ある所に、優しさを忘れてしまった兎と、優しさに気づいた女の子がいました。兎は優しさを忘れてしまってはいましたが、愛しさは忘れていませんでした。昔から大好きだったあの子は今どうしているのかな?あの子が欲しいな、そうだ、迎えに行こうか。兎は女の子を迎えに跳ねていきます。でも、優しさを忘れてしまった兎は、愛情の表現の仕方が歪んでしまいました。どうしよう、このままじゃ、女の子が死んでしまうよ。











大好きだったから、大切だったから、誰にも見つからないように見られないように、逃げないように、鎖に繋いで足枷をつけて部屋に鍵をかけて、名前は地球産だからどこにも逃げられないね。涙を流して出して出してって声をあげている。可愛いネ。あんまりにもメソメソしているから、夜はずっと傍にいてあげた。いっぱい啼かせてあげた。可愛い可愛い俺の名前。ずっとここで可愛がってあげるね。





―――――……





ここでの生活にも慣れてきた。慣れてきてしまった。爪は伸びて伸びて、伸びすぎてこの間割れてしまったよ。もうお風呂なんていつ入ったのか分からないから、髪はベトベトだし、手は心なしか黒ずんで、でも神威はそんなこと気にしてないみたい。こんなに汚い人わたしなら嫌だけどなぁ。でも、もう泣き疲れて、泣くと疲れるだけで、出してってお願いしても無駄だって分かって、都合の良い神威のお人形。主に性欲処理をさせられる神威のお人形。ねぇ、こんなの嫌だよ。神威はわたしにとって大切な幼馴染みなんだよ。弱い奴は嫌いだって言いながらも、小さい頃から面倒見てくれた神威が大好きなんだよ。こんなんじゃなくて、もっと、さぁ…





―――――……





名前が泣かなくなった。大人しくなった。渇いた涙の残る顔は少しばかりお疲れの様子。話しかけても反応が薄いです。どうしたのだろう、アレかなぁ、太陽がないからかなぁ?地球産は太陽が大好きだから、ずっとあんな暗い部屋にいると弱ってしまうのかもしれない。いつものように食事をお盆にのせて、彼女の部屋へ。鍵を一つ二つ三つ…八つ外して、


「名前、ご飯持ってきたよー」

「…」


最近は何も言ってくれません。だからって、最初の頃のようにご飯を食べなかったりはしないので、生命に危険はないと思うのだけど、こうも元気なさげだと心配になる。


「ねぇ、最近元気ないみたいだけどどうしたの?」

「…」


名前は無言で食事をしはじめた。器用にスプーンを使って綺麗に食べる。モグモグと動く口が可愛い。





―――――……





すっかり気分が塞ぎこんでしまったよ。こうも暗い部屋ではなおさらだ。テレビも本も、暇を潰せるものが何もない。人にも会えない。会話できるのは神威だけ。でも話したくない。どうしてこうなってしまったのだろう?昔の神威は少なくともわたしを大事にしてくれていたよ。夜兎だから、地球人の加減を知らなかったから多少痛い思いをしたことはあったけど、それは神威に悪気があったわけじゃなくて、いつもゴメンネって少し困ったように謝ってくれていた。いったい、あの日宇宙を飛び出してから何があったのだろう。これも一つの愛情表現だと言うのなら、それを否定はしないけれど、神威はもっと別の表現の仕方を知っていたよね?もっと温かい関係だったよわたしたちは。





―――――……





名前の様子がいよいよおかしくなってきたように思う。どうしたんだろう、おかしいなぁ。扉には鍵をかけてあるから、変な男に絡まれることはないだろうし、食事だってちゃんと三食運んでいるし、不便することないと思うんだけどなぁ。優しい俺は訊いてみることにした、


「ねぇ、名前」

「…」

「コラ、ちゃんと返事しなさい」

「…なぁに、神威」

「最近元気ないね」

「…」

「いったいどうしたの?」

「…」


膝をかかえて、ただ地面を見つめる彼女の瞳は虚ろだ。


「俺、何すればいい?」


そう訊けば、名前は久しぶりに俺を見た。





―――――……





やっぱり、神威の優しさは変わっていなかったんだなと思った。手にはめられた枷がガチャガチャと音をたてる。神威はあの日の優しさを忘れたわけじゃない…ただ、どこかで表現方法を忘れてしまった、間違ってしまった、そう、例えば海坊主さんに殺されかけたあの日とか…に。


「…ねぇ、神威」

「なに?」

「わたしは神威にとって何なの?」

「え?名前は俺にとって大切な幼馴染みだよ?それ以外にある?」

「憎んだり、嫌ったりはしていない?」

「してるわけないだろ、何言ってんの?」

「…そっか」


素直に嬉しかった。久しぶりに笑った気がした。


「じゃあ、どうしてわたしを閉じ込めるの?」

「え?」

「どうして手錠はめて、この部屋に閉じ込めるの?」

「名前が大事だからだよ」

「大事なのにこんなことするのはどうして?」

「…?」


神威は首を傾げた。わたしは何だか悲しかったけれど、頷いて笑う。


「…分かった。やっぱりこれは神威の愛情なのね?」

「…」

「だったらいいや、…このままでいいよ」


あの日、親殺しを決行した神威に何もしてあげられなかったもの。今までいろんな葛藤に悩んでいた神威に気づいてあげられなかったんだもの。それなのに神威は小さいわたしを、時に金銭面で、時に精神面で、力面で助けてくれたんだもんね。今これで神威の気持ちが癒えるのなら、わたしは喜んで貴方の愛情を受け入れます。


「ありがとう、神威」

「…」





―――――……





なんだか嬉しいような嬉しくないような。名前がようやく昔の笑顔を見せてくれたというのに、俺の気持ちは何故かもやもやしていた。どうして?何か忘れてしまった気がする…。何を?


「ねぇ阿伏兎」

「何ですか?」

「俺何か忘れてるみたいなんだけど何を忘れたのかな?」

「はぁ?知りませんよんなこたぁ」

「…」


何だったかなぁ。らしくなく、ぼんやりと浮かぶは昔の記憶。いつも名前と一緒に笑いあっていたあの頃。あの頃から名前は可愛かった。大好きだったよ。いつも神威神威って駆けよってきて、どうやったらそんなに幸せそうな笑顔できるのだろうって思うくらいいつも笑顔で。そうだ…あの頃から名前のこと大好きで、将来結婚するなら名前だなって思っていたくらいに、…なのに宇宙へ出るって決めたときに一緒に連れて行かなかったのはどうして?


「…思い出せないや」





―――――……





気分が軽くなりました。諦めとも言うのかな?よく分からないけれど、前ほどこの暗闇にいることが嫌じゃない。神威の優しさなんだって思ったら、温かいものにすら感じた。感覚が麻痺してきたのかな。でも、どんなに暗闇が寒くても、どんなに荒々しく抱かれても、もう怒りの気持ちは沸いてこない。


「可哀相な神威…」


温かい愛情を忘れてしまったなんて。何とかして思い出させてあげられないかな。前の神威に戻してあげられないかな。きっと昔の神威のあの優しさは、けっこう危ういバランスで保たれていたのだと今は思う。理性と本能の狭間で揺れる自分を必死で繋ぎとめていたのだろう。そんな苦労も知らずにただただ甘えていたわたし。言ってしまえば神楽ちゃんよりも面倒を見てもらったわたし。





―――――……





「神威、わたし神威のこと大好きだよ」


ある日何の前触れもなく名前はそう言った。少し心臓が跳ねて、彼女を見れば優しい瞳が俺を見つめている。


「…ちゃんと、神威のこと好きだからね」


俺は何も言えなかった。それってどういうこと?ああ、そういえば今まで名前が俺のこと好きかどうかあんま考えてなかったなぁ…。名前が俺のこと好きかどうか、考えてなかった…?それってどういうこと?
瞬間、脳の今まで使っていなかった部分が目覚める。彼女の今の状況を瞬時に考える。手枷足枷はめられて、夜には性欲処理に使われて、真っ暗な部屋に閉じ込められて、どう思ってる?


…ちゃんと、神威のこと好きだからね


…どうしてそんな言葉吐けたのだろう。瞬きを二回。そのまま急いで部屋を出た。
何を…何を忘れていたんだろう…?どうして彼女をあの日連れて行かなかったのか、それは、彼女には危険な旅路で、彼女に不似合いな生き方を自分がすることを分かっていたからだ。じゃあどうして今さら連れてきてしまったのだろう…?俺の中の何かが欠如していたのか…?





―――――……





「…ごめんね…痛いよね」


どうしてか分からないけれど、神威が手枷を外してくれた。手首には赤黒い跡がくっきりとついていて、神威はそこに怖々と震える手で触れた。いったいどうしたのだろうと思って顔を覗きこむ。でも、俯いた彼の顔をこの暗闇の中で覗うのは難しかった。


