初恋は幼稚園の年長さんの時。齢六歳。相手は隣の家に住む同じ歳の男の子だった。いとも簡単なところで手を打ってしまった私のたった一度しかない大事な大事な初恋は、高校生になった今なお現在進行形である。十年以上ただ一人の人を想い続けているなんて、私はなんて健気で愛情深い、もとい、強靭な忍耐力の持ち主であることか。諦めが悪いとも言えるし、現実が見えないとも言う。十年以上、世間一般でいうところの幼馴染である私たちの関係が一向に進展しないのは、相手にその気が無いからだ。それなのに私は、悲劇しか起こらないこの恋に、性懲りもなく時間を浪費している。まさに喜劇だ。
この初恋は永遠的に片想いという形でしか結末を迎えない。初恋は実らない、とは誰が言ったものか。余計なジンクス作りやがって。全くこちらにまで押し付けないでほしい。
第一相手はろくな男ではない。口は悪いしズボラだしサボり魔だしすぐ人を馬鹿にする。怒ると怖いし目つきも悪い。その癖正論しか言わないから性質が悪い。喧嘩をすると必ず言い負かされてしまう。一応イケメンで運動神経とかいいから、女子にもモテて告白とかしょっちゅうされている。私は毎度気が気じゃない。そんな私の気も知らないのか、あいつは私を女扱いしてくれない。そんなんだから彼氏の一人も作れねえんだよブスって言う。彼氏は一人で充分だよ、あんただけでいいのにこの馬鹿。あーあなんでこんなやつ好きなんだろう私意味わかんない。
「恋は盲目とはよく言ったものですね」
今まで黙って私の話を聞いていた幼馴染B・降矢竜持は、どこか馬鹿にしたような声で笑った。その音色に少し苛ついて、眉間に皺を寄せながら竜持の方を見ると、先ほどまでと変わらず机に向かってサラサラとペンを動かしている。きっとまた難しい数式でも解いているんだろう。こちらなんか見ない。なかなか失礼な奴だ。私はそんな竜持の背中を睨むように見ながら、竜持のベッドから起き上がった。
竜持の部屋は冷房がきいていて、今が夏とは感じさせないくらい、涼しい。私の部屋には扇風機しかなく、真夏の熱帯的な空気の前には、涼しい風を送るはずの扇風機が温風機と化してしまっている。扇風機仕事しろ。猛暑日となった今日、ついに暑さに耐えきれなくなった私は、部屋に籠って勉強に勤しんでいるだろう幼馴染Bの下に避難してきたわけだ。
竜持は「勉強の邪魔をしなければ」と、自室に招き入れてくれたのだが、こいつの部屋にはマンガもなければゲームもない。娯楽と言う娯楽は一切ない。竜持らしいと言えば竜持らしい。ゴロゴロしているだけで最初は満足だったが次第に飽きてきてしまって、私の恋の相談(というか愚痴)を勝手に喋り始めたのだ。竜持は馬鹿にしつつもなんだかんだ的確なアドバイスをくれる。私の良き相談相手である。(かといって応援しているわけでは決してない)
「人と話すときは相手の目を見てって学校で教わらなかったの?」
「勉強の邪魔をしなければ、という約束です」
嫌なら帰ってもらって結構ですよ。という竜持の言葉にぐぬぬ、となった。
「相変わらず、夢子さんは傲慢ですねえ」
「そ、そこまで言わなくても……」
「違いますよ、さっきの……凰壮くんとのことです」
ギク、と聞きなれているはずの、憎らしくも愛おしい名前が登場して、体が緊張した。
竜持は軽快に動かしていたペンを置き、クルリと椅子を回して私に向き直った。竜持は真っ直ぐ私を見る。凰壮と同じ鋭い目が射抜くように私を見る。全てを見透かされているような視線に、どこか居心地が悪くなって、自然と私の目は泳いでしまう。
「君たちの仲が進展しないのは、凰壮くんにその気がないとかの問題ではなく、夢子さんが何もアクションを起こさないからでしょう」
