私の西郷隆盛の額に「肉」などと、昔一世を風靡した人気キャラクターを彷彿させるような文字を書かれたのは六時間目の社会の時間だったのだけれど、そのことに気付いたのは放課後の塾だった。隣の席の植松くんが「夢山さんの学校って、どんな教科書使ってるの?」と尋ねてきたものだからランドセルから社会の教科書を取り出して見せてあげたら、パラパラと教科書をめくった彼が噴き出したあげく「夢山さんって意外とふざけてるんだね」と可笑しそうに笑ったことにより発覚した。カラー印刷された肖像画の西郷隆盛の額の「肉」は、彼の厳格な面持ちとのギャップから、相当間抜けに見える。西南戦争の指導者も、これでは形無しだ。
けれども生憎、私は歴史上の偉人にこんな畏れ多いことをするほど大胆ではない。どちらかと言うと、自分の言いたいことは言えないし、いつだって人の顔色ばっかり見てオドオドしている弱虫なのだ。こちらを睨んでくる西郷隆盛に、思わず目を細めて怯む。よくもこんな顔にしてくれたな、怨めしやって言われてるみたい。額は肉だけど。
では、私でなければ、誰が私の教科書に落書きなんてするのだろうか。私は、一人にだけ心当たりがあった。けれども気弱故「犯人は私ではありません!」と強く弁解できない私は、植松くんに「まあね」と誤解されても仕方ない、言うなれば嘘の返答と苦笑いをして、顔を隠すように前髪を右手で弄った。





「なあ、教科書見せてくれよ」

社会の時間の始まり。昨日に引き続き教科書を忘れたのか、学校での隣の席且つおそらく「西郷隆盛、額の肉の変」の首謀者であろう降矢凰壮くんが、こちらをジッと見つめながらお願いをしてきた。最近、こういうことがしょっちゅうだ。教科書を忘れては私に教科書を見せてほしいと頼んでくる。猫撫で声でもなければ人にものを頼む態度でもないのだけれど、心なしか上目づかいになっていて、私の反応を窺うようなその視線を可愛いなあなんて思ってしまった。(いつもはかっこいいのに) ただ黙って私の返答を待つ凰壮くんは決して目を逸らそうとせず、ジッとこちらを見つめている。そんな視線にドギマギしながら「いいよ」と答えれば、微かに声は掠れ震えてしまった。しまった、恥ずかしい、なんて思う私の心は露知らず、凰壮くんは「サンキュ」って短く返したあと、少しだけ空いていた机と机の隙間を、音を立てて埋めた。ピッタリくっついた机の境界線に背表紙が来るように教科書を広げる。無事に教科書が置かれたのを見届けると、凰壮くんは頬杖をついて黒板に向き直った。
ああ、もう、またやった、最低。
心の中で自分を詰った。どうしてもっと気の利いた会話ができなかったんだろう。「最近いつも教科書忘れてるよね?」とか「昨日、西郷隆盛の額に肉って書いたでしょ」とか、広げようと思えばもっと話を広げることができたのに。凰壮くんに話しかけられると、頭の中が真っ白になって、何を話せばいいのかわからなくなる。「ああ」とか「うん」とか「へえ」とか「そうだね」とか、つまらない相槌以外何も思いつかなくなって、後になってから「ああ言えばよかった」「こう言えばよかった」と後悔してしまう。きっとつまらない奴だって、思われてるに違いない。
別に、凰壮くんが話しかけてくる内容だって、それこそ「教科書見せて」とか「次移動だぜ」とか、事務連絡的なものでしかない。会話する必要ないと言えばないのだけれど、でも、折角凰壮くんが話しかけてくれているのだから、できるだけたくさん話したい。話してて面白いなって思われたい。もっと話したいなって、思われたい。凰壮くんに、少しでも、よく思われたい。
けれども願望は願望でしかなく、むしろその願望が強すぎるせいか自分の中で返答に対するハードルが上がりに上がって、話しかけられれば余計に頭の中がこんがらがって、迷いに迷った末に「へー」としか言えなくなってしまうのだ。
もっと、凰壮くんと笑い合いながらお喋りできたらいいのに。きっと、こいつと話してもつまんねーって思われてるから、凰壮くんも必要最低限しか話しかけてこないんだ。だって、前に隣の席だった子とはよく話していたのを見ていたもの。女の子の方から話しかけてはいたけれど、ふざけあったりじゃれ合ったりしてよく注意されてたっけ。ずっと羨ましいなって思ってた。私も隣の席になったらそうなれるかなあなんて思っていたけれど、人生はそんなに甘くないらしい。たった十二歳にして、社会の辛酸を嘗めてしまった。しょっぱい。

