誘拐 1
『美女の行方不明事件、またまた発生か! 今年に入ってから11人目の被害者は美人女子大生のSさん…』

 芦屋にある院白沢邸の車寄せに停車している豪華なリムジンの中で、最近話題の新聞記事を見るともなく眺めていた六太は、執事やメイドたちに気遣われながら恭しく見送られて出てきた美凰に眼を向けた。

「お待たせして申し訳ございません…」

 頭を下げて詫びながら隣に着席した美凰の、愁い漂う美しさにどきりとなった六太は頬を赤らめつつブルブルと首を振った。

「うんにゃ! おれも今乗った所だし…。それよか具合どだ? ちょっと辛そうだぞ?」
「大丈夫ですわ…。身体の方はもうすっかり良くなっておりますのに、皆さまわたくしを甘やかし過ぎですのよ…」

 美凰の困った様な哀しげな笑顔に、六太の胸はきゅんとなった。

〔そりゃ、甘やかしたくもなるぞ! 今にも溶けて消えちまいそうな雰囲気だもんな。尚隆の奴、よく我慢して傍から離れてるよ…。可哀想に…〕

 二人の今までの経緯は朱衡から聞かされていたので、リンダとの対面後、尚隆が美凰への深い愛ゆえに自重してここに帰らず、大阪のマンションに一人起居している事を六太は哀れに思っていた。

〔倣岸な…、自尊心の塊の様なあいつが、毎日ひとりぼっちで、あの暗い部屋の中で…〕

 昨夜見かけた尚隆の寂しい背姿を思い出し、六太は隣の席で悄然と俯いている美凰を眺めると溜息をついた。

〔うまくいかないもんだな…。どんなに愛し合っていても…〕

「んじゃ、要も待ってるだろうからとりあえず出発すっか! 亦信、頼むぞ…」
「畏まりました…」

 助手席の香蘭がシートベルトを装着したのを確認した亦信は、テールランプを光らせる。
 前後を黒塗りのSP車に護られ、リムジンは静かに出発した。
 二人の行き先は、要が入院している阪大病院であった。


 美凰が白沢邸に身を寄せてから2ヶ月近くが経つが、神宮司阿選の動きに対する警戒のせいで彼女の身辺警護はより一層厳重になっていた。
 自由に外出することもままならぬ為、要の看護は春がつきっきりの状態であったし、要や春、それに東京に居る文繍に対するガードまで、尚隆は美凰に関係するあらゆる者に対して鉄壁の防御体勢をしいているのだ。
 そして今日は一瞥以来、再び海外を飛び回っていた六太との久しぶりの再会であった。
 リンダとの対面後、尚隆がここに帰宅しなくなって3週間が過ぎ、日々沈みがちな美凰は久方ぶりに和やかな談笑を楽しんだ。
 そして、日本に居る間に要の顔が見たいと申し出てくれた六太の為に慌てて支度を調え、車に乗り込んだのである。


 5月迄には退院出来そうなものの、休学期間が長すぎたので留年しなくてはならなかった所を、尚隆自らの学校に対する強力な要請と元来の優良成績の状況を鑑みて、何とか無事に進級できる運びとなった要には、尚隆から厳選された専属の家庭教師が何名かつけられていた。
 阪大病院が誇る天才外科医、乍驍宗の執刀を受けて健康に何の憂慮もなくなった要は、家庭教師たちとも仲良く接して、治療と休息の負担にならない程度の時間を外科病棟特別室で学習の遅れを取り戻す事に専念し、日々元気にリハビリを続けていた。
 驍宗は美凰との過去のわだかまりを気にすることなく主治医として要の回復に全力を注ぎ、その為にドイツ行きまで1ヶ月程遅延させてくれていたのである。
 美凰は感謝の念に身も竦む思いであった…。

「美凰、尚隆とうまくいってないのか?」

 隣の席からの不意の質問に、嫋々した肩がぴくりと揺れた。

「……」

 六太は溜息をついて天井を振り仰いだ。

「色々あるだろうけど、あいつ…、本当に美凰の事を…」

 沈みがちな言葉を遮るように、美凰は小さく頸を振った。

「六太、ごめんなさい…。わたくし、あの方のお話はしたくないの…」
「……」
「要の事はとても感謝しているの…。今、現在の…、様々な事に対してのご配慮も…。でもわたくしは…」

 黙って俯いてしまった美凰に対して一つの決意をした六太は、頭をがりがりと掻きながらインターフォンのボタンを押した。

「亦信、吹田は後だ。先に市内のタワーマンションへ寄り道してくれ」
「? 会長のお住まいでございますか?」
「ああ、そうだ。急げ!」

 俯いていた美凰は驚きの余り、顔を上げて六太を見つめた。

「六太!」
「…。畏まりました…」

 亦信は香蘭と顔を見合わせ、溜息交じりに返事をした。
 インターフォンを切った六太に、美凰は眉を顰めて囁いた。

「どういう事ですの? わたくし、あの方のお住まいになど…」
「いいから! 黙っておれについてきてくれ! 悪い様にはしないさ!」
「六太…」

 六太は苦笑しながら額髪をかきあげた。

「心配するなって! どのみち尚隆、今日は出勤なんだ。どうしても欠席できない重要会議って奴でさ、朱衡に引きずられて行ったんだから…」
「……」
「覚えてるだろ?! おれと初めて逢ったあのマンション…」

 美凰は瞬きをしながら俯き、小さく頷いた。



 初めて連れて来られた時も思ったが、豪華なマンションとはいえがらんとした室内はなんと寒々しいのだろう。
 六太に促されておどおどと入室した美凰は、室内に充満しているアルコールと煙草の臭いに美しい双眸を眇めた…。
 テレビもオーディオもないリビングにぽつんと置かれてあるソファーの周囲は、ウイスキーの空き瓶が幾つも転がっており、ローテーブルの上にある数個の灰皿は吸殻が山盛りになっていた。
 女性はおろか、ハウスキーパーが入室した気配すらない、室内の薄汚れた様子…。
 ソファーの周辺だけに起居しているのか、ベッドルームも他の部屋も使用されている様な形跡はない。
 半年前に連れ込まれた時以上に、漂っている異質の雰囲気に美凰は言葉も出なかった…。

〔お食事は…、召し上がっていらっしゃらないの?〕

 美凰はふらふらとキッチンに足を向けた。
 広々とした台所は火を使用している形跡は微塵もなく、薄っすらと埃の積もったシンクには、飲み差しの水が入ったコップだけが虚しく置かれてある。
 溜息をつきつつ何気なく広い食卓を眺めた美凰の双眸が、驚愕に見開かれた。
 再び自分の手許から消えた『雪月花』が椅子に立てかけられ、テーブルの上には3週間前、自らが尚隆に投げつけて壊したあの雛人形の欠片が広げられていたのを見出したからである。
 まだ下層部の花弁部分だけだが、それは少しずつ修復されている様子であった…。

「あっ!」

 美凰はショックの余り、悲鳴を上げそうになった口許を覆った。

〔尚隆さま…あなたというお方は…〕

 あの日、粉々にした筈の残骸を丁寧に拾い集めた尚隆は毎日少しずつ、ここで修繕していたのである。
 ひとりぼっちで…。
 たった一人で…。
 暗い部屋の片隅で、互いの誤解と意地で壊した愛の欠片を繋ぎ合わせようと必死になっている尚隆の姿が脳裡に思い浮かび、美凰の双眸に涙が溢れた。

「尚隆の奴、そういう細かい作業なんてまったく苦手のくせして毎日毎晩そいつの修理してさ…。じっとこの絵を見て、酒飲んで酔いつぶれてるんだ…。飯も殆ど食ってない様子だし…」
「……」
 六太はシンクに寄りかかって肩を竦めつつ、唇を噛み締めて呆然と涙を流している美凰を見つめた。

「まあ、たまには出勤しているが心ここにあらずの状態でさ。朱衡も白沢も何にも言わないけど…、皆、心を痛めてるし困ってる…。その内、精神異常と体力衰弱で倒れちゃうんじゃねぇかってさ…」
「……」
「色々聞いた…。この5年、美凰はとてつもなく辛い思いをしたんだろう? そしてこの半年の間はあの莫迦のせいでもっと地獄をみたんだろうな…。おれがどうこういう筋合いじゃないのは解ってるんだけど、あいつの関係者としては謝るよ。本当にすまない…」

 心底申し訳なさそうな六太の声音に、美凰は微かに頸を横に振った。

「けど、解ってやって欲しいんだ。…、何もかも赦す事なんて、簡単には出来ないと思う。でもこれだけは言っておきたい。どんなに歪んでいたとしても、あいつなりの美凰への愛なんだ。今まで色々あったからまともな表現できない性格になっちまってるけど、やっぱ、愛なんだと思う…。美凰だって、心の底では解ってる筈だ…」
「……」
「尚隆のさ、お袋さんの話、朱衡から聞いてるだろ?」

 美凰は躊躇いながらも頷いた。

「あいつ、お袋さんの事があってから女に対してずっとトラウマあってさ…。女のこと、ひいては人間そのものが信じられないまま大人になっちまった。そんな中で美凰と出逢って、初めて女に心を開いたと思うんだ」
「……」

 美凰の脳裡に尚隆と出逢って間もなく、初めて経験したデートの苦々しい記憶が甦った。
 言葉巧みに交際を約束させられた世間知らずな箱入り娘…。
 強引な誘いに戸惑いつつもハンサムな男性との物語の様なロマンチックな交際に憧れ続けていた美凰は、尚隆からの申し込みに怯えながらも有頂天になった。
 だが初めてのデートが無残な結果に終わった時、美凰は尚隆に向かって哀しげに囁いた。

