あれから四日経った。それと同じ時間だけ、凰壮と口をきいていない。
別に無視をしているわけでもされているわけでもない。ただ単に、凰壮と会う時間がなかっただけだ。普段放置して休み明けに泣きながらやる宿題も、一年間の煩悩と共に今年に置いていくべきだと、年末の大掃除と一掃することに勤しんでいた。それに加え、この一年お世話になった人々に感謝の意味も込めた挨拶をすべく、年賀状の作成もしなければならなかった。未だに手書きで一枚一枚描いている年賀状は、竜持に言わせれば「非効率」であるらしいのだけれど、幼い頃からの習慣だし、年始の挨拶くらい時間をかけたものを送りたいという気持ちから、文明が発達した今でも時間をかけて手書きにこだわっていたのだ。
結果、凰壮と会う時間がなかったのは忙しさのため自宅に引き籠っていたからであり、不可抗力にすぎなかったのである。
……というのは建前で、実際は忙しさに託けて凰壮のことを避けていただけだ。凰壮に会うのが怖かった。
凰壮に嫌われてたらどうしよう、とか。別れようって言われたらどうしよう、とか。そんなことばかり考えてしまって、家の外にだって満足に出られなかった。(何せ家が隣なのである) 凰壮に謝らなければいけないとわかっているのに、最後に見た凰壮の引き攣った顔がそれを阻む。もう、あんな顔させたくない。
こんな気持ちで年始を迎えなければいけないのか。そう思うと気が重かった。一年のスタートから転んでしまっては幸先が悪い。本当は仲直りしたい。けれど凰壮とこんな風に険悪になったのは初めてだったので、どう謝っていいのかわからなかった。まだ私たちがただの幼馴染だったのなら話は簡単だったかもしれない。恋人ってだけで、こんなに違うのだろうか。謝るだけなのに、こんなに足踏みしてしまう。恋人って難しいのだ。
今年の憂鬱は今年に置いていきたいのに。恥ずかしいことに掃除の仕方が分からないのだ。
これではいくら年が明けようが、凰壮から頼られる人間になれるはずもない。
「お前、いつまで腐ってんだ」
「ひい!」
十二月三十一日。二十二時三十分。少し早いと思ったが、憂鬱には睡眠が一番だと、夢の中に逃避すべく布団をかぶって暗闇に身を寄せていたところ、何者かに勢いよく布団を剥ぎとられ、突然訪れた寒さに悲鳴にも似た声をあげた。思わず飛び起きると剥いだ布団を持ちながらこちらを見下ろしている虎太と、その横で「随分寝るのが早いんですね。寝る子は育つと言いますが、夢子さんの中身が全然育たないのは、不思議な話です」と相も変わらず生き甲斐らしい嫌味を零す竜持が立っていて、思わず眉を顰めた。
「何してるの、こんな時間に」
「初詣行くだろ?」
「毎年一緒に行ってるじゃあないですか。いつもはそっちから押しかけて迎えに来るくせに」
「あー……うん」
正直そんな気分ではない。一人口ごもっていると「お前、あれからずっと家に引き籠ってたんだろ」と目を細めた虎太が呆れたような目で私を見た。
「頭だけじゃなくて体も腐るぞ。外出ろ」
「でも……」
「いつまでもメソメソしてても何も解決しませんよ。この際、神頼みでもすればいいじゃないんですか?」
竜持が蔑むように視線を送る。思わず口をへの字に曲げて不服そうな顔をすれば、「虎太くん」と呼んだ竜持の声に頷いた虎太が私のクローゼットを開けた。
女の子のクローゼットを勝手に開けるなんて!と慌てて「な、なにしてんの!」と止めに入ると虎太はかけてあった私の服を適当に投げてきて「早く着替えろよ、下で待ってるから」と言った。
渋々「うん」と頷くと、二人が部屋を出て行こうとする。
「あ、あの……」と呼び止めれば、至極同じ動作で二人が振り向いた。
「お、凰壮は……」
「柔道部の人たちに初詣に誘われたらしくて、先に出掛けましたよ」
「あ、ああ、そうなの……」
そっか、凰壮いないんだ。
安堵すると共に、どこかショックを受けた。毎年大晦日は一緒に初詣に行って年を越していたのに。久しぶりに四人揃ったのに。凰壮は簡単に柔道部の友達を選んでしまった。(単純に、避けられているだけなのかもしれないけれど。それはそれで悲しい。自分だってしていたくせに、棚上げもいいとこだ) 柔道部の人、とは、マネージャーも一緒なのだろうか。その可能性が、どんどん気持ちを落ち込ませていく。私なんかよりも、柔道にも詳しくてずっと頼りになって支えになるだろうあの可愛い子を想うと。
私よりも、ずっと凰壮の隣が似合うあの子のことを想うと……。
「……夢子」
「ん?」
扉の前の虎太が私を呼んだ。視線を送ると真面目な顔をした虎太が映る。竜持は既に下に降りてしまったようで、部屋には私と虎太しかいなかった。
どうしたんだろう?
虎太の話の続きを黙って待った。そいうえば、美咲公園でも何か言いかけていたっけ。同じ話だろうか。「俺」と続ける虎太をジッと見た。
「……後でいいや。さっさと着替えてこいよ」
「?わかった」
そう言って、虎太は部屋を後にした。
なんだったんだろう。
神社は大変な人で賑わっていた。毎年のことだが、桃山町にこれほど多くの人間がいたのかと疑ってしまう。無理もない、一年に一度しか訪れない新年がもうすぐやって来るのだから。それにしても、みんなもっとカウントダウンライブに行くだとか、家でゴロゴロするだとか、他にやることもあるだろうに、自分を含めご苦労なことである。
神社はもう目の前だというのに、そこに辿りつく前に人の渋滞で足が止まる。神社まで続く道路沿いには出店が並んでおりそれが余計道を渋滞させる要因ともなっていたのだが、我らが虎太も出店にいちいちつられるのでなかなか私たちと神社の距離も縮まらなかった。
「虎太くん、お腹壊しますよ」
「まだ食べるの?太るよ」
「巨大なお世話だ」
チョコバナナとじゃがバターを持った虎太がイカ焼きの列に並ぶ。もう両手はふさがっているというのに、これ以上買ってどうやって持つのだろうか。一つ溜息を吐いて竜持と一緒に列から外れたところで虎太を待った。所彼処から漂ってくる美味しそうな匂いに思わず誘われそうになるが、未だ胃の中には夕食の年越しそばが残っていたので実際に食べる気にはなれなかった。
ふと、虎太の並んだ列の顔を流し見る。それから今度は神社へ続く人並みに目を向けた。
凰壮も、この神社に初詣に来ているのだろうか。
けれども、これだけ多くの人間がいるとなると偶然会うこともないだろう。
それが嬉しいのか寂しいのか分からないが、また一つ溜息が漏れた。
「凰壮くん、見つけました?」
私の考えを悟る竜持が口の端を上げて問いかけた。
からかっているのだろうが今はそれに反応する元気もないので小さく首を横に振るだけの動作を見せる。「凰壮、ここにお参りに来てるの?」と尋ねれば「らしいですねえ」と虎太に視線を戻した竜持が頷いた。
私も虎太に視線を移す。
虎太の前にはあと三人ほど並んでる。もうすぐ帰ってくるだろう。
イカ焼きはちゃんと持てるのだろうか。一緒に並んであげるか、何か一つ預かってあげればよかった。
「……凰壮、私のこと何か言ってた?」
問いかけると白い息が漏れた。
ただでさえ寒い十二月の気温は夜になるといっそうだ。寒い。マフラーと手袋だけでは足りない。クリスマスに貰ったイヤーマフもしてくればよかった。まだ一度も使っていない。使ったら、凰壮、喜ぶかもしれないのに。でも、今の気持ちのままでは、とてもじゃないけれどつけられなかった。
「いいえ、なにも」
視線はぼんやりと虎太に向けたままだった。だからと言って、虎太を見張っていないといけない理由があるわけでもない。視界には入ってくるけれど、頭には入ってこなかった。なんとなく、いちいち竜持を見上げるのが面倒くさかったのだ。いつからこんなに物臭になってしまったのだろうか。凰壮のそれが移ってしまったのかもしれない、と思った。
竜持の顔は見えない。代わりに、竜持の答えと共に吐き出された白い息が視界の端で散った。
「そう」
お揃いの白い息が目の前で散る。
「凰壮くん、大事なことは言いたがりませんからねえ」
きっと竜持の口元は笑っているのだろう。声が表情を語っていた。
「大事なことかあ」
そういえば、竜持と喧嘩してたことも内緒にしてたっけ。つい先日のことを遠い昔のことのように感じながら瞬きをした。
「早く仲直りした方がいいんじゃないですか?マネージャーにとられちゃいますよ」
「……許してくれるかなあ」
「さあ?謝っても許してもらえないくらいのことをしたのなら、話は複雑ですけどねえ」
夢子さん、そんな大層なことをしたんですか?
竜持の問いかけを聞きながら、虎太が屋台のおじさんにお金を渡すところをぼんやり見つめる。両手がふさがっていたはずの虎太は、いつの間にか片手が空いていた。チョコバナナがなくなっている。もう食べたのだろうか。そういえば、虎太は食べるのが早かったなあ、なんて小学生の時の給食を思い出した。
「……どうだろうか」
曖昧な答えが白い息と一緒に空に投げかけられる。竜持への回答は同時に自分への問いかけにもなっていた。
「夢子さん、僕の言っていたこと、覚えてます?」
「竜持の言っていたこと?」
なんだっけ?と一人首を傾げた。
竜持に言われたことなんて、数えきれないほどある。いつも私を叱咤するのは竜持だったから。
「謝るときには誠意を見せないと、ね」
フフ、と同時に聞こえた笑い声に「誠意かあ」と呟いた。
私の誠意って、なんだろうか。
チラリと竜持を盗み見るように見上げると、いつの間にこちらに視線を送っていたのだろうか、いつものように嫌味な笑いを携えた竜持がこちらを見ていて少しだけ驚きに目を見開いた。
「お待たせ」
イカ焼きに齧りつきながら虎太が帰ってきた。口の端にソースをくっつけているので、思わず笑みが零れた。スペインから帰ってきて成長したなあと思ったけれど、こういうところは変わっていないみたいだ。
「虎太、ソースついてるよ」
持っていたポケットテッシュを取り出して虎太に手渡そうとするが、片手にじゃがバター、片手にイカ焼きの虎太を見かねて、そのままティッシュを持った手を虎太の口元に持って行く。
眉を寄せた虎太が体をやや後ろに逸らして「なんだよ」と不機嫌そうな声を出した。
「拭いてあげようと思って」
「ガキじゃあるまいし」
心なしか顔を赤らめた虎太が袖で口元を拭った。
何を怒ってるんだ、と私は思わず口をへの字に曲げるがそのことに意見することはなく、行き場のなくなったティッシュを大人しくポケットにしまった。
人ごみの中を再び歩き出した竜持と虎太の横に並んで歩こうとするが、人ごみが邪魔して叶わない。人ごみをスイスイ縫うように歩く竜持に虎太が続いて、その後ろを離れないように懸命について行った。
人の声と足音と空気がざわめきとなって耳元を騒がしくさせる。
それにいちいち耳を傾けることはせず、淡々と足を動かした。視界に映る二人の見慣れた背中を、ここにはいない凰壮のソレと重ねる。
いつも振り返ってくれていた背中を。私はきっと、それに甘えていたのだろう。
竜持と喧嘩した時も私を引っ張ってくれたのは凰壮だった。私が転ばないように手を握ってくれるのも。私が拗ねたら機嫌を取ってくれる。私の好きなもの覚えててくれるし、特典のシールもくれるし眠ってたらブランケットだってかけてくれる。
いつも頼るばかりで、私は情けない。凰壮に頼られなかったのは仕方のない話だ。
愛想つかされたってしょうがない。
思わず瞼を伏せる。
人ごみに踏まれてお気に入りの靴が少し汚れていた。
また一つ、溜息を漏らす。
そして顔を上げた。
「あれ?」
目の前にあったはずの見慣れた背中が、見慣れないものに変わっていた。見慣れない背中が四方八方から押し寄せて、目まぐるしく入れ替わる。思わず足を止めて周囲を見渡した。お目当ての背中は見つけられず、虎太たちとはぐれてしまったことを理解した。
「(電話……)」
コートのポケットに入れていた携帯を取り出す。
まだそんなに離れていないだろう。二人も私とはぐれたことに気付いて止まっていてくれているかもしれない。急いで連絡を取らねば。
虎太と竜持のどちらを呼び出そうと画面の上で指を迷わせていると、人ごみで立ち止まっていたせいか人波に体当たりされ、さながら釣り上げられたばかりの生きの良い魚の如く携帯が弧を描き飛んで行った。
カシャーン、と肝の冷える音がして慌てて這いつくばる。行きかう足の隙間から携帯を見つけ素早く救いだしたが、液晶は無残に割れていた。
「(……最悪だ)」
一年の締めくくりがこれでは来年も思いやられる。
携帯に触れると、液晶が割れていただけで問題なく使えた。立ち止まっていてはまたぶつかってしまうと、人波に従うように歩きながら両手がふさがって電話に出られないであろう虎太ではなく竜持に電話をかけた。けれど一向に繋がらない。壊れてしまったのかと思ったが、これだけ人が多いのだから繋がりにくくなっているのかもしれない、とすぐに思い直す。年を越したらそれは一層酷くなるだろう。早く二人に合流しなければ、ともう一度竜持にかけるがやはり繋がらない。
携帯を耳から離して画面を睨むように眺めた。ヒビが入ってしまって画面が見にくい。
もう、結構離れてしまったのだろうか。
一人で寒空の下を歩く。腕を絡めて歩く男女が所彼処にいて、吐く息がまた白さを増した。
人はたくさんいるけれど、独りぼっちなのは不思議な感覚だ。それはきっと寂しいからなのだろう。ちょっとはぐれたぐらいで大袈裟だ。子供じゃあるまいし。
そう、もう子供ではないのだ。
「(一人だって、平気)」
四人一緒じゃなくても。平気。平気でなくてはいけない。そうじゃないと、成長していく三人に置いてかれてしまう。それは寂しい。凰壮にも見放されてしまう。それは一番寂しい。
「きゃあ!」
ぼんやり歩いていると、すれ違う人と肩がぶつかった。ビックリしたのは相手がか弱い声を出したからで、慌てて視線を向けて謝ろうとしたが、その人物に驚いて「ごめんなさい」の「ご」の形のまま唇は固まってしまった。
「あら」
栗色の髪の毛が、今日は緩く三つ編みされている。小柄で元々幼い印象をもたらす彼女がますます可憐に見えた。上着の下の、パステルカラーのワンピースが清楚さを演出している。
「降矢くんの彼女、だ」
マネージャーだった。
「一人なんですか?」
子供のように首を傾げる仕草がどこか愛らしい。自然とそういうことができるのだろうか。なんだか羨ましく思った。
「いや、はぐれちゃって……」
「この前一緒に試合に来てた降矢くんのお兄さん?」
「ええ、まあ……」
竜持もいるけど、と思ったけれどそこまで説明する必要もないか、と適当に相槌を打つに留めた。
「そっちは?柔道部で来てるって聞きましたけど……」
「私もはぐれちゃったんです。皆、歩くのが早いの」
溜息交じりにそうぼやくように呟いた。
「連絡とれないんですか?」
携帯の繋がりが悪いのは自分だけではないのかと確認の意味も込めて尋ねたが彼女は「うーん、電話かけてないから」と答えた。
「でも、メールは届いてますけど。いまどこー?って」
「ああ、そうなんですか。じゃあこれから落ち合うんですか?」
ともすれば彼女の行く方向に凰壮もいるのだろうか。
けれど進行方向は逆だったので少し安堵した。正直、彼女といる凰壮に会いたくなかった。
しかしながら彼女は首を横に振って「ううん」と否定の言葉を漏らす。
「メール返してないから」
「え?なんで?」
思わず聞き返してしまった。連絡が来てるなら早くメールを返して落ち合えばいいのに。どうして一人きりでさまよう必要があるのだろうか。
訳も分からず訝しげに眉を顰めると、彼女はジッと私を見た。思わず目を逸らすと彼女は「捜しにきてくれるかなって」と言った。
「降矢くんが、捜しに来てくれるかなって思って」
「え」
「って言ったらどうします?」
ニコリともしないけれど、先日のような般若顔でもない。人形のように大きな瞳をゆっくり瞬きさせながらこちらを見上げる彼女に、思わず息を飲んだ。
何を考えているんだろう。
感情がいまいち掴めずに困惑する。
第一、どうします?と言われたところでどうしようもない。
捜しに来てほしいから連絡を返さない、ということは、凰壮の気を引きたいのだろうか。男の気を引きたい理由なんて、相場は決まっている。つまりは、この間邪推した通り、この子は、凰壮のこと、好きなのか。
