真実 7
 先程まで激しかった雨はいつの間にか、人々の心の愁いを表わす様な蕭々とした霧雨に変わっている。
 玄関先で車を廻す様、てきぱきと指示している朱衡の姿をぼんやり見つめていたリンダは、ゆっくりと2階の窓に向かって顔を廻らせた。
 尚隆と美凰が居ると思しき部屋の辺りをじっと眺めやる…。

〔尚隆…、今度こそ幸せにね…〕

 そっと呟くリンダの心の中の、もう一人の自分が自分自身を嘲笑う。
『あたしの偽善者!』と…。





 会見の最中、思わぬショックが続いて失神しかけた美凰は慌てた尚隆に抱き上げられるとそのまま寝室に運ばれた。
 壊れ物を扱うかの様にベッドにそっと寝かされた美凰と、甲斐甲斐しく彼女の世話をしている尚隆を交互に見つめ、リンダはきゅっと唇を噛み締めた。

「朱衡! 美凰の寝室にホットミルクを持って来させてくれ! 砂糖は1杯だけだぞ!」
「畏まりました…」

 そう言った後の尚隆はベッドサイドに腰掛け、ぐったりとした美凰の手を握り締めて彼女の顔を見つめたまま一言も口をきかない。
 尚隆の頭の中に、リンダの居場所はかけらもないのだ。
 自分には決して得られなかった男の情愛が、この儚げな萎れた花に向かっては惜しげもなく降り注がれている。
 こんな彼の姿を見るのは初めてだった。
 本当はこの女から尚隆を奪い取りたくてたまらない。

〔あたしだって、いいえ…、あたしの方がきっと、もっと彼を愛している…〕

 だが、いくら愛しても男の愛はたった一人の女のものなのだ。
 眼の前にいる、穢れを知らぬ清らかな眸を持つ優美な女だけの…。
 嫉妬と憧憬がリンダの胸を熱く焦がした。

「さよなら…。夢の中に住むお嬢さん…」

 リンダの沈んだ声に、尚隆は思い出したかの様に怒りの表情で背後を振り返った。
 阿選の事は美凰にショックを与えない様、懸命に隠し通して護っている状態だったというのに…。

「リンダ…、君という女は…」
「あら?! 怒ってる声もセクシーで素敵ねぇ…。相変わらず…」

 リンダはさらさらの金髪をかき上げながらくすくす笑った。

「いい加減にしろっ!」
「おやめになって…」

 尚隆の怒鳴り声に、美凰は弱々しく窘めの声を上げた。

「リンダさんは、わたくしの身の上を案じてくださったからこうして…。それをそんな風にお怒りなるなんて、失礼ですわ…」

 そう言いながら、美凰は枕に背中を凭せかけながらゆっくりと身を起こしてリンダを見た。

「美凰、無理をするな…」

 美凰の身体に腕を廻し、尚隆は優しく介添えるが彼女は男の手をそっと払いのけた。

「大丈夫ですわ…」
「……」
「リンダさん…、わたくしは…」
「勘違いしないでよね!」

 美凰の言葉を遮り、リンダはぷいと横を向いた。

「貴女の身を案じてなんかじゃないわ! 貴女になにかあったら…、尚隆が可哀想だから…」

 美凰は双眸を見開いた。

「……」
「ニューヨークでの彼は…、今から考えればそれは悲惨なものだったわ。もともとシニカルな人なんだろうけど、拍車がかかった様に冷酷で…、それでも素敵だった…」

 尚隆はじっと見つめてくるリンダから眼を逸らす。
 そんな男の態度に、リンダは哀しげな表情で肩を竦めた。

「本当の事を言えばね、『黙っていたら?!』って気持ちもあった…。貴女がいなくなればって一瞬考えたもの…」
「リンダさん…」

 金髪の美女はふっと詰めていた息を吐いた。

「あたしはね、尚隆を自分のものに出来るならなんでもするわ。どんな事でも…。そして今度こそ幸せになりたい、そう思った…。でも、あの男! 誰であろうとあんな男の玩具にさせるわけにはいかないもの…。そして、貴女が尚隆の前から居なくなったら…、今度こそ彼は駄目になってしまう…。だから知らせたの。間違えないでねっ! 貴女の為なんかじゃないわ! 尚隆の為よ! 彼を愛しているから、貴女を助けてあげただけ…」
「……」

