あ、いた。

人知れず心の中で呟いた声が弾んだ。
目の端に捉えたのは、いつも通り、怠そうに俯く先輩の愛おしい背中だった。

ああ、みれた。うれしい。


そうやって行き交う人の壁に阻まれて時々見えなくなる先輩を見失わないように、必死に目で追っていたら、連なって前を歩いていたクラスメイトに勢いよくぶつかった。クラスメイトが訝しげに振り返り、私は小さく「ごめん」と謝って苦笑いをする。特に何も言うことなく、再び前に向き直ったクラスメイトに、私は内心ほっとした。どうしてぶつかったのか、などと尋ねられれば、わざとでないことを伝えるためにも、よそ見していたことを言わなければならない。そうしたら、何を見ていたか尋ねられてしまう。私は嘘が得意ではない。尋ねられたら、私が何を見ていたかなんて、すぐにバレてしまうかもしれない。それはとても恥ずかしい。
再び視線を右斜め四十五度に戻すと、米粒みたいに小さい先輩がすぐに視界に飛び込んでくる。
こんなに溢れかえるほどの生徒がいても、先輩を見つけるのは得意。

体育館。普段は全力で走り回れるほどの広さを持っているはずのそこには、お揃いの紺色ブレザーを着た生徒がぎゅうぎゅうに敷き詰められている。無理もない、今ここに集まっているのは、全校生徒であるのだ。五月の最初の登校日。今日は月に一度の、待ちに待った、全校集会である。
確実に先輩を見ることが出来る、絶好の機会である。
各クラスが一列になって並ぶ。先生の誘導で左端に一年一組が列をつくり、そこから右に二組三組と順に続いて行った。ある程度列が揃うと、やはり左端のクラスから順にその場に小さくなって座っていく。私のクラスは左から三番目の列。二年二組の先輩のクラスは、そこから更に九列右に。
これが私と先輩の距離。
遠い。私より幾分か大きいはずの先輩が、遠近法とかいう原理によって米粒みたいに小さくなっちゃうくらいに、私と先輩の距離は、遠い。

しょうがない。だってきっと、先輩は私のことなんて知らないもの。
いいえ、知らないのではなくて、覚えていない、だ。
先輩はきっと、あの時のことなんて覚えてない。


私が先輩に出会ったのは、一か月前。桜咲く四月。入学式だった。
未だ肌寒さが残りながらも、春の陽だまりが暖かった日を、よく覚えている。



桜は咲いていた。入試に合格した私にも、高校の校門に仰々しく連なった桜の木にも、精神的にも物理的にも、桜は咲いていた。私たちを祝うように、暖かい春の陽だまりの中で華々しく咲き誇っていた。ただ一つ、枯れてしまったものといえば、私の胸に咲いていた花だ。枯れてしまったというのは適切ではない。落としてしまったのだ、ポトリと。極々自然に。地球の重力に従って。ポトリ、と地面に落ちた。これが受験シーズンでなくて本当によかった。そうだったらきっと私はわあわあ泣き喚いて「やっぱりランクなんてあげなければよかった」とまるで黒板を爪でひっかいたような金切り声でヒステリックになってしまったことだろう。別に、ものが落ちようが滑ろうがどうしようが、私の受験になんら影響などあるはずなかったのに。ガラス細工のように繊細な精神を持つ受験生としては、縁起だとか願掛けというものがとても重要なことのように思えていたのだ。しかしながら、この時既に入学式。もう桜は咲いていた。泣き喚く必要も、受験校のランクも下げる必要も、もはやない。