「…これくらい、大丈夫よ」

「…嘘言わないで」

「どうしたの?」

「ねぇ、名前ごめんね…」

「…どうしたの神威」

「何言っても言い訳にしか聞こえないと思うから何も言わないけど、俺さ、自分でも自分がよく分からなくて」

「…」

「だから、だからなるべく早く夜兎の惑星に戻るから、そこで春雨を降りてね」

「…え」


神威はわたしの手を取ると立ち上がらせた。足枷を神威が踏みつぶして壊す。


「来て」


言われるままに、手を引かれるがままに暗くて冷たい部屋の扉へと。神威は迷わずにそこを開けてわたしを連れだした。


「うっ…」


眩しすぎて目が痛い。久しぶりに光に包まれた。


「大丈夫?」


神威がこっちを振り返った。頷いて大丈夫だと伝えたら、


「こっち」


神威はそのままわたしの手を引く。そして、辿り着いたのはとある部屋。中に入るとふわりと神威の匂いがして神威の部屋なんだと勝手に理解する。


「これ、はい使って」


渡されたのは綺麗にたたまれたタオルと男物の服。どういうことかと神威を見上げれば


「お風呂、使って」


部屋に備え付けられているお風呂を指さす。


「いいの?」

「うん」


何だか元気のない神威。そんな様子を気にしつつ、自分が今かなり不潔な身体だと理解していたので素直にお風呂を借りることにした。一回では泡立たなかったシャンプー、何回かして汚れを落とす。体も顔も、すべて綺麗にしてお風呂からあがる。神威に借りた服を着たら案の定ブカブカで袖や裾を折り曲げ折り曲げ…。


「…神威、お風呂貸してくれてありがとう」

「…」


神威はわたしをじっと見つめる。どうしたのだろう。見つめられているっていうのはなかなかに居心地が悪い。どうしようかと悩み始めたとき、


「他に言いたいことない?」


神威は言った。わたしは首を傾げて考える。


「…服貸してくれてありがとう」

「違う」


神威は即座に切り返した。


「え、えと…あ、手枷取ってくれてありがとう…?」

「違う」


黙ってみる。何を言えばいいのか分からない。困って神威を見つめれば、


「もっと、他にあるでしょ?」

「な、何?」

「…だって、」


神威は言い淀んだ。その彼の手が微かに震えていることに気づく。はっとして彼の顔を見れば、


「名前にひどいこと、いっぱいした…」

「…あ」


それは遠いあの日、わたしに優しく笑いかけてくれていた神威の顔。困ったときや悩んでいるときの顔。


「…言いたいことあるでしょ?」

「…良かった…」

「え」

「良かった…昔を思い出してくれたんだね、良かった」


涙が溢れてきた。生温かい涙が目から流れ出した。


「…っひ、…神威」

「名前?どうしたの?」


神威の少し弱々しい声。わたしはぎゅっと拳に力を入れて震えないようにする。


「ごめんねぇ…神威」

「え」

「甘えてばっかで、苦しめてばっかで、でもそれにも気づかなくて…」

「…」





ある所に、優しさを忘れてしまった兎と、優しさに気づいた女の子がいました。兎は優しさを忘れてしまってはいましたが、愛しさは忘れていませんでした。昔から大好きだったあの子は今どうしているのかな?あの子が欲しいな、そうだ、迎えに行こうか。兎は女の子を迎えに跳ねていきます。でも、優しさを忘れてしまった兎は、愛情の表現の仕方が歪んでしまいました。どうしよう、このままじゃ、女の子が死んでしまうよ。
でも、優しさに気づいた女の子は、それでもいいと兎を受け入れました。兎が優しさを忘れてしまったのは、兎が優しいということに今まで気付けなかった自分のせいだと思ったからです。兎のために死ぬなら別にいいかなって笑いました。さぁ、でも大変。このまま優しさを忘れた兎が、狂ったまま女の子を愛しさ故に殺してしまえば、すべては綺麗に片付いたのです。兎は満足し、女の子は笑って死ねたでしょう。でも、やっかいなことに兎は優しさを取り戻してしまったのです。あの日の自分を取り戻してしまいました。だから女の子は泣きました。兎に申し訳なくて泣いてしまったのです。そんな女の子を兎は抱きしめることが出来ませんでした。自分が女の子に比べて随分汚れた存在になってしまったことに気づいたからです。もう女の子に触れる資格はないとそう思ってしまったからです。
それでも女の子を泣きやませたい兎は、できるだけ傍に寄って囁くのです。

泣かないで、

泣かないで、

ごめんね、

泣かないで

女の子は泣きやみません。女の子は思うのです。謝らないで謝らないで、確かにあの暗い部屋は好きじゃなかったけど、それでも、わたしは貴方が迎えに来てくれたの嬉しかったんだよって。でもその気持ちを上手く伝えられません。泣けて泣けて言葉にできません。二人とも、優しさを思い出してしまったばっかりに、優しさに気づいてしまったばっかりに、上手く相手を見られないのです。愛情なんてものが存在したばっかりに、



砂糖菓子と致死量の毒を

二人は本来の自分を見失ったのです。
でも、時が経ったら、少し勇気を出してみなさい。その口で紡いでみなさい。

「わたし、神威と一緒にいたい…よ」

そしたら笑顔で答えなさい。

「…ありがとう、名前」

二人は本来の自分を失った理由が、温かい愛情だったのだと気付き、そして、






Thanks.柚子さま
20100311白椿


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