担任の先生が授業を始める。カツカツと黒板を叩くチョークの白い音が教室に響く。先生は一生懸命、明治時代の日本について説明しているけれど、私の耳には右から左。頭の中では、次に凰壮くんに話しかけられたらどう答えようか、というシュミレーションをしたりだとか、私から話しかけてみてはどうか、と話題探しに勤しんでいた。
けれども、私と凰壮くんの間には共通の話題なんて一つだってなかった。あればこんなに苦労していないだろう。クラスメイト、ということ以外の接点など、一つだってない。凰壮くんはクラスメイト兼兄弟の虎太くん、竜持くんと共にサッカーチームに所属しているらしいけれど、私は運動が全くできない文化系。凰壮くんは塾に行ってなくてもどの教科でだっていい成績を叩きだしてしまうけれど、私は人より少し多く時間を費やして勉強をしてやっと人並み。凰壮くんはなんでも言いたいことははっきり言ってしまう性分だけれど、私は自分の教科書の落書きの濡れ衣の弁解もできないくらいの弱虫。凰壮くんに関しての知識は、たぶん他の子よりずっと少ない。例えば前に隣の席だったあの子は、きっと私の知らない凰壮くんをもっとたくさん知っているだろう。私はと言えば、ずっとこっそり見ているばかりで、虎太くんや竜持くんよりもあくびの回数が多いこととか、たまに寝癖がついてることとか、時々算数の計算式を端折って解いてることとか、怠けたがる言動が多いのに歩き方も姿勢も真っ直ぐだし靴だって絶対かかとを折って履かないこととか、そういうくだらないことしか知らない。接点なんて一つもありはしない。二人で盛り上がれる話題なんてありはしない。だからと言って、こんな凰壮くん情報を話題として本人に切り出せるはずもない。(下手したら気持ち悪がられるかもしれないし) 血液型とか、趣味とか、好きな食べ物とか、好きな本とか、好きな音楽とか、好きな子のタイプだとか。そういうことは一切知らない。本人には到底聞けないし、気弱な私は想い人の存在すら誰にも打ち明けられていないので、他の人伝いに聞くこともない。
もっと、凰壮くんと仲良くなりたいのになあ。事務連絡だって、話しかけてもらえばすごく嬉しいのに。私を見る凰壮くんの目を思い出すと、顔から火が出るくらい照れるのに。時々、くっつけられた机のせいで凰壮くんの肘が私に当たるのだって、私一人ドキドキしてるのに。凰壮くんのこと、もっともっと知りたいのに。凰壮くんに、私のこと、知ってほしいのに、なあ。
でも、私は気弱で弱虫で、どうしたって自己主張できない。例えば塾だって、お母さんに言われるがままに決めた私立中学受験のために通っているけれど、受験自体本当に受けたいのか、と言われれば首を傾げる。私立だって悪くはないけれど、大抵の友達は公立に進むから、少し寂しい。けれども気弱な性格故、お母さんの提案を拒否することもできなかった。あまりに自己主張できなくて、本当は自分がどうしたいのか、よくわからない。自分のこともよくわからないくせに、自分のことを知ってほしいだなんて、なんて傲慢な願いなんだろうか。自分が恥ずかしくなって、思わずノートの端っこにグルグルとシャープペンを走らせて無造作に塗りつぶした。

