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団圓節 (だんえんせつ) >>
 団圓節と呼ばれる国の祭日の前日、崑崙から美凰の両親である二郎眞君夫妻と東方朔がやって来た。
 団圓節とは『中秋節』の別称で、中秋の名月の頃に家族が集まり、月を愛でる崑崙の伝統的な祭日である。
 丸い月は団欒の象徴と考えられており、豊かな収穫を目前にしたこの日、家族が集まり月餅を食し月を眺めては幸せで円満な生活を望む。
 美凰を娶って間もなくの頃、尚隆はこの風習を雁州国の祝日として取り入れた。
 尚隆や六太の育った蓬莱では、団子を供えて月見の宴をはるのが風習だったので、玄英宮の団圓節は子供の喜ぶ甘いものに満ち溢れていたといっていい。





「よしよし…。その調子で踏み込めっ! そら、ここだっ!」
「えいっ! えいっ! やぁっ!」
「よーし! いいぞーっ!」


 朝早くから北宮の院子では四歳になって間もない雁国公主、小松花凰が祖父である二郎真君楊センと共に狭客(きょうかく/帯刀している任侠人の意)ごっこを繰り広げていた。
 つややかな薄紫の髪に賢そうな琥珀色の双眸。
 姿形は母である美凰譲りの美貌であるにもかかわらず、その中身は父である尚隆や祖父である二郎の性格をそっくりそのまま譲り受けたのか、じっとしている事が嫌いな風の様な少女は自由奔放にすくすくと成長していた。
 二郎は蕩けそうな表情で、可愛い孫娘の相手をしている。
 その姿から見れば、花凰は自分の娘の様にも見えるが、楊二郎は既に三千歳を越えた天界の武将神なのだ。
 二郎は赤子の頃に不注意で手放し、大人に成長してから再会した美凰に与える事が出来なかった父親としての愛情を、この可愛い孫娘に注ぎ込んでいたと云っていい。
 文字通り、眼の中に入れても痛くない程の可愛がりぶりであった。
 翠心はといえば、今宵の為の月餅や団子作りに娘の美凰と共に厨房へ籠もっている状態、女婿の尚隆は執務で朝から宮城を留守をしており、今夕には帰城するとの事だった。


「ちい姫様、お祖母様とお母様特製の桃饅頭と小龍包でございますぞ。ご休憩あそばされて召し上がられませ」

 相好を崩した東方朔が李花と明霞を引き連れ、花凰の為にいそいそと飲茶とお茶を運んできた。

「あっ! さくぅ〜!」

 花凰は大好きな道化者の姿に、嬉しそうに手を振った。

「よし、休憩にするか。如星、崑崙黒(こんろんこく)、お前達も来い」

 そう云うと、二郎は花凰を抱き上げて石案の前の椅子に腰掛けた。
 如星は前述の通り、九尾を持つ白銀の神狼、崑崙黒とは二郎が飼っている立派な黒犬である。
 翠心を妻に娶る少し前、野良犬だった崑崙黒はとある事件から二郎の飼い犬となり、今では妖魔退治の一角を担う立派な神犬となっている。
 今日の如星は人型をとっていた。
 人型の如星は長い銀髪に黄金の瞳、朱衡といい勝負の男ぶりはまさしく白面の貴公子である。
 花凰は東方朔と侍女達が並べて行く飲茶を、嬉しそうに見つめていた。

