「母さん。俺の貯金は如何程あるのですか?」
日曜日の朝、リビングで不意に息子にそう問いかけられた進美津代は身構えた。
「珍しいわね? 清が貯金の事を気にするなんて。急にどうしたの?」
「……」
言いよどんでいる息子が余りにも面白く、美津代はくすくす笑った。
「心配しなくても、貴方が一人前に稼げるようになるまでは母さん達がちゃんとしてあげるから! そりゃ学生結婚だから色々気がかりなんだろうけど…」
「いえ。それは解ってます。俺がきちんと職を持ったら、父さんや母さんに迷惑をかけた分はきちんと…」
美津代は美しい顔を顰めた。
「迷惑だなんて! 厭な事言う子ね! 貴方はともかく、あたしたちは美凰ちゃんの為に一生懸命なんだから! 清のお金なんてアテにしてませんよ! ねえ、あなた!」
進丈太郎は息子の固い表情に微笑みながら読み終えた朝刊を丁寧にたたむと、傍らの煙草を引き寄せた。
「まあまあ、美津代さん! で、清十郎の貯金はいかほどあるのかね? わたしも興味深いよ!」
美津代はほっと息をついた。
「純粋に、あなたが使わずに貯めたお金としてなら100万ほどあるわ。おじいちゃんの遺産はもう美凰ちゃんに管理をお任せしてますから。結婚式用の費用だけ抜いてたんだけど、清も美凰ちゃんも『王城神社』でこじんまりとお式をするって言うし! 新居だって美凰ちゃんのマンションをそのまま使って家具を少しだけ買い足すだけって言うし! 親代わりの小松さんの手前、結納だけはさせてくれってお願いしたらもう渋々だし…」
また母の愚痴が始まった、と進と丈太郎は顔を見合わせた。
とかく派手な事が大好きな美津代は、ホテルでの豪華な結婚式に豪華な新婚旅行で変人の息子に類稀な嫁が来た事を誰彼なしに自慢したかったのだ。
しかしその野望が息子はおろか嫁となる可愛い美凰にまでやんわりと、しかし理路整然と断られ、欲求不満に悶々としていたのである。
清十郎と美凰の言い分も解らないではない。
二人とも大学生として、少なくとも清十郎が社会に出るまでの4年間は親の脛を齧っての結婚生活となるのだ。
息子は社会人に進む事も考えていた様だが、将来の事や本当にやりたい事をよくよく考えて欲しいと美凰に諭され、最終的には進学の道を選んだ。
おそらく、息子は大学で教員資格を取り、卒業後はアメフトの社会人選手となって活躍し、やがては仲人の庄司監督の様に引退後、学校に戻って後進の育成に励むのであろう。
大学在学途中にアメリカへの留学という可能性もある。
様々な事を考え、息子はともかく美凰が極力出費を抑えてつましいが心のこもった結婚式にしたいと望んでいる事を聞かされるだけで丈太郎も美津代も感激し、その分、親として出来ることは何でもやってやりたい気持ちで一杯なのだ。
その親の気持ちを知ってか知らずか、息子は相も変わらぬ天然ぶり。
だからこそ、息子の言葉に美津代は目からうろこ状態であった。
「では、その100万円で美凰に結婚指輪を買います」
「ええぇぇぇ!!!」
美津代は驚愕して身を乗り出した。
「せ、清! 本気なの?!」
「はい」
丈太郎と美津代は顔を見合わせた。
「でも、美凰ちゃんのエンゲージリングならわたしたちが…」
進はゆっくりと首を振った。
「いいえ。これだけは自分の金と呼べるもので用意してやりたいのです」
息子の言葉に、丈太郎は嬉しそうに目を細め、美津代は相好を崩してはしゃいだ。
「それじゃ、来週のお休みにでも美凰ちゃんを連れて物色しに行きましょう!」
「いいえ」
思わぬ拒否に、両親は不審そうに息子を見た。
「美凰は連れて行きません。出来れば今日、父さんと母さんに同伴して貰いたいのですが…」
無茶を言う息子に向かい、美津代は声を上げた。
「そんな、清! エンゲージなのよ! 美凰ちゃんの好みを聞かないでどうするの!」
進は再び首を振った。
