慣れないヒールの高い靴を履いていると、まるでキャリアウーマンやモデルといった、地面を威風堂々と鳴らし颯爽と歩く大人の女性になったような錯覚を覚えるのだけれど、それが驕った考えだということにすぐに気付かされてしまう。卸したてである薄黄色のパンプスは、凛々しい音を立てるどころか酷くたどたどしく弱弱しい。まるで、内向的で優柔不断な私の性格を比喩しているようだったけれど、普段踵の低いローファーや動きやすさを重視したスニーカーばかりを身につけているのだから、足元が覚束ないのは至極当然のことでもある。それでも今日は、背伸びしてでもおめかしする必要があった。
会場には豪勢な食事、祝福に寄せられた花束、畏まったスーツに身を包んだ物腰柔らかな紳士と天井に飾られた荘厳なシャンデリアに負けずとも劣らない煌びやかなドレスを纏った淑女が溢れかえっている。大人たちが皆、どこか高揚感に包まれているのは、配られているシャンパンに加え、会場全体を包み込む優雅な雰囲気と、これから祝福されるであろう栄光に対する賛辞に酔いしれているからであった。



「え、授賞式?」
数学者の父がその世界で名誉ある賞を受賞したのは先週の話であり、私がそれを聞かされたのは朝食の時間だった。少し焦げ目のついた白のトーストの上にたっぷりかけられたチョコレートシロップ。更にその上に無造作に並べられた赤の苺と黄色のバナナのコラボレーション。お気に入りのメニューを頬張る私に、父と母は嬉しそうに報告をした。
普段は大学で教授をしている父だが、長く取り掛かっていた、やたら小難しい単語の並んだ長々しい題名の論文がこの度認められたらしい。試しに読ませてもらったのだが、子供の私には何を書いてあるか、欠片だって理解できなかった。(一応漢字はそれなりに得意だと思っていたのだけれど、理系の父にも語彙力は敵わないらしい)
「来週、授賞式があるから、夢子も出席するんだぞ」
「え、私も?」
「めでたい話だからな、家族で参加するんだ」
「余所行きのお洋服、買わないとね」
年甲斐もなくはしゃぐ両親に視線を送りながら、私は自分専用の猫の顔が描かれたマグカップに口をつけた。
「(授賞式かあ……)」
父の栄光はもちろん嬉しかったが、内心私が考えていたのは、別のことだった。
「(あの子も来るのかな……)」
マグカップの中の牛乳を覗く。白濁がなみなみと注がれており、マグの底は少しだって見えやしない。ガムシロを混ぜたそれは甘く、まるで私の記憶の中みたいだ、と思った。
思い出の中の少年の顔を見ることはできない。



「あら、夢山さん。この度はおめでとうございます」
父は入れ代わり立ち代わり話しかけられており、母はその横で良妻と感じさせるような笑みを終始浮かべていた。絵に描いたような幸福な世界。けれどもたった十二歳の私にとっては、幾らおめでたい席だと言っても、退屈なものに変わりはなかった。所詮ここは、大人の世界でしかなかったのだ。
いつもより数センチだけ高い世界は、特別目を見張るような変化があるようには思えない。ヒールの高い靴を履いただけで、ちっぽけな小学生女児の世界が劇的に変化することはあるはずもなく、大人の世界を堪能することなど到底できなかった。いくら華やかに着飾って背伸びしても、身の丈に合わない格好というのは滑稽だ。普段から着慣れないものはどこか浮いてしまう。
子供にはわからない話で盛り上がる大人たちを尻目に、視線を足元に落とした。ここでは、私は浮いている。

「(早く帰りたいなあ)」

正直、数学の話は難しくて分からない。大人たちの自慢と世辞の応酬にだって興味はない。子供には居場所がない世界だった。
大人たちの談笑をぼんやり聞きながら、パンプスを眺めた。