 リンダの激白に美凰は驚き、言葉も出せずに喉を詰まらせて俯いた。
 そして尚隆は今更ながら5年前のリンダへの惨い仕打ちが脳裡をよぎり、自分自身を愧じていた。



 遠慮がちにノックの音が聞こえ、ホットミルクを持った年嵩のメイドと共に朱衡が姿を現した。

「失礼致します。リンダ様…、東京行きの飛行機のお時間が…」

 リンダはちらりと朱衡を見つめ、天井を軽く仰いだ。

「そう。じゃ、行きましょうか…。貴方、空港まで送ってくれるんでしょ?!」
「勿論でございます…。では車寄せにてお待ちしておりますので…」

 そう言うと朱衡は主夫婦に一礼し、ベッドサイドのナイトテーブルにホットミルクを置いて美凰の様子を気遣うメイドを促すと寝室を出て行った。

「じゃ、これでお別れね。まあ、よく話し合って仲良くなさいな!」
「……」

 言いたいことだけ言うと毅然とした様子でくるりと踵を返したリンダに向かって、美凰は何か言わなければと思い、俯けていた顔を上げた。
 だが、言葉が浮かんでこないのだ。

〔待って…、待って、リンダさん! 尚隆さまを…〕

 尚隆をどうするというのだ。
 もう彼のことなど愛していないから…、尚隆などいらないからあなたに譲るとでも?!
 頸を振って唇を噛み締めている美凰と、立ち尽くしたまま一言も発する事の出来ない尚隆に背を向けたまま、リンダは静かに扉の向こうへと消えた。





〔すまない、リンダ…。美凰と出逢っていなければ…。あるいは俺は…〕

 窓辺に立ち尽くした尚隆は、細かい雨に打たれつつ正門をゆっくりと出て行くリムジンを遠目に眺めていたが、微かに食器の音が耳に響き、はっとなって背後を振り返った。
 すっかり冷めてしまったミルクを一口飲んでカップをテーブルに置いた美凰は、ぐったりした身体を枕にもたせかけて眼を閉じていた。
 尚隆はカーテンをひくと、美凰の傍に戻ってきた。

「とても…、いい方ですのね…。リンダさん…」
「…、ああ」

 美凰は閉じていた双眸を見開いて尚隆を見つめた。

「どうしてあんな素敵な女性と、離婚なさったの?」

 尚隆はベッドに腰掛けて白い繊手をそっと握ると、ひたと美凰を見つめた。

「君を…、愛していたからだ」
「……」

 尚隆は幻の様にも思える5年間の無節操な生活を思い起こし、美凰から視線を逸らすと遠い眼になった。

「俺は、本当に莫迦な男だった。当時は君への思いを懸命に否定して、刹那の欲望に溺れ続けた。リンダは…、俺のことを心から愛してくれていたんだな…。それなのに彼女の愛を踏みにじり、まっとうな生活すら与えてやる事が出来なかった…」
「……」
「そして君には、死ぬより辛い思いばかりさせてしまった…」
「……」

 そう言うと尚隆は美凰の手にそっと唇を寄せて優しくキスした後、思いきるかの様にゆっくりとベッドから立ち上がった。

「君の言う通り、俺は最低の人でなしだ。君には何の罪もないのに…、誤解から君を恨み、言い分も聞かずに君を脅迫し、レイプし、そして散々愉しんだ…。己の欲望を満たす為だけに、君の大切な絵を泥棒した。挙句の果ては、まともに過ごしていれば無事に生まれた筈の子供まで死なせてしまった。俺が殺してしまったも同然だ…」
「…、尚隆さま…」
「リンダの言った事は気にしないでくれ。俺には君に愛される資格などない。…、そして君には俺を憎み、罰する権利がある」
「……」
「安心してくれ。もう二度と君に触れたりしないから…。だが、阿選の事を片付けるまでは…、離婚は出来ない。君を護らなくてはならないんだ…。すまないが、それだけは解ってくれ…」

