まるで何かに怯えるように、まるで何かを否定するように、すべてのものを拒絶するように…
そんなふうに見えたたんだ。
だから俺は───
歌声をさがして
第二話
路地を走り抜けて広い道へと出た所で足がガクンとなった。尻もちをつくと地面がグシャッと音を立てて泥が顔にまではねる。もうすでに泥まみれだったから気にならないが…。上がった息に合わせて肩が上下するのを抑えられない。先程の大通りよりも大分人の少ないさびれた通りはやけに静かで雨が体を打つ感覚が再び戻ってきた。呼吸が落ち着いてくると、まるで氷を滑らせたみたいに体の中心からヒヤーッと冷たいものが脳天まで走って鳥肌が立つ。
…化け物がいた…!今まで見たことない生き物が、喋るカエルが!!
立ち上がろうとして、またバランスを崩す。足が固まってしまって思うように動かせない。幸いここにはあの化け物はいないが、いつまた現われるか分らない。あたしは泥の中で膝を抱えた。恐怖、不安、孤独、混乱その他諸々に押し潰されそうになりながら。膝を抱えた手が小刻みに震えている。
その時あたしは奇妙な感覚におそわれた。
…なんだか、懐かしい
この気持ちは何だったか…。
あたしはこの状況にはふさわしくない懐かしい感情に意識を傾けてみる。一種の逃避かもしれない。
…そうだ…これは
──迷子──
小さい頃に経験して、今はもう疎遠になって忘れかけていた感覚。あれと同じだ。
小さく鼻をすする。するとその途端に沢山の雫が頬を伝った。雨なのか汗なのか涙なのか、あるいは全部か。それらをすべて抱き抱えるように、顔を膝に埋めたら、光がシャットアウトされて真っ黒になる。
迷子になった時、あの時あたしはどうしたんだっけ?
誰かを探しに走ったのだろうか?
誰かに見つけてもらうまでじっとしていたのだろうか?
…思い出せない…
しかし、今とあの時とでは決定的に違うところがあることには気付いている。それは、ここには見つけたい誰かも、見つけてくれる誰かもいないということ。ここが自分の知っている世界じゃなくて、別世界だということ。あたしは思った。
これは夢だ…
そう、夢なんだ。
そうやって不確かな安心を得る。目覚めたら終わることを信じようとした。きっとすぐにベッドの中で目覚めるはずだ。1ミリも動かずに待った。早く覚めろと願って。でも、いっこうに雨に打たれる感覚は消えずにはっきりしていて、髪にはねた泥はすでに綺麗に洗い流されていた。
…寒い
また歯が音を立て始める。その時すぐ前に気配を感じた。同時に雨が止む。
「お嬢さん、何してんの?」
男の声がした。
さっきのカエルが頭をかすめ、顔を上げずに拳を強く握った。
「おーい、シカトですかぁ?」
ゆっくりと顔を上げてみる。もしまた化け物がいてももう走れない…でもいいんだ夢だから…。見上げると銀色が光っていた。銀髪に赤い瞳の男。人の姿をしていることに安堵する。
「こんな所にいたら風邪ひくだろ?…家は?」
知らない人とのコミュニケーションが疲れることを、あたしは知っていた。知っている人でさえ、あたしときちんと会話が出来る人なんていないのだから。
「…またシカトですか?」
違うシカトじゃない。
あたしはもぞもぞと腰のポッケへと手を伸ばし、常備しているメモ帳とピンクのボールペンを取り出した。でも、当然のようにメモ帳はぐっしょり濡れていて、とても使い物になりそうもない。
銀髪の人をチラリと見ると、怪訝そうにこちらを見下ろしている。ついでにこちらに差し出された青色の傘も目に入った。あたしはメモ帳にボールペンを当てる。
書けるかな…?
"わたし…"
かすれながら出たインクが、あっという間に滲んで灰色の染みを作る。やっぱりダメだったか…
─無力だね─
その時だ、頭の中で囁かれたのは。
─何もできないんだね─
─どうせ何も言えやしないんだから─
─またシカト?─
波のように押し寄せる言葉の乱反射。
─何か言ってみろよ─
─どうして喋らないの!!?
