誘拐 5
 廊下を駆け抜けていた六太と香蘭は再び、数発の銃声と男女の入り乱れた叫び声を耳にした。
 はっとなった二人の視線の彼方、数十メートル先の鉄の扉が乱暴に開け放たれたかと思うと、中から屈強な男が4人、慌てふためいた様子で廊下に転がり出てきた。

「な、なんなんだ? あいつら!」

 男達は顔面蒼白で口々に何かを叫びながらこちらに向かって駆けて来たかと思うや、六太や香蘭の事など眼中にない様子で脱兎の如く逃亡していった。

「お、おい! お前ら! くそっ!」
「あ、六太様!」

 香蘭の制止を無視した六太は、男達が転がり出てきた部屋まで辿り着くと息を切らしながら中を覗き、そしてその美しい双眸を見開いた。

「美凰っ!」

 最初に眼の中に飛び込んできたのは、血飛沫を浴びて壁に背中を凭せ掛けたままぐったりとした美凰の白い裸身。
 その傍には、硝煙が立ち昇る拳銃を手にしたまま仁王立ちしている阿選という男。
 そして、自分の足許で弱々しく蠢く女から漂う血の匂い。
 最も忌み嫌いながら、生涯断ち切ることは出来ないと思っていた女の断末魔にも等しい姿…。

「夏蓮…、お前…」

 六太は硬直した状態で足元に転がっている夏蓮を見つめ、夏蓮は阿選に撃たれた腹部の痛みに呻き声をあげながら六太を見上げると、血塗れの手を伸ばして救いを求めた。

「ろ…、ろく、た? なんで…、あんたが、ここに…。う、うぅっ…。な、なんでも、いいわ…。早く、あたくしを、たすけ、なさい!」
「……」
「なに、ぼんやり、してんのよ…。母親を、見殺しに、するつもり…」
「…、母親! お前、今更何言ってるんだ!」

 その言葉に呆然としている六太に向かい、阿選は驚いた様子で表情を歪めた。

「なんだ、小僧! お前、なんで生きてるんだ? 直人君のとこの黒服に始末して貰った筈だぞ?」

 俯いて嗚咽していた美凰はその言葉にはっと顔を上げ、涙に霞む視界の彼方に六太を見出した。

「ろ、六太! ぶ、無事だったの…、ね?」

 美凰の声に六太の思考がはっきりしてくる。

〔おれは美凰を助けに来たんだ! 夏蓮の事なんか知った事じゃない! …、母親でもなければ、子供でもない! おれの、おれの家族は…〕

 六太は激怒の表情で一歩前へ進んだ。

「残念! おれ、生まれる前から死線潜り抜けてきてっから、結構運が強いんだぜ! やいこらっ! てめぇが阿選って奴か? 大切な美凰を裸にしやがって! この変態野郎っ! おとなしく美凰を返しやがれっ!」
「…。変態…、だと?! この俺様に向かってなんだ! その言い草は!」
「変態を変態と言って何がおかしいんだ! 変態! 外道! もう美凰には指一本触れさせねぇかんな!」

 こめかみに青筋を立てた阿選は、悪鬼の形相に更に凄みを見せながら手にしていた銃を六太に向けた。

「このクソ餓鬼めが! べらべらと御託を並べやがって! お前の運はこれまでだ! 死ねっ! 死ぬがいいっ!」
「うっ!」

 身を護ろうにもどうすることも出来ず、六太は立ち尽くしたまま顔を歪めた。

「や、やめてぇぇぇっ!」
「六太様っ!」

 阿選の指が躊躇いなく引き金を引きかけたその瞬間、鉄の扉の影からぬっと現れた重傷の香蘭が阿選に向かって銃を放ち、そうとは知らぬ美凰が六太を助けるべく身の危険も顧みず、渾身の力を振り絞って阿選の足にしがみついていた。
 香蘭が心臓を狙って撃った銃弾は美凰が夢中で飛びついた為に外れてしまい、右肩を打ち抜かれた阿選は六太に対して向けていた銃をその場に取り落とすと、足に絡んでいる美凰の顔を殴って振り払った上、傷ついた肩を押さえてその場に膝を折った。

「うぐっ! あああっ!」

 人を傷つけ、血を流させる事にまったく痛みを感じない者は、自分自身の痛みには極端に弱い。
 阿選も例外でなく、自らの肩から流れる血と痛みに狂気の様な叫び声を発した。
 その隙を突いた六太は素早く美凰の傍に駆け寄り、床にぐったりと身を伏せた彼女の身体を抱え起こした。

「美凰! 大丈夫か?! なんて酷い目に…」
「ろ、六太…、ご、ご無事でよかった…」
「くっそぉぉぉぉ! こ、殺してやるっ! 美凰を痛い目に合わせやがって! お前なんか尚隆が来る前にこのおれが殺してやるっ!」

 何度も殴られて赤く腫れあがった美凰の顔を痛々しげに見つめた六太は怒りの余り、阿選が取り落とした銃を拾おうと四つん這いになって阿選の足許に飛びついた。
 しかし、阿選の動きの方が一歩早かった。
 六太の手が届く前に銃を拾い上げた阿選は、目の前で這っていた六太を思いっきり蹴り上げた。