「わぁーい、おいしそー…。じろーちゃま、ももおまんじゅたべる?」

 二郎は花凰に自らを『お祖父さま』と呼ばせずに『二郎』と呼ばせているのだ。

「花凰が食べるのならな。如星、黒、お前達もどうだ?」
「はは…」

 如星と崑崙黒は二郎の傍近くに控える。
 二郎はほかほかの桃饅頭を無造作に手に取り、花凰に持たせてやった。

「あーっ! なりませぬっ! ちい姫様っ! 木刀をお持ちになったのですから、ちゃんとお手を綺麗になさってからでないと!」

 東方朔が慌てて手水鉢を差し出すと、うんざりしている二郎の前で李花が饅頭を持ち、明霞が手拭を差し出す。
 花凰は素直に手を洗い、綺麗に拭った。

「りか、おまんじゅちょーだい」
「公主(ひめ)さま、これは汚れた手でお持ちになられましたから、もうなりませぬ」
「えーっ! もったないとおもうのだけど? おたーたまにしかられるよぉ…。ね、じろーちゃま?」
「ははは。仕方あるまい。では俺が食ってやろう。よこせ」
「ですが…」
「花凰が勿体無いと云っているのだ。無造作に捨てては美凰の教育方針に逆らう事になるぞ」
「はあ…」

 二郎は李花から桃饅頭を奪い取り、さっさと頬張ると、手水鉢で自らも手を洗い、東方朔の袍でごしごし手を拭いた。

「あーっ! 何をなさるのですっ!」

 東方朔は眼を白黒させて慌て、二郎の傍から飛び退った。

「何って…、手を拭いた」
「そっ、某が美凰様から頂戴した大切な袍で手を拭くとはっ! あなた様という御方は!」

 手水鉢を持ったまま地団太を踏む東方朔に、二郎はくつくつ笑った。

「まったく、ちょっとやそっと汚れていようが、大丈夫だろうに…。過保護はいかんぞ」
「なにを仰せになられますっ! 大体、ちい姫様に棒切れを振り回させる方がどうかしておられるのですぞ! この国の王と后妃のやんごとなき一粒種の花凰様に…」
「あー、解った解った。お前の話は長くなる…。もういい」

 二郎ははうんざりした様な表情で東方朔にしっしっと手を振る。
 そして花凰の為に、新たな饅頭を取ると二つに割ってやった。
 無念の表情の東方朔を尻目に、花凰は嬉しそうに蓮の実のあんこにかぶりつく。

「んとね、さくがいってた。じろーちゃまはおばーちゃまのおまんじゅがだーいすき!」

 東方朔は昨日、花凰に教えたばかりのその言葉にどきっとなり、後ろ足でそろそろとその場を逃れ始めた。

「うーむ。やはり餡子は今ひとつだな…。俺は小龍包の方が…」
「え〜っ? おばーちゃまのけまんじゅより、しょーろんのほうがすきなの?」
「何っ? 花凰、お前、いま何と云った?」
「んと、けまんじゅがだーいすきなんでしょ? さくがそーいってたもん…。おばーちゃまのあんこがおすきなんでしょ? なのにどーしてしょーろんのほうがいいの?」
「……」

 二郎は精悍な顔を歪めて東方朔を振り返ったが、花凰に莫迦な事を教え込んだ道化者の姿は、脱兎の如く院子から消えていた。

〔太歳の奴め! 年端もいかぬ幼子に何を教えとるのだ!〕

「東方朔様は厨房のご様子を見に参られるとの事で…」

 李花と明霞はその美しい顔を真っ赤にして、後じさった。

「そっ、それではわたくしどもも、えーと、お茶のお代わりでもお持ちいたしましょうね!」

 そう云うと、侍女達もそそくさと院子から姿を消し、沈黙が二郎と花凰を包んだ。
 堪えきれないようにくすくす笑っている如星を、二郎は睨めつけた。

「お前が笑うなっ! 如星っ!」
「はは…。これは申し訳なく…」
「まったく! あの莫迦め! 見かけたら拳骨で殴ってやるぞっ! 花凰、よいか」
「ん〜 なーに?」
「『けまんじゅう』という言葉は二度と口にしてはならんぞ。特に尚隆の前ではな…」

 花凰はよく解らないという風に小頸を傾げた。

「どーしてぇ? おとーたまにいっちゃだめなこと、さくはおしえてくれたの?」
「そうだ。東方朔は悪戯者だからな。花凰に悪い事を教えたのだ」
「ふぅーん…。わかった、いわない…」
「そうかそうか。偉いな〜 花凰は…」
「じろーちゃま、ももまんじゅ、もういっこちょーだい!」