コツコツ、とチョークを叩くソレよりも小さく身近な音がして視線を送ってみれば、私のよりも随分骨ばった凰壮くんの人差し指が机を叩いている。ちょうど境界線辺り。不思議に思って凰壮くんをちらりと見れば、凰壮くんはジッと私に視線を送っていて、一瞬驚いて心臓が跳ねあがった。凰壮くんは今度は机じゃなくて、間に置かれた教科書を叩く。机を叩いていた時よりも鈍い音に変わって、私は叩かれている教科書に慌てて視線を落とした。凰壮くんが指していた辺りを見ていれば、教科書の印刷された文字とは別の、角ばった手書きの文字が見えた。
『お前、植松って知ってる?』
読んだ後にもう一度凰壮くんに視線を送ると、凰壮くんは相も変わらず表情はそのままにこちらに視線を送ったまま、また教科書を叩いた。返事は書けってことなんだろうか。私は教科書の端の余白部分にシャープペンを走らせて『知ってるよ』と書いた。
そこでフと、これだけじゃだめだ、と思った。同時に、これはチャンスかもしれない、と思った。いつもだったら、知ってると答えるだけで精一杯で頭が回らないだろうけど、筆談になると話は別だ。会話と違って慌てて喋らないといけないわけではない。書く前に一度頭の中で整理できるので、もう一言二言、話が弾むようなことを思いつける。これなら、いつもの悪印象を挽回できるチャンスかもしれない。
私は『知ってるよ』の後に『降矢くん、植松くんのこと知ってるの?』と疑問の言葉を書き足した。
私の答えを見た凰壮くんが、シャープペンの頭をカチカチと二回ほど押す。サラサラと、意外と形のいい字を書き連ねていった。
『知ってる。サッカーのチームメイトだった。あいつら元気?』
あ、すごい。私、今ちゃんと凰壮くんと会話できてる。文字でだけど。でも、こんなこと今までになかった。初めて。いつも言葉に詰まってばかりだけれどこれなら凰壮くんとだって話せる。他の子たちみたいに、話せる。緊張するのには間違いないのだけれど、それ以上に嬉しいが込み上げてくる。
嬉しい。私、凰壮くんとお話しできてる。嬉しい。
『元気だよ。ビックリした、植松くんたちと凰壮くんが知り合いだなんて、思いもしなかったから』
『俺も、夢山と植松たちが同じ塾って知った時は驚いた。世界狭いよな』
『植松くんとはね、塾の席が隣なんだよ』
教科書の余白が、私と凰壮くんの文字で黒く埋まっていく。形も大きさも違う文字が、仲良く並んで会話する姿がとても愛しくて、胸が詰まる。
嬉しいな。もっと、凰壮くんとお話ししたい。それで、凰壮くんのこともっと知って、そして、仲良くなりたいな。



それから、凰壮くんが教科書を忘れて机をくっつける度に、時々筆談で会話するようになった。大抵話かけてくるのは凰壮くんで、その内容は日が増すごとに他愛もないものになっていった。話を終わらすのも凰壮くんで、飽きるのかどうかは知らないけれど、二言三言で会話が終わってしまうこともあった。(と言っても、授業時間いっぱいに話すことなんてなくて、長くても十分くらいだった) 普通に会話することは今まで通りほとんどなかったけれど、誰も知らない秘密の会話が私たちにはあって、なんとなく凰壮くんと仲良くなれた気でいた。

そういう日がしばらく続いたある日。また凰壮くんが社会の教科書を忘れたというので、机をくっつけて見せてあげた。授業が始まってしばらく。凰壮くんが教科書にサラサラと何かを書きはじめた。内心はしゃぐ気持ちを抑え、悟られぬように素知らぬ顔で黒板の文字をノートに書き写していると、トントン、と凰壮くんが指で教科書を叩いた。書き終わった、という意味だと反射的に察して教科書に視線を移すと『お前、受験いつなの?』と書いてあった。

「(受験かあ……)」

一瞬にして、はしゃいでいた気持ちが淀んだ。
受験をして、もしも受かってしまったら、私は私立中学校に通うことになるだろう。そうしたら、凰壮くんとは学校が別々になってしまう。さほど先ではない未来を想像すると、ほんの少し、寂しさがこみ上げた。
折角、やっと凰壮くんと仲良くなれそうだったのに、受験も卒業もさよならも、きっとあっという間だ。この時間がずっと続けばいいのになあ。ずっと、凰壮くんの隣の席で、凰壮くんと机をくっつけて、先生の目を盗んでお話しできたら、たったそれだけで私は幸せなのに。
学校が変わってしまったら、私なんて凰壮くんともう二度と話せるはずなんてない。私みたいな、平凡な人間。凰壮くんなんて、夏休みにスペインに行われた大会の活躍がテレビで放送されてから学校内で密かに人気者だっていうのに。今は隣の席だから話してもらっているにすぎないけれど、学校が変わってしばらく会うこともなくなれば、きっと私のことなんて忘れてしまうだろう。目立たない、盛り上がりに欠ける、話のつまらない私のことなんか。
いくら凰壮くんとの間に秘密の会話があったとしても、それを特別に思っているのは私だけにすぎないかもしれない。人気者の凰壮くんからしたら、授業中の単なる暇つぶしでしかないのかもしれない。仲良くなっていると感じてるのだって、私一人かもしれない。
そう思ったら、途端に気分は燻ってしまう。気弱な私は、なんでもかんでも、悪い方向に考えがちだ。そういうの、よくないってわかってるんだけど、勝手に頭が考えちゃうから仕方がない。