「うぐっ!」

 六太は背中から壁に激突し、そのままぐったりとなってしまった。

「きゃあぁぁぁっ! ろ、六太っ!」
「六太様っ!」

 平然とした様子の阿選は、扉の前に立つ香蘭に向かって銃口を向けた。

「女! 銃をこっちへ投げろ! さもなくば美凰と餓鬼の命はないぞっ!」

 香蘭は無念の思いに唇を噛み締めつつ、銃を室内の隅に投げ捨てた。
 途端に香蘭は阿選が持っていた銃の柄で思い切り殴られ、廊下の壁に吹っ飛んだ。
 重傷の身である香蘭はその場に尻餅をつき、がっくりと項垂れた。
 阿選は彼女が投げ捨てた銃を拾い、脳震盪を起こして気絶している六太の傍に寄り、その身を庇って自分に背を向けている美凰を睨めつけた。

「美凰! お前っ! その餓鬼から離れろっ!」
「いやです!」
「美凰!」
「け、汚らわしい! わたくしの名を呼ばないで! ひ、人殺しっ! わ、わたくしはあなたの思いのままになど、けっ、決してなりません! わ、わたくしに触れていいのは、尚隆さま…。こ、小松尚隆さまだけです! あ、あなたなんかに誰がっ!」

 美凰の心からの叫び声に、阿選の顔は狂気に歪んだ。

「離れろって言ってんのが判んねぇのかよ! そんな餓鬼庇いやがってっ! この俺様の胸に、くそ餓鬼の顔を触れさせんじゃねぇーよ!」
「ああっ!」

 悪鬼の表情になった阿選は痛みの走る白い背中を何度も足蹴にしたが、美凰は六太を胸の中に抱き締めたまま決して離そうとはせず、痛みを堪えて呻き続けた。
 引き攣れた背中の古傷から血が滲み出ても、美凰は六太を庇って抱き締め続けていた。
 やがて、どんなに暴力を振るっても美凰が命がけで六太を庇い、自分を拒んでいる事を阿選は認めなければならなかった…。

「くそぉぉぉっ! どうしても言う事を聞かないつもりだなっ?! どうしても、どうしても俺のものにならないというんだなっ! なら、望み通り殺してやるっ! あの男に渡すぐらいなら、いっそ殺してやるっ!」
「……」

 阿選の頭に、もう理性は残っていなかった。
 手にした拳銃の撃鉄が引かれ、銃口が血塗れの背中に向けられる。
 絶望に死を覚悟した美凰は更に六太の身体を抱きこみ、震えながら唇を噛み締めた。

〔尚隆さま! 尚隆さま! 尚隆さま!〕

 阿選の指が引き金にかかったその瞬間…。

「ぐはぁっ!!!」

 無防備な背後に一発の銃声が響き渡り、阿選の奇妙な呻き声が美凰の耳に捉えられた。
 美凰はそっと顔を上げ、強張った身体をゆっくりと扉の方に向けると、驚愕に双眸を見開いた。

「あっ!」

 阿選は背中から打ち抜かれ、胸元からどくどくと溢れ出る血を押さえながら、ゆっくりと背後を振り返り、そしてまさかの思いに顔を歪めた。

「き、貴様…、ど、どうして、ここに…」
「お前の様なクズは…、背後から撃っても卑怯だとは決して思わんぞ!」

 そう言うと、半ば血に塗れたスーツ姿の小松尚隆は、銃を構えたままゆっくりと室内に入ってきた。



〔尚隆さまが…、尚隆さまが助けに来てくださった…〕

「尚隆さま…」

 美凰は喜びと安堵の表情になって、愛する男をじっと見あげた。
 対する尚隆は、気絶した六太を庇うように胸に抱き締めた全裸の美凰を、それこそ頭から爪先まで食い入る様に見つめた。

「……」

 自分に向けられた花の様に美しい面差しは、暴力を加えられた事を証拠づけるかの様に赤く腫れ、既に青痣が浮かび始めているものや爪痕の傷もある。
 散々に蹴られて血が滲んでいる背中の傷、そして犬の様に鎖で繋がれている足枷…。