 二郎はやれやれという顔をして相好を崩しつつ、桃饅頭をもうひとつ、愛する孫娘に与えた。





「花凰は俺が好きか?」

 くりくりした琥珀色の瞳が二郎をじっと見上げる。

「じろーちゃまのこと? だーいすきっ!」
「ほほう…。尚隆よりもか?」
「おとーたまとおんなしくらいすき!」
「うーむ。一緒はいかんな。どちらかに決めて貰いたいのだが?」
「きめなきゃならないの? どーして?」
「じろーちゃまは尚隆なんかに負けたくないのだ」

 憤然とした様子の二郎を、花凰は再び見上げた。

「おとーたまは『なんか』なの? じろーちゃまはおとーたまがおきらいなの?」
「好きとか嫌いの問題ではない。単なる嫉妬だな。俺の娘、つまりそなたの母上を盗られた事に所以するのだ」
「とられた? んーと、よくわかんない。でも、花凰のおとーたまだもん。それにおたーたまともとってもなかよしなんだけど…」

 花凰は、二郎が再び二つに割ってくれた桃饅頭を頬張りながら云った。
 二郎は思わず、うむむと唸る。

「うむ…。それも気に入らんな」

 如星は、歯軋りしている主を呆れた様子で眺めやった。

「やれやれ…。お止めなされませ。いい大人が頑是無いちい姫様に何を吹き込んでいらっしゃるのですか、まったく…。眞君はどうしてそう子供の様なことばかり…。これでは東方朔に文句は申せませんよ!」
「……」

 白面の貴公子はにっこり微笑みながら主の膝で、美味しそうに饅頭を食べている小さな公主に向かって微笑みかけた。

「ちい姫様。じろーちゃまの仰せになられる事は気にしてはなりません。無視なさいませ」
「むし? でも、むしなんてしたら、じろーちゃまがかーいそうだもん。じろーちゃま、おとーたまとなかよしになれないの?」
「うううっ…!」

 返事に窮しいてる二郎を、崑崙黒が面白そうに見上げていた。



 半刻後(一時間後)、ほとぼりが冷めたであろう頃合を見計らって、東方朔が山の様な菓子を持っておずおずと院子に顔を出した時、仲のよい祖父と孫娘の姿はなかった…。







 その頃、如星に乗った二郎と花凰、そして崑崙黒は関弓の街中に降りていた。

「ねえねえ、じろーちゃま。またあのおもしろいとこ、あのきれぇなおねーたんたちのとこにいくの?」
「そうだな。夕餉までに戻ればいいのだから、縁日を見たら久しぶりに行くか」
「わぁーい! 楽しみ〜!」

 団圓節のこの日は屋台も沢山出ており、月餅や団子を売る熾烈な騒ぎになっている。
 大衆食堂で午餐を済ませ、縁日を楽しんだ三人と一匹はそのまま緑の柱の建物に向かった。
 然様、二郎は妓楼での賭博に花凰を同行したのである。
 如星と崑崙黒は花凰の教育上とんでもないと、必死になって止めたが、当の花凰は何ヶ月か前にも二郎と来たことのある緑柱街を、楽しそうに駆け抜けて行った。



「こ、こんにちわ…」

 緑柱街のとある妓楼で、花凰は胡散臭げな大人たちに向かってにっこりと挨拶をしていた。
 物怖じしない教育をされている所は流石である。

「かっわいぃぃぃ〜!」
「二郎様〜 どこから誘拐してきたの? こんな可愛い子! まさか売る気じゃないんでしょうね?」

 花凰のあまりの可愛さと真っ直ぐな瞳に、数名の妓女や博徒たちはすっかり照れてしまい大騒ぎであった。

「莫迦を申すな。これは俺の孫娘だ!」

 花凰を抱き上げ、二郎は威張った様子で宣言した。

「…、まごむすめって…」

 見た目が三十にも見えないの漢の孫娘って…。

「俺にそっくりで可愛いだろうが!」

 蕩けそうな二郎の口ぶりは、遊び仲間には今ひとつ理解に苦しむ言動である。
 さもありなん。この十二国では血縁というものがない。
 血肉を分けて子供を作るわけではないので、親子が似ているなどという現象はありえないのだ。





 崑崙黒が妓楼の外で待機し、如星がおろおろと花凰の身を案じている間も、花凰は楽しそうに祖父の膝の上でさいころ賭博に興じていた。
 ふいに二郎は酌をしている妓女の手首に、奇妙な傷を目ざとく見つけた。

「どうした、そのみみずばれは?」
「あ〜 ゆんべのお客がさ、変な趣味もってたのよ。あれよあれ…。縛ったり抓ったりされてさぁ〜」

 二郎はくつくつ笑った。

「ほう。それはまた災難だったな」
「ほーんと。事に至るまでそんな素振りは見せなかったのにさ…。大事な商売道具なのに、傷物にされちゃったから、今日は買断日なの。そいでこっちで稼がせてもらおうと思ってさぁ〜」

 花凰は妓女の手首をじっと見つめ、小頸を傾げた。

「みみずれっていうの? それっておかーたまにもあった…」

 二郎を始め、その場に居た全員が硬直したのは言うまでもない。

「まことか? 花凰!」
「うん。きのーのおふろでみたの。おちちのうえとか、んーと、なんかいっぱいあったの」
「母様は何と申しておった?」
「んーと、なんでもないのよって。でもおふろの後でおとーたまがあやまっておられたの。もうしないって…」

 二郎は歯軋りをして唸った。

〔尚隆め〜! よくも我が娘の身体に傷を負わせるような閨事を! 赦せんっ!〕

 二郎は花凰を抱き上げると、すっくと立ち上がった。

「今日は帰るっ! またなっ!」
「ちょっと! 二郎様〜! 勝ち逃げじゃないのっ! ちょっとおぉぉぉ!」

 大騒ぎする妓女や博徒たちを振り切り、稼いだ小銭をざっと懐に入れた二郎は脱兎の如く妓楼を出るや如星達と共に玄英宮に向かった。






【昔、昔、そのまた昔。十の太陽が、一度に空に現れたことがありました。大地は荒れ果て、海は干上がり、人々は暮らしを立てることすら出来なくなりました。このころ后(げい)という勇敢な若者がいました。その力は万斤の宝の弓を引くことが出来、どんなに恐ろしい獣でも射る事が出来たといいます。彼は人々の苦しむ様子を見て、宝の弓と神の矢を持って一気に九つの太陽を射落としました。最後の太陽は許しを乞い、后が怒りを静め弓を納めて、太陽に人々のために決まった時間に昇り、沈んでいくことを約束させました。后の名前は天下にとどろき、人々は彼を敬いました。
 その後、彼は嫦娥(じょうが)という娘を嫁に取りました。嫦娥はとても美しく、そして穏やかで、聡明な女性でした。二人の仲はむつまじく幸せに暮らしていました。嫦娥は心優しく、常々夫の狩ってきた獲物を皆に分け与えており、人望厚いものがありました。そして皆は、后はよい嫁をもらったと噂しておりました。
 ある日、狩の途中で后は一人の年老いた道士に出会いました。老道士は后の人となりに感服し、一包みの不老長寿の薬を与えたのでした。この薬を飲めば不老長寿を得ることが出来、天に上り仙人になることが出来るのです。しかし后は妻や自分の周りの人々と離れて一人、天に赴こうとは思いませんでした。家に帰ると不老長寿の薬を嫦娥に渡し、つづらの中に仕舞わせたのでした。
 このころ、后のもとには、彼の威名をしたって多くの人たちが集まっていました。その中に蓬蒙(ほうもう)という悪賢いものがおりました。蓬蒙は不老長寿の薬を奪い、自分で飲んで仙人になろうと考えたのです。
 その年の八月十五日 后は弟子たちを連れて狩に出かけていました。夕暮れ前に蓬蒙はひそかに戻り、嫦娥の部屋に忍び込み不老長寿の薬を渡すよう嫦娥に迫ったのです。嫦娥はやむにやまれず、薬を全部飲んでしまいました。すると彼女の体は突然軽くなり、窓を抜け出し、一直線に空高く舞い上がったのです。しかし彼女の夫を思う気持ちは強く、地上から一番近い月に彼女は降り立ちました。
 后が家に戻ったとき、すでに妻・嫦娥の姿は見えませんでした。侍女の話でようやく后は事の次第を知ったのでした。急いで外に出て月を見てみると、月はいつもよりも丸く、いつもよりも輝いて見えました。それは愛する妻が自分を見守ってくれている様でもありました。彼は覚悟を決めて月を追いかけました。しかしどうしても月にたどり着くことはできません。后は妻を思うと心張り裂けんばかりでした。彼は庭に嫦娥の好きだった果物などを置き、彼女を祭りました。近くの人たちもそれにならい、果物をのせた卓を供え、心優しい嫦娥を偲んだのでした。
 次の年の八月十五日の夜。この日も月は特別に丸く、明るく輝いていました。そして后はこの日も果物をたくさん置いた卓を月明かりの元に供えて妻を思ったのです。それが毎年続き、世間にも伝わり、八月十五日が中秋であったことから『中秋節』としてお祭りするようになったということです。
 月の宮殿に入った嫦娥ですが、彼女は日々夫を思い、故郷を思い、どのようなご馳走も美しい舞も彼女の心を和ませることは出来なかったと云います。毎年八月十五日、嫦娥は宮城の門の外に出て、はるか地上の故郷を眺めるのでした。嫦娥の美しいその顔が、月をさらにさらに輝かせ、丸く見せるのだということです…】