『わたくし、夢見がちな子供ですから、あなたにご迷惑をお掛けするのが辛くて…。交際って、物語の様にはいかないものだという事が、今日よく解りましたわ…。わたくしがあなたの事をとても好きになる前に、もう逢わないほうがいいと思いますの…。あなたとわたくしとでは、価値観が違い過ぎるのですもの。わたくしの様な子供は…、あなたの様なご立派な、大人の男性には不釣合いですわ…』

 そう言って別れを告げた時の尚隆の顔は、不意に殴られたかの様な呆然とした表情をしていた。
 今なら解る。
 類稀にハンサムな容姿と知性、ソフトな人当たりに溢れ出るセックスアピール…。
 女という女は、誰もが彼の言いなりだったに違いない。
 そんな中で只一人、自分の言いなりにならない、金もセックスも通じない小娘がいた…。
 なんとしても言いなりにしようと行動し続けた結果、彼は初めて、『身体』ではなく『心』を得る為には『心』を与えなければならない事を知ったのだ。
 尚隆は美凰の『心』を欲し、愛を告白した。
『心』に裏切りの傷を持つ彼にとって、それはとてつもない賭けだったに違いない。
 その『心』に応え、家も家族も捨てる決心をした美凰は結局、約束の場所に辿り付く事が出来なかった。
 尚隆はどれ程の思いを胸に、只一人、ニューヨークへ飛び立ったのだろう。
 どれ程の哀しみと、痛みを抱えて…。
 それでも彼は美凰の事を信じ、連絡を取るべく行動してくれたではないか。
 手紙も電話も…。
 春が間違った愛情で美凰を思う余り、恐ろしい事をしでかしさえしなければ、今頃はもっと違う人生を歩んでいた筈なのだ…。

『後悔のない人生を送る人間なんて、普通じゃないわ。人は誰でも過ちを起こし、後悔し、やがて立ち直る。忘却は人間だけに与えられた唯一の生きる術よ。かといって、総てが忘れられるものじゃないけど、貴女…、これから先の尚隆と貴女自身に後悔だけの人生を与える気なの?! それが、レイプされた貴女の復讐なの?』

 美凰は激しく頸を振った。

「違うわ! 違うっ! いやよっ! もう二度と、後悔なんてしたくないの!」
「美凰…」
「どんなに諦めようとしても諦め切れなかった…。捨てられたと思い込んでいても、心のどこかでもう一度逢えないかと思っていた…。でもこんな風に再会して、こんなことになってしまうなんて、夢にも思わなかったの…」

 六太は、その場に崩れ折れて滂沱の涙に泣き咽ぶ美凰の傍に慌ててしゃがみ込み、彼女の身体を優しく支えた。 

「美凰…」
「…、六太…。わたくし、あの人を愛しています…。酷い誤解ばかりされて、傷つけられるたびに、何度も諦めようと思いました…。でも、でも…」
「うん…。本当に辛かったよな…。ごめんな…、あいつ本当に莫迦だから…」

 美凰はすすり上げながら六太を見つめた。

「いいえ…。わたくしには、どんなに辛い日々でも、要も文繍も、そして春もいました。どんなに苦しくても支え合える家族がいました…。でも、尚隆さまにはどなたも、いらっしゃらなかった…」
「……」

〔彼は、ひとりぼっちでどれ程の時を生きてきたのだろうか? お母さまに置き去りにされても待ち続けていた幼い頃からずっと…、彼は愛に飢えていた。お金には不自由しなくても、愛にはずっと飢え続けていた…〕 

 尚隆の心はいつも虚ろだったのだ。
 そして彼は心の虚しさを忘れる為に、次々と刹那の楽しみに溺れ続けた。
 リンダもそう言っていたではないか。
 どんなに愛しても、彼は心の中に他の面影を宿し続けていたから報われる事はなかったのだと…。
 どんな事情があるにせよ誤解を鵜呑みにして勇気を持つことが出来ず、尚隆の真心に応える事の出来なかった美凰には刹那の欲望を不貞と責める資格などなかった。

「わたくし、尚隆さまを愛しています…。ずっとずっと、愛し続けてきました…。尚隆さまと一緒に、生きていきたい…。傍にいたいの…」

 六太は嬉しそうにうんうん頷き、白い繊手をぎゅっと握ると、美凰を助け起こして立ち上がらせた。

「なら、頼む…。その言葉…、今すぐ自分の口であいつに言ってやってくれないか…。尚隆を、暗闇の中から呼び戻してやって欲しい…。あいつの事、どうか受け入れてやって欲しい。何もかも曝け出している、尚隆の総てを…」
「六太…」

 美凰は六太の真剣な眼差しに、こっくりと頷いた。

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