〔鎖! 鎖に足枷だとっ! 俺の大切な美凰を鎖で繋いだのか!〕

 目の前に居る美凰の姿が、此処に至るまでに眼にしたおぞましくも無残な女達の光景と重なり、激怒を通り越した尚隆の理性は完全に潰えた。

「このけだものが! 貴様の所業だけは絶対に許さん!」

 憤怒の声に負けじとせせら笑い、阿選は血の吹き零れる胸元を押さえながらも尚隆を睨み返した。

「ははははっ! 一足遅かったな、会長さんよ! 美凰の身体…、存分に楽しませてもらったぜ!」
「……」

 阿選の淫らな笑い声に、尚隆は厳しい目元をぴくりと痙攣させる。

「嘘です! 嘘! わ、わたくしは決して…」
「黙れょぉ! この淫売がぁ! ついさっきまで、俺のものを銜え込みながら、さんざ浪がってたくせによぉぉぉ!」

 恐ろしい嘘の言葉を否定して声を上げた美凰に向かい、阿選は荒い息遣いでけたけたと笑った。

「まさしく…、薔薇の花と真珠の煌き! 極上品の味わい…。俺の刻印をたっぷり刻ませてもらったからな! 俺のものだ! 貴様なんかに二度と渡すっ! ぐはあぁっ!!!」

 鼓膜を劈くばかりの銃声が2度、3度と響き渡り、美凰は眼の前で起こった光景を呆然と見つめていた。
 心臓とそして下腹部を見事に撃たれた阿選は口から血を吐き出し、手にしていた拳銃を取り落としてよろめきながら黴臭いベッドにどっと倒れ込んだ…。
 そして、怒りの銃弾を放った尚隆の銃からは、白い硝煙がうっすらと立ち昇っていた…。

「こ、この…、ひ、ひと、ごろし…。自分が、なにやってんのか…、解ってんのかよ…?」

 阿選の断末魔に向かって、尚隆の怒号が轟いた。

「黙れ! 俺が人殺しなら貴様は何だ! 今まで誘拐された女たちの哀しみと痛みがたったこれだけで晴らせるとは思わんが、その姿なら地獄に行っても女を抱けまい! そして法という不可思議な権力に護られて貴様がのうのうと生き永らえ、被害にあった女たちの事をベラベラ喋らせるわけには絶対に出来ん! そんな事はこの俺が絶対に赦さんぞ! 俺の美凰が味わった恐怖と苦痛の何倍もの痛みを味あわせてやりたいのはやまやまだが、もはや貴様の声を聞くことすら我慢ならん! 貴様の様なクズは俺のこの手で始末してやるっ!」

「ち、畜生ぉぉぉ! 美凰…、美凰よぉぉぉ…」

 美凰は、自分に向かって懸命に手を出している阿選から眼を逸らす事が出来なかった。
 どんなに恐ろしくとも、顔を背ける事が出来なかったのだ。

「俺に向かって牽制をかけた様だが、生憎だったな。美凰は貴様なんぞに穢されてはいない! 美凰の眸を見れば、俺には解る。俺は貴様と違って、美凰を愛している男だからな!!!」
「ぐっ…」

 力強くゆるぎない尚隆の言葉にぜいぜい息を吐く阿選の表情はみるまに歪み、そして美凰ははっと阿選から視線を外して尚隆を見上げた。

「例え貴様のいう事が本当だったとしても、それでも俺は美凰を愛しているし、愛し続ける。身体が総てではない。彼女の心を…、俺は愛している…」

 そう言うと、尚隆はつかつかと美凰に向かって歩み寄り、自分を見上げている黒曜石の双眸をじっと見つめながら白い膝下にしゃがみ込んだ。
 その愛情深い言葉に美しい瞳が涙を湛え、頬を幾筋も伝い落ちる。

「尚隆さま…」
「美凰…、遅くなったな…。無事で…、生きていてくれて…、よかった!」

 尚隆は六太を抱いたままの美凰を、しっかりと抱き締めた。
 温かな、懐かしい馨りのする逞しい胸…。
 何をも冷静に考える事の出来ない状態の美凰だったが、たった一つの事だけは理解できた。
 そう。
 自分は愛する男の元へ、無事に戻れたのだという事…。

「尚隆さま…。わたくしは…、美凰は決して、穢されては…。本当です…。これだけは、信じて…」
「信じているとも…。君は俺だけのものだ! 決して、穢されてなどいない!」
「尚隆さま…」

 尚隆は頤を引き締めて深く頷くと、痛々しい花顔をそっと愛撫しつつ静かに朱唇に唇を重ねた。
 美凰がずっと求め続けていた、優しい愛情の籠もったキスだった…。
 ふいに、リンダの言葉が美凰の脳裡に浮かんだ。

『レイプだって言うけれど、相手が尚隆じゃなかったらって考えた事ある?! もし、あのアセンとか言う悪魔の様な男だったら…』

 リンダの言う通りだと、美凰は改めて思った。
 誤解や苦衷の中から始まった肉体の愛、すれ違いに絶望して何度も諦めかけた心の愛…。
 彼女は再び尚隆を得、彼は再び美凰を得たのだ。
 もう二度と、この愛を離すまい…。
 美凰はそう心に誓い、尚隆に向かって囁いた。

「…、ているわ…」
「?」

〔愛しているわ…。あなただけをずっと愛し続けてきたの…〕

 きちんと口にして愛を告白したつもりだったのに…。
 だがしかし…。
 廊下を駆け抜ける数多の靴音、パトカーのサイレンとヘリコプターの轟音。
 そして、すすり泣く罪もない女性達の怨嗟の声なき声…。
 様々な音が響く中、愛する尚隆の腕の中に無事に戻れた美凰は安堵した様子でそのまま気を失った。
 そんな美凰を、尚隆はただひたすらにじっと抱き締め続けていた…。

_90/95
[ +Bookmark ]
PREV LIST NEXT
[ NOVEL / TOP ]
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -