その日は突然やってきた。
竜持くんと他愛もない日々を過ごしていたある日のことだった。
竜持くんは「今度引っ越すことになりました」と言った。竜持くんと出会って一年が経とうとしていた。

突然の報告に目の前が真っ暗になった。
三月に差し掛かった空気は、暦の上では春を示していたが、まだ寒さが残っていて息を吐くと白く染まった。吸った息は肺を凍えさせて、息をするのが苦しくなった。

私は顔をマフラーの下に埋めて、顔を見られないようにした。

並んで乗ったブランコは寒さのためか、揺らすといつもよりも低い音でギイとなった。

「……いつ?」
「来週です」
「急だね」
「……そうですね」

そう言った竜持くんは力なく笑った。いつも自信たっぷりに笑う竜持くんとは別人みたいで、変な感じがした。
会話がなくなると代わりにというように二人の乗ったブランコが交互にギイ、ギイと音をたてた。
私はふてくされたように地面を蹴ると、ブランコは振り子のように大きく上下に揺れた。

「じゃあ、もう、会えないね」
「……そういうことになりますね」

否定してほしかった言葉が肯定されて、ああもう本当に会えないんだと思った。

頬が冷たい、と思ったら、いつの間にかいつもみたいに泣いていた。
ただでさえ寒いと言うのに、外気にさらされた雫は凍えるように冷たかった。

竜持くんが私を見たので、私も竜持くんを見つめた。

「今日で最後ですよ」
そういって竜持くんはいつもと同じ動作で私の涙を拭った。
温かい竜持くんの指が離れていくのが寂しくて、待ってというようにポロポロと涙は止まることなく落ちていく。
竜持くんは何度も涙を拭ってくれた。
私の涙を拭ってくれる竜持くんの親指が、いつかふやけてしまうんじゃないかと心配していたが、それも今日で終わりだ。

「竜持くんがふやけなくてよかったあ」と私が笑うと竜持くんは一瞬だけ驚いて「そんな軟じゃありませんよ」と頬をひきつらせて笑った。

「僕のいないところで勝手に泣かないでくださいね」
僕以外の人が夢子さんの涙を拭うのは、嫌ですから。

それが竜持くんと最後に会った日のことだった。





それから竜持くんに会うことはなくなった。
竜持くんと待ち合わせた公園に行くことも二度となくなった。

私はサッカーを始めた。竜持くんがやっていたので、少しでも竜持くんに近づきたくて始めたのだが、思ったより夢中になった。
運動音痴なりにも一生懸命頑張った。スタメンになれたことは一度たりともなかったけれど、弱音を吐いたりサボることもなかった。ユニフォームをもらえたときは嬉しくて、家に帰ってからパジャマに着替えるまで親に見せびらかすように着ていた。お母さんは赤と黒の色合いが夢子に似合うね、と言ってくれた。


竜持くんが引っ越してから二年が経っていた。私は小学六年生になっていた。
あれから私は一度も泣いたことはなかった。
お母さんやお父さんは私が泣かなくなったことに喜んでいた。「笑っている方が可愛いよ」と二人は言った。
竜持くんがいなくなった時と比べれば、泣きたくなることなんてなんにもなかった。


夏になると、私の所属するサッカーチームが都大会に進んだ。
私たちは気を引き締めて大会に臨んだ。
竜持くんはサッカーを続けているだろうか、とふと頭をよぎったが、なるだけ竜持くんのことは考えないようにしていたので、すぐに振り払った。

都大会当日。
私は会場で迷子になった。チームの待機場所からトイレまでは割と遠く似たような景色が広がる会場は迷路のようだった。
試合はまだまだ先だからとりあえずは大丈夫だろうとは思ったが、早く帰りたいと思い、足早で駆けた。

会場にはサッカーのユニフォームを身につけた、似たような団体がたくさんいて、自分のチームを探すのも一苦労だった。

「(見つからないなあ……)」

キョロキョロとあたりを見回していると、自分のチームによく似た赤と黒のユニフォームを着た人を見つけた。
しかしながらよく見ると少し違うユニフォームだと気付き落胆したが、すぐに別のことに気付いて私の心臓が跳ね上がった気がした。


「(竜持くん……?)」

赤と黒のユニフォームを着たその人は、髪形は違っているものの竜持くんにそっくりな顔をしていた。心臓の音が聞こえるくらい大きくなった。

「あ…………っきゃあ!」

慌てて声をかけようとしたが、おろおろした足がもつれてその場で転んでしまった。
顔を上げると竜持くん似の人はどんどん先へ歩いて行ってしまう。呼び止めようとするが緊張した体が強張って上手く声が出なかった。

待って!待って!待って!

私が「待って」と声を上げる前に、彼と同じユニフォームを着たチームメイトらしき人が大きな声で「凰壮くん」とその人を呼ぶと、その人は振り返って返事をした。そうして二人は私からどんどん離れて行った。

「(あ、ちがった……)」

勘違いに気付いて、なあんだ、と一人心の中で呟く。気持ちが冷めていくのがわかった。
なあんだ。勘違いして、転んで、馬鹿みたい。恥ずかしい。
私は「はは」っと自嘲したように笑った。

地面にへたりこんで俯いていると視界がピンボケして次第に歪んでいった。
泣いちゃダメだ、と思うと同時に、いつも考えないようにしてきた竜持くんの顔が脳裏に浮かんで離れなくなり、記憶の中の竜持くんが「また泣くんですか?」と言って眉を下げて笑った。
瞬間走馬灯のように、竜持くんとの思い出が頭の中を駆け巡った。


一緒にかき氷を食べた時のこと。一緒にあじさいを見に行ったこと。ブランコに乗って他愛もない話をしたこと。近寄らない野良猫を手懐けて餌をあげた時のこと。文房具屋の屋根の下で雨宿りした時のこと。本屋で難しい本を勧められた時のこと。いじめっこのガキ大将に水をかけた時のこと。駄菓子屋で髪ゴムを買ってくれた時のこと。クッキーを食べてくれた時のこと。名前を教えてくれた時のこと。警察まで連れて行ってくれた時のこと。ジャングルジムの上で王子様のように私の手をとってくれた時のこと。一人で泣く私に「うるさいですよ」と声をかけてきたときのこと。
最後に会った日に「僕のいないところで勝手に泣かないでくださいね」と言って親指で涙を拭ってくれた時のこと。


全部があまりにも懐かしすぎて、それが寂しくて、ついに私は二年間我慢した涙が溢れてしまった。
ずうっと溜めていた涙はとどまることを知らず、このままでは二年間分の涙で私は溺れ死んでしまうかもしれないと思ったけど、いっそそうなってしまってもいいと思った。
そんなことになってしまったら私の皮膚は錆びてしまうかもしれないけれど、竜持くんに会えなくなってから心が錆びてしまったようで既に公園のブランコのように寂しくギイギイと音を立てていたので、今更そんなこと気にしなくてもいいかと開き直った。
竜持くんに会えないなら、私なんて錆びてしまってもよかった。
寂しい。会いたい。寂しい。竜持くん。会いたい。
竜持くん。



「ああ、また泣くんですか」



懐かしい声がしたと思った。
ぼやけた視界の端に若草色のスパイクが見えた気がした。
もしかして、と期待して、そんなはずない、と言い聞かせて、でもやっぱりこの声は、と思っておそるおそる顔をあげると、そこにいたのは特徴的なおかっぱと気の強そうな鋭い目を携えた、竜持くんだった。

私が、会いたかった、竜持くんだった。


「え、なんで」
「こっちの台詞ですよ。なんでいるんですか?」
「だって、都大会で」
「奇遇ですね、僕もですよ」

そういって竜持くんが二年前と変わらない顔で笑ったので、やっぱり懐かしくて、泣いた。

完治したと思っていた「涙腺弛緩病」もとい「涙ぼろぼろ病」は完全に再発してしまったようで、寂しくても嬉しくても泣いてしまうのは、しょうもないなあと思った。

竜持くんは地面にへたりこんでいる私と同じ目線になるように屈んで、楽しそうに笑って昔と少しも変わらない動作で涙を拭ってくれた。
二年分の年季の入った涙は滝のように溢れ出るので「竜持くん、指がふやけちゃうよ」と言うと「そんな軟じゃありませんよ」とあの日と同じような返答がきた。

「竜持くん、あたし、会いたかったの」
「……僕もです」
「本当?」
「嘘なんてつきませんよ」
「うれ、しい」

そう言って笑うと竜持くんは困ったように笑ってから、突然ギュウっと私を力強く抱きしめた。私は一瞬驚いたが、懐かしい竜持くんの匂いがして、また泣けてきてしまった。

ああ、竜持くんだ。竜持くんがいる。わたしの、会いたかった、人。

しばらくして体を離すと、竜持くんは右手を私の頬に添えた。
何事かと思って竜持くんを見ると、ゆっくりと顔を近づけてきた。

あ。と思う頃には私の唇は竜持くんのそれと重なり合っていた。

ゆっくり離れて見つめあうと、竜持くんは「鉄の味がします」と言った。
転んだ時に口の中を切ったからだ、とぼんやり考えると「冗談です」と竜持くんは笑った。

「ちゃんと、あまいですよ」

今度は恥ずかしくなって俯くと、竜持くんが片膝を地面に付けながら恭々しく手を差し伸べてきた。
「立てますか?」

私はその手を取って「ありがとう」と言った。


ああまるで、王子様とお姫様みたいだね。

そう言うと竜持くんは「こんなに泣かせる王子なんていませんよ」と笑った。

















(2012.08.12)

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