「(あの子は、来ていないのだろうか……)」

不意に思い出して辺りを見渡したが、お目当てである彼と同い年くらいの子供は見当たらない。(というか、子供自体見当たらなかった)あるのは豪勢な食事と祝福の花束、紳士淑女とそれを取り巻く壮麗な雰囲気だけであり、無情な現実に打ちひしがれた私は小さく溜息を吐いた。

もう一度会いたいのに。それは叶わないのだろうか。

再び、薄らと断片的な記憶が蘇る。
それは、もうずっと昔の、愛おしい思い出。
甘い味がする、私の初恋。
顔も朧気な、初恋の少年。



少年に会ったのは、丁度今日のような、父の仕事関連のパーティーにお呼ばれした日のことだった。まだ幼稚園くらいの時だったと思うが、それすらも定かではない。人の記憶というのは忘却を繰り返し、その度に都合のいい解釈を含んだ捏造で補修されるものである。例えば、幼い頃友達と行った自由研究で表彰されたことがあるのだけれど、最初に自由研究のテーマを提案したのは私だった。けれども友達は「自分だった」と言う。私はその時の会話の流れをしっかりと覚えているので、絶対に私だったという自信があるのだが、それは友達も同じらしい。きっと、どちらかが色んな記憶を混ぜこぜにし、その時の記憶すら小さく改ざんしてしまったのだろう。もしくは、両方かもしれないのだけど。
とにかく、(恐らく)幼稚園児であった私にとって、大人たちの世界は酷くつまらないものだった。楽しそうに笑って何か話しているのだけれど、内容は少しも理解できないし興味も持てなかった。ご飯を食べて談笑するだけ、というのは、目まぐるしい時を生きる子供にとって、魅力的なものとは到底思えなかった。子供の時に比べて、大人になると時間が短く感じるという現象があるらしいが(生憎私はまだ十二歳なので、そういった現象に苛まれたことはない)それは子供にとって世界は目新しく、色んな情報を吸収しているからで、その分時間を長く感じるらしい。知らない道を歩く時、行きよりも帰りの方が短く感じることがあるが、それと同じなのだろうか、とこの話を聞いた時ぼんやり思った。真偽のほどは確かではないのだけど。
まだ、たった五、六歳の子供にとって、パーティーは永遠に終わらないのではないか、と思うほど長く感じた。パーティーを楽しむ両親を、壁際に寄り掛かってそっと見つめていた。今日のように、お気に入りの赤い靴を、退屈そうに眺めるばかりだった。
少年に声をかけられたのは、そんな時だったと思う。何しろ記憶とは忘却に捏造を混ぜ込んだ頼りないものであるから、この甘い思い出が全て正しいかと言われれば、自信あり気に頷くことはまずできない。少年の顔も、声も、身なりだってなに一つだって思い出せないのだから。
思い出せるのは、目の前に差し出された手。「踊る?」と尋ねられたこと。私が、その手を取ったこと。会場にかかっていた音楽に合わせて二人で踊ったワルツ。退屈に憂鬱だった私を、一瞬で高揚させた。酔いしれた、甘いひと時。
そして、間違いなく、私は少年に恋をしていた。私の記憶はたったこれだけであった。
何しろ幼稚園児の記憶力なので、その時のことを詳細に覚えていることは難しい。日記でもつけていればよかったのだけれど、私にはそんな習慣もなかったし、あの時はこんなに楽しい思い出をすっかり忘れてしまうなんて、思いもしなかった。今となっては、この時の思い出は、シャッターを切るかのように、一瞬一瞬を切り取った形でしか、思い出せない。
そんな朧気な記憶でありながらも、きっと私は、まだ少年のことが好きなのだと思う。たった一度しか会ったことのない少年を。顔も思い出せない、少年のことを。何を寝ぼけたことを言っているかと呆れられてしまうかもしれないが。
所詮は初恋。それもたった一夜の。初恋は実らないと、誰かも言っていた。このような思い出に縋ったところで意味はない。
けれども、私にとっては夢のような出来事だったことは間違いない。こんな煌びやかな、非日常と言うべき場所で出会った少年との思い出。まるで、絵本の中のお姫様にでもなったような気分だった。誑かされない、という方が無理な話である。五、六歳の私は、正真正銘の夢見る少女だった。私はまだ夢を見ているのだろう。
もしかしたら、現実の少年はそんなにかっこよくないかもしれない。忘却の穴を埋めるように都合のいい捏造が、少年や思い出を実際より美化していることも考えられる。今会ったら、幻滅するかもしれない。全てを思い出したら、そんないい思い出じゃなかったと思ってしまうかもしれない。
それでも、やはりあの時のことを思い出そうとすると、胸が高鳴ってしまうのは、まだ少年に想いがあるからだ。思わず、会場を見渡して、姿かたちも分からない人を捜してしまうのも、きっと。
せめて、もう一度だけ会いたい。そう願った。そうでないと、この想いにも区切りをつけられない気がした。素敵な思い出、の一つとして自分の中にそっと留めておける程度のものならばよかったのだけれど。どうしても私は、クラスメイトの男の子を見ても、記憶の中の少年といつも比べてしまう。退屈から私を救ってくれた少年。私を引っ張ってくれた手は、どこか、大人びて見えた。少年だって、子供には違いなかったはずなのに。
あやふやな記憶と、あやふやな気持ち。いつか、この二つに、なんらかの形で終わりが来ればいいと思っていた。どんな形であれ。