「美凰を連れて行ったら、きっと遠慮して気に入ったものを言おうとしないでしょう。それに今は手のリハビリも兼ねて、『ビーズ』とやら言う細々した作業に追われてますから…」
「「……」」
神前結婚の白無垢は進の祖母の遺品を着用するし、披露宴のウエディングドレスは親代わりの小松夫妻が準備するとの事だった。
それ以外に細々と購入しているものも勿論あるが、基本的に結婚式のアクセサリーなどは美凰が自分自身で手作りしているのだ。
別に費用を惜しんでいるのではなく、その準備作業の一つ一つが楽しくて仕方がないという風の美凰には誰も逆らえないでいるだけなのである。
「清の貯金じゃ買えないものだったら、母さん達が助けてあげるから! やっぱりちゃんと美凰ちゃんを同伴してあげる方が…」
「いえ…」
「清十郎!」
頑なな息子の態度に金きり声を上げた妻に向かって、丈太郎が静かに口を差し挟んだ。
「美津代さん。清十郎の思う通りにしてあげなさい」
「あなた!」
丈太郎は美味しそうに煙草を吸い、それからゆっくりと煙を吐き出すと妻に向かってにっこり微笑んだ。
「なあに。いずれ自分で稼げるようになったらその時は埋め合わせのものを豪勢に買ってあげればいいのだよ。清十郎は男のけじめとして、自分の金で用意したいと言っているのだから、それでいいじゃないか。家は大金持ちじゃないんだから、何百万もする指輪じゃなくてもいいんだ。要は気持ちなんだからね。それに清の事だ。美凰ちゃんの趣味はちゃんと解っている筈だよ」
男同士で通じ合っているのか頷き合う父子の様子に、美津代は溜息をつきつつ立ち上がった。
「もう! 男って妙な所でプライドが高いんだから! 清の貯金程度じゃ、天然上質好きの美凰ちゃんの好みのものなんて絶対買えませんよ! あたしは知りませんからね! それじゃ出かける支度をしますから、お父さんは車の準備をなさってください! それから清十郎は制服を着て!」
進は訝しげに母を見た。
「制服、ですか?」
「貴方はアレが一番似合ってます! フォーマル着せてもどうせ七五三だし、王城の制服なら店員さんの対応も丁寧ですからね! 宝石店では第一印象が重要なのよ!」
「はあ…」
母の言葉は意味不明ながら、とにかく進は制服に着替えるために2階の自室へと向かった。
「これにしようと…、思います」
進が指し示したショーウィンドウに、丈太郎と美津代がさっと近寄った。
「清! あんまり指を近づけないで! ガラスが割れたらその場で拘束されるのよ!」
「母さんは大袈裟だが、まあ、そういう事だ。清十郎…」
父の言葉はフォローになっていない。
心を落ち着けつつ、進は再び両親に言った。
「その、光りが一周しているものがいいです」
進が選んだものは眩いばかりにきらきらした、プラチナダイヤモンドのエタニティリングだった。
価格も貯金をはたいて少しお釣がくる程度である。
美津代は嬉しそうに呻吟しつつ、つき従うジュエリーアドバイザーに指輪を出してくれと頼んだ。
白い手袋を嵌めた店員が慎重に取り出したジュエリーを、三人の眼がためつ眇めつ眺める。
美しい花嫁衣裳に身を包んだ美凰に、この指輪を嵌める自分を思い描き、進は少しだけ頬を赤くした。
「清にしては、なかなかセンスいいわね! でも1.5カラットじゃ小さいわよ! カルティエだからダイヤもセットも最高級だけど…。それだったらこの右隣の3カラットのになさい! お値段は倍以上だけど、絶対にお奨めよ! これなら母さんも納得だわ!」
「結構です。そんな金はありません。俺が決めたのにします」
冷静な息子の態度が癪に触る。
美津代のこめかみに青筋が浮かびあがった。
「清!」
「まあまあ、いいじゃないか! 素敵な指輪だ! 清のセンスはなかなかのものだよ」
「有難うございます」
進は父親に向かって丁寧に頭を下げると、もうそれに決めたからと言わんばかりの態度で後ろに引き下がった。