 その言葉に美凰は尚隆を見上げた。
 何か言わなくてはならない。
 そう思っても、声が出ないのだ。
 先程、傷つけてしまった頬に青黒い痣が薄っすらと浮かんでいる。

「……」

 何も言わずに自分を見つめている美凰の黒い瞳を見返し、哀しげな自嘲の微笑を浮かべた尚隆は静かに寝室から出て行った。



〔尚隆さま…、尚隆さま! わたくしは…、わたくしは!〕

 黒曜石の双眸に涙が盛り上がり、とめどなく頬を流れ落ちる。

〔愛してなんかいないわ…。わたくしは尚隆さまを愛してなんかいない…。あの人は、わたくしを裏切ってリンダさんと結婚なさった…。あんなに素晴らしい女性の愛を踏みにじり、泣かせた。他の女性に心を移して離婚したと…。そしてわたくしを恨み、脅し、辱めて、無理矢理関係なさった。わたくしを弄んで、喜び続けたわ…。大切な『雪月花』まで盗んで、涼しい顔をしてわたくしを…〕

「わたくしに、あなたを赦せと仰るの?! 愛はなにをも超えるなんて、そんなの嘘よ! 愛しているからなにをしてもいいの?! なにをしても赦されるし、赦さなければいけないの?! そんなの嘘だわっ! あなたはわたくしの心を殺したのよ! わたくしはもう、なにも知らなかった絵の中の子供じゃないもの! あなたは幻を愛しているの! そうよ! なにもかもが、この5年の総てが幻だったんだわ! そしてわたくしも…、幻を愛し続けていたのよ…」

 美凰は尚隆の消えたドアに向かってか細い叫び声を上げ、ベッドに突っ伏して咽び泣いた。
 そしてドアの向こうでは、尚隆が扉に背を凭せかけながら美凰の嗚咽を聞いていた。
 彼女の言う通りだ。
 自分は到底、赦される筈のない事をして愛を壊した。
 零れた水は元には戻せないのだ。
 美凰の元に戻って彼女を抱き締めたい…。
 だが、たった今、もう二度と触れないと約束したばかりなのだ。
 そして美凰に触れてしまえば、また彼女を抱いて身体で屈服させようとしてしまうだろう。
 もう二度と、そんな卑劣な事をしてはならないのだ。
 懸命に自分を抑制し、身を引き裂かれる思いでドアから離れると尚隆はたてかけられたままの『雪月花』にゆっくりと歩み寄った。
 紅梅模様の振袖を着て佇む美少女は、夢幻の恋人を想い春風の中に笑顔で佇んでいる…。
 初めて出逢ったあの日に着ていた振袖…。
 見合いの席から逃げ出し、薄暗い廊下で一筋の光明を見出したかの様に出逢った美凰と共に裏口を探したあの一刻。
 そして柔らかな、花の様な微笑み…。

『あのう…、これをお返しに参りましたの。一昨日、戴いたお金ですわ。だって戴くいわれがございませんもの。足袋を買えと仰いましたけど、お洗濯をしたら元通りになりましたし。それに、裏口をご一緒に探した事へのお礼と言われましても、あなたを、あの、にっ、逃がしたことへの責任を持たなくてはなりませんし…。それは困りますもの。それで仲居さんにあなたの事を伺って、こちらまでお訪ね致しましたの。ご迷惑でしたらごめんなさい。現金書留でお送りしても良かったのですけれど、お金のことですし直接お手渡しした方がいいかと思い立って…』

 羞恥に戸惑い、男慣れしていない様子、もう二度と手にする事の出来ない笑顔…。

「すまない…。美凰…。本当に、すまない…」

 尚隆は絵の中の美凰にそっと唇を寄せてキスをした。

「愛している…。君だけを愛している…」





 そしてその日から、尚隆は芦屋の家に戻って来なくなったのである。
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