私の胸に咲いた花と言うのは、別に心に咲いた花とかそういう歌の歌詞に度々登場するような比喩的なものでもなんでもなく、安全ピンで取り付けられた小さな花だった。入学式、学校に着くや否や、昇降口で待機していた上級生らしき人たちに「ご入学おめでとうございます」と付けられたものだ。新入生はみな、この小さな花を右胸に付けられていた。花の種類は様々で、私の花は薄紅色の可愛らしい、小さな花だった。陽だまりを受けて輝くそれに、思わず顔が綻んだ。
上級生からは「入学式が始まるまでは自身のクラスで教室待機」との案内を受けた。私の心臓がざわつくように跳ねた。春にしては冷たい風がスカートの裾をざわざわと揺らす。私は少し考えてから、まだ時間に余裕があることを確認し、校内をうろつくことにした。教室には、まだ行きたくなかった。
一階は賑やかで、入学式の手伝いに来たのであろう上級生や職員、父兄などで溢れかえっていた。新しい門出を祝おうと浮かれた声がそこら中に蔓延って種をまき、華やかな雰囲気を咲かせていた。
はあ、と思わず溜息を吐く。私は、緊張していた。これから先の高校生活を思って。友達はできるだろうかとか、勉強にはついていけるだろうかとか、楽しい生活を送れるだろうかとか。受験中はそんなこと考えもせず、ただただこの学校に入りたくて頑張った。制服が可愛く校舎が綺麗という理由だけで受験したこの学校は、私の学力より少し上だったけれど、受験日が近づくにつれ絶対に行きたい学校になっていた。合格した時は飛び跳ねるくらい嬉しかったし、実際に飛び跳ねた。高校生になったら、楽しいことがたくさんある。バイトしたり友達と学校帰りに遊びにいったり、彼氏とかつくったり。そんなことを考えると、風に舞う桜の花びらのように、期待に胸が躍った。けれど、そうした今まで漠然としていた高校生活がいざ、その可愛い制服を身につけて綺麗な校舎を前にしただけで、突然現実味を帯びてきて、不安になった。新しい環境というのは、幾つになっても落ち着かないものだ。期待と不安が入り混じって、よくわからない感情が生まれた。どっちつかずの感情に、自分の気持ちがただただざわつく。
昇降口から吹き込んだ風が、寒さで身を縮こまらせた。窓から差し込んだ陽は、こんなにも暖かいのに、不思議だと思った。

しばらくそうして時間を潰したのち、そろそろ教室に行こうと覚悟を決め、階段に続く長い廊下を歩く。あれほど賑やかだったのに、昇降口から階段に近づくにつれ、自然と人は減っていった。生徒以外の人は皆、入学式の行われる体育館に足を向けていたからだ。浮かれた声が小さくなって、静寂がだんだんうるさくなる。雲に隠れたのか、陽も陰りを見せて肌寒い。私の中の不安の種もまた、むくむくと育っていった。

フと、窓の外に見えた満開の桜に、目が留まった。卒業式にはまだ三分咲きだった桜が空を淡い桃色に染めている。ああ綺麗、落ち着く。少しでも気を和ませようと、桜に視線を向けながら廊下を歩いた。その時だった。
衝撃。ぶつかった。何かに。勢いよく。ちょうど、階段に上るための角を曲がろうとしたところで。
わ。
予期せぬ事態に遭遇した私は、思いっきりよろめいた。けれど転びはしなかった。支えられていた。がっしりと、腕を。突然のことに何一つ頭がついていかず、ただ驚いたというように目を見開くことしかできなかった。
痛いくらいに捕まれた二の腕に気付いて視線を向けると、骨ばった大きな手が見えた。人だ、人の手だ。たぶん、男の人の。紺色ブレザーの裾下から真っ黒なセーターが顔をのぞかせていた。父兄でも職員でもない。生徒だ。そこまで理解してから、ゆっくりとブレザーの先を辿っていく。腕、肩、胸、真っ赤な緩められたネクタイ、開けられた第一ボタンから見える鎖骨、首筋。一つ一つゆっくりと丁寧に流していって、最後に顔に視線を移した。
はっとした。
目が合った。
ジッと、睨むような真っ赤な目。見上げた先にあった瞳は、私を射抜くように、黙ってこちらを見ていた。沈黙する吊り上った目尻が、気が強そうで怖いという印象をもたらして、無意識に息をのんだ。やはり、男の人だった。
ああ、そうか。ぶつかったんだ、この人に。
ようやくここで、自分に起きたことを把握する。私がぶつかったのは壁でもなんでもなく目の前にいるこの人で、私が転ばなかったのもこの人が支えてくれているからだ。
私はその男子生徒の全身に、遠慮がちに視線を動かした。上から、下に、さらに上にゆっくりと。着崩された制服、解れたズボンの裾、なにより右胸についていない花を確認して、新入生ではないと察する。上級生だ。

「前見て歩けよ」

ずっと黙っていたその男子生徒が、低い声で言った。
ただでさえ怖いと思っていた印象に、さらに拍車がかかった。

「ごめん、なさい……」

蚊の鳴くような声で謝った。絡まれたらどうしよう、と怖くなった。
ただでさえ高校生活に不安を抱いていたというのに、これじゃあ幸先不安すぎる。
男子生徒が、掴んでいた手を離した。支えを失った体がふらついて、片足を後ろに開いて、支えとどまった。
あぶなかった。

