1 「ボス、ちょっといいか…?」 「あ?おう…」 イタリア、キャバッローネ邸にある豪華な装飾を施した大広間で、綺麗な曲線を描いた色鮮やかなソファーの上でディーノは腹心からの言葉を受け、向かいに座る対談者へ一つ詫びの言葉を入れると隣へ腰掛けていた愛しい恋人の黒髪をくしゃりと撫でて部屋を後にした。 ウザいと眉を顰めてその掌から逃れるように頭を避けるその不躾な恋人。 雲雀恭弥は、部屋から出ていくその背中を一瞥してから直ぐに手元にある紅茶を喉に通した。 「雲雀、恭弥くん…と言ったかね」 と、何処かたどたどしく名前を呼ばれ、ディーノの正面に座っていた男へ鬱陶し気に眼差しを向ける。 ディーノの…というよりもキャバッローネファミリーの交渉相手としか聞いていないが、その存在が重要なのか、はたまた大した存在ではないのか。 先程までの二人の会話を聞いていると少々専門的用語やら難しい言葉が飛び交うので、まあまあ重要な相手なのかとも予想をする。 元より、過去の人間である幼い雲雀にそんな事は関係無いのだけれど。 「君、確か甘いものが好きだと聞いたんだが…。良かったらこのシロップを使ってくれないか」 と、いかにもその中年の親父は雲雀に人懐っこいような笑みを浮かべて目の前に小瓶を差し出した。 気のせいだと思いたいが、ディーノと交渉している時からこの男からの視線がやけに気持ち悪い。 そんな事を頭に過らせつつ不信な眼差しを男に向けるも、丁度砂糖でも欲しいと思っていた所だ。 やはり角砂糖の一つや二つではこの口には合わないらしい。 かといってまた角砂糖を一つ…というと少し甘さが強い気もするし。 「ほら、遠慮せずに」 特に遠慮等はしていないが、不信な眼差しで小瓶を見詰める雲雀に男は若干急かすように声を掛ける。 そんな男を鬱陶し気に睨み付けてやったら何処か甘い雰囲気を放つものだから、思わず気持ち悪いと小さく溜め息を吐いた。 そして小瓶の蓋を開けて紅茶の中へとゆっくり液体を注いでいく。 「どうかね。君の口には合うかな…?」 先程から返答を返さずにいるというのに男は飽きもせず満面の笑みで問い掛けてくる。 いい加減鬱陶しいと視線を逸らして半ば苛立ちを抑え込むようにして紅茶を喉に通した所で、やっとディーノが戻ってきた。 幼い雲雀が見知らぬ男と二人きりで、一体なぜ大人しくしているかといえばそれはディーノの為…とでも言うべきか。 成長したこの時代に生きる雲雀ならばこのような場の切り抜け方も会得しているから問題は無いが、何しろ過去の時代で生きていた雲雀にとっては我慢する他術が無い。 出ていくにしてもそれは交渉相手に失礼で、そんな雲雀の行動一つでせっかくの交渉が台無しになる可能性もある。 それぐらいは、幼い雲雀にも察する事が出来た。 「わりーな恭弥、待たせちまって」 なんて、10年前と変わらない眩しい笑顔を浮かべて丸々とした頭をくしゃりと撫でる。 出ていく時と同じように、雲雀は止めろと嫌がった。 「待たせて悪かった。じゃ、話の続きだが…」 そんな雲雀にディーノは優しい笑みを浮かべて、早速といった感じで交渉を始めた。 ディーノが幼い雲雀をこの交渉の場に連れて来たのは、本意では無い。 目の前の男。 この交渉相手がどうしても雲雀を見たいというものだから、若干不信に思いつつも仕方ないと連れてきた。 勿論、一目見せて何かトラブルに巻き込まれない保証は無いから部下達には反対されたし、正直ディーノも渋っていた。 けれど、そんな反対を押し切るように、雲雀本人が行きたいと口にしたのだ。 その心境はよくわからなかったが、雲雀本人が行ってみたいと言うならばと、ディーノは仕方なしに了承した。 「……」 隣に座るディーノが笑顔を浮かべながら交渉をする姿を、雲雀は横目でじっと見詰めていた。 時折紅茶を啜りながら。 過去の時代では中々ディーノの仕事風景なんて見る機会が無かったのだろう。 何処か物珍しそうに視線を向けて、ディーノの綺麗な横顔とか、金糸の髪の流れとか。 熱心に男へ向ける鳶色の瞳とか。 本当に、成長したディーノなんだと感じた。 そんな事をしながら数十分が経った時、室内の温度に変化は無いというのに、身体の奥からじんわりと沸き上がる熱に雲雀は小さく眉を寄せた。 違和感と、次第に火照り始める身体の変化。 そんな変化をディーノに覚られまいと雲雀は必死に平常を保つ。 ゆっくりと、それでも落ち着きなく動く雲雀の眼差しを男は薄い笑いで一瞥した。 「今回の交渉はこの辺にしとくか」 「そうだね。私も次の交渉が待っている。今日はこの辺で帰らせてもらおう…」 男の視線にも気付かずに雲雀はただこの熱を抑え込もうと懸命だ。 立ち上がって握手をし出す二人に驚いたように小さく身体を跳ねさせるものの、必死に無関心を装う。 ディーノが男を送っていくからと頭を撫でた瞬間、小さく身体が強張った刹那雲雀の腕がそれを叩いた。 まるで触るなとでもいうように。 「ったく…。オレが戻るまで大人しく待ってろよ」 そんな雲雀の反応には慣れたと言わんばかりのディーノの態度。 小さく微笑んで声を掛けると、ディーノは男を連れて部屋から出ていった。 その背中にすら視線を向けずに、雲雀は小さく息を吐く。 ディーノにはああ言われて黙っていたけれど、その言い付けを守るつもりは毛頭無い。 それにこの身体の変化は風邪とは違うし、沸き上がるような欲情に加え、肌と衣服の擦れる感覚にすら身体は小さく震えてしまう。 そして、口元からは不本意な吐息が微かに漏れて、こんな姿をディーノにバレたらと思うだけで雲雀の心はきゅっと締め付けられた。 とにかく、バレたくない。 先程まで見詰めていたディーノの横顔が脳裏を過る度、どくりどくりと脈拍が上がる。 まるで、これではディーノに欲情しているようで雲雀は何故だか屈辱を感じた。 セックスだとか、そういう類の事はディーノが欲情していればいいのに。 ディーノが一方的に、この自分に欲情をしていればいいのに。 なのにそんな自分がまさかディーノに欲情するだなんて、そんな事は頑として認めたくない。 熱の隠る吐息を吐き、雲雀は学ランを靡かせて部屋から出ていった。 |