「やあ、夢山さん。おめでとうございます」

また男の人が父に声をかけてきた。父は「ああ、降矢さん。この度はおめでとうございます」と頭を下げた。父の他にも受賞者がいると聞いていたけれど、父のこの言葉から察するに、きっとこの人がもう一人の受賞者なのだろう。降矢と呼ばれた男性は、かっちりとしたスーツを着こなしているはずでありながらどこか気楽さを感じさせ「まあまあそんな畏まらなくても」と朗らかに笑った。

「そちらの子は、娘さん?」

母の後ろにちょこんと立つ私に視線を送った降矢さんが、穏やかな笑みを見せる。他の大人たちは、私にまで話を振ってこなかったので、内心驚いて心臓が飛び出るんじゃないかと思った。なんとか絞り出すような声で「えと、夢山夢子、です」と短い、小指の第一関節よりも短い自己紹介をした。

「何年生?」
「ろ、六年生」
「おや、じゃあ僕の息子と同い年ですねえ」

降矢さんの言葉に反応したのは父だった。「そうだったんですか、息子さんは今日は?」と尋ねると、「来てるんですが、どうにもジッとしていられない性分でしてね。一通り食事した後、どこかに駈け出してしまいました」と降矢さんは言った。困ったという口調であったにも関わらず、表情は割と愉快そうだった。

「そうそう、覚えてる?夢子、降矢さんのお子さんとお友達なのよ」
「は」

思い出したように、母が私に笑いかけた。
会ったこともない人間を「お友達」呼ばわりされて、訳も分からず、訝しげに母を見つめた。母は時々、突拍子もないことを言う。いわゆる天然という部類に属する人間の母は、しばしば斜め方向の思考で私を困らせた。また母の悪い癖が元の事実を独自の解釈で捻じ曲げて、さらにそれを語弊のある物言いで伝えてきたのかと思い、話半分で耳を傾けたのだけど、すぐに私は驚きに耳を疑うことになる。

「ほら、前もパーティーに来たことがあったでしょう?幼稚園くらいの時に。あの時に、あなた降矢さんの息子さんと遊んでたじゃない、覚えてない?」
「えっ」

一瞬頭の回転が鈍くなった気がした。気付いたら、間抜けな声が口から洩れていた。
前に来たパーティーとは、十中八九、あの時のパーティーのことだ。何故なら私がパーティーに赴いたのは、今日を除きその一回しかなかったのだ。(忘れているだけかもしれない、という可能性はこの際考えないようにした) ならば、その時遊んでいた、息子さんというのは、恐らく……。手に汗が滲んだ。