─もう期待なんてしないから─
─お前は無力だ─
…うるさい
声が一気に暴走しだす
─お前は無力だ何の力も無い相手にまともに伝えられもしないくせにお前は無力だ無力なくせに何故喋らないのか意味不明な無力だ馬鹿みたいだどうせ言い返せはしない期待なんてしないわ無力だ伝わらない分らない無力無力無力なんだ無力すぎてどうせ言い返せはしないんだまともに伝えられもしないそんなお前は─…
うるさーーーい!!!!!
─お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力お前は無力─無力だ!!!!
うるさい!!
五月蠅い!!!!!!
黙れ! 黙れ!! 黙れ!!!
無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力
無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力
無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力無力…
頭を抱えてうずくまる。
「…大丈夫か?」
うるさい…
「何か言ってくんねーと分かんないぞ」
うるさい!!うるさい!!!うるさい!!!!
グシャッ!!
あたしはグシャグシャに濡れたメモ帳を地面にたたき付けた。
グチャッ!!
そして間髪を入れずにボールペンをナイフを握るようにして地面に突き刺す。そのまま泥を掻き混ぜるようにして荒々しく大きく文字を描く。ひどくいびつで乱雑な文字。
"しゃべれないの"
あたしは随分昔に言葉を失った。言わなくちゃ伝わらない、伝えなきゃ理解してもらえない…そんなことは分かっている。でもしょうがないじゃないか。あたしは言葉を持っていないんだから…。
「…名前は?」
降ってきた言葉を無視する。固まった足を無理矢理動かして踏ん張って立ち上がろうとすると、足にひっついた泥が落ちて、ボトッと不快な音がした。名前を教えるつもりはない。面倒になるだけだし、もうすぐあたしは目覚めるはずだから…。
どこか人のいない所に行きたくて、銀髪の人に背を向けようとした時だった。男の背中越しに二足歩行の魚を見つけたのは。途端にカエルの化け物の記憶が甦ってくる。黒い無機質な目、水掻きのついた緑の手、ガラガラとノイズがかった声…!恐怖と不安の波が暴れだし、体が勝手に動いた。
逃げなきゃ!!逃げなきゃあああ!!
路地を目指して足が動く。
どこか遠くに!!!
しかし二三歩踏み出した所で後ろに引っ張られる。
「ちょっおいっ!!どうしたんだ!?」
腕を掴んだのは銀髪の人だった、はずなのに、それがみるみる歪んでカエルの姿になっていくように見えた。
ぃ…いや!!いやぁああ!!
男の手がカエルの手に変化していく。進もうとする足と引っ張られる腕にバランスを崩し、体が斜めにかしいだ。
─無力だね─
また声がした。
─どうせ話せやしないんだ─
─どうせ何も出来やしない─
─泣き言一つも言えないの?─
うるさい!!うるさい!!
地面が目の前に迫った時、ふわっと浮遊感がして、柔らかいものにダイブした。世界が暗くなる。何も見えないのに腕は掴まれている感覚があって、それがあの銀髪の人のものなのかカエルのものなのか頭がゴチャゴチャだ。でも振りほどきたくてバタバタと四肢を暴れさせるのに、思うように動かない。
─君は無力だ、自分の言いたい事も言えない情けない人間だ─
頭が声て満たされていく。
沢山のノイズが飛び交って何も考えられなくなった時、
「落ち着け…」
ふと耳元で聞こえた低い声がすーっと流れ込んできた。暴れさせていた手を止める。
「大丈夫だから」
染みわたるような声が、頭の中に波紋み広げる。うるさかった声が、テレビのボリュームを一気に下げるみたいに小さくなっていく。
「大きく息を吸ってみ」
言われるままにすると、声は消えて、混乱が静まっていった。替わりに心臓が脈打つ音が流れだす。
「そうそう…」
背中をトントンと、ゆっくりあやされるようにたたかれている。どうやら抱きすくめられているようだ。ゆっくり顔を上げると光が戻ってきて、さっき見た赤い瞳と鉢合わせた。綺麗な銀髪が泥で汚れている。
「いい子だ」
銀髪の人は優しく微笑んで言った。その笑顔が温かくて、すがりつきたくて、鼻の奥がツンとした。涙が止めどなく溢れだす。
涙ってこんなに温かいものだったっけ…?
しばらく涙は止まらなかった。
╋サイレントガール╋
あなたに見つけてもらえて、本当に良かった…
20081216
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