「あ」
「え?」
ポトリ。

男子生徒が口を丸く開けて、小さく驚いた顔をした。私からも聞き返すような驚きの声が漏れた。男子生徒の視線がスッと下に落ちる。ポトリ。床に何か落ちる軽い音がした。一緒に、視線を落とす。

「あ」

落ちていたのは、花だった。薄紅色の可愛らしい、小さな花。右胸につけられていた、お祝いの花だった。ぶつかった拍子に潰れてしまったのだろう。花びらが散らばって落ちた。
受験シーズンでなくてよかったことには間違いない。受験に落ちることはもうないので、ヒステリックに縁起を気にする必要などもない。
ただやはり幸先はよくない。お祝いにつけられた花が潰れて散ってしまったのだ。
思わず「あー」と気の抜けたような声が口から漏れた。

途端、また目の前の男子生徒が鋭い目でジッと私を見た。しまった、と思い咄嗟に口を押える。そんなつもりは毛頭なかったが、これではまるでぶつかったことを責め立てているようだった。ぶつかったのは、よそ見した私が原因なのに。
私はへらっと取り繕ったような愛想笑いをしてから、その場にしゃがんで散ってしまった花びらを拾った。
怖い。さっさとこの場から去ってしまおう。
そんなことを思って一生懸命花びらを拾っていると「おい」という無愛想な声が上から落ちてきた。
私はしゃがんだまま顔を上げて、彼を見上げる。彼は目を泳がせてから乱暴に自分の頭をかいて「ちょっと待ってろ」と言った。
え、と私が言う前に、彼は何処かに行ってしまった。

「(どうしよう……)」

花びらを拾い終わって立ち上がる。
このまま逃げてしまおうか。
何をされるかわからない。怖さからそう考えるが、これから先の高校生活、また彼に会うこともあるかもしれない。その時のことを考えても怖い。今逃げてしまうのは、将来的に得策ではない気がする。
どうしようか、と戸惑っていると、またすぐにその男子生徒がやって来た。
手に何か持っている。
何だろうと思ってそちらに視線を向けていると、その男子生徒は「ちょっと触るぞ」と言って手を伸ばしてきた。

え?触る?

そう思ったのも束の間、男子生徒はスッと自然な動作で私の胸元に手を伸ばしてきた。
え、え?な、なに?
突然のことに一人慌てていると、男子生徒はそんな私なんて気にも留めず、躊躇なくブレザーを掴み、花がついていたはずの安全ピンを外した。慌てていた私も、彼の淡々とした動作をうけて、次第に冷静になっていく。彼は安全ピンに、手に持っていた何かをつけて、また私の右胸にそれを取り付けた。私はそれをただただ目で追っていた。

「本物じゃなくて悪いな」

そう言って、彼が手を離した。私は自分の右胸に取り付けられたそれを確認した。

「あ」

咲いていた。花が。赤い色の花だった。
触れてみると布のようなざらついた手触りがして、造花だということがすぐにわかった。花の種類はわからなかったけど。
どこから持ってきたのだろうか。この距離なら、職員室とかだろうか。

「せっかくの晴れ舞台なのに、安全ピンだけじゃかっこつかねえだろ」
「……はあ」

予想外の展開に、思わず間抜けな相槌が零れた。慌てて口に手を当てて、チラ、と彼を見た。
目が合った彼は、相変わらず目つきは悪いのだけれど、フッと眉を下げて笑った。

「入学おめでと」

あ。

落ちた。
とても軽く、私の大事な、それが、落ちた。
ポトリ、と音を立てて、落ちた。

落ちた。ポトリ、と。

陰っていた暖かい陽だまりが再び窓から射し、頬を熱くさせた。



その先輩の名前はすぐにわかった。というのも、入学式の次の日に行われた始業式で、先輩が表彰されていたからだ。なんでも春に行われた柔道の大会で、個人の部で優勝したらしい。
舞台の上に上がった人が、昨日私とぶつかった人なので驚いた。ぽかんとする私を余所に、彼が舞台に上がった瞬間、女の子の遠慮がちではあるが黄色い声がいろんなところから聞こえた。なるほど、彼は人気者らしい。そう思って私は、はあ、と気づかれないくらい小さく溜息を吐いた。
彼が校長先生の前に立つと、先生は表彰状を掲げて読み上げた。
「降矢凰壮くん」
校長先生の声が響き渡った。

ふるや、ふるや先輩。
ふるやおうぞう先輩。

私は、先生が読み上げた彼の名前を、忘れないように何度も何度も、頭の中で繰り返した。

降矢凰壮先輩。
私の、好きな人。

私の高校生活に、花が咲いた。





しかしながら、クラスどころか学年も違う先輩。接点などあるはずもなく、私が降矢先輩と関わる機会など一切なかった。ならば一縷の望みに懸けて、委員会にも入った。美化委員会。もちろん先輩はいなかった。だったらせめて部活に入ろうと思った。柔道部。マネージャーとか。でも動機が不純すぎて、一生懸命部活をしている先輩に申し訳なくなって、やめた。何より、既にマネージャーの入部希望は殺到していて、気後れした。先輩は校内の女子の人気の的らしい。
結局委員会も部活も、上級生と関われそうな場で、降矢先輩と関われることはなかった。

そうしたら後は必然的に見つめるだけの日々が待っていた。
先輩のクラスが体育の授業の休み時間は、本鈴がなるまで窓で待機して、グラウンドに向かう先輩の背中を見送った。
休み時間は無意味に校内を歩き回った。二年生の階に行く勇気はなかったので、食堂とか自販機のある一階をうろうろ徘徊するのが日課になった。けれども先輩をすれ違うことはなく、たまに、遠巻きに先輩の後ろ姿なんかを見られたりすることがあるくらいだった。
下校の際は柔道場の傍を通れるように、わざと遠回りして裏門から帰った。柔道部の声が聞こえると、頬が緩んだ。
恋する乙女の涙ぐましい努力。ストーカーと言われればそれまでだが、健気に見つめているだけなので許してほしい。
ただ先輩を見れたら、それで満足なのだ。
だって、私みたいな平々凡々な人間があんな人気者の先輩を好きだと思うだけで烏滸がましい。ただ入学式の日にぶつかっただけの、有って無いような関係なのに。
秘めた淡い恋。ただ見つめるだけ。でも先輩の背中を見つけるだけで、好きと言う気持ちが大きくなっていくのがわかった。烏滸がましいって、わかってるのに。

「それは努力って言わない」


五月も幾日か過ぎたとある日のお昼休み。お弁当も食べ終え、窓際の席から友達らしき人とグラウンドでサッカーをしている降矢先輩を眺めていると、前の席に私と向かい合うように座ってファッション雑誌を読んでいた友達のミチコちゃんがフと声をあげた。突然何を言われたのかと思って彼女に振り向くと、ミチコちゃんは雑誌に目を落としたまま、つまらなそうにパラパラとめくっていた。独り言かな?なんて思っていると、パッと顔を上げたミチコちゃんは私を見る。いきなり目が合って驚いてしまい、思わず体が後ろにひいた。
暦は五月。ミチコちゃんとは、出席番号順に並んだ最初の席が隣というきっかけで、仲良くなった。仲良くなったと言っても、まだ出会って一か月。周りのクラスメイトもどこかよそよそしさが残っており、微妙な距離感がある中、このミチコちゃんはそんなこと気にせずズバズバものを言う子で、よそよそしさというか、遠慮が全くない。けれども言いたいことをはっきり言ってくれるのは、壁がなく感じられて、悪い気はしなかった。というより、私のことを思って言ってくれているのが言動の端々で感じるので、どちらかというと嬉しかった。なんだか第一印象は怖かったが優しかった降矢先輩と、どことなく似ているとぼんやり思った。ただやっぱり、こうやってジッと見つめられたり、遠慮なく痛いところをついてくるのは、まだちょっと慣れない。今日は何を言われるのかと思って、緊張した。

「そうやって遠くから見つめるだけなのは、努力って言わないよ」
「あ、はい、すみません……」
「好きならもっとアタックしなよ。あの先輩、ただでさえモテるんでしょ?今は彼女いなくても、そんなのすぐできちゃうからね」
「別に……付き合いたいわけじゃないもん……」

拗ねたように口を尖がらせて、再びグラウンドに視線を向けた。ちょうど降矢先輩にボールが渡って、ドリブルをはじめる。一人、二人と颯爽と擦り抜けていってシュート、あっという間にゴールネットを揺らした。思わず目を奪われて、おおっと口から小さい歓声が漏れた。ボールを持って走っているはずなのに、後ろから追いかける人間より走るのが速いのは、とても不思議。
屈託なく笑った先輩が、味方の友達に囲まれる。制服の袖をまくって汗を拭った先輩は、なんだかすごくかっこいい。先輩の周りは、キラキラ輝いて、とても華やかだ。

「ふーん……付き合いたくないならいいけどね」

そう言ってミチコちゃんはまた雑誌に目を落とした。私はそれを横目でチラリと見てから、またグラウンドを見る。
遠い。四階から見るグランドは遠い。小さい。先輩が米粒みたいに小さい。同じ学校にいるはずなのに、これではまるで全く手の届かない人に恋をしているみたいだ。たとえば芸能人とか。そういえば、テレビで見るサッカーの試合もこんな風に選手が小さく見えるなあなんて思った。
また降矢先輩にボールが渡ってドリブルをはじめる。今度はただよけて抜くだけじゃなくて、クルっと回って見せたりヒールキックでボールを浮かせたりしていた。すごい。
先輩って、柔道だけじゃなくてサッカーも上手いんだなあ、って思った。かっこいいなあ。

「あのなんちゃら先輩に彼女が出来ても、泣かないでよね」

ミチコちゃんが呆れたように言うから「泣かないし……」と小さく反論した。
だって、先輩と付き合いたいだなんて、私には烏滸がましい。
先輩は遠い人で、手の届かない人で、だから、努力したってしょうがないじゃん。

そういう諦めの気持ちと、先輩に彼女ができたらと嫌だというどっちつかずの気持ちでふらつく。もやもやした気持ちが胸に蔓延って、感情の所在が分からなくなる。自分の気持ちがわからないなんて、不思議な話だ。

昼休みが終わるチャイムが鳴る。グラウンドや校舎の外にいた生徒たちが、昇降口に向かいだした。先輩はサッカーボールを足で浮かして、簡単に手でキャッチする。本当に上手い。一緒にサッカーをしていた友達と歩き出す降矢先輩。そこに、一人の女生徒が駆け寄った。
心臓が嫌な音を立てた。
その女生徒はまっすぐ降矢先輩の横に並んで、一緒に歩き出した。降矢先輩と、何か話している。女生徒の楽しそうな笑顔が、やけに目に焼き付いた。
たぶん友達なのだろう。降矢先輩にああやって女の子が駆け寄るのは、そう珍しいことではない。何度か見たことがある。(ただし降矢先輩単体でいる時にはほとんど見かけない。団体でいる時だけだ)
そんな光景を四階からぼんやり覗く。フと、校門付近に連なった桜の木が目についた。つい一週間くらい前までわずかに残っていた桜も、もうすっかり散ってしまい、並木も静かになってしまっている。春が終わりを告げて夏がやってくるというのに、地球温暖化の影響か、五月下旬になってもまだたまに肌寒い。まだ夏はこないのだろうか。春も終わったのに。
ではいったい、今の季節は何なんだろうか。

ぼうっとした視界に、先輩が映る。隣に並ぶ女生徒も一緒に。
無意識に、目を細めてしまう。ただ話をしているだけなのに、こんな気持ちになるの、は。

春と夏の間をふらつくどっちつかずの季節に、やっぱりもやついた気がした。





寝ぼけ眼の朝。地面を叩く音で目が覚めた。
まだ働かない意識の中、ベッドから起きてカーテンをめくると、案の定雨が降っていた。まるで槍のように勢いよく降っていて、はあ、と溜息を吐く。今日は美化委員会の活動で早く学校に登校しなければならない。今週から始まる美化週間に向けて、美化委員会で校舎内の朝清掃を行うというのだ。おまけに教室に飾る花を各委員持ってこなければならず、この雨の中、花を抱えて登校するのは、いささか億劫だった。
まだ目覚ましが鳴る前。眠いと思いつつ、雨の日はバスが込むから、早めに出ようと伸びをした。一年生のくせに、委員会に遅れてしまっては肩身が狭い。満員バスで花が潰れても嫌だし。
眠い目をこすり、洗面台に向かった。



「おはよう、夢子ちゃん」

バスから降りて、左手で花束を抱えながら、庇うように傘を差した。右肩が濡れる。紺色のブレザーがますます色を濃くしていた。いつもより早めの登校時間のせいか、通学路には生徒はほとんどいなかった。
学校までの道を歩いていると、同じ委員会の友達に後ろから声をかけられた。隣のクラスの女の子で、優しく気さくな雰囲気の子だ。委員会が一緒という理由だけで、学校で会うと話しかけてくれる。隔てのない性格が、魅力的だなあと好感を持っていた。私の右隣りに並んで、一緒に通学路を歩く。

「おはよう、花持ってきた?」
「うん、カーネーション。可愛いでしょう?」

そう言って彼女はスクール鞄とは別に持っていた大きめのエコバッグに入れていた花束を見せてくれた。母の日以外で見るのは珍しいけれど、優しい雰囲気の彼女にとても似合っていた。

「夢子ちゃんは何持ってきたの?」

彼女は私の左腕に抱えられた花束を小さく覗き込んだ。
私は彼女に見えるように体を右に開いて、花束を見せようとした。

「あ」

思わず声が出てしまった。ずっと傘が邪魔で見えなかった。前に人が歩いていたのだ。
降矢先輩だ。
傘をさしていて肩より上は見えないけれど、あの怠そうな歩き方は降矢先輩だ。
いつもこの時間に登校しているのだろうか。きっと朝練だよね。ああ、今日委員会があってよかった。委員会入っててよかった。先輩との接点がほしくて入った委員会だけど、少しは役に立ったみたい。

私の様子を不思議に思ったのだろう。友達は私と同じように前にいる人を見て「知り合い?」と聞いた。

「う、ううん、違うけど。ええと、ホラ、知らない?柔道部の有名な先輩」
「柔道部?ああ、降矢先輩だっけ?あの人、人気だよねえ。私のクラスの子にもいるよ、先輩に憧れて柔道部のマネージャーやってる子」

へえ、そうなんだ。と私は気の抜けた返事をしてしまった。こう身近な人から「人気」と評されてしまうのは、現実を突き付けられたようで、気が落ちてしまう。
そんな気持ちに気付かれたくなくて傘を右に傾けて、顔を隠した。そんな私に気付かない彼女は「そういえば」と楽しそうに続けた。

「先輩、今日が誕生日なんだって」

え。
びっくりして顔を上げる。
彼女は明るく「クラスの子が言ってたんだよ。マネージャー皆でプレゼント用意してるんだって、個人的にだと受け取ってくれないらしくて」と続けた。

誕生日?降矢先輩が?え、今日?

驚きすぎて、「へえ」と返事をするのがやっとだった。

知らなかった。先輩の誕生日すら。好きな人の誕生日も知らないなんて、私はやっぱり、先輩に恋心を抱くだけですら烏滸がましいやつだ。

どうしよう、プレゼント、私は用意してないし、何をあげれば。
そう考えて、すぐに杞憂だと気付く。
どうせ私は先輩にプレゼントを渡すことだってできない。おめでとうございますだって言えない。ただ見てるだけ、見つめるだけ。遠くから、小さい先輩を見つめるだけ。
所詮私みたいな平々凡々な人間にはそんなことしかできないんだ。
だって先輩は人気者だし。

ジメジメジメジメ。雨のせいか、後ろ向きな考えが次々降ってくる。
ああ、でもいつもこんな感じだったかも。いつもジメジメしてたかも。
雨はあんまり好きじゃない。朝早く起きないといけないし、バスも混むし、肩が濡れるし、それに、ジメジメするし。
だからミチコちゃんに怒られるんだなあ。


「で、夢子ちゃんは何持ってきたんだっけ?」

再び友達が話の続きを促した。そうだった、会話が途中で終わってたんだ。

「ええっとね、ひなげし」

そう言って抱えていた花束を見せた。赤いひなげし。
昨日花屋に寄った時に、一目でこれと決めた。
入学式の日に降矢先輩がつけてくれた造花と同じだったからだ。

可愛いねって言って、友達が笑う。私は曖昧に笑い返した。

ひなげしの花が、私を見る。
私はまっすぐに、ひなげしを見ることが出来ない。
好きな人の誕生日に、おめでとうの一つも言えない私が、すごく情けない。先輩が胸につけてくれたひなげしに、私は顔向けができない。

堂々と咲き誇ったひなげしに、勇気のない私は後ろめたいのだ。



そうして適当な話をしながら学校に向かう。アッという間に校舎についた。
昇降口で靴を履きかえる。急いで上靴を履き、廊下に向かうと、降矢先輩も靴箱から廊下に出てきた。
はっと息を飲む。
近い。すごく近い。ほんの一、二メートル。こんなに近くで先輩を見たのは、入学式以来だ。近くで見る先輩は、米粒なんかじゃなく、私よりも全然大きかった。
一瞬だけ見えた横顔が、すごく愛しい。

先輩は柔道場に続く方へ歩いて行ってしまう。美化委員の集合する教室とは、反対側だ。
先輩の背中を、ぼんやり見送る。見慣れた背中だ。いつも私はこうやって、先輩の背中ばかり見ている。

それは努力って言わない。

ミチコちゃんの言葉を思い出した。

これでいいのか。

同時に自分に問いかけた。

これでいいのか、好きな人におめでとうも言えないで、それでいいのか。
そういえば私、あの時のお礼だって満足に言ってない。
こんなんでいいの。こんなので好きだって胸張って言えるの?見てるだけでいいからっていいながら他の女の人にやきもきして、大した御身分。

本当は、勇気がないだけじゃないか。入学式の日のこと、先輩が覚えていなかったらとか、先輩に振られたらどうしようとか。先輩は人気者だからなんて言って、烏滸がましいだなんて言って、そうやって勇気がでない言い訳にしていただけじゃないか。本当はずっと言い聞かせていただけ。だからもやもやした気持ちでいっぱいになったのに。
勇気が、自信がないから、あんなどっちつかずの感情になってしまっていたんだ。

先輩を見られるだけで満足なんて、とんだ嘘。
背中だけじゃなくて、先輩のこと、もっと見たい。横顔を見られただけで、あんなに愛しいんだもの。
初めて会った時みたいに、見つめられたいし、喋りたい。触れられたいし、優しく、されたい。
本当は、先輩に、私のこと、好きになってほしい、の。


「おまたせ夢子ちゃん、行こう?」

靴を履きかえた友達に声をかけられる。
私は「ごめん」と短く謝った。

「ごめん、教室に寄らないといけないんだ。先に行ってて」

私は柔道場の方に、小走りで向かった。

先輩に追いついたのは、柔道場に続く渡り廊下。
遠かった背中が、徐々に近づいてくる。
マラソンした後みたいに、心臓が速い。
汗もかく。ぎゅうっと力を入れた花束を包む紙が、音を立てた。

せんぱい。
声をかけようとするけど、やっぱり躊躇う。勇気がでない。人間早々変われるものではない。
はあ、と息を吐く。
ひなげしの花と、目が合った。

赤いひなげし。可愛い、可愛い。
ひなげしが、入学式の日を思わせる。
先輩が胸にひなげしをつけてくれたことを。
おめでとうって、言ってくれたことを。
入学おめでとって、言ってくれたことを。
本当は先輩だって、おめでとうって言われる立場だったのに。大会で優勝したばっかりで、本当は祝われたい側だったのに。それなのに、惜しみなく、見ず知らずの私に、おめでとうって言ってくれた。

今日は、一年に一度の、先輩の最初で最後の十七歳の誕生日なのに、おめでとうって言えないなんて、そんなのダメだ。

勇気を出して。
私は大きく息を吸って、そして「先輩!」と声を上げた。

「降矢先輩!」

降矢先輩が肩を揺らした。
ゆっくりこちらに振り向く。
目が合った。入学式の日以来だ。

私は息を飲んで、そして小走りで駆け寄る。
先輩の目の前まで行って一回深呼吸する。
あ、あの!と切り出そうとしたら、降矢先輩が「お前、入学式でぶつかった奴だろ」と言った。

「え」

鳩が豆鉄砲くらったような、とはよく言うが、まさにそんな顔をしていたんじゃないかと思う。驚いた。まさか覚えていてくれてるとは思わなかった。

「よく覚えてましたね」
「まあな。俺、記憶力は割といいんだ」

どうしよ、すごく嬉しい。
顔がにやけそうになるのを必死で耐えていると「お前もよく覚えてたな」なんて不思議そうに降矢先輩が言うから「わ、私も記憶力がいいんです」と慌てて誤魔化した。

