。

「しっかり学習するのよ…」
「うん! それじゃ六太さん、またお昼にね!」
「おうよ! 今日はここで皆一緒に食おうぜ!」
「はぁ〜い!」

 要は嬉しそうに頷き、軽い足取りで病室を出て行った。
 そんな要の姿に美凰は涙ぐんだ。

〔もう要の事も心配しなくていい…。あの子の人生は、これから輝かしいものになるのだもの…〕

 手術が成功し、すっかり健常者になった要は、尊敬する乍先生の様な立派な医者になって世界中の困っている人たち助けるのが自分の夢だと、美凰に熱く語ってくれた。
 元来頭のいい子なだけに、身体さえ丈夫になってくれればと思い続けた願いは漸く叶い、美凰の苦労も漸く報われたのである。
 もう、何の心配も要らないのだ…。
 あとは…、あとは…。





 投薬と回診が終わり、遠慮して席を外していた六太が戻ってきた時にドアをノックする音が響いた。
 美凰は薔薇色のガウンのベルトをしっかりと結び直して返事をした。

「どうぞ…」
「失礼致します…」
「まあ、朱衡さん…」
「お早うございます。美凰様、六太様…」

 相変わらずの白皙の美男ぶり。
 小松財閥の中枢を支える怜悧な秘書室長は、重々しい表情で美凰と六太に向かって礼をとった。

「なんだぁ〜 朱衡? 朝っぱらから暗い顔して〜」

 六太は自動販売機で買ってきたコーラを飲みながら、へらへら笑った。

「早朝より申し訳ございません…」

 朱衡のただならぬ様子に、美凰は妙な胸騒ぎを覚えた…。

「会長から美凰様宛にお手紙を預かって参りました。この封筒に中にございます。どうぞ、お確かめくださいませ…」
「……」

 朱衡から手渡された大きな茶封筒の中身を取り出した美凰は、驚きに眼を見張った。
 二つ折りにされた手紙、預金通帳、印鑑ケース、そして区役所名の入った小封筒が入っていたのだ。

『阿選の事も片付いたので予てからの約束通り、離婚の手続きを開始する事にした。総ては朱衡に命じてあるから、彼の指示通りにしろ。慰謝料の額が少ないようなら、速やかに善処して貰うように。…、子供も産めない病弱の君にはもう厭きた…。もう二度と、会う事はないだろう…。尚隆』

 走り書きの文面を、信じられない思いで何度も何度も読み直した美凰は呆然とした表情で膝の上に散らばっている預金通帳と印鑑、そして恐らく離婚届が入っているのだろう小封筒をじっと見つめた。
 通帳名義は「花總美凰」印鑑も「花總」となっている。
 顫える手で通帳を開いた美凰は、更に驚愕した。
 新規取引残高は3億円となっていたのだ。

「し、朱衡さん! これは一体?!」
「その口座には来月から毎月1千万円が美凰様とご家族の生活費として振り込まれます。万が一ご再婚あそばされた後も変わること事なく、期間は無期限です。不足でいらっしゃる場合はいくらでも増額いたしますので、ご遠慮なくわたくしにお申し付けくださいませ」
「朱衡さん…」
「現在お住まいのマンション、家財道具、それから…、今までお渡しした総てのものは美凰様のお好きになさるようにと、会長から言付かっております…」
「……」

 悄然と項垂れてしまった美凰に向かって淡々と語る秘書室長に向かい、怒り心頭の六太は身体の痛みも忘れて車椅子から立ち上がると朱衡の胸倉に食ってかかった。

「なん、だよ? それ一体なんなんだよっ? あいつ、美凰と離婚するってのか! どこをどうしたらそんなわけ解んない結論に達するんだよっ! あいつは?! やい朱衡っ! お前なんでそんなに冷静なんだよっ?! なんであいつの莫迦止めないんだよっ?!」
「お止め申し上げました!」
「!」

 朱衡のいつにない激しい口調に、彼の胸を揺すぶっていた六太の手が止まった。  

「六太様…。会長は…、会長は小松財閥総帥の座を六太様に譲られ、小松を継ぐ以前どおり、建築士となってアメリカに永住なされると仰せでございます…」
「な、んだって?!」

 朱衡の言葉に、美凰ははっと顔をあげた。
 六太はぶんぶん首を振った。

「お、おれ…、絶対やだかんな! なんでおれが小松を継がなきゃなんねぇんだよっ! あの莫迦! まさかとは思うけど、直人と夏蓮に対する償いとかって言うなよ?! あいつらの血なんか…、おれは大っ嫌いなんだからなっ! 血が入れ替えられる手術が受けられるってんなら…、大金積んでもやりたいと思っているおれに小松継げってのかっ!」

 六太の心からの叫び声に、朱衡の眼が見開かれた。

「六太様? よ、よもや!」
「知ってるよ…。知ってんだ、おれ…。どんなに隠してたって…、そーいう事はいずれ判るもんなんだよ…」

 肋骨に激しい痛みが走ったらしく、六太は胸を押さえながらよろめいて朱衡の胸の中に崩れ折れた。

「六太っ!」

 病室内に美凰のか細い悲鳴が響き渡った…。





 六太が自らの病室に戻されて適切な処置を受けている間に、朱衡は六太の出生の秘密を美凰に打ち明けていた。
 薔薇色のガウン姿の美凰は、佇んでいた窓辺から無言のままベッドサイドへと戻ってきた。

