前世で馬車に轢かれて死んだ人は今世で車に乗るのが怖かったりする、らしい。全く前世の痛みを輪廻転生してまで引きずるなんてとんだ拷問だし、ちょっとしつこいと思う。けれども、それが今世で起こった出来事ならば話は別である。例えば昨日階段で盛大に蹴躓いた人が今日階段を登るのをためらうのならば、私はそれを『しつこい』だなんて思わない。気を付けてねって思うよ。例えば一週間前食べたお寿司に当たってお腹を壊した人が今日のお夕飯に刺身が出てきて文句を言うのならば、私はそれを『うるさい』だなんて思わない。無理しなくたっていいよって思うよ。例えば去年好きな人に告白してフラれた人が今日また告白をしようとしたのにも関わらず肝心なところで躊躇ってしまったならば、私はそれを『意気地なし』だなんて思わない。頑張れって思うよ。

私は誰かさんたちと違って、優しいからね。



「しつこいですねえ」

酷く煩わしさを含んだ溜息を吐いた竜持がこちらに冷ややかな視線を送った。降矢家のリビングの真っ白いソファーに腰掛けた竜持は、膝の上に乗せたパソコンのキーボードを軽快に叩いている。カタカタと抑揚のないボタンが浮き沈みする音が、竜持の言葉の切れ目に合わせて「ターンっ!」と小気味良く鳴る。それは竜持のタイピングにおける癖なのだろうか。その音がどこか、竜持の喋り方に似ておちょくった印象をもたらした。

「ほんと、うるせえよなあ。別にできなくたっていいじゃねえか」

そう言ったのは、竜持の隣で気怠げに座る凰壮だ。面倒くさそうに首を曲げて天井を仰ぐ。やはり、竜持と一緒で煩わしそうだった。
二人のいい加減な態度に、先程まで腰を低くしていた私も思わずムッとしてしまった。瞬時に、それまで顔の前でとっていた、掌を合わせる所謂「お願い」のポーズを解き、今度は胸の前で腕を組んで仁王立ちに切り替える。そして上から二人を睨みつけて「他人事だと思わないでよね!」と強い口調で叱りつけた。
すると、パソコンと睨めっこしていたはずの竜持がフッと顔をあげて「他人事でしょう?」と首を傾げた。何を言っているんですか、と至極不思議そうに尋ねられてしまい、またムッとする。

どうしてそう簡単に他人事だと突っぱねられるのだろうか。確かに他人事かもしれないが、二人が無関係なわけでも決してないというのに。
私の膨れ顔を呆れたように見上げた凰壮が目を細めた。

「別にお前が自転車に乗れようが乗れまいが俺たちには関係ないだろ」

この薄情者!


来週の五限、警察を招いての交通教室が開かれることになった。その際、各自自転車を持ってこいと、先生からアナウンスがあったのだ。なんでも、自転車の交通マナーについての講座も行われるらしかった。
先生の話を聞きながら、帰りの会で青ざめたのは言うまでもない。何故なら私は、五年生にもなって自転車に乗れなかったのだ。周りは当然の如くみんな乗れる。乗れないのは私だけかもしれない。交通教室で一人補助輪付きの自転車を乗り回す姿を想像し、更に顔は青くなった。
どうにかして、交通教室までに自転車に乗れるようにならなければ。
そんな強い意志を携えて昨日、一昨年買ってもらった自転車を引っ張り出し、公園へ駆けて行った。(一昨年も同じような決意をし買ってもらったはいいが、結局乗れなかったのである)。
けれども一人ではどうしようもない。自転車に跨ってみたはいいが、バレリーナのようにつま先で体を支えるばかりで、一向に足を浮かせる勇気はでなかった。(絶対に転ぶ。痛いのは嫌い)。そうこうしている内に日は暮れるし、足はつるし、微動だにできない私はまるで銅像になってしまったかのようで、なんと滑稽だったに違いない。結局、昨日はなんの進歩もないまま帰宅した。
そうして今日。このままではいつまで経っても乗れはしない、と助っ人を要請することにしたのである。幼馴染である降矢家を訪ねると、竜持と凰壮がソファーでくつろいでいるところだった。今日はプレデターの練習はお休みらしい。虎太の所在を尋ねると、一人で練習しに行ったとのことだった。まあ、一人でも捕まえられれば問題はなかったので、私は早速竜持と凰壮に助っ人を頼むことにした。運動神経抜群のこの幼馴染に頼れば、きっと鬼に金棒だ。いくら竜持が冷たくとも凰壮が面倒くさがりだろうとも、大切な幼馴染が困っているのである。きっと力になってくれるだろう。
けれども二人の答えは否定だった。「今忙しいので」「今日暑いし、めんどくせえ」

なんて!なんて酷い!

大切な幼馴染がクラスメイト否同学年の前で補助輪付きの自転車に乗らなければならない瀬戸際に、どうしてそんな酷いことが言えるのか!
思わず私は面食らったし、それにそこまで無碍でもないだろうと、もう一度お願いをしてみたのだけど、今度は「しつこい」「別にできなくったっていいじゃねえか」と、至極煩わしい対応をされてしまったのである。
これにはさすがの私も拗ねずにはいられない。私だったら、二人が困ってたら絶対に助けるっていうのに!(ただ二人が困ることも、私に助けを求めることも、皆無と言っていいのだけど)。


別に私が自転車に乗れようが乗れまいが関係ないって?本当に?胸に手を当てて聞いてみた?
一体誰のせいで、こんな!

「私が小学五年生になっても自転車に乗れないのはね!二人のせいなんだから!」
「はあ?」
「責任転嫁もほどほどにしてくださいよ」

顔を上げた二人が、心外だとでも言うように眉を顰めた。片方の眉が威圧的に上がる。こういう時ばかり同じ顔をする二人は、やはり腹立たしい。一人責められているみたいで。多数決だと、いつも負けてしまうのだ。

「そんなこともないもん。幼稚園の時、竜持が私のこと三輪車で轢いたりしなかったら、私だって運転することに抵抗なかったかもしれないし」
「言いがかりですね。あれは飛び出してきた夢子さんが悪いんですよ」
「一年生の時、自転車買ってもらってはしゃいだ凰壮が偉そうに『後ろに乗せてやる』とか言って得意気に二人乗りしたくせに漕ぎ出した瞬間盛大に転ばなければ自転車への恐怖もなかったかもしれないのに」
「大喜びで後ろに乗った奴が何言ってんだか。第一あれはお前が後ろで暴れてたからいけないんだろ」

私だってもしこれが前世の出来事を引っ張り出しての言い訳ならば「しつこい」「うるさい」と思うかもしれないけれど、私のトラウマはここ数年間で植えつけられたものである。こいつらによって。私だったらこんなに無碍に扱わないのに。「気を付けてね」「無理しなくてもいいよ」「頑張れ」って優しい言葉をかけるのに。誰かさんたちと違って優しいから。
でもこいつらはこういう奴なのだ。思わず溜息を吐いた。
茶々という名の反論を述べる二人を「とにかく!」と遮る様に黙らせて「ちょっとくらい手伝ってくれたっていいじゃん!」と言うのだけれどやはり「今忙しいので」「今日暑いし、めんどくせえ」と一蹴されてしまった。

「もう知らない!」

怒りに任せて吐き散らし、降矢家のリビングを勢いよく飛び出すと「いってらっしゃーい」と言う二人の声がハミングして聞こえた。

こうなったら何が何でも一人で乗れるようになって、あいつらを見返してやる!



そう意気込んでみたはいいものの、昨日できなかったことが今日急にできるようになるはずもない。できないから練習しているのだし、一人では埒が明かないから助けを求めたのだ。けれでも状況は昨日と同じ。美咲公園で一人きり、自転車に跨って両のつま先だけで身体を支えたまま、微動だにできず立ち尽くし否跨り尽くしていた。

「(ここからどうすれば……)」

自転車から目を逸らして十一年。乗り方すら分からないだなんて、なんて滑稽なのだろう。けれども、一度も漕いだことがないのだから、勝手がわからないのは仕様がないことである。どのタイミングで足を離してペダルに足を乗せればいいのか、どうやってバランスを取ればいいのか。なに一つだって分からない。もっと幼い頃に習得さえしていれば、もっと感覚に身を任せて簡単に乗れてしまったのかもしれない。けれど、三人が自転車でスイスイと走り去って何度私を置いていっても、これだけは避けていた。凰壮と二人乗りして転んだ時の痛みをもう一度体験するくらいなら、練習までして自転車になんて乗りたくなかった。あれ、すっごい痛かったんだから。ね。
あ、もう足つりそう。
ぼんやりと頭の隅で考えていた、その時だ。後ろから聞き慣れた声がした。

「お前、何してんだ」
「え、虎太?」

首だけで振り返ると、小脇にボールを抱えた虎太がこちらを不思議そうに見ていた。
何してるの、はこっちの台詞だ。虎太、何してるの?
そう問いかければ「練習」と、きっと一番に短い返事を受け取ることになった。そういえば、竜持がそう言っていたっけ。

「で?お前は?」
「……私も練習」
「……自転車乗る気になったのかよ」

虎太が目を細めて私をジロジロと見た。未だに地面と仲良くしているつま先を見て、私の意気込みを疑っているのかもしれなかった。

「なったよ!なったはいいけど……」
「けど……なんだよ?」
「……乗り方がわかんないんだもん」
「なんだそれ」

唇を尖がらせて答えれば、虎太の不思議そうに呆れた声がした。

「だって、乗ったことないし……」
「だからって、そのまま突っ立ってるだけで乗れるようになると思ってんのかよ」
「それは……」

思ってないけど。

そう答える私の唇はやはり尖がらずにはいられなかった。
私が自転車に乗れないのも、一人きりで練習しているのも、元を辿れば全部竜持や凰壮のせいだっていうのに。虎太の兄弟のせいなんだから、いくら正論でも、虎太に責め立てられるのはどこか納得できなかった。けれどもこんなことで拗ねていては竜持の言う通り、本物の「責任転嫁」になってしまう。別に、虎太は悪くないし。
仕方がないので口の中で文句をブツブツと聞こえないように呟いていると、虎太がこちらに近づいてきたので、ハッと息を飲んだ。もしかしたら悪態を吐いていたのがバレて怒鳴られるのではないかと、咄嗟に固く目を瞑った。
が。

「まずは足離すところから始めろ」
「……虎太、何してるの?」

虎太は私を一喝するわけでもなく、自転車の荷台を両の手で掴んだ。虎太が上目づかいでこちらを見上げる。思わず、首を傾げた。

「支えててやるから、早く漕げ」
「え、練習付き合ってくれるの?」

竜持も凰壮も全く相手にしてくれなかったのに!
驚いて声をあげると「珍しくやる気になってるからな」と言った虎太がニヤリと口の端をあげた。

思わず目頭が熱くなった。
本当は、一人で練習なんて心細くて仕方なかったの。竜持と凰壮に無碍に扱われて、寂しかったの。俺たちには関係ないだろ、って言われて、落ち込んでたの。

三人の中では虎太が一番ぶっきらぼうだし自分のことで一杯で他人にあまり興味はないけれど、こういう時、付き合ってくれるのは意外と虎太なのだ。面倒くさがりな凰壮や薄情な竜持に比べて、性分が熱血なせいだろう。そういえば、何度か私を自転車に乗せてくれようと、「特訓するぞ」と誘ってくれたことがあったっけ。けれども私はと言えば、転ぶことが必至な練習から全力で逃げて、結果「意気地なし!」と叱咤されてしまった。
虎太は自分自身がストイックな分、根性なしや意気地なしには容赦ないが、同じように努力しようとする人のことは認めてくれるのだ。

「ありがとう、虎太!嬉しい!だから虎太って大好き!」

素直に述べる感謝の言葉に、虎太は眉を寄せて頬を赤らめた。「く、くだらねえこと言ってないで早くやれよ」そっぽを向く虎太に、元気よく頷き、真っ直ぐ前を見る。

よし、やるぞ!

後ろに感じる力強い支えを頼りにしながら、勢いよく足を離した。



「虎太ぁ……もういいよ」
「情けねえ声出してんじゃねえ」
「でもさあ」

もう日は沈んでしまった。
あれから虎太のスパルタ指導のおかげでなんとか足を離して漕げるようにはなったけど、やはり虎太が支えてくれなければ転んでしまう。毎回左に倒れるので、左半身が痛い。自転車なんて、運動神経関係ないものだと思ってたのに。私の運動音痴も、相当壊滅的なものかもしれない。

「簡単に諦めてんじゃねえよ」
意気地なし!

虎太が鋭い目で私を睨み、一喝した。
三人の中では虎太だけ二重で、他の二人に比べると幼さを感じさせるのだけれど、こうやって睨みつける時の目力は人一倍で迫力がある。虎太のストイックさを感じさせる。

「……だって、虎太がいないと漕げないんだもん」
「お前がそう思ってるだけだろ。俺はお前の補助輪じゃねえぞ」
お前、交通教室でも俺に後ろ支えさせるつもりかよ。

口ごもる。もちろん、そんなわけにはいかない。

「(でも……)」

できないものはできない。人には得手不得手があるものだ。
もう転んで痛い思いをするのは嫌だ。もう、乗りたくない。
本人が「もういい」って言ってるのに、なんで……。

唇が無意識に尖がる。
虎太には分からないのだ。昔っから足が速くて、サッカーも上手くて、運動神経抜群な虎太には。わからないよ、きっと。
そんな僻みに、一人顔を俯かせた。

ふと、虎太のサッカーボールが視界の端に映る。寂しそうに、独りぼっちで風に誘われ転がるボールは、虎太のお気に入りの黄色のラインが入っていた。

「(あ……)」

転がったボールが、近くの木の幹にぶつかるのを、目で追う。夢子、と後ろから虎太が私を呼んで、奪われていた意識が瞬時に舞い戻った。

「怖がらないで漕ぎ続けろ。勢いがないから転ぶんだ」
「……うん」
「もう一回いくぞ」

虎太が鋭く私を見る。弱音を吐く私を叱咤するように。
転ぶたびに滲んでいた涙を、強く腕で拭った。

虎太は全然優しくしてくれない。甘やかしてくれない。転んでも、手を伸ばしてくれない。転んで涙ぐむと、立て!って怒る。言い訳だって聞いてれない。厳しい。虎太は全然、優しくない。

「夢子」
「うん」
「頑張れ」

でも、私よりも私のために一生懸命になって、自分の大好きなサッカーの練習時間まで削ってくれる、そんな虎太は、一等優しい。

「後ろも見るな。前だけ見ろ。進みたい方だけ、真っ直ぐ」

真っ直ぐ私を見てくれる。
虎太は、私を見捨てない。
自分自身で見捨てようとしてしまった、私を。
いつもは私のことなんて置いてきぼりで、突っ走ってばかりなのになあ。
そんな虎太だから、大好きなの。

乗れるようにならなければ。これから、虎太に会わせる顔がない。

確かに感じる力強い支えに報いるように、もう一度、地面を強く、強く蹴った。



「あれ。夢子さん、虎太くんと一緒だったんですか?」

降矢家の庭からリビングの窓を叩くと、竜持と凰壮が顔を出した。

「っていうか、お前ボロボロじゃね?」

凰壮が訝しげに私を見た。そんな凰壮に「ふふん」と鼻歌のようにご機嫌な相槌を打ってから自転車に跨って「見てなよ」と釘をさす。地面を思い切り蹴ったら素早く足をペダルに移動させ、自転車を漕いだ。後ろから「おお」とハミングするような竜持と凰壮のどよめきが聞こえる。口の端が得意気に吊りあがった。

「どうだ!」
「まだ危なっかしい運転ですが、ちゃんと乗れてるじゃないですか」
「へえ、運動音痴もやればできるんだな」

キキ!と甲高いブレーキ音をかましながら止まり、勢いよく二人に向き直った。振り向けば感心したような顔の二人が映って、やはり頬は緩んでしまう。
初めは「見返してやる」という意識が強かったはずなのに、実際二人に褒められれば、得意にならないはずがない。純粋に嬉しいという気持ちと、自転車に乗れた喜びで、このまま天まで自転車を漕いでいけるんじゃないかって思うくらい、浮かれていた。

だって、本当は、一生自転車に乗れないんじゃないかって、思っていたくらいだもの。

「へへえ、虎太のおかげなの」
「虎太くん、練習付き合ってあげたんですか?」
「ふん……まあな」
「ま、虎太くらいスパルタじゃねえと、根性なしの夢子の面倒なんて見きれなかったよなあ」

凰壮が馬鹿にしたように笑う。
正直ムッとしたけれど、確かに何度も弱音を吐き逃げ出そうとしていたので、何も反論なんてできなかった。実際、竜持や凰壮に付き合ってもらっていたら、乗れていなかっただろう。二人は、根性なしの私の相手なんてしてたら、きっと呆れてしまっていたに違いない。私だって、あんな根性なしの自分の相手、絶対にしたくない。折角練習に付き合ってあげてるのに、本人から「やめたい」などと弱音を吐かれてしまっては、溜息を吐かずにはいられないだろう。それはとても失礼なことだ。竜持や凰壮は弱音なんて情けないもの吐かないから、きっと私みたいな根性なしには付き合ってられなかっただろう。むしろ、虎太はよく付き合ってくれたなあって思う。

凰壮の言う通り、虎太に付き合ってもらわなかったら、きっと乗れていなかっただろうなあ。

「……虎太」
「ん?」
「ありがとね」

そう言って微笑みかけると、虎太は目を逸らして「別に」と呟いた。
持っていたボールを軽く投げ、そっぽを向いて足でトラップする。
その背中を見て、やっぱり笑みが零れた。


虎太の照れ隠しって、わかりやすいなあ。





流木さま、リクエストありがとうございました!
凰壮くん長編の虎太くん夢です!(言い張る)少しでもお気に召していただければ幸いです……!
凰壮くんの長編は、あまり虎太くんを書けていなかったので、こういう形で虎太くんがかけたのはとても嬉しかったです!リクエストしていただき、本当にありがとうございました^^
感想も本当にありがとうございます!長編、楽しんで頂けているようでとても嬉しいです…!凰壮くんが好きになってくれましたか…!う、うれしいです…凰壮くん好きです……(告白)進展しない〜っていうタイトルなのでなかなか進展しませんが(笑)じわじわ仲良くなっていけたらなあって思いながら書いてます^^これからもよろしくお願いします…!

それではリクエストありがとうございました!
これからもご期待に添えられるように頑張らせて頂きます…^^(13.07.20)

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