名門である王城高校の制服を着た上客には、店の対応も丁重を極めている。
美味しそうなチョコレートを奨められても口にせず『土産にしたいので、3個だけください』と訳の解らない事を言って女性店員を苦笑させている息子を尻目に、丈太郎はぶつぶつ言いながらジュエリーアドバイザーの同情を懸命に引いている美津代の耳元に、こっそりと囁きかけた。
「エタニティはマリッジリングという事にして、エンゲージは美津代さんの好きなものを準備してあげなさい。清には内緒でね」
夫の言葉に美津代の表情がぱっと輝いた。
「いいの? あなた?!」
「清はエンゲージとマリッジの区別がついてないから大丈夫だ。新しく買ったと言わず、美津代さんのものをリフォームしたと言って美凰ちゃんにあげればいいんだよ。美凰ちゃんは…、きっと気づくと思うがね?!」
「まあ! 有難う、あなた!」
ウインクしてきた夫にきゃあきゃあ言いながら抱きつき、それから上機嫌になった美津代は、両親の背後でチョコレートの入った紙袋を貰ってぼーっと立っている息子に向かい、手招きをした。
「清ちゃん! ぼーっとしてないでこっちいらっしゃいな!」
「なんですか?」
母の態度の急変を訝しく思いつつ、上客だけが案内される接客ブースへ誘われた進はソファーに腰掛けた丈太郎と美津代の横に直立不動で休めの姿勢を保ち、念押しの声に深く頷いた。
「それじゃあ、清ちゃんの希望のものにしますからね。本当にいいのね?」
「はい」
「解りました。それじゃ、これを準備してくださいな! 7号でいいのね?」
「はい」
「清ちゃん。ここに来る途中で言ってた、美凰ちゃんに貰った貴方の指輪を出して頂戴!」
ごそごそと上着のポケットを探っていた進が、黙ってケースごと自分の指輪を差し出すと、美津代は嘆かわしげに受け取った指輪を眺めた。
「もう! これを首から下げたままアメフトするなんて! まったく! こんなに綺麗な指輪をどうして粗末に扱えるのかしら? この子は…」
こうまでなるかと思える程に傷んでいるデクラレーションリングに、カルティエの店長も苦笑している。
「宜しければ、新品同様にお磨きをさせて戴きますが…」
「まあ! 是非お願いしますわ!」
「進様。ご令息様はご高名なアメフト選手でいらっしゃるのですね?! 確か、去年の全国大会で初優勝されて、MVPも獲得なされたとか…」
息子が誉められるのに弱い美津代は、口許を覆いながらおほほっと笑った。
「あたくしはよく知らないんですけれども、王城高校のアメフト部で、何ですか色々やってるみたいなんですのよぉ〜!」
「手前どもの店員が、是非そのう…、サインを頂戴出来ないかと…」
「まあ! 息子のサインなんかで宜しければいくらでも! さ! さあ、清ちゃん!」
「……」
進が母の操り人形の様に使われているのを尻目に丈太郎は苦笑しつつ、「席を替わろう」と言って立ち上がった。
「わたしはちょっと煙草を吸ってくるからね。美津代さん、後の事は頼んだよ」
「と、父さん?!」
明らかに不安そうな息子の眼に、丈太郎はくつくつ笑った。
「ここは母さんの言う通りにしときなさい。お前の希望を叶えてあげたんだからね」
「……」
美津代は持て囃されてご機嫌宜しく、きゃあきゃあ騒いでいる。
そして進はといえば、父の言いつけに忠実に、我慢の体で母に付き合っていた。
喫煙ルームで煙草を吸って戻ってきた丈太郎は、最近流行の高級アクセサリーショップ、サマンサティアラの店先で可愛く呻吟している美貌の女性にはっとなった。
「やあやあ! 美凰ちゃんじゃないか!」
その声に美凰ははっと振り返った。
「まあ! おじさま!」
「偶然だね! どうしたんだい?」
美貌の花顔がぽっと赤らんだ。
「け、結婚式で身につけるアクセサリーをビーズで作っていて、不足している材料を買いに来たんですの。ついでに少しばかり目の保養をと思って…」
「どれどれ…」
美凰が見せて貰っている白蝶貝とピンクパールのアクセサリー類を、丈太郎は繁々と見つめた。
結構な値段なのだが、白薔薇を象ったモチーフの下にピンク色のパールが雫の様に垂れているデザインのネックレスとピアス、それに可愛らしいリングと三点物にラインが統一されている、とても上品で愛らしいアクセサリーだった。
「これは素敵だね。君によく似合っているよ」
「まあ! 有難うございます!」
「買わないのかね?」
美凰はにこにこ微笑みつつ、そっと頸を振った。
「とても無理ですわ。結婚するんですから、こんな贅沢なものは…」
丈太郎はくつくつ笑いながら、美凰を見つめた。
その眼差しが愛する清十郎に似ていて、美凰の心をほっこり温かくさせる。
「それより、清ちゃんとおばさまは? ご一緒でいらっしゃいますの?」
「二人は今、母子仲良く4階で過ごしているよ。ああ、君!」
丈太郎は、美凰にジュエリーを奨めていた店員を呼び寄せた。
「これ、全部プレゼント用で包んでくれたまえ」
「はい! 畏まりました! 有難うございます!」
丈太郎の思わぬプレゼントに吃驚した美凰はあたふたとなった。
「お、おじさま! い、いけませんわ! そんな…」
「何! 今まで清の面倒を見てくれた分、そして大変な迷惑をかけ続けた分のお礼としては、値段で換算できるものではないのだが…」
「そんな! 困りますわ!」
「まあまあ、いいじゃないか! 新しい家族…、新しく迎える娘への、義父からの結婚記念の贈り物として受け取って貰えないかね?」
「まあ…」
美凰は言葉もない様子で涙ぐみながら、ゴールドカードで清算している丈太郎を見上げ、そして嬉しそうににっこり微笑んだ。
「あ、有難うございます…。おじさま…」
丁寧に美しくラッピングされたアクセサリーがブランドの手提げに納められ、美凰に手渡される。
「まあまあ! 素敵な彼氏さんで宜しゅうございましたね?! 間もなくご結婚でいらっしゃいますか?!」
「「えっ?!」」
にこやかに愛想を振りまく店員の頓珍漢な言葉に二人揃って驚いていると、背後から冷たい風が流れてきた。
「美凰!!!」
「あなた!!!」
その声にびくりとなって振り返った美凰と丈太郎の眼に、恐ろしい形相をした息子〔将来の夫〕と妻〔将来の義母〕の姿が映った…。
進と美津代は母子揃って真っ直ぐな姿勢と歩調で、美凰と丈太郎の傍につかつかと歩み寄ってきた。
「ちょっとあなた! この子はあたくしの息子の婚約者ですのよ!」
「ま、まあ! こっ、これは大変失礼を!」
若い店員は真っ赤になって、王城の制服を着た若者と同年齢の令嬢、そしてエグゼクティブな雰囲気の紳士とその夫人を見比べ、焦った様子で平伏した。
「変な間違いをなさらないで欲しいわ!」
「も、申し訳もございません!!!」
必死になって謝罪する店員に美津代はおかんむり状態で、そして怒りの矛先は夫の丈太郎に向かった。
「あなたもあなたです! なんですの?! その鼻の下の伸びきったお顔は!」
「み、美津代さん! そう怒らなくても…」
「どうせあたくしは、美凰ちゃんみたいに絶世の美女でも、若くて可愛らしくもございませんから!」
「な、何を言っているんだね! 莫迦な嫉妬を! せ、清十郎! もう買い物は終わったのかね?」
生まれて初めて見る、息子のブリザードの様な眼差しに丈太郎は凍死しそうになりかけた。
美凰はといえば進の手にしっかり手を握られて、訳の解らぬまま身動きの取れない状態にされている。
「お、おじさま! おばさま! い、一体何事ですの? せ、清ちゃん! お、おばさまどうして怒ってらっしゃるの?」
「お袋だけじゃない!」
「えっ?」
「俺も怒っているぞ!」
進の険しい表情が美凰をどきどきさせる。
〔わ、わたし、何かしたのかしら?〕
「???」
丈太郎は涙ぐんでいる美津代を宥め透かし、溜息をつきつつ恐る恐る息子に声をかけた。
「清十郎! 父さん達はこのままもう少しショッピングをするから、先に帰ってなさい」
「……」
「じゃあ、美凰ちゃん! 今日はこれでね」
「お、おばさまは大丈夫でいらっしゃいますの?」
「大丈夫だよ。また電話させるから…。じゃ清、お泊りなら母さんに連絡するんだぞ」
「……」
息子にぷいっとそっぽを向かれ、丈太郎はやれやれと自ら頭を叩きつつ、美津代を促して雑踏の中に紛れ込んでいった。
「俺達も帰るぞ! 美凰!」
「えっ?! え、ええ…」
???顔の美凰を無理矢理に引っ張り、進はアクセサリー売場を後にした。
「清ちゃん、何を怒っているの?」
王城デパートの専用駐車場に止めてあった自家用車に乗り込んだ美凰は、助手席の進に向かって恐々訊ねた。
「……」
「おばさま、大丈夫かしら?」
「親父と何処で会った?!」
「えっ?」
「何を買って貰ったんだ?!」
美凰は澄んだ双眸をまん丸に見開いた。
「まあ! おじさまにまで嫉妬なの? 清ちゃんったら!」
くすくす笑っている美凰が憎らしい。
〔俺はお袋に曳き回されて大変な思いをしていたのというのに! お前ときたら!〕
「偶然お会いしたのよ。ビーズの不足材料を買いに来て、ちょっと目の保養をと思ってアクセサリーショップを覗いてたら偶然…」
「……」
「それで、家族になるお祝いに買わせて欲しいと、わたしがたまたま眺めていたネックレスとピアスのセットを買ってくださったの。新しく娘になるわたしに、これからも宜しくって…」
その言葉に、進の心を蝕んでいたどす黒いものが少しずつ沈静してゆく。
「事情は解った。だが、あの笑顔を誰かれなく見せるのは賛成できん!」
そう言うと、進は柔らかな身体を引き寄せて花顔を仰のけさせた。
「せ、せいちゃ…」
「例え、親父でも…、家族でもだ!」
「あっ!」
噛みつくような熱愛のキス…。
息も止まりそうな激しいキスに、美凰は気が遠くなりそうだった。
「せ、清…」
「美凰…」
キスの合間に何度も何度も愛していると呟く進に、美凰はうっとりと蕩けた。
「あ、愛しているわ。美凰はいつまでも…、いつまでも清ちゃんだけのものよ。だから…、そんなに怒らないで…」
「む…」
美凰はそっと身を起こし、愛に瞳の色が輝かせながら恋しい男に小さく囁いた。
「帰りましょう…。清ちゃんが…」
「美凰が欲しい…」
渇望の声に言葉の先を越された美凰は、羞恥に柔らかく微笑んだ。
進が大好きな、愛する女の甘い笑顔である。
「美凰も…、清ちゃんが欲しいわ…。帰りましょう」
「どこでもいいから…、入ろう」
「まあ…」
セクシーな誘惑のバリトンに敵うはずもない。
美凰は困った様に吐息をつくと、車のキーを捻ってエンジンをかけた…。
それから数分後。
白昼堂々、ファッションホテルの地下駐車場に可愛い軽自動車が停車し、制服の上着を脱いだ進に慌てた様子でホテル内に拉致された美凰の姿があった…。
甘く熱い愛の一刻が過ぎ去り、漸く解放された美凰は快楽絶頂を彷徨い続けた肢体をゆっくりと伸ばし、息を整えながら進の胸にしがみついた。
「すまん…。少し激しすぎたか?」
「ううん…」
左胸に生々しく残っている傷痕に唇を寄せ、進は美凰の花顔を覗きこんだ。
「胸、苦しくないか?」
「ん…。大丈夫よ…。人口弁にしてからの方が、却って調子がいいの」
「……」
進は美凰を抱き寄せると、乱れ散る艶やかな髪を優しく撫で続けた。
「清ちゃん…」
「なんだ?」
「愛しているわ…」
美凰は更に進に擦り寄り、肌の匂いを深く吸い込んだ。
「美凰…」
「なあに?」
「お前に渡したいものがある」
「?」
進は全裸のままベッドから立ち上がり、ソファーに置いていた紙袋の中から真紅の紙袋を取り出すと、すたすたと美凰の元に戻って来て、彼女の眼前に差し出した。
「ちゃんと俺の金で買ったから心配するな。但し、これから暫くは贅沢な事は何もしてやれんぞ」
それは、カルティエの真紅の紙袋…。
「せ、清ちゃん?」
「開けてみろ…」
紙袋から包みを取り出し、包装をとくと真紅の箱が美凰の眼に映る。
「! 清ちゃん…、これって…」
「お前の指輪を用意した」
「まあ! せ、清ちゃん!」
箱の蓋を開けた美凰は感動の余り、全身を小刻みに顫わせた。
それは永遠の愛を誓うエタニティリング。
きらきらと、愛の煌きを放って美凰の優しい女心をときめかせる…。
「なんて綺麗なの! なんて素敵…」
ほうっと吐息をついた美凰は、指輪をためつ眇めつ眺めていたが、やがてがっくりと肩を落として俯いた。
その様子に、今度は進が動揺する番だった。
「ど、どうした? き、気に入らなかったのか?!」
激しく頸が振られ、すすり泣きの声が微かに漏れる。
「な、なら…」
「嬉しくて…、幸せなの…」
進は美凰の泣き濡れた花顔を仰のけた。
「幸せだと、泣くのか?」
「そういう時も、あるのよ…」
「……」
「嵌めてくれる?」
「む…」
「れ、練習しとかなくていいの?」
泣き笑いしている美凰の表情が愛しい。
進はケースから指輪を取り出し、美凰がトリニティリングを右手に嵌め変えた後の左手薬指にそっとリングを通した。
指輪は吸い付くようにぴったりと、白い手に存在感を示して納まった。
「どうだ?」
「とっても綺麗…清ちゃん! こんな贅沢なもの…、有難う! わたし、とっても嬉しい! 嬉しいわ!」
美凰は進の身体にぶつかる様にしがみつき、顔中、あちこちにキスの雨を降らせた。
「いつか…」
真摯な声音に美凰はキスをやめて顔をあげ、進を見つめた。
「? いつか?」
進は美凰の左手を取り、その掌に唇を寄せた。
「今は…、これで我慢して欲しい」
「清ちゃん…」
「いつか、必ずお前の望む指輪を贈るから…」
「まあ! 我慢だなんて! これで充分よ! 他には何にもいらない…」
信じられないくらいの幸せを胸に、美凰は進にひしと抱きついた。
「清ちゃんが居てくれれば、それでいいのよ…。でも、有難う!」
「うむ…」
「有難う…、清ちゃん…」
二人はそのまま、再び愛の時間を過ごした…。
『今日はお前に見せたいからそのまま貰ってきたが、お袋に渡さねばならん。『刻印』がどうとかで、お袋がまた店へ持っていって、結納までに仕上げさせるのだそうだ』
『そ、それじゃあ、つけっ放しでこんなことしてたら…』
『別に構わんだろう』
『駄目よ! は、早く箱に戻さなきゃ! あっ! ああんっ! だ、駄目…』
『つけたままでいてくれ…』
『駄目ったら駄目! あっ! せっ、清ちゃんの…莫迦…』
『…。プレゼントをした挙句の果てが莫迦扱いでは、話にもならんな』
『あっ! そ、そんな風に触っちゃいや! あん! そ、それなあに?』
『チョコレートらしい。指輪を買った店で貰ったのだ。お前の為に3個だけ貰ってきた。遠慮なく食え』
『あっ! 食べさせて貰わなくても…、じ、自分で…』
『どうだ? 美味いか?』
『味見…、してみる?』
キスをねだる誘惑の声音に、進は相好を崩して何度も何度も柔らかな朱唇を奪う。
甘い悲鳴を上げた美凰は、進が与えてくれる愛の海にいつまでも溺れ続けていた…。
そして二人は知らない。
進清十郎の父丈太郎と母美津代が再びカルティエを訪れ、可愛い可愛い花嫁の為に煌く一粒石のダイヤモンドエンゲージリングを購入していた事を。
そして美津代のご機嫌を取る為に、彼女が息子に奨めていた3カラットのエタニティリングを、丈太郎が玳瑁のへそくりをはたいて買わされた事を…。
結局、本日大損をしたのは、進丈太郎只一人の様であった…。
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