『どうした?』

私が固まっていると、凰壮くんがシャープペンを走らせて質問を書き足した。凰壮くんに視線を送れば、いつものようにジッと、黙って私を見つめてくる。
いつもだったらきっと反射的に「なんでもない」と首を振ってしまうところだったけれど、頭が真っ白になることなく凰壮くんと話せているのと同じように、筆談だったことで迷う時間ができた。
一瞬、頭の隅で「どうしようか」と考える。フラフラとシャープペンを握る右手を教科書の上で迷わせてから『本当は受験したくないんだ』と書き連ねた。いつもだったら、こんなこと絶対言えないけれど、少しだけ、勇気を出して言ってみようと思った。いつも気弱で言えない自分の気持ち。こういう時でないと、言えない気がしたから。それに凰壮くんは、嘘なんて吐いたところで簡単に見破ってしまうし。(前に一度、調子の悪い日に「具合悪いの?」と聞かれたことがあった。心配かけまいと咄嗟に「悪くないよ」と答えたけれど「嘘吐かなくていいよ」と返されてしまったのだ)
凰壮くんは、私の文字を凝視して動かなくなった。いつものようにペンを指の上で回さずに、ジッとしている。
凰壮くん、なんて言うだろう。
普段言わない自分の本音を書いたことにより、少しばかり私は緊張していたのだ。
しばらくすると凰壮くんはいつもみたいに素早くシャープペンを動かす。書ききるのを待ちきれなくって、一文字ずつ目で追った。……い……し…………ん……。
凰壮くんは書き終わると、フイっと前を向いて頬杖をついてしまった。凰壮くんの動作を見送ってから、教科書に落とされた返事に視線を向けた。

『嫌ならしなけりゃいんじゃね?』

胸の奥が、どこか靄ついた。
想像していたよりもずっと、冷たくて突き放された言葉のような気がしたのだ。もっと「なんで?」とか理由を聞かれたり「勉強つらいのか?」とか心配してくれるものだと思っていた。けれども、凰壮くんは既に私の方も教科書のほうも見ようとなどしなかった。その冷たさを孕んだ言葉だけ吐き捨てて、私の答えなど、まるで興味がないという風だった。
そこまで考えて「あ」と思う。

「(私、凰壮くんに、優しくされたかっただけか)」

自分の普段言えない本音を言ったからって、凰壮くんにとっては知ったこっちゃないことだった。勇気を出して、なんて体のいい言葉を使って私が吐露したのは、くだらない弱音と情けない自主性のなさだった。
恥ずかしい。
凰壮くんの言う通りだ。嫌なら、受験なんてしなくていい。皆と同じ公立に進めばいい。自分のことなのだから、自分で決めればいいだけの話だ。ただそれだけの話。悩む必要のないくらい、単純な話。それなのに、私は「親からの提案を断れない」なんてそんな情けない悩みで、凰壮くんに心配されたかったなどと(無意識にしろ)思ってしまっただなんて、恥ずかしすぎる。凰壮くんは、私のボランティア係なんかじゃない。凰壮くんに甘やかしてもらおうだなんて、ムシがよすぎる。こんなの、勇気と呼ぶには烏滸がましい。

何より、いつも強気で他人に左右なんかされない凰壮くんを前にこんな情けないことを言ってしまったのが、一番に恥ずかしかった。


「(どうしよう……)」

頭が真っ白になって、何も書けなかった。いつまで経っても、気の利いた言葉なんて思いつかなかった。何より、凰壮くんのツンとそっぽを向いた横顔がこちらを向くことはなく、それがますます私の思考を奪っていった。



「夢山さん、凰壮くん知りません?」

六時間目を終えて帰りの会前。ランドセルに教科書を詰めて帰り支度をしていると、竜持くんに声をかけられた。空席になっている凰壮くんの席を指差して尋ねてくるので「先生に呼ばれた」と短く答えた。
竜持くんは「ああ、そうですか」と言ってから、凰壮くんの机の中を漁りだした。私が驚いていると「凰壮くんに貸したままのノートがあるんですけど、なかなか返してくれないので」と私の方には顔を向けず説明してくれた。いくら兄弟だからといって、他人の机を勝手に漁るのはどうなんだろう、とおろおろ思っていると竜持くんが「相変わらず、凰壮くんの机は汚いですねえ」と言った。