「父さん」

高いような低いような、いや、子供にしては低いのだろうけど、この会場の年齢層を考えれば充分に高い声が、誰かを呼んだ。振り向いたのは降矢さんだった。ということはつまり、声の主は降矢さんの息子さん、ということになる。
私はゆっくりと、視線を送った。

つまりそれは、私の初恋の人だということ、だ。

心臓が、大きく脈打ったのが分かった。

「ああ、竜持くんですか」

紹介します。と言って、降矢さんが私たちに向き直る。降矢さんの隣に立った少年の肩をに手を置いて「息子の竜持です」とはにかんだ。
竜持、と紹介された少年は「どうも」と私よりも短い自己紹介をした。口元には薄い笑みを浮かべている。
切れ長で吊り上った赤い目、美しい曲線を描くような笑みを浮かべた口元、線の細そうな艶やかな髪。凛としたその面持ちからは、同い年、ましてや男の子とは思えない美しさや気品すら感じさせ、思わず見惚れてしまった。
これが、私の初恋の人。
そう思うと、頬が熱くなる感覚がした。心臓が速くなる。相変わらず、記憶の中の少年の顔には靄がかかっていたけれど、すぐにこの「竜持くん」の顔に取って代わった。なるほど、記憶というものはこうやって改ざんされていくのだろうか。けれども、彼が初恋の人だということには変わりないのだから、これは捏造ではなく訂正である。

「竜持くん、前にこの子と遊んだって、覚えてます?」
「さあ、記憶にありませんねえ。誰かと間違えているんじゃないでしょうか」

実の親子で敬語を使う彼らを少し不思議に思ったけれど、今はそのようなことを気にしている場合ではなかった。
初恋の人は、冷たく私を一瞥する。まるで興味がないと言うような淡泊さを含んでいて、ショックで言葉は出ないし、冷ややかなその視線に、少しばかり怯えてしまった。
あんなに会いたかった人に、あっさりと否定されてただでさえ鈍器で殴られたように痛く悲しいのに、そのような視線を向けられては、私の心は煮込みすぎてドロドロになった肉じゃがのジャガイモのように溶けて、突けば簡単に割れてしまいそうである。思い出の中の少年は、もっと優しかった気がするのだけれど、やはりそれも捏造が美化した記憶にすぎなかったのだろうか。
突き放された視線と物言いに、胸が締め付けられる感覚に陥った。ショックと悲しみと、少しの恐怖で、目が熱くなる。

その時だった。

「竜持、お前なにくつろいでんだよ」
「鬼はお前だろ」
「ああ、すみません。ちょっと疲れたものですから」
「え」

私の前に現れたのは、竜持くんと瓜二つ、いや、瓜三つと言うべきなのだろうか、全く同じ顔をした少年が一人、二人。竜持くんをコピーしたかのような少年二人だったのだ。
彼らを見分ける術と言えば、髪形と、お揃いのスーツにつけている色違いの蝶ネクタイだけだった。
私は混乱する頭で、三人を交互に見比べる。それを不審に思ったのか、前髪をあげている子は私を怖いくらいに睨むし、センター分けの子は「こいつ誰?」と初対面の人間を「こいつ」呼ばわりして、竜持くんに問いかけた。

「さあ。虎太くんか凰壮くんのお友達らしいですよ」
「はあ?」
「知らね」

同じ鋭い目に凝視され、思わず怯んだ。(無理もない、三人だから、目は全部で六個もあるのだ) 好意的なものなど少しだって感じられない。急いで母の後ろに隠れると、パンプスのヒールが頼りなさ気に鳴った。
恐る恐る顔を出して彼らを見ると、相変わらずこちらを冷たく眺めている視線と目が合う。
やはり、思い出とは美化されるものらしい。初恋の少年は、もっと優しく、甘い気持ちにさせてくれたのだから。
それがどの子であったかは、わからないのだけれど。

やっと初恋の少年に出会えたというのに、肝心の少年がどの子か、わからないなんて、酷く滑稽な話だ。



(2013.04.08)

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -