御身(おんみ)ゆえ…
 珍しく体調を崩した為、三日前から官府に休暇願いを出した朱衡は、寛いだ部屋着姿のまま豪華な牡丹の咲き乱れる院子をそぞろ歩きしていた。

〔ここ暫く、大学からの推薦状に眼を通すことに追われていたからな…〕

 朱衡は花の様子を丁寧に見遣りながら、ふっと息をついた。



 雁国の大学は、この百年の間に大変な発展を遂げた。
 いわゆる貴族や官僚の子弟だけでなく、能力と傑出した人物であれば身分を問わず半獣に至るまで広い視野を持って国内九州から優秀な人材を登用し、将来、国家を担う一員となるべく育成する。
 その為の具体的な奨学金制度を献策した延后妃の草案の許、延王の勅令が発布されたのが今から百年前の事…。
 朱衡が首席で卒業した頃に比べ、大学生の水準は格段の進歩を遂げていた。
 その上毎年、卒業式の際には主席学生に対して延后妃手ずから言祝ぎの言葉と『文宝四房』を賜るのだ。
『文宝四房』とは、硯、筆、墨、紙の事を云い、后妃美凰が特に愛用している最高級品と同じものを主席学生は拝領する事が出来たのである。
 もはや伝説ともなっている美貌の后妃に拝謁し、祝いの言葉を貰う為に学生達はそれこそ必死になって学業に打ち込んでいた。
 反面、熾烈な争いは激化し、身分の貴賤や半獣などといったものに対する差別や虐めもしょっちゅう発生し、大学を管理する者の頭を悩ませる事も多々あったのだが…。



 雁の富国ぶりは、かつて折山と呼ばれて荒廃した国土を知る朱衡にとっては信じられない、夢の国の様に思える。
 主である延王尚隆の治世も三百年を過ぎた。
 正直、あの風の様な主君と麒麟の組み合わせでここまで持つとは思わなかったが、神姫であった后妃美凰が、王后に冊立されて後は国内治世はますます花開いた。
 内乱も時折発生したが、その都度、王の力強い親征により事なきを得てきたので、最近は特に問題もなく、后妃が冬官府で珍奇な産業計画を実施している以外は、平和な日々が続いていたと言っていい。



〔御身ゆえ吾(われ)あり…、か…〕

 朱衡は懐に入れていた書物を、大切そうに取り出した。
 昨日、大学で教鞭を取っている親友が、珍しい異国の書物が図書館に入荷したので、書物好きの朱衡への見舞いにと貸出して持参してくれたのだ。

『何でも、崑崙の遥か西、仏蘭西(ふらんす)とやらいう遠い異国の物語でね。随分以前に蝕で流された山客が所持していたものの写しだそうだ。君は崑崙文学専門だから余り興味も湧かないかも知れないが、なかなか素敵な恋愛物語だったよ』

 普段は恋愛物語などといった類の書物には縁の薄い朱衡だったが、時間があったということと、親友がわざわざ持ってきてくれた珍しい異国の書に興味を持ってしまったのがいけなかった。
【愛と死】と銘打たれたその書物を、朱衡は瞬く間に読破してしまい、昨夜から明け方までに三度も読み返していて、気が付くと行中の詩篇すら諳(そら)んじてしまえる様になっていた。


 みなの衆、聞き給わずや、愛と死のこの美しき物語を。

 これはトリスタンと妃イズーとの物語、

 聞き給え、いかに二人の戀人は

 戀の大歓喜、大悲哀を嘗めて愛し合い、

 やがては同じ日のうちに

 彼は彼女のため、彼女は彼のために、死んでいったかを…


     ベディエ編「トリスタン・イズー物語」プロローグより





 朱衡が心密かに后妃美凰を恋い慕い続けて百年を過ぎる。
 初めて出逢ってから今日まで、その想いが揺らいだ事は唯の一度もない。
 同じように后妃を慕い続けていた同僚の帷湍は、二十年前に漸く妻を娶り、家庭を持った。
『猪突には勿体無いいい女だぞ! せいぜい可愛がってやれよ!』と、王が誉めそやす程の美人妻は、正寝の女官の一人だったが、帷湍と婚姻したのと同時に職を辞して家庭に入った。

『朱衡、お前もいい加減年貢を納めろ。雁は我らが后妃様のご尽力によりますます栄えるだろう。あの御方がいらっしゃれば、主上も台輔も道を踏み外すことはないからな。これからの長い年月を独りで生きるのは辛いぞ。妻は不要と云うなら、妾くらい置いてもよかろうに…』
『……』

 婚姻間近に二人で酒を酌み交わした時、朱衡の胸の裡を一番知っている帷湍にそう言われたものの、朱衡は静かに微笑むだけだった。


 妃イズーは繰り返した。

【戀人よ、あなたを苦しめるものはなに?】

 騎士トリスタンは答えた。

【貴女を愛しいと想うわたくしの心です…】



〔貴女を愛しいと想う…〕

 吐息をついた朱衡の耳に、ふいに邸内のざわめきが聞こえてきた。





「お兄様、大変ですわ!」

 慌しい妹の足音に、瞑想を破られた朱衡の機嫌は些か悪くなった。

「なんです、月梅(げつばい)? 騒々しい!」

 廊下から息せき切って現れた月梅は、麗しの延后妃と同年の十七歳。
 つややかな緑の髪に美しい黒曜石の双眸ははっとする程に美しく、外出の度に人目を惹くのも頷ける。
 舞い込んで来る縁談話には一切耳を傾けず、自分の傍にばかりいる妹を朱衡はこよなく可愛がっていた。
 兄の眼から見てもなかなかの美貌なのだから、もう少し大人の女性としての自覚を持って欲しい。
 そうしてお似合いの男性が居ればいつでも嫁いで幸せになって貰いたい、そんな事を考える今日この頃であった。

「騒々しいも何も、后妃様が!」
「なにっ?!」
「后妃様がお兄様のお見舞いに…」
「……」





 朱衡は月梅にもてなしの一切を命じると、慌てて着替えに走った。
 部屋着の上、結髪すらしていない状態で后妃の眼前に参じるのは礼に失する。
 急いで身だしなみを整え、朱衡は后妃美凰が通されている客間へと早足で向かった。
 客間からは普段聞こえない華やいだ女達の声が聞こえる。
 どうやら、院子の牡丹を眺めたいと云った后妃の為、長窓が開け放たれている様であった。
 妹のはしゃぎ声とともに、麗しい声音が柔らかく響く。

「まあ! なんて素晴らしい真珠なんでしょう! 主上からの贈り物でいらっしゃいますのね」
「はい。慶国の真珠は大層質が良いらしくて、先だって景王陛下をご訪問あそばされた際、求めて来てくださったものを範国で誂えて戴いたのですわ…」

 月梅がうっとりと眺めやっているのは、后妃美凰の繊頸を飾る美しい真珠の連珠であった。

「后妃さまにとてもよくお似合いでいらっしゃいますわ。主上はお目がお高いのですね」
「有難う…、月梅どの。まあ! 朱衡どの…」

 朱衡は扉の前で深々と礼を執った。

「美凰様にはご機嫌お麗しく…。わざわざ拙宅までお見舞いにお出ましくださり恐悦至極に存じ上げ奉ります…」

 美凰は立ち上がり、朱衡に丁寧に礼を返した。

「突然お見舞いに訪れたご無礼、どうぞお赦しくださいませ。昨日はお義父さまのお邸に宿下がりをしておりましたものですから…」
「……」



 后妃美凰は月に一度、身体に触りのある時に義理の両親である冢宰夫妻の邸宅に宿下がりをする。
 王の后妃に対する寵愛は大層深く、それ故に困った仕儀になる事を避けるため、后妃は二日の宿下がりを懇願し、王も渋々それを受け容れているのだ。

「それでは、今から宮城にお戻りに?」
「はい。朱衡どのはもう三日もお休みされていらっしゃいますので、ご様子は如何かと思い、立ち寄らせて戴きましたの…」
「ご心配をおかけして恐縮の極みでございます。少々疲れが溜まっていた様ですが、もう大丈夫です。明日からは普段どおりに政務に戻れるかと存じますので…」

 心配げだった花顔が忽ち安堵の輝きを見せ、朱衡は眩しげにその美しい面差しを見つめた。

「それは宜しゅうございました…。でもご無理はなさらないでくださいましね? あの、わたくしがこちらをご訪問したからとて、完治あそばされていらっしゃらないのを無理に…」

 朱衡は首を振って静かに微笑んだ。

「なにを仰います。この朱衡、本来はとても頑健な者にございます。どうぞご案じくださいますな」
「……」



「美凰様、そろそろ北宮へお戻りあそばしませんと、主上が大騒ぎでございますよ…」

 歓談の中、遠慮がちに声をかけてきた女官長の桂英に、美凰はそっと頷いた。

「そうですね。朱衡どののお元気そうなご様子も窺えましたし、そろそろ失礼致しましょうか」

 美凰はそういうと、淑やかに椅子から立ち上がった。

「あっ! そうですわ…。桂英、お見舞いのお品を…」
「まあ! お話に夢中ですっかり失念しておりましたね」

 桂英は慌てて背後に置いてあった包みを、美凰に差し出した。

「朱衡どの、お見舞いのお品ですの。お気に召して戴ければとても嬉しいのですけれど…」

 美凰は、大きな袱紗に包まれた見舞いの品を朱衡に手渡した。

「これは…、お気遣い戴きまして恐縮でございます…」

 朱衡は深々と頭を下げ、謹んで包みをおし戴いた。





 辞去する后妃の鳳輦(ほうれん/四人が担ぐ籠)を見送った朱衡と月梅は客間に戻り、下賜された袱紗包みを開いた。
 中には朱衡の為の硯、月梅の為の金と珊瑚造りの簪が、それぞれ木箱に納められていた。

「まあ! わたしにまで! なんて綺麗なんでしょう!」

 明らかに範国で誂えた、后妃自らの簪であろう。
 月梅は興奮した様子で、ためつすがめつ簪を眺めていた。

〔相変わらず、物惜しみをなさらない御方だな…〕

 妹の喜び様に苦笑しつつ、硯の木箱を開けた朱衡は驚愕した。
 中に入っていた硯は、『端渓(たんけい)』であった。
 硯の中でも『端渓』は、滅多と手に入る代物ではない最高級の硯で、この雁国内でも使用している人物はと云えば后妃美凰と冢宰の院白沢、それに大学学長を務めている白沢の親友、鳳仁篤(じんとく)老師のみである。

『拙めも一度でよいから「端渓」で筆をとってみたいもの…』

 随分以前に、后妃の前でその様な話をした事があった。

〔覚えていてくださったのか…〕

 朱衡はそっと硯を手に取り、その紫と黒が混ざったような独特の色を放つ石を愛しげに撫でた。
 硯は后妃美凰のつややかな髪の色に似て、とても神秘的な輝きを放っていた。





 その夜は殊の外、月の美しい夜だった。
 美しい牡丹の咲き乱れる院子の四阿で、朱衡は端渓の硯で丁寧に墨を磨(す)り、出来上がった黒々とした墨を筆に含ませた。
 煌々と輝く月明かりのお陰で、さらさらと筆は進み、写本作業は苦もなく進行出来た。
 明日からは通常通り出勤し、また忙しい日々が始まる。
 幾日かは掛かるだろうが、親友には暫く延長で書物を拝借する旨の書簡は届けさせた。


 戀人よ、御身と二人でいるならば、わたしは他になにもいらぬ。

 たとえ今、世の総ての人たちと一緒にいても、わたしの眼に映るものは

 御身ただひとり…。

 御身ゆえ 吾生くべし、

 御身ゆえ 吾死すべし…。



 月明かりが、熱い恋情を胸に秘めつつ筆を走らせる怜悧な横顔に陰翳をつくり、その白皙の頬を、やわらかな春風が優しく凪いでゆく。


 【戀人よ、あなたを苦しめるものはなに?】
     
 【貴女を愛しいと想うわたくしの心です…】


 牡丹の花々が美しい、春の宵であった…。


_54/107
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