それは、一大決心
「かーいと…くーん…」
「か、い、と」
「かぁーいーーーとぉっ」
「変に伸ばさない」
「やっぱり無理だよ。恥ずかしいよっ」
「慣れたら気にならないよ」
「むぅりぃーっ」
朝の玄関先での回想終了。
朝早くの学校は閑散としている。いつもガヤガヤと賑やかな教室を作っているクラスメート達は現在ちらほらとしかいなく、私は暇を持て余している所であった。
ぽーとしていたこともあり、自然に反省を含めてシュミレーションをしていたのだが…
「カイト…カイト…カイト君」
どたりと机に倒れ込む。
おなかの辺りがどうしようもなくきゅうっとなった。
どうして簡単に言えるの…カイト君は…
冷たい机が見る見る暖かくなるのは、私が発する熱のせい。
それがまた羞恥への発火材となる。
「なんで私…言えないのかなぁ…」
何度も名前で呼んでくれと頼んでくるカイト君。
求められていることも分かっているのだから、早く私が彼の名前を恥ずかしがらずに呼べば、きっと彼は喜んでくれるに決まっているのだ。
なのに、できないことが悔しい…
もやもやと胸の内が、埋まっていく。おなかを押さえてうずくまっていると、横からとんっと軽く肩をたたかれる。
「も…もし?…どちらか具合でも悪いのですか…」
ふと涼やかな声が聞こえた。
心配げなその声はとても聞き覚えのあるものであったが、まさかなぜここに?と、慌てて顔を上げる。
「…!花蜜先輩?どうしてここに…」
そこにはキチンと背筋を伸ばして清浄な空気を醸し出している我が学校の五本の指に入る美女。花蜜杏子先輩がいた。
三年生であるはずの彼女が、一年の教室にいることが異質であることも勿論ながら、同じ制服でここまで違うのかと目を疑いたくなる着こなしであった。
すらりとした白いうなじが実に綺麗な人である。
「職員室にお伺いしたところ、お困りになっている先生がいらっしゃったので、私が代わりに教材を運びに伺ったのです。腰をいわしてしまったらしくて…大丈夫でしょうか…」
噂通り、人が良い。
本気で心配そうに頬へ手を滑らせる仕草にさえ優雅さが伴っていて、見とれる。
切りそろえられた前髪に見え隠れする眉はその心情故下がっているが、普段は凛とした眉に違いない。
「すてき…」
「なにか?」
「いっいいえ…なにもありませんっ」
「あっそうです。私貴方が心配で話しかけたのでした。具合は如何でしょうか…」
「えっあっ…具合は悪くないです。ありがとうございます」
立とうとした私の肩をやんわりと押しとどめた花蜜先輩は、失礼しますと一礼してから私の隣の席。安藤の席に座った。
「初めまして。私、花蜜杏子と申しますわ」
「はははは初めまして。吉野美奈子ですっ」
深々と頭を下げられて、慌てた私もつられつつ頭を下げる。
「なにか、私お役に立てないでしょうか」
「…へ?」
「お悩みがあるようでしたら、お聞きいたします。なので1人では悩まないでください。かわいらしいお顔が台無し」
にこりと笑って先を促される。初めて会った先輩に…しかも学校の人気者に悩み事を話すなんて、普段ならばなんでもないと返すところなのだが、
心地いい雰囲気がそれを可能にしてしまう。
「私…恋人が…いるんです」
「まぁ」
ぽっと頬を染めて、さらに真剣な顔になった先輩は、やっぱり普通の女の子なのだなと思う。恋の話が好きなのは、人気者も問わずということなのだろう。
「それで…悩みというのがですね…」
「悩みというのが?」
「…どうしても…どうしても…その人の名前が言えなくって…」
「殿方は、どう仰ってますの?」
「呼んで欲しいって言ってます。恋人同士になってからは、彼の方は私のことを名前で呼んでくれていて…なんだか…私だけ申し訳なくて…」
「あら、それは違うと思いますわ」
はんなりと笑った先輩は、薄ピンク色の唇に人差し指を添える。
「申し訳ないなど、思ってはだめだと思うのです。その愛称は殿方と貴方の愛情表現の一種のようなもの。相手と同じ愛情をあげなければならないという思いに捕らわれてはいけないですわ」
「…はい」
「これは、私の実体験なのですけれど。なかなか私の名前を言ってくれない殿方がいましたの。何度も仲良くなれるように努力しましたわ。ですが、私が必死になるほど彼は怒ってしまうのです。正直戸惑いました。どうして怒らせてしまったのか悩みましたわ。悩んで、そして、とうとう名前を呼ばれたとき、私とてもとても嬉しかったのです」
「嬉しい…」
「そうですわ。その殿方も、うれしい気持ちを共有したいと考えているのかもしれませんわね」
クスリと笑って、立ち上がる先輩。時計を確認すると、もう10分も経っていた。
「あ…もうこんなに経ってたんだ」
「時間が過ぎるのは早いですもの」
すっと手を差し出された。
先輩の顔を見上げると、優しい笑みが向けられた。
なめらかな手を取ると、ふわりと私の手が包まれる。
「美奈子さんの悩みが、はやく解決しますように」
「花蜜先輩…」
「杏子でよいですわ」
「杏子先輩、ありがとうございます。なんだか、ちょっと呼べる気がしてきました」
「頑張ってくださいね」
さながら鈴蘭のような笑みをたたえた杏子先輩は、教室を出て行った。
「ほぁ…緊張した…」
一瞬のことに思える10分間であった。
「でも、本当に嬉しかったなぁ」
何度も先輩との会話を反芻していると、みるみるうちにクラスに人の活気があふれてくる。
「おはよ」
「おはよう、安藤。」
席に着いた安藤は、一瞬眉根を寄せて訪ねてきた。
人が座った後って、違和感あるもんね。
「誰かと話してたのか」
「うん!花蜜先輩とね、少し」
「ふぅん」
興味なさそうな態度で鞄から教材を取り出していく安藤。
「あ」
「どうしたの、忘れ物でもした?」
何かを思い出したように小さく声を上げた彼は、朝の低血圧風な顔でスパッと言った。
「花蜜先輩。がくぽのマスターだった。美奈子に言うの忘れてたな」
「へ?」
「だから、実体化したがくぽのマスターなんだよ。今度の茶会には出るらしいけど」
「…ぅえええええっ!!?」
まさかのまさか、お仲間さんだったのですか…
はっ
まさか、仲良くなるために努力してた殿方って…
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