「で?なんか用かよ?」

降矢先輩が胸の前で腕を組んで、ぶっきらぼうに尋ねる。
私は「えっと、あの」としどろもどろになった。
黙って私の言葉を待つ降矢先輩に意を決して声をあげた。「あ、あの!」裏返った。

「た、誕生日、おめでとうございます!」

そう言って、抱えていた花束を差し出した。
美化委員に持って行くやつだけど、この際背に腹は代えられない。忘れたことにしてしまおう。降矢先輩に選んだものじゃなくて心苦しいけど、やっぱり何か先輩にプレゼントしたかったのだ。

「ああ、ありがと」

先輩は面食らったようにそう言った。なんで誕生日だって知っているのか、不思議に思ったのかもしれない。そりゃあ当然思うか。あ、なんか恥ずかしい。

「でもそれ、プレゼントだったらいらね。荷物になるし」

今度は私が面食らった。
プレゼントを突っ返されるなんて、初めての経験だったからだ。
でも、考えてみればそうかも。先輩、個人的なプレゼントは受け取らないってさっき友達も言ってた。それに、花束って、確かに荷物になる。今日一日これを抱える先輩を思うと、むしろ申し訳なくなった。

「ご、ごめんなさい……」

自分の顔が羞恥で赤くなるのがわかった。恥ずかしい。あと、少し、悲しい。
はは、と乾いたように笑って、右手で前髪を触るふりして顔を隠した。
情けない顔してるかもしれない。それはもっと恥ずかしいもの。

「……」

先輩がジッとこちらを見つめた。
どうしよう、無駄に沈黙をつくってしまった。

「え、と……」

それじゃあ、私はこれで。
そう言ってここから立ち去ろう。誕生日を祝うことは、できたのだし。
このままでは、気まずい。
よし、言うぞ。

「それじゃあ」
「それ」
「え?」

先輩が何か言った。
何?聞き返すように見つめると先輩はもう一度「それ」と言って花束を指した。

「一輪だけなら、もらってもいいぜ」

降矢先輩がそう言った。
もらってもいい、なんて、なんて上からものを言うのだろう。
でも、もしかしたら、あんまり私が情けない顔をするから、そう言ってくれたのかもしれない。見かねたのかもしれない。
プレゼント受け取らないって噂されてる先輩が受け取ってくれるだけで、それは喜ばしいことだと思った。

私は急いで一輪だけ抜き取って、先輩に渡す。
受け取った先輩は「女から花貰ったの、初めてだな」って言って笑った。

笑った、降矢先輩。

こんな近くで先輩が笑う。私のあげたひなげしで、先輩が笑う。
それが、すごく嬉しくて、特別なことのように思えた。

ああ、すごく幸せ。
今日は先輩の誕生日なのに、私がこんなに嬉しくていいのかと思った。


「あ、雨あがったな」

先輩が顔を上げる。
私もつられて空を見上げた。
確かに、さっきまであんなにうるさかったはずの雨がいつの間にかあがっていて、雲の隙間からうっすら太陽の光が漏れていた。

「俺、晴れのほうが好きだな」

先輩がフって笑う。
あ、私も。そう思って、また嬉しくなった。
先輩が、近く感じた。

「そういえばお前、名前なんていうんだよ?」

先輩が思い出したように言った。

「え、私ですか」
「お前しかいねえだろ、これからなんて呼べばいいかわかんねえじゃん」

先輩の言葉に、これからがあるのかと思って、頬が熱くなった。
きっと、ひなげしみたいに、顔が赤くなっているだろう。

勇気を出してよかった。
これから、は、頑張ってみようかな。
先輩に好きになってもらいたいもの。


太陽の日がだんだん陽をだしてくる。
今日は暑くなりそうだ。

もうすぐ春が終わって、夏がはじまる。
曖昧な季節とはお別れ。射す光が暖かいから、そう自信をもって言えるよ。


花が散った桜の木に、夏を予感させるように緑の葉が揺れた。









山神さま、リクエストありがとうございました!
いかがだったでしょうか、こんな感じでよろしかったでしょうか?
お待たせしてしまいすみません!
いつもの調子で、とおっしゃってくださったので、書きたいままに書かせていただきました……!そのため長くなってしまいました、すみません^^;
少しでも楽しんでいただけたら幸いに思います!
それではリクエスト本当にありがとうございました!
また何かあればよろしくおねがいします!
それでは失礼しました!^^(2012.11.17)

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