でも、私には「凰壮のこと好きにならないでください」なんて言う権利はない。当たり前だけれど。他人の気持ちに口出して言い理由なんて何様にもあるはずがないのだ。
だから、どうします?と問われたところでどうしようもない。
それに、この場合なにかを決めるのは私ではなく凰壮だ。
心臓のモヤつく感覚は見てみぬふりをして。
「えっと……」
なんて答えればいいのだろう。
どうも試された言い方をされてるみたいで答えに迷う。
けれども、先ほどから表情の読めなかったマネージャーが私の後ろに視線を向けると、驚いたように目を見開いて見せた。
不思議に思って視線を辿る様に振り返ろうとした。
その時だ。
「夢子!」
突然、思い切り腕を掴まれた。痛い。何事かと驚いた心臓が一瞬大きく跳ね上がった。
否。違う。跳ね上がったのは、名前を呼ばれたからだ。この声に名前を呼ばれると、いつもそうなの。
腕を掴まれたので強制的に声の主の方に振り向かされた。目の前の人物に目を大きく見開く。
「お、凰壮……」
四日ぶりに目が合った。凰壮が私の腕を掴んでこちらを見ている。思わず息を飲んだ。たった四日ぶりなのに、酷く懐かしく感じる。
凰壮は不機嫌なのか、少しふくれっ面だった。
「お前相変わらず鈍くせえな」
「え、な、なに?」
何を咎められているのか分からず、加えて久しぶりに会話していることに動揺して思わずどもってしまった。
「竜持からお前とはぐれたって連絡あったんだよ。竜持も虎太も捜すの俺に押し付けて」
捜しに来てくれたの?
一緒に来ているはずのマネージャーではなく、私を?喧嘩してるのに?
キョトン、と凰壮を見た。前髪が跳ねあがっているのが目に付く。
喧嘩しているのに、また凰壮に甘やかされてしまった、と情けなさやら申し訳なさが込み上げてきて、目を伏せた。
「そ、そうなの。それは、ごめん」
「ったく、しっかりしろよな」
私が謝ると、凰壮は掴んでいた腕を離した。
「……降矢くん」
「ん?ああ、お前もみんな捜してるぜ。手間かけさすなよな」
マネージャーに声をかけられた凰壮は、呆れたように溜息を吐いた。マネージャーは先ほどの私のように「うん、ごめんね」と謝ったが、私ほど弱弱しい態度でもなかった。
「角のコンビニで皆と待ち合わせてるから、お前先に行ってろよ」
凰壮がマネージャーに言うと、マネージャーは当然「降矢くんは?」と尋ねた。
「俺、こいつちょっと竜持たちのところまで送ってくる」
そう言って凰壮は親指で私を指した。
私は思わず「え」と声を漏らしたが、その驚きは無視されてしまった。
「……ふうん。わかった」
マネージャーは私を一瞥すると「さよなら」と言って歩き出していった。話の途中だったこともあり、気分は曇ったままになってしまった。
彼女を二人で見送ると「行くぞ」と凰壮が声をかけてくる。
さっさと歩き出す凰壮の背中を追いかけるようについて行った。
「……」
「……」
足ばかりが進む。会話はない。いつもなら他愛もない言い合いで尽きないのに。
あの日から四日ぶり。会ってしまうかもしれないと一応は覚悟してきたものの、実際気まずさはぬぐいきれない。
避けていた四日という月日が、気まずさを増加させていた。
謝ろうか、今。この間のこと。でもどうやって切り出そう。あの時の話を自分からするには勇気がいる。気まずい雰囲気は苦手だし、いつもとは事の重大さが違う。だからと言って、ずっとこのままでいいはずもないのだけれど。
それ以上に、凰壮に別れようとか言われるんじゃないかと思うとどうしようもなく怖かった。
「あいつ」
「え?」
凰壮が小さく振りむきながら話しかけてきた。
聞き逃さないように全力で聴覚に神経を集中させる。
「マネージャーと何話してたんだよ?」
「え、ああ、うん……特に、なにも」
「何も、ねえ」
何それ、マネージャーのことがそんなに気になるの?
思わずムッとしてしまった。またヤキモチだ。自分が嫌になる。自己嫌悪で苛々した。
その苛々が今度は言動に現れる。
「マネージャーと一緒に行っちゃえばよかったのに」
考えるよりも先に、どこか拗ねた声が出た。しまった、とすぐに自分の口を押えて青ざめたのだが凰壮は「お前がガキみたいに迷子になるからだろ」とどこか馬鹿にしたように笑う。いつもより冷めた笑いに、先日怒鳴られたときのことを思って心臓が不安げに鳴った。
やっぱり、まだ怒っているのだろうか。私となんか、本当は喋りたくないのだろうか。一緒になんていたくないのだろうか。
そう思うと、声は次第に小さくなった。
「怒ってるなら……そう言ってよ」
絞り出す声に反応した凰壮が冷めた目でこちらを捕らえたような気がした。けれど凰壮は相変わらず背中を向けたままだ。
「怒ってるように見えんの?」
「……見える」
「……怒ってんのはお前だろ」
「……怒ってないよ」
怒ってないよ、ヤキモチ妬いただけ。
しかし、そんな私の心の中の呟きは凰壮には伝わらない。
「じゃあ拗ねてる」
「……」
凰壮の指摘に沈黙で答えると、それを肯定と捉えた凰壮が「……何が不満なんだよ」と苛立ったように言った。
「俺といるのがそんなに嫌なのかよ」
「ち、違う」
違う。そんなんじゃない。本当は嬉しい。私を捜しにきてくれたことも。送ってくれることも。優しくされてるって、感じるもの。本当は、すごく嬉しいの。その背中に、抱き着きたいくらい。
凰壮が好きなの。
だから。
「凰壮が、他の女の子といることが、嫌なの」
だから、嫉妬する。
でも、そんな狭い自分が嫌いで。
だから腹が立つ。
それを凰壮に悟られて。
また自分が嫌いになるの。
「はあ?いつ他の女といたって?」
「……マネージャー」
「何言ってんだよ、お前」
突然凰壮が眉を顰めて身体ごと振り返った。向き合った凰壮は、酷く心外だ、と言っている顔だった。
「それじゃあ何、お前は俺に部活すんなって言うのかよ」
凰壮の声は、苛立つというよりも呆れていた。
実にごもっともである。だから、本当は言いたくなかった。いくらマネージャーが凰壮のことを好きかもしれないと邪推しているからと言って、だからって凰壮の行動を束縛していい理由にならない。
凰壮の正論に、俯いてスカートの端を握る。
私が黙っていると、再び凰壮が背を向けて歩き出した。私も凰壮の後ろ姿を盗み見ながら足を進める。
「自分だって虎太と仲良くしてるくせに」
「え?虎太?」
いきなり現れた名前に、バツが悪く伏せていた顔を上げた。どうして虎太?
「虎太とは、ずっと前からあんなんだったじゃん」
「へえ、いつまでもガキのままなんだ、お前。通りで、ねえ」
フッ、とせせら笑う声が聞こえる。どこか竜持を彷彿とさせる笑い方だと思った。
どうしてそんな笑い方をされるのだろうか。戸惑った。見下されている。そう思うと、世界が水っぽくなる。
私が、いつまで経っても成長しないからだろうか。凰壮に頼られるような人間に成り得ないからだろうか。だから凰壮は、呆れてしまったのだろうか。愛想を、尽かしてしまったのだろうか。
「だからそんなくだらねえこと言えんの?」
嘲笑するような言いぐさに、唇を噛みしめた。そうしないと、泣いてしまいそうだった。
それはずっと、自分ですら思っていたことだったからだ。
「そうだよ……私くだらないの」
くだらない。これほどくだらないヤキモチなんてないと自負していた。それがどんなに失礼であることかも。昔、純粋にチームメイトとして接してたエリカちゃんや玲華ちゃんにですら、妬いたことがある。なんて無粋なんだろう。失礼ですらある。醜い嫉妬は、純粋にサッカーを楽しんでいた彼女たちの気持ちを汚す行為だ。ヤキモチを妬いてしまうたびに、そんな自分の愚かさに腹が立った。
マネージャーに対してだってそうだ。本人の口からなにも聞いていないうちから邪推ばかりして。真剣に部活に取り組んでいる人間に、失礼であるに違いない。
いつまで経っても成長しない。そんな私を、凰壮が馬鹿にして頼りにしないのも、当然だ。
もう一度、強く唇を噛んだ。痛いと思った。
「……凰壮」
「……なに」
再度俯いて、小さく凰壮の背中に呼びかけた。凰壮も、小さく答えた。
「私の、どこが好きなの?」
口をついて出たのはそんな質問だった。
こんなくだらないヤキモチ妬く私なんかの、どこが好きだって思えるの?自分ですらいいとこなんて見つからないのに。
こんな自分、私だって嫌い。嫌いなの。それを、どうして凰壮が好きになれるの?幼馴染だから?頼りない幼馴染の面倒見てくれてるだけなんじゃないの?幼馴染じゃなかったら、私なんて視界にすら入らなかったでしょうに。
凰壮、そこまで面倒見なくったっていいのよ。
思わず泣きそうになるのを堪える。凰壮に気付かれないよう、素早く袖でこぼれそうになる涙を痛いくらいに強く拭った。
ふと、凰壮が足を止めた。
ぶつかりそうになるのを寸前で気付き、同じように足を止めた。
丁度出店がなくなる神社への長い階段の前で、道が広くなったせいか人が少し空いているところだった。
凰壮の背中を眺める。猫背ではないその背中が不思議と丸まっているように見えた。凰壮が俯いているからだ。
「……どこがって言われると、上手く言えね」
凰壮が、雑踏に消えてしまいそうな声で呟いた。
ほおらね。
どこか諦めたような自分の声が聞こえる。
ほらね、凰壮は幼馴染の面倒を見てくれていたにすぎないのよ。
「けどさあ」
凰壮が顔を上げる動作をするのを、後ろから見上げた。
うん?
「お前が泣いてるとすげえムカつく」
「……」
「それじゃあ不満かよ」
どこか不機嫌そうに眉を顰めた凰壮が、振り返った。
昔から、振り返ってくれる背中は、虎太でも竜持でもなく、凰壮のものだった。
ひどく、たまらない気持ちにさせられた。
「……夢子」
凰壮が顔の方に手を差し伸べてくる。
思わず瞼をぎゅっと閉じた。
裸の親指がそっと目の下を触る。冷たい。
不思議に凰壮を見上げれば「擦りすぎ」と呆れたように呟いた。
もう、どうして。
「凰壮……」
「ん?」
「手袋……してって、言ったのに」
「お前だって、俺のあげたやつしてねえだろ」
「……もったいなくて」
「ふうん」
凰壮が呆れたように笑った。
いつも私の我儘を聞いてくれるときのそれだった。
「凰壮」
もう一度名前を呼ぶ。
凰壮の冷たい手を手袋越しに触れた。
「なんだよ」と凰壮が返事をする。
凰壮。
「好き」
凰壮が面食らった顔をしたのが見えた。
凰壮をじっと見つめる。
構わず続けた。
「凰壮が好き」「いつも喧嘩ばっかで、意地はってなかなか素直に言えないけど」「大好き」「一番に好き」「ずっと好き」「つまんないヤキモチばっか妬いてごめん」「この間も、無神経なこと言って傷つけてごめんね」「優しくされてばっかで、優しくできなくてごめんね」「許してほしいなんて我儘言えないけど」「好きなの」「好きだよ」「凰壮」「好き」
驚いていたように見開いていた凰壮の瞼は、次第に細められていった。
けれど何も言わない。
しばらくしてから手袋を脱いで、直に凰壮の手を握った。やっぱり冷たいなあと思って、今度は両手に手袋を持って、凰壮の手を挟み込むように包んだ。
「暖かい?」
「……ん」
「誠意だよ」
「誠意?」
「うん」
ごめんね。
もう一度、囁くように零すと、「だから、怒ってないって」と凰壮が言った。
「ただ」
「うん」
「虎太ばっかずるいなって」
「ずるい?」
「帰ってきて、ボール蹴ってるだけでお前にあんなに喜ばれて」
凰壮がはあ、と溜息を吐いた。
「俺だって、喜ばせたかったんだ」
「……うん」
「負けたけどな」
「え、と……」
「かっこわる」
「そんなこと」
「……悪かったな」
「え」
怒鳴ったりして。
凰壮が謝ることなんて何もないのになあ。
どうしてだろうか、さっきまで堪えていた涙がポロっと簡単に落ちた。
「怒って、ないってばあ」
「そ」
「うん」
凰壮がどこか安堵したように笑った。
「夢子」
「はい」
「抱きしめていい?」
え、と漏らした私を、凰壮がギュっと抱きしめた。まだ「いいよ」って言ってないのに。
初めて凰壮に抱きしめられる。虎太に抱きしめられた時よりも、ずっと強くて、どうしてかまた涙が出た。涙が止まらなくて、凰壮の肩に顔を埋めた。また凰壮が力を強くして私の髪に頬を寄せるので、私も抱きしめ返した。背中に腕を回すと、まるで凰壮を守っているみたいな感覚になって、泣いているのは私なのに、変な感じがした。
虎太に抱きしめられたときと、全然違う。
もっと、苦しい。胸がいっぱいで。息ができない。
好きって、こういうことを言うのだと。
凰壮が力を緩めて、私を離した。泣き顔を見られたくなくて慌てて袖で目を擦ると「だから擦るなって」と凰壮が呆れたように言う。
いつもの凰壮だった。
「これやるよ」
凰壮がポケットから何かを取り出して私に差し出した。
何?と尋ねると、「誠意」と言った。
大人しく受け取ると、おみくじと書かれた紙だった。結んでこなかったのかと思いつつ開いたら大吉だった。
「大吉だ」
「それ結構効き目あるぜ」
「うん?」
「夢子に許してもらえるようにって、さっき神頼みしてきてたんだ」
凰壮が眉を下げて笑った。
何それ。変なの。
「もっと他に頼むことあるでしょうに」
「俺、大抵できないことないから」
「自信家!」
思わずツッコむと、また凰壮が笑った。
三が日が過ぎると、虎太が再びスペインに戻るというので、竜持や凰壮、プレデターのみんなと空港まで送りに行った。
「虎太くん頑張ってね!」と応援する翔くんや「気合入れなあかんで」と激を飛ばすエリカちゃん、「私も大会、頑張るね」と微笑む玲華ちゃん、「青砥にも帰ってこいって言ってくれよ」と伝言を頼む多義くん。皆が皆思い思いの言葉をかける。
皆に囲まれて笑っている虎太を眺めていると「そういえば」と思って、虎太を呼んだ。
「虎太、私になにか言いかけてなかった?」
度々、虎太が私に何かを言いかけていたことを思い出した。美咲公園でや、神社に行く前に、だ。その続きが相変わらず聞けておらず、気になったので尋ねてみた。
「……ああ。俺」
「うん?」
「……お前のウジウジしてるところが嫌い」
「え!」
突然の駄目だしに、ショックを隠し切れず、口をあんぐりと開けた。
「悩んでばっかいないで言いたいことがあるときはちゃんと言えよ」
「は、はい……」
「凰壮も、ずっとそう思ってると思ってたんだけどな」
そう言いながら虎太が凰壮に視線を送った。
突然話を振られた凰壮が少し驚いた顔をしたけれど、すぐいつものように笑って「ああ、そういうことだったのかよ」と何かを納得したように頷いた。
「俺も、ウジウジしてるところはどうにかしてほしいと思ってるけど」
「え」
「僕もですよ」
「まじか」
竜持まで加わってきて、幼馴染による総ダメだしに、サンドバックのようになった。酷い。
「ま、もうあんまり喧嘩するなよ」
虎太が私の頭を乱暴に叩いた。
先日優しく背中を叩いてくれた時とは大違いだ。
「わかってるよ」
「無理だと思いますけどねえ」
「竜持うるさい」
私と竜持のやりとりを見た虎太がフッと笑って、そして背を向けて「じゃあな」と歩き出した。
皆で手を振ってその背中を見送る。
振り返らない虎太は、成長していたけれど、やっぱり昔のままの、好きなことに一途なかっこいい虎太だった。
「また、寂しくなるなあ」
「そうだなあ」
独り言のように呟いた私に相槌を打った凰壮を見上げれば、ジッと虎太の背中を見送っていた。
「僕たちも帰りましょうか」
竜持の言葉で、みんなが歩き出す。私と凰壮も、みんなの後ろに続いた。
空港から外に出ると、風が冷たくて、急いで手袋をはめる。それから、鞄の中からイヤーマフを取り出してつけた。
「それ」
凰壮が気付いて、私に声をかける。
「なに?」
「センスいいじゃん。どこで買ったんだよ」
「ふふ、内緒」
凰壮がフっと笑った。
そういう凰壮だって、とてもセンスのいい手袋をしていたのを見て、思わず笑みが零れた。
(2013.06.03)