「おしまい…」

 美凰は尚隆の膝の上で美味しそうに月餅を頬張る花凰に、月の物語を聞かせ終えた。
 名月が煌々と輝き、家族団欒の穏やかな時間がゆっくりと流れて行く。
 観月用に特別に露台に設えたお供え用の台の周りを六太と桃箒が駆け廻り、二郎と翠心が囲む卓には白沢と唐媛が同席している。
 一千年以上も昔に死に別れた自分の養父母に似た雰囲気を持つ白沢と唐媛に、翠心は大層打ち解けている様子であった。

「じろーちゃまからきいたおはなしとは、ちがうのね?」

 美凰は青紫の美しい双眸を見開いた。

「まあ…、じろーちゃまはなんと仰せだったの?」
「えいえんのいのちがほしかったじょうがは、おっとのげいを、えーと、だしぬいて…」
「まあ…」

 美しい眉が小さな娘の暴言に顰められる。

「ふろーふしのくすりをぬすんでのんだの」
「……」
「でもこーかいして、ひとりでつきのなかでさみしーおもいをしてるんだって」

 尚隆と美凰は顔を見合わせた。

「寂しい思いは間違いないでしょうけれど、じろーちゃまにも困ったものですね。花凰は嘘を教えられたのですよ」

 花凰はぷっと膨れた。

「え〜! どーしてぇ〜? 花凰がじろーちゃまをいちばんすきじゃないから?」
「あら、じろーちゃまにそんな事を申し上げたの?」
「うん。だっておとーたまとどっちがすきかって、きかれたんだもん」
「岳父上め…」

 尚隆は拳を握り締めていた。

「しょーりゅー『なんか』にまけたくないんだって」

 尚隆の顔が苦虫を噛み潰したようになった。

「俺だって、岳父上なんかに負けたくないぞ」
「陛下…」

 妻の窘めにも耳を貸さず、憤然とする尚隆の左眼にはくっきりと拳骨の青痣が出来ている。
 帰城した途端、二郎に捕まり、挨拶もそこそこに意味も解らず吹っ飛ばされた結果なのだ。