「そう、だったのですか…。なんてこと! 可哀想な六太…」

 自分の傷ついた心を押し隠し、六太を気遣う美凰を朱衡は痛ましげに見つめた。

「美凰様…、会長の事ですが…」
「……」

 与えられた手紙や通帳は、無造作にベッドの上に転がったままであった。
 美凰はベッドの上のものを丁寧に掻き集め、離婚届の入った小封筒以外を総て元の茶封筒に入れると朱衡に向かって差し出した。

「美凰様…」
「お、お金はいりません…。絵を…『雪月花』を返して戴ければそれで結構ですわ。あ、あれを売ればお金はなんとかなります。わ、わたくしも…、元気になればまた働きますから、ご、ご心配には及びません…」
「美凰様! 会長は!」

 必死の形相で言い訳をしようとしている朱衡に美凰は微笑もうと努力したが、溢れ出る涙はどうすることも出来なかった。
 昨日までの優しい尚隆からは信じられない言動だったが、こんな風に不意に終わってしまうものだとは。
 やっと、やっと愛を取り戻したと思ったのに。
 子供も産めない身体、病弱の女には厭きた…。
 尚隆の言葉は美凰の心を的確に抉った。

「り、離婚届には直ぐにサインいたします…。す、少し、お待ちになってください…。か、要の印鑑が確かサイドテーブルの中に…」
「美凰様、お待ちくださいませ! どうかわたくしの話を…」

 美凰は顫える手でサイドテーブルの引き出しを開け、そして一瞬、瞬きをした。

「!」

 印鑑を置いてあるトレーの上に、見覚えのない小さな桐の箱が無造作に載せられている。
 自分の持ち物ではない見知らぬ小箱…。
 中を確認した美凰は声にならない声を上げ、危うく箱ごと床にとり落としてしまう所であった。
 懐かしい、コンクパールの帯止め…。
 尚隆に初めて出会った時、帯につけていたもの。
 祖母、そして母の形見の中でも特にお気に入りの帯止めは、最後の最後まで手離せずにいたものを要の医者代の為に高価な値段で涙ながらに売却したのだ。
 昔のままの形と輝きで、それは桐の小箱に納められていた。
 それを確認した美凰の双眸に、新たな涙が浮かんだ…。



 そう。
 昨年、東京で美しいコンクパールの指輪を貰った時、帯止めを売却した事を尚隆に話した。
 会話の中の些細な事だというのに、尚隆は覚えていてくれたのだ。
 彼はこの小さな帯止めを行方を突き止め、取り戻す為にどれ程の苦労とお金をかけたのだろうか。

〔わたくしは彼を愛している…。どんな事があっても、愛する事をやめることが出来なかった…。勇気を持つのよ! 今度はわたくしが、あの人を追いかける番なのだから…〕

「金で総てが片付くとは、会長もよもや思ってはいらっしゃらないでしょう。ですがご自分が美凰様に与えた多大なお苦しみのことを考え、償いを形に表わすとしたら、こうなさるしかなかったのだと思います…。美凰様からの愛を得られない以上…。ましてや、貴女様をお救いになる為とは申せ、人の命を殺めてしまった会長は…」
「朱衡さん…」
「は…」

 美凰は涙を拭い、帯止めを手の中に大事に包みながら朱衡を振り返った。
 それは咲き誇る薔薇の花の様な面差しで、朱衡の胸に染み入る様な美しさであった。

「あの方は…、尚隆さまはどこにいらっしゃいますの?」
「美凰様! では…」

 朱衡の顔に喜色が走った。

「ま、まだ出国はなさってはいらっしゃいませんわね? わたくしが夢を見たのではないなら、あ、あの方は深夜にここにいらっしゃいましたもの…」
「ニューヨーク行きの航空券は今夜7時前に成田を出発するものをお取りいたしましたので…」
「成田…。では東京のどこかにいらっしゃいますのね?」
「おそらくは…。ですが場所の断定までは…」
「わたくしには…、解ります…。きっと、あの場所にいらっしゃいますわ…」

 美凰は身じろぎもせずに朱衡を見据え、にっこりと微笑んだ。

「きっと…」





 平日だというのに、相も変わらずディズニーランドは盛況であった。
 カジュアルなスタイルで園内を右往左往する人々の中で、およそ遊園地で闊歩する姿とはいえないブランド物のスーツを身につけ、ベンチにどっかりと腰掛ける憔悴した男の姿はかなり異質な存在であった。
 5年前、この場所にレジャーシートを敷き、ファーストフードのランチを頬張りながら、華やかで夢の様なパレードに眼を奪われた。
 子供の頃には縁のなかった、初めての遊園地。

〔あの日の俺は本当に幸せだった…〕

 もう間もなく、午後の部のパレードが始まる。
 時刻は4時近い…。

〔そろそろ成田に向かわないとな…〕

 そう思いながらもその場を動けない尚隆は、場所取りをする人々の誘導や世話をする係員達の行動をぼんやりと見つめていた。

「ここは夢と魔法の国なんですから、そんな強張ったお顔をしていらしてはいけませんわ…」
「!」

 あの日と同じ柔らかな声、そして言葉…。
 立ち上がって振り返った尚隆の眼に、優しく微笑む愛しい女の姿が映った…。

_93/95
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