「置き勉なんてしてるから、こんなに机の中が溢れちゃうんですよ」
「え……?置き勉?」
「ええ。凰壮くん、教科書なんてめったに持って帰らないんですよ。重いからって言って」
「え……でも、忘れ物……」
「?」

私の言葉に、竜持くんが訝しげに目を細めた。睨まれてるみたいで、居心地が悪い。黙ってこちらを見つめる視線は、凰壮くんのソレに似ていたけれど、竜持くんには急かされているように感じた。私はしどろもどろになりながらも「えっと……社会の教科書、忘れたって……」と伝えると、竜持くんは無言で机を漁った後、一冊の本を抜き出した。

「ありますよ、社会」

竜持くんが不思議そうな顔で、凰壮くんの教科書を差し出して見せた。
その教科書を見て、私だって不思議な顔をした。



放課後。廊下は下校する生徒で溢れていた。私もその中を一人歩いて、昇降口に向かった。今日もこの後塾がある。私の家は通っている塾から少し遠いから、学校から直接行かないといけない。(その代わり、レベルが高いのだ) さっさと帰ろうと思うのだけれど、足は軽快には進まなかった。凰壮くんのことが引っかかって。
凰壮くんは、どうしてあんな嘘なんて吐いたのだろうか。なんの実にもならないような嘘。なんの得をしないような嘘。

ぼんやりと考え込んで靴を履きかえようと、自分の靴箱から靴を取り出そうとしたあたりで「あー、俺忘れ物したから先行ってろよ」と言う声が聞こえた。振り向くと、丁度背中を向けた凰壮くんと、それを見送る竜持くんと虎太くんがいた。

「(どうしよう)」

迷う私の足が、前へ踏み出されたり後退したりする。フラフラと行ったり来たりを繰り返す様は、今日凰壮くんへ返事を書いた自分の手とよく似ていた。
弱気で、優柔不断。自分の嫌いなところ。今日も、これのせいで凰壮くんを不快にさせてしまった。

私は未だ迷う足を叱咤するように叩き、そこから駈け出した。



教室に戻り出口の前で足を止めると、自分のロッカーから体操着を取り出している凰壮くんと目が合った。廊下は未だガヤついているものの、既に教室内にはクラスメイトはおらず、私と凰壮くんだけだった。何も言わない凰壮くんが、いつものようにジッとこちらを見つめてくる。そうしたら、私の頭はやっぱり真っ白になってしまうのだった。

「……あ……の……」

話かけようにも、なんと言っていいのかわからない。声だってどんどん小さくなっていってしまう。筆談とは違う。
えっと……と、顔を俯かせてしまった時だった。

「夢山」

凰壮くんが私を呼んだ。慌てて顔を上げる。

「ゆっくりでいいから、ちゃんと自分の言葉で言えよ」

男の子にしては形のいい字が音になって私に届く。
凰壮くんが、ジッと私を見る。

私は一度深呼吸をして、意を決して、話しかけた。

「さっきは、その……ごめん」
「何が?」
「つ、つまんないこと、言って……」

すると凰壮くんは「あー」と気の抜けたような声を出して、気まずそうに視線を外した。そうしてもう一度私の方を見て「違う」と言った。

「あれ、八つ当たりだから」
「八つ当たり……?」

「本当は、頑張れって、言いたかったんだ」

受験、頑張れって。なのにお前、受験なんてしたくないなんて言い出すからさ。だから、八つ当たり。

凰壮くんがそう言って、眉を下げて笑った。どこか自嘲するようだったけれど、そんなの、絶対おかしい。八つ当たりなんかでもない。
私は、やっぱり馬鹿だ。凰壮くんのことなんて、やっぱり何もわかってなかった。仲良くなれた気でいたけれど、そうじゃなかった。こんな風に思ってくれる人に、あんなくだらない悩みを言ってしまったのかと思うだけで、泣き喚いてしまいたくなるくらいに、自分が情けなかった。
情けなかったの……。