『岳父上! 一体なにをなされるっ!』
『喧しいっ! 娘の身体に傷をつけおって! 何故殴られたか、胸に手を当ててよっく考えるがよいっ!』
『……』

「うーむ。俺にはどうにも身に覚えがないのだが…」

 尚隆は美凰から冷たい手拭の換えを渡され、左眼を押さえた。

「んと、みみずれのせいだとおもうの」

 不意に愛娘が膝の上で呟いたので、尚隆は訝しげに花凰の顔を見つめた。

「なんだ? その『みみずれ』というのは?」

 花凰は東方朔から聞いた『けまんじゅう』の事、妓楼に『賭博』をしに行った事、妓女の手首にあった傷と同じようなものが、美凰の身体にもあった事を脈絡なく話していた。
 美凰には何がなんだかさっぱりの話だったが、尚隆の形相はかなり悪化していた。

〔くっそう! 可愛い花凰に『けまんじゅう』などと卑猥な言葉は教えるわ、妓楼に連れ出すわ賭博はやらせるわ…。おまけに、この俺が変な趣味を持っているかの如く誤解するなど! 岳父上め! もう赦せんぞ!〕

 尚隆は花凰を抱き上げてすっくと立ち上がると、二郎たちが楽しげに囲んでいる卓に向かってずんずん歩いていった。





「翠心。美凰は具合が悪そうだが、何か申しておらなんだか?」
「あら、二郎様。よくお判りになりましたのね。仰せの通り、美凰は少し体調が悪うございますのよ…」

 訳知り顔に翠心と唐媛は頷き合っていた。

「ふん! どうせあの莫迦婿がくだらぬ事をしでかしたのであろうよ!」

 翠心は小頸を傾げて、不機嫌にしている夫を見つめた。

「賢婿(しぇんしゅう)がしでかした事には間違いございませんけれど…。やはり青魚は余程でないと生はいけませんわ。ね…、唐媛様」
「まことに、その場で捌くのならともかく、半日経っていたのであれば、やはり焼くか煮付けが妥当でございましょうよ」

 女達が顔を見合わせてうんうん言っている様に、酒杯を傾けていた二郎の手が止まった。

「なに?」
「鯖とか申す魚(うお)を賢婿が釣ってこられて、お刺身と煮物にしたそうなんですけれど、お刺身が駄目だったみたいで、身体のあちこちにみみずばれの様な湿疹が出来ましたの。それは痒かったと云っておりましたわ…。それもあたったのが美凰だけだったみたいで…。賢婿にもう二度と釣りはしないと落ち込まれたそうでわ…」
「花凰様は、内臓も主上似でいらっしゃるのでございましょうか?」
「……」

 二郎の顔面がさっとひいたのは云うまでもない。
 つまりは二郎の完全な誤解というわけであった…。



「はくじーちゃま!」

 痛い視線に振り返った二郎を、花凰を抱いた尚隆がにこやかな黒い微笑を浮かべて見おろしていた。

「おおっ、花凰様…」

 白沢は蕩けそうな表情で花凰を尚隆から抱き取った。
 花凰は白沢の白い顎鬚が大好きなのだ。
 厳格な雁州国の冢宰も、愛らしい公主にかかっては唯の爺であった。

「あのね、花凰がいちばんだーいすきなのは、はくじーちゃまなの! おとーたま、じろーちゃま、ごめんなさいませ…」

 花凰は父と祖父に向かい、こっくりと頭を下げて謝った。

「ほーっほほほ…。いやいや、拙めが一番好きとは、なんと恐れ多い仰せ…」

 白沢の相好が崩れ、腕の中の花凰が愛しげに抱き締められる。
 花凰のごめんなさいに、尚隆と二郎はは引き攣った笑いを浮かべ、歯を食いしばり、涙を堪えて互いを睨み合った。

「さて、岳父上! 是非とも別室でご指南賜りたい事象がございましてな…」
「ふふん! 俺が指南したとて、賢婿がご理解召されるやら…。まっ、話だけでも聞かせて貰うかな?」

 竜虎の激突は今まさに始まろうとしている。
 美凰を始め女三人は、漢達を取り巻いている不穏な空気に訳もわからず苦笑いを浮かべていた。
 月が煌々と輝く、家族団欒の夜であった…。
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