つい一昨日は最高に幸せだったはずなのに。どうしてこんなことになってしまったのだろう。私の手を握っていた凰壮に、その手を払われたようだった。凰壮が、今はものすごく遠い。まるで、近くなったり遠くなったりするブランコみたいだ。ならば、また、凰壮を近くに感じる時が来るのだろうか。そんなの、一生来ない気がする。今は、それほど、途方もないことのように思えた。



「虎太!帰ろう!」
「夢子?」

凰壮の元から、逃げ出すように駈け出した。一瞬、引き留めるような凰壮の声が聞こえた気がしたけど、聞こえないふりをした。
虎太の元に戻って、急かすように帰りを促す。虎太は不思議そうに首を傾げたけれど、そんなことなどお構いなしに私は虎太の手を取って走り出した。

「おい、夢子!どこ行くんだよ」

私に手を引かれ後ろを走る虎太が、叫ぶように尋ねたけれど、答える余裕はなかった。
凰壮たちと出くわさないように、先ほど通ったルートとは別の道を選びつつ、無我夢中で走る。けれども知らない学校。すぐに迷子になった。逃げ出したい一心から、冷静さを欠いていたからかもしれない。運動不足が祟って、息も上がる。今すぐ逃げ出したい、凰壮のいるこの敷地から。逃げ出したいのに、足も肺も気持ちについて行かない。逃げることすら満足にできないなんて、お笑い種だ。
体は火照るのに、当たる風は冷たい。皮膚は寒さから、少し痛みを帯びた。

「はあ……はあ!」
「おい……大丈夫かよ」

いつまで走っても門に辿りつかない。足はほとんど引きずるみたいになっていた。口から漏れる息は、まるでフルマラソンを完走したかのような苦しさを孕んでいたけれど、私が走ったのはせいぜい一キロ程度だ。それでも、全力疾走していたのだから、帰宅部の私の息が上がっても仕方がない。
いつの間にか、私に手を引かれて走っていたはずの虎太が私を追い越し、私の手を引いて走っていた。絶え絶えな呼吸を漏らす私に視線を送り「どこ行きたいんだよ?」と、微塵も息を乱さない虎太が足を止めることなく尋ねる。
「とりあえず……虎太、止まって……」
やっとの思いでそう言葉を紡いだ。

「はあ、はあ、はあっ……」
「お前、相変わらずだな」

腰に手を当てて、呆れたように溜息を吐いた虎太が、私を見下ろした。

「虎太も、相変わらず……だね……」

肺に呼吸を必死で送りつつ、途切れ途切れに喋る。虎太は「前より体力ついてるぜ」とムッとしたように言ったけれど、私が言いたかったのはそういうことではなく、止まらず私を走らしたことを言ったのだったが、伝わらなかったようだ。

「それで?どこ走ってたんだよ」

虎太が怪訝そうに尋ねた。その問いに「……門」と短く答えると、虎太は眉間の皺をますます増やして「来た道戻ればよかっただけじゃねえか」と、訳が分からないと言った口ぶりで漏らした。
膝に手を付いて息を整えていた私の手を虎太が取り、歩き出した。「虎太?」と呼びかけたら「帰るんだろ?」と質問をする前に返されて、ぎょっと目を見開いた。

「あの、虎太、帰るんなら、あの、裏口から!」
「なんで?」
「いや、あの、その」
「あ、凰壮」
「え」

虎太に手を引かれ、気付けば先ほどの水飲み場の前を通っていた。虎太の視線の先を咄嗟に辿ってみれば、こっちを眺める凰壮が視界に映る。表情まで確認する前に、マネージャーの栗色のふわふわの髪が視界に入って、思わず顔を逸らした。
先ほど逃げ出した相手に再び会うだなんて、なんて滑稽なのだろうか。

「虎太、早く行こうよ……」
「?……ん」

虎太の手をギュウと握ると、虎太が頷く。視線で、凰壮に別れを告げた虎太が、真っ直ぐ門に向かった。去り際、横目で凰壮を盗み見る。ぼんやりとこちらを見送る凰壮が、映った気がした。



「凰壮となんかあったのかよ」

帰り道。私の手を引いて歩く虎太の背中が、そう問いかけた。
虎太のこと、走りまわして振り回したあげく、心配までさせてしまう。まるで我儘な自分に、嫌気がさした。せめてこれ以上迷惑かけまいと「なんでもない」と首を横に振ると、虎太は何も答えなかった。
トボトボ歩く帰り道は、気が重い。家路が遠く感じた。まるで解決が見えない。どこまで歩けば、解決に辿りつくのだろうか。全く分からなかった。

しばらく歩いて、もうすぐ家に着く頃。昨日凰壮と立ち寄った公園の前を通った。今日は、私ではなく、虎太がそこで立ち止まる。どうしたの?と問いかければ「寄ってこうぜ」と振り返って、ニッと笑った。まるで子供みたい。小さい頃と変わらない笑顔に、沈んでいた心が安らいだ気がした。



「ブランコ、一緒に乗ろうよ。虎太」

一目散にブランコに駆けて行く。歩く虎太を、先にブランコに座って待った。幼い頃のように、二人でブランコに乗りたかった。懐かしくて。
けれども、虎太が私の後ろに立って、ブランコに立って乗ろうとしたところで「乗れねえな」と呟く。