「ごめん……」

堪らなくなってもう一度謝るのだけれど、凰壮くんは「べつに謝られるようなことされてねーし」って眉を顰めた。じゃあ、ありがとう、って言うと、少し驚いた顔をしたけれど、フッと口の端を吊り上げて笑った。
あ、その顔、好きだなあ。なんて思って、自然の口元が緩んでしまう。

「お前、何笑ってんの」
「わ、笑ってないよ」
「嘘吐け、口緩んでんぞ」
「あ、あの、思い出し笑い。今日、友達が面白いことしてて、それで」
「嘘」
「な、なんでわかるの」
「気付いてねえの?お前、嘘吐く時右手で前髪触るだろ」

そう指摘されてハッとする。自分の右手は、今まさに前髪を触っていた。無意識に。
得意気に笑う凰壮くん。凰壮くん、洞察力があるんだね。今までそんなこと誰にも指摘されなかったし、誰も気付いたりしなかったのに。私だって、知らなかった。
どうして、凰壮くん、は。

「凰壮くんは、嘘が、上手いのにね」
「は?」

眉を顰める凰壮くんに「どうして、教科書忘れたなんて、嘘吐いてたの……?」と尋ねると、顰めた眉を更に顰めて、そっぽを向いてしまった。凰壮くん、と呼びかけようとしたら、ぶっきらぼうな凰壮くんの声が聞こえてくる。

「ずっと、話したいなって、思ってたんだよ」

何を言われたのかわからなくて、一瞬思考が停止する。
ずっと……?ずっとって、いつから……?

そういえば、どうして凰壮くんは私と植松くんが同じ塾だって知ってたんだろう。私がそういう話をしたことなんてなかったし、植松くんが元気がどうか尋ねるって、久しく植松くんにも会ってないってことだ。それなのに、どうして知ってたんだろう。
それに、私が嘘吐く時の癖だって、凰壮くんに嘘を吐いたことなんて、ほとんどない。具合が悪いかどうか尋ねられた時の、一度きりだ。それなのに、癖を見破いてしまうなんて、できるはずがない。どうして、気付いたんだろう。

「凰壮くん……」

名前を呼ぶと、凰壮くんはゆっくりと私に視線を送った。ジッと、鋭い目で見つめられる。恥ずかしいって気持ちはあったのだけれど、逸らしてしまいたくなるようなものではなかった。むしろ、ずっと、この時間が続けばいいのになあ、なんて。

「ずっと、見てたんだ。夢山のこと」

凰壮くんが、眉を下げて、口の端を吊り上げる、私の好きな笑い方をした。優しそうな。
好きなのは、笑い方だけじゃないのだけれど。

私がずっと凰壮くんを見ていたみたいに、凰壮くんも私のことずっと見ていたのかな。私が仲良くなりたいって思ってたみたいに、凰壮くんも仲良くなりたいって思ってたのかなあ。

夢みたいな出来事に、胸がいっぱいに詰まる。
凰壮くん、それってどういうこと?私、勘違いしても、大丈夫なの?なんてことを思っていたら「一緒に帰る?」なんて聞かれるものだから、私は顔を赤くさせて、頷くだけで精一杯だった。





「受験のこと、もう一回、今度は自分で考えてみる」
「ふーん」
「折角、凰壮くんが応援してくれたんだし、頑張ってみたいなあ」
「あっそ」
「……凰壮くんと、学校離れたら、それだけ、寂しいけど……」
「…………お前さ」
「うん?」
「随分喋るようになったな」
「え!あ、いや、筆談の賜物というか……その、う、うるさかった……?」
「さあな」
「……」
「どうしたんだよ、もっと喋れよ」

凰壮くんが意地悪く笑う。そんな風に笑いかけられるのも、初めてだなあ。
もっと凰壮くんのことが知りたい。帰り道が、もっと長くなればいいのに。それが無理ならせめて、卒業しても、こうしてお喋りしたいなあ。ずっと。







千尋さん、一万打企画に参加していただいてありがとうございました!
それと、遅くなって本当にすみませんでした……!
どうでしたでしょうか……?
少しでも楽しんでいただけたなら幸いに思います……!
凰壮くんと隣の席になったらどんなんだろうって想像するの楽しくって、何パターンも想像してしまいました…!^^
凰壮くんの隣の席なら最高ですよね…!
楽しく書かせていただきました。リクエスト、本当にありがとうございました。
これからも、どうかよろしくお願いします…!^//^
それでは失礼します!
(2013.03.01)
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