確信をついた竜持の言葉に、目を泳がすだけでは物足りず、たじろいでしまった。返す言葉などない。
惚れた腫れた好きだなんて口では言っているが、確かに私は凰壮にアプローチ的なものをしたことは、一度だってない。昔から友達付き合いしているのだ。今更男と女の関係を迫ってみるのは気恥ずかしいし、なにより気まずい。
更に竜持は続ける。
「自分の努力不足を棚に上げてジンクスのせいにしたり相手を罵るのに勤しんだり、大した御身分ですね」
「……はい」
「いつまでも子供のような喧嘩なんてしてないで、デートの一つでも誘ってみたらどうですか?」
「……」
そんなことしたところで、凰壮が私の誘いに乗ることなど、万に一つもない。そりゃあ「デート」という単語を使わなければ付き合ってくれるだろうが、それではアプローチと言えない。私たちの関係は相も変わらず平行線のままだろう。
かと言って「デート」という単語を使えば、きっと凰壮は誘いを断る。それも口の悪い凰壮のことだ。罵詈雑言を投げつけるに決まっている。女じゃないやつとはデートできない、とか、ブスが彼女だと思われたら迷惑だ、とか、そんなん。普段から女扱いなんてしてくれない凰壮にとって、私は恋愛対象外なのだ。
そんなことになったらデリケートな私は立ち直れない。普段のくだらない口喧嘩でも心を痛めているというのに。
負け戦と分かっているのに戦いに行くほど、私は愚かでも勇敢でもないのだ。現状維持という名のぬるま湯に、いつまでも浸かっていたい。
黙り込んだ私が何を思っているのか察したのだろう。竜持は呆れたようにため息を吐いて、再び机に向き直った。私も先ほどと同じように竜持のベッドに横になって、見慣れた天井をぼおっと見つめた。真っ白い天井には、シミ一つない。竜持みたいだな、とぼんやり思った。
サラサラとノートを走るペンの音が聞こえる。止めどなく流れるその音は、心地よさを備えていて、眠気を誘った。しばらくの間耳を傾けている内に、視界はどんどん暗くなっていく。
「(ねむ……)」
薄れゆく意識の中で、「いくじなし」と言った竜持の声が、嫌に頭に響いた。気がした。
目を開くと辺りは薄暗かった。一瞬自分の状況が理解できなかったが、目の前のシミのない天井の存在が、竜持の部屋で寝落ちしてしまったことを思い出させる。辺りを見回すと竜持の存在はなく、電気も冷房も消えていた。冷房が消えていたとはいえ、部屋は未だ快適な温度を保っており、スイッチが切られてからそんなに時間は経っていないのだろう。
竜持はどこかに出かけていしまったのだろうか。起こされず、薄暗い部屋に置いてきぼりにされたことに少しの寂しさを覚えたが、寝る前にはなかったブランケットが私にかけられていたので、竜持の優しさなのだろうと思った。
起き上がって少しぼーっとした後、ブランケットを持って部屋を出て、階段を下りる。リビングから灯りとテレビの音が漏れていたので、竜持がいるのだろうと思って扉を開けた。
「あ」
「よう、寝坊助」
そこにいたのは竜持ではなく、愛しき私の想い人、クソバカ凰壮だった。
「いたの?」
「自分家だぞ。いて当たり前だろ。馬鹿か」
「いや、今日部活って言ってたもん、竜持が」
「てめえがいびきかいてる間に帰ってきたんだよ」
いびきなんてかいてないよ! と憤慨しつつ否定すると、「そりゃ本人は知らねえだろうよ、寝てんだからな」と凰壮は小馬鹿にしたように嘲笑った。
まじか……。好きな人にいびき聞かれるとかどんな拷問なの。っていうか部屋の外まで聞こえるいびきって! そりゃあ女扱いされないわけだ……。
顔面蒼白する私なんかは気にも留めずに、凰壮はつまんなそうにリモコンでチャンネルをカチカチ変えていた。
凰壮の首にはブランケットと同じ色をした、赤のタオルがかかっていて、よく見ると髪の毛も濡れている。お風呂に入ってきたのだろう。微かにシャンプーの匂いが香ってきて、女子かよ……と心の中で呟いた。私より女子力高いんじゃないのこいつ。
「竜持は?」
「俺と入れ違いで出てった。本屋行ってくるって」
「ふーん……じゃあこれ竜持に返しといて」
私は凰壮にブランケットを差し出した。凰壮は一瞬こちらを見たが、すぐにテレビに視線を戻すと「ん」と短く返事をして、左手を差し出してきた。
テレビに釘付けの凰壮にムッとして乱暴に渡すが、そんなことは気にも留めずテレビから視線を外さない。なんかそっけないな……。
ふと、デートに誘ってみたらどうですか、という竜持の言葉が頭をよぎった。
デートかあ。デート、したいけど。凰壮と。したいなあ……。
「……ねえ、凰壮」
誘ってみようかな。
「あ?」
「えっと……」
「……」
「……ううん。やっぱ、なんでもない」
ちっぽけな勇気を振り絞ってみたけれど、こちらには目も向けない凰壮に、勇気はみるみる無くなっていく。これで断られでもしたら……と考えたら、やっぱり現状維持に落ち着いてしまった。
「じゃあ私帰るから。竜持にお礼言っといてね」
「……ん」
お家芸である憎まれ口も叩かないなんて、どんだけ面白い番組見てるんだよ。と思ってテレビを見たが、なんてことはない、ニュース番組だった。こいつ、そんなに世界情勢に興味ある人間だったっけ?
どこかそっけなくなってしまった凰壮に「じゃあね」というと「おー」と生返事が返ってきた。
喧嘩をするのも悲しいけど、絡まれないのも寂しいな。そんなことを考えながら降矢家の玄関を出る。
「あれ、夢子さん起きたんですか?」
玄関の先にあるいかにも金持ちらしい大きい門をくぐると、ちょうど帰ってきた竜持と鉢合わせた。
「うん、今日はありがとう。また来るね」
「はい。あ、凰壮くんをデートには誘えました?」
「……」
ああ、ダメだったんですね、と竜持は眉を八の字に下げて笑った。困ったような表情だが、これは嘲笑である。
「べ、別に誘いたくなんかないし」
「はいはい」
「なんかそっけなかったし」
「ほう?」
「私なんかしたのかなあ……」
「さあ? まあ問題ないでしょう。凰壮くん、思ったことは口にしますから。夢子さんがなにかしたなら、ちゃんと文句言いますよ」
「それもそうだ」
じゃあなんでそっけなかったんだろう。部活で何かあったのかな。
「まあ、いいか。とりあえず。じゃあまたね、ブランケットありがとう」
「ブランケット?」
竜持が眉間に皺を寄せた。踵を返そうとした私の足が止まる。
「なんの話ですか?」
「え、竜持ブランケットかけてくれたでしょ?」
「いいえ」
「え、でも起きたらブランケットかかってたよ。赤いやつ」
「赤?」
それを聞くと竜持は一瞬驚いたけれど、すぐいつものように意地の悪い笑みを浮かべた。
「それ、凰壮くんじゃないですか?」
「え」
「赤いものは凰壮くんの持ち物ですよ」
「あ」
そういえば……。
「で、でも、『竜持にブランケット返しといて』って言ったけど凰壮なんにも言わなかったよ!」
「凰壮くん、わざわざ『自分がやった』って恩着せるタイプじゃないと思いますけど」
「……」
「口は悪いですけど、優しいですからね、凰壮くん」
「……知ってる」
「もしかしたら、そっけなかったのも、照れていたのかもしれないですねえ」
「…………」
「……明日、デートに誘ってみたらどうですか?」
「……がんばる」
頑張ってくださいね。そう言って竜持がニンマリ笑った。
うん、がんばる。
凰壮くんマジ空気。たぶん続く(2012.8.7)