「ええ?」
「二人分のスペースねえよ」

昔は乗れたのにな。
虎太が呟いて、隣の一人分の大きさしかないブランコに腰掛けた。
昨日はそこに、凰壮が座っていたはずなのに。
虎太と同じ顔の凰壮が重なる。ふと、無意識に凰壮のことを考えてしまっている自分に、自嘲した。
昔となんにも変らない。私は、凰壮のことばかり考えている。昔だって、虎太とブランコに乗っていても、隣で竜持とブランコに乗る凰壮のことを、何度だって盗み見ていた。四人で遊んでいたって、凰壮のことばかり気にしてた。振り返ってくれる凰壮の背中を追いかけていた。
身体ばかり大きく成長したところで、私はなにも成長していない。
今だって、凰壮のことばかり追いかけているのに。凰壮に頼られたいって。凰壮の傍にいたいって。その結果が、あれだ。
怒鳴った凰壮の声が、頭の中で響く。思い出しただけで、目が潤った。

「夢子」

膝小僧を見つめていたら、虎太に名前を呼ばれた。
顔を上げて視線を向けると、虎太がこちらをジッと見ていた。

「……なあに?」
「凰壮と、喧嘩したのか?」

虎太が子供のような無垢な瞳で尋ねる。懐かしいその瞳に、私は逆らえない。

「喧嘩だったら、よかったんだけど……」

虎太を見ていたら、自分が情けなくて泣いてしまいそうだったから、目を逸らした。ブランコの鎖を掴む手に、力が入る。

「余計なこと言って、凰壮のこと……怒らせちゃった……」
「……試合後で気が立ってたんじゃねえの?」
「……気使わなくていいよ。凰壮は、苛立ってても、他人にあたるような人じゃないもん」

だからこそ、あんな顔をしたのだ。
凰壮の、引き攣った顔が忘れられない。言うつもりのないことを言わせてしまった。あんな顔をさせてしまった。私はただ、凰壮に頼られたかっただけなのに。
頼られたいからって、無理矢理近づいたのが間違いだった。頼られるって、相手から求められることなのに。私から求めるなんて、間違ってた。そんなことも分からずに、必死に凰壮にすり寄って。凰壮のこと、考えもせず。
柔道のことなんにもわからない私に、わかったふりしてあんなこと言われて、いい気はしなかっただろう。真剣に柔道に打ち込んでいるから、こそ。
私は何様のつもりだったのだろうか。あの時の自分を考えると、消えてしまいたくなる。

「虎太……」
「……ん?」

反省することは山ほどある。同時に、マネージャーの顔と言われた言葉がチラついて、色んな感情がないまぜになった。
でも、それ以上に、私の心を占めるのは……。

「凰壮に……嫌われたらどうしよう……」

凰壮に怒鳴られたときから、ずっと考えていた。考えないように何度も頭から振り払うのに、何度も生まれては心臓に貼りつくこの不安が。
言葉にしたら、それが涙に具現して零れ落ちた。
ずっと耐えていたはずなのに、簡単に落ちてしまった。言霊というやつだろうか。

嫌われたくない。凰壮の傍にいたい。ずっと、凰壮のことが好き。好きなのに。
喧嘩なんて、今まで何度だってした。数えきれない。
けれども、今日の険悪さは、今までのどれよりも圧倒的に、深刻なものだった。
もう、お前なんていらないって、愛想を尽かされてしまうかもしれない。それどころか、幼馴染ですらいさせてもらえないかもしれない。
自分の愚かさを呪った。呪っても、呪いきれない。
数えきれない涙が、膝に水たまりを作る。すぐに膝から零れ落ちて、足が濡れた。
マネージャーが言ったように、私は凰壮の恋人なんかじゃないのかもしれない。自分でだって、そう思う。とても、そんな資格ない。

「夢子」

頭上から声が降ってきて、見上げると虎太がこちらを見下ろしていた。泣き顔を見られたくなくて顔を伏せようとすると、虎太が私の手を取って立ち上がらせた。
なんだ?と驚いて虎太を覗くと、その手をそのまま虎太の方に引かれる。引っ張られて、体勢を崩したと思ったら、何かに包まれる感覚。

私は、虎太に抱きしめられていた。

「え、あ?こ、虎太……?」
「……泣けよ」
「え?」
「泣くとスッキリする……らしい」

らしいってなに。思わず笑ってしまうけれど、虎太の懐かしい匂いがして、また涙が溢れた。虎太の匂いが、昔を思い出させる。

幼い頃から、ずっと凰壮が好きだった。十年。ずっと。
私のこと、無碍に扱ってはからかってばかりだったけど、私の手を引いてくれるのも、私に振り返って待ってくれるのも、全部凰壮だった。
そんな、優しい凰壮が好きだったの。

「嫌われたくないよお……」

虎太のコートをしがみ付くように掴み、肩に顔を埋めて泣いた。
人の体温を感じて、少しだけ安心する。
本当だ。泣くと、スッキリするのかもしれない。

虎太が、私の背中を優しく叩いた。まるで、赤ちゃんをあやすみたいに。
虎太。いつも、自分のしたいことに夢中で、私のこと置いていってばかりだったのに。虎太の背中を追いかけるばかりだったのに。ちっとも追い付けなかったのに。私の背中を虎太が叩くなんて、不思議だと思った。
こんな風に、私を抱きしめて慰めてくれる虎太、私は知らない。
知らない間に、虎太も成長しているんだ。
成長しないのは、私ばっかりだ。

「虎太……お兄ちゃんみたい」
「……こんな手のかかる妹、嫌だ」

ああ、こんなセリフ、どこかで聞いた気がする。
そうだ。いつか、竜持に言われたんだった。あの時は、凰壮が割って入って来たけれど。

でも、今日凰壮が間に入って来ることは、なかった。


(2013.05.01)

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