僕と夢子さんの将来は、交わらないんです。
そう、竜持くんが言った。
その言葉を、否定することは到底できない。私だって、そう思うもの。結局私がこの東京旅行で痛感したことと言えば、東京は怖いってことだけだ。溢れかえるもので、なにもかもが見渡せない。目の届かない世界。知らない世界。知らないもので満ちた世界。それは、見晴らしのいい村で育った私にとっては、とても怖いことだった。行ったことない場所なんてない。知らない人なんていない。この目にすべてが映り、見知ったものだけに囲まれた村は、私の世界の全てであり、そのものだった。なんて小さい、ちっぽけな世界だけれど、それが私だった。
また、竜持くんが東京でやることがあるのと同じように、私にだってやることがある。将来、家の仕事を継がなければならない。強制されたわけではない。けれども、あの村から段々人が減っていることは、私だって知っている。みんな、都会へ出ていってしまっているのだ。このままではいつかあの村に住む人は、いなくなってしまう。あの大好きな村を、失うことは許されない。私はいつかお婿さんを貰って、一緒に畑を耕して、子供をたくさん産んで、あの村を失くさないようにしないといけないんだ。それは、竜持くんと出会うずっと前から、漠然とはしていたけれど、ずっと決めていたことだった。
私の育った、竜持くんたちと過ごした、愛しいあの地を、守らないといけないのだ。
だったら、私の取るべき道は一つしかない。竜持くんが、望んだ道だ。

それに、竜持くんを、私のちっぽけな世界に閉じ込めておくことは、できないもの。






「何してんだよ」

降矢家にお世話になってから四日目の朝。荷物を鞄に詰め込んでリビングに持って行くと、既に身支度を整えて食卓についていた凰壮くんが、眉間に皺を寄せた。私は「おはよう」と笑って、キッチンにいるおばさんにも挨拶をしてから、凰壮くんの横の席に腰を下ろす。訝しげに私を見つめる凰壮くんに「今日帰ろうと思うの」と至極明るいトーンで切り出した。

「は?なんだよ、帰るのは明日だったんじゃねえのか?」
「その予定だったんだけどね、やってなかった宿題あったの思い出したの!今から帰って急いでやんないと間に合わないし、だから、凰壮くんたちには悪いけど、今日帰ることにしたんだ」

ごめんね、とおどけたように笑う私に、凰壮くんの眉間の皺はますます増えていく。まるで、そんな話を聞きたいんじゃないんだ、とでも言うようだったけれど、凰壮くんは「そうか」と呟いてそれ以上追及してこなかった。
きっと凰壮くんは、私の拙い嘘など、見破っている。見破っているから、何も言って来ないんだ。嘘の先にある私の気持ちや、昨日の竜持くんの気持ちまで全部汲んで、黙っていてるんだ。ごめんね、凰壮くん。ありがと。



朝食を終え、凰壮くんが部活に向かうので、昨日と同様、玄関まで見送りした。

「凰壮くん」

靴ひもを結ぶ凰壮くんの丸まった背中に呼びかける。振り向かない凰壮くんの背中が「何?」とそっけなく返事をした。

「ありがとね、楽しかったよ」
「……俺なんにもしてないけど」
「そんなことないよ。凰壮くん、ホントありがと」
「……」

きっと凰壮くんもわかってる。おそらくこれが、私と凰壮くんの、最後のお別れなのだ。

「……じゃあな、夢子。元気でな」

靴ひもを結び終えた凰壮くんが立ち上がって、私に振り向いた。
うん、ばいばい。と返事をすると、凰壮くんは昔と変わらない動作で、乱暴に頭を撫でた。こうやって撫でてもらえるもの、これが最後と思うと、無性に胸が締め付けられた。
またな、と言わない凰壮くんが笑う。私も笑って、出かける凰壮くんの背中を見送った。
去っていく凰壮くんを見送るのも、これが最後、だ。



「おはようございます、夢子さん早いですね」

リビングに戻ってしばらく、竜持くんが起きてきた。どちらかというと、今日は竜持くんが寝坊である。
おはよう、と私が笑うと、竜持くんもニコリと笑ったが、瞬間、顔を強張らせた。竜持くんの視線をたどると、私の鞄があったので「ああ」と私は納得し相槌を打った。

「今日帰ろうと思うの、一日早いけど。お世話様でした」

私がニコリと笑うと、竜持くんは「今日?」と虚ろ気な目で尋ねたが、そのあとすぐぎこちない笑顔を見せて「そうですか、残念です」と言った。

「何時の新幹線に乗るんですか?」
「んー、決めてないけど昼過ぎには出ようと思う」
「そうですか、なら僕もついて行きますよ」

ありがと、と私がお礼を言って笑うと、竜持くんも笑った。





おばさんとおじさんにお礼を言って、降矢家をあとにした。最後、と思うとなんでもかんでも寂しい気持ちにさせられるみたいで、たった四日しか思い出のない降矢家の豪邸ですら、もう二度と訪れないと思うと名残惜しく感じた。降矢家をじっと目に焼き付けていると竜持くんが荷物を持ってくると言ったけれど、私が「いい」と言って断ると、そうですかと簡単に引きさがった。
じゃあ行きましょうと言って歩き出す竜持くんの後ろを、淡々とついて行った。

最寄駅から東京駅まで、私と竜持くんはそれはそれはとりとめのない話をした。それは好きな食べ物だとか、好きな教科だったりとか、好きな色とか、本当にどうでもいいことばかりだったけれど、私たちはそんなくだらない話で終始盛り上がった。どうしてこんな話を、今しなければならないのか。お互い、これが最後と、思いたくなかったからかもしれない。そういう空気を、作りたくなかったのかもしれない。あるいは何かを話していないと、不安だったのかもしれない。ただ、私と竜持くんの世界はまるで、今日で終わりだなんて微塵も感じさせるものではなかった。
電車がゆりかごみたいに揺れる。思わず微睡んでしまいそうな空間に、ずっとこうしていられたら、と考えるけど、到着までの停車駅は一つ一つ確実に減っていった。


「さあ、つきましたよ」

竜持くんの言葉で、現実に戻る。電車の中の電光掲示板を見ると、東京と表示された文字が目に入った。電車を降りる竜持くんを追いかけるように、私も電車を降りる。
微睡の時間は終わり。
さっきまで意識的に避けていたお別れの空気が、途端に私たちを取り巻いた。
何もしゃべらない竜持くんの背中をただただ見つめる。こうして後ろから竜持くんを眺めるのもこれが最後。昔より成長したといえど、髪の毛からちらちら覗く耳とか、真っ直ぐ伸びた背筋とか、幼い頃と変わらない竜持くんを見つける度に、懐かしい気持ちで溢れた。
二人の秘密の場所を見つけた時も、こうして竜持くんの背中を見ていたなあ。思えば、あの日から、竜持くんが、好きだったんだろうなあ、なんて、ぼんやり考えた。

改札を潜って、新幹線のホームに移動する。
一緒に改札を潜ってくれた竜持くんに「ホームまで来てくれるの?」と尋ねると「最後まで送りますよ」と笑った。

ホームに行くと新幹線はもう到着していたけれど中を掃除をしているらしく、まだ入れなかったので竜持くんと待合室の椅子に座った。
電光掲示板を見ると、出発は二十分後だった。

あと、二十分。
竜持くんとの、時間。
長いのか短いのか、私には皆目見当もつかないけれど、竜持くんが黙っているので、私も何も言わなかった。さっきまで、あんなくだらない話ばかりしていたのに、肝心なことになると何も言えなくなってしまうのは、竜持くんらしい。そして、臆病な私もまた、話しかけることなんてできなかった。
きっと次に出る言葉は、お別れの言葉でしかなかった。
まだ、お別れの言葉を言える勇気は、ちっぽけな私には備わっていなかった。

待合室には、夏休みを利用して旅行しに来たのだろう、家族連れや恋人、友達グループで溢れていた。皆待ち時間を潰そうと、止めどない会話が流れてきて、雑音の中に私と竜持くんは取り残されていしまった。

サッキノナンパシテキタオトコサーぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。オカーサンオナカスイターぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。ハヤクシンカンセンコナイカナーぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。

都会にきて、あれほどうるさく感じていた雑音が、どうにも気にならなった。
きっと、沈黙が怖かったのだ。



しばらくして、女性の声のアナウンスがホームに響き渡った。もうすぐ新幹線の中に入れるらしい。待合室の中が一気に騒がしさを増して、人が忙しなく出ていったけれど、私も竜持くんも相変わらず、黙ったままじっと座っていた。
待合室にいた人が新幹線に乗るための列に並び始めて、待合室には私と竜持くんの二人きりになった。

「……もう、並ばないと」
「……そうですねえ」

そうは言うものの、二人とも、なかなか重い腰が上がらない。
だって、ここを出たら、もう、お別れ。

もう、二度と、会わないんだ。

急に、それが現実味をひどく帯びて、虚ろに揺れる瞳が、熱くなった気がした。

「竜持くん」

ほとんど無意識に、竜持くんを呼ぶ。じっと前だけを見ていた竜持くんが、私の方に視線を向けた。私も竜持くんに視線を向ける。
竜持くんの綺麗な赤い瞳と目が合った。
もうこの目と見つめ合うこともないのかと思うと、目の前の竜持くんが薄くぼやけた。私はなんとか、口の端を上げるだけの引き攣った笑みを見せた。同じように、竜持くんも笑った。儚げに。まるで、悲しい、と、言っているような笑みだった。

愛しい竜持くん。そうやって笑う竜持くんに、私、好きにさせられたのよ。守ってあげたかったのよ。竜持くん、私、は。
でも、そんなこと私には烏滸がましかったのかも、なんて。

「竜持くん、私、欲しいものがあるのよ」

竜持くんは「なんですか?」と言って柔らかい表情を見せた。

ねえ竜持くん。この夏を最後にしようと思ったと言った竜持くんの言葉に、私従うから、だから、最後に私のお願い、聞いてね。
最後のお願いよ。

「私のこと、嫌いって、言って」

私の言葉を聞いて、薄い笑みを浮かべていた竜持が、その笑みを貼りつけたまま、しかし少し目を見開いて、僅かではあるが驚いた顔をした。

罵って、詰って、私のことなんて大嫌いだって言って。私が竜持くんにもう二度と会えなくても平気なように。
私に竜持くんのことを、嫌いにさせて。
私が、悲しくないように。

相変わらずホームは人ごみがうるさいのに、私と竜持くんの間には、沈黙しか存在しなかった。じっと黙って、竜持くんの言葉を待った。
竜持くん、私に早く、お別れを頂戴。

けれども竜持くんは、困ったように眉を下げて笑ってから言った。

「夢子さんに、嫌われるのは、嫌だなあ」
「はっ!」

思わず吐いた息が、自嘲したような声として大きく響いた。
ひどい、竜持くん、ひどい。
私は竜持くんから視線を逸らすと、わっと、両手で顔を押えて、俯いた。

ああ、竜持くんはやっぱりひどい人だ。
思わせぶりで、弄んで、自分勝手で、ずるい。曖昧な言葉で舞い上がらせて、私の気持ちを宙ぶらりんにする。そのくせ肝心なことは、なにも言ってくれない。
嫌われようと思ったって、遠ざけようと冷たくしたって、言ってたくせに。
それなのに、好きも嫌いも言ってくれないだなんて、なんてひどいの。
私は竜持くんから、なあんにももらえないの?

「夢子さん、泣かないでください」

顔を覆った私に、竜持くんが小さく呟いた。
泣いてなんかない、と言おうと思ったけれど、声なんて出したらそれこそ喚き散らしてしまいそうだったので、首を横に振るだけの返事をした。

そんな私の両手首を、竜持くんが取る。あっという間に覆ってた顔が暴かれて、泣くまいと表情筋を全力で引きしめているしわくちゃの私の顔が、竜持くんの前に晒されてしまった。
私の顔を見ると、竜持くんはきょとんとした顔を見せたが、すぐに小さく笑って「ああ、ほんとだ、泣いてませんね」と笑った。そうやって、儚げに笑う、私の大好きな笑顔をみせる竜持くんを目の前にすると、私はどうにもわからない気持ちにさせられて、耐えてたはずの私の涙はあっけなく瞼から零れ落ちた。

竜持くん、好き、私、竜持くんが好きなの、ずっと前からよ、好き、なの。

今すぐそう叫んで、抱き着いて、力いっぱい縋ってやりたい衝動に駆られたけど、竜持くんはそれを望まない。竜持くんは、それを受け入れない。私は、ギリギリのところで踏みとどまった。泣くのは耐えられなかったけど、せめてそこだけは、耐えなければと思った。

「ひぃっく」

嗚咽が漏れて、顔を伏せた。最後なのに、こんな格好のつかない顔なんて見せたくない。手首が未だ竜持くんに拘束されたままだから、顔を伏せるほかに、泣き顔を隠す方法がなかった。
すると、スルスルと、私の手首を掴んでいた竜持くんの手がのぼってきて、私の手を握った。弱弱しく握られた手を、小さく握り返すと、竜持くんは握っていた手を竜持くんの膝の上に置く。
竜持くんは指を私のそれと絡ませるようにしばらく遊んで「僕ね」と独り言のように呟いた。
私は何も言うことなく、竜持くんの行動も制止するわけでもなく、ただ竜持くんの言葉の続きを待った。竜持くんの言葉が、聞きたかった。

「僕ね、ずっと、窮屈だったんですよ」

竜持くんは、少しだけ笑った。自嘲、というよりも、照れ隠しのように見えた。

「大人の言う世界が、納得のいかないものばかりで、でもそれに従わなくちゃいけなくて、それがまるで自分を否定されてるみたいで」

この話は、聞いたことがある。
初めて、二人の秘密の場所に訪れた時だ。
あの時の竜持くんは、子供心にも、いっぱいいっぱいに見えた。
私は、あの時、竜持くんに笑ってほしいと思ったんだ。

「だから、嬉しかったんです。夢子さんが、つらくなったらいつでもおいでって、私はずっとここにいるからって、言ってくれたこと」

そう、竜持くんにしてはあどけなく明るい声が聞こえた。顔を上げると、それに気付いたのか、遊ばせていた指先に視線を落としていた竜持くんも顔を上げ、微笑んだ。

「あそこに行けば、夢子さんが待っていてくれるって思ったら、頑張れたんです。つらいと思ったら、夢子さんのことを思えば、幸せになれたんです」

そう言う竜持くんに、私は首を横に振った。
違う、私は、そんな大層な気持ちで言ったんじゃない。その場しのぎの、ただ竜持くんに笑ってほしかっただけで、竜持くんがどんなに悩んでたかなんて、その時全く知らなかった。今も昔も、私は竜持くんの悩みに気付けないのに、竜持くんにこんな風に思ってもらえるのは、罰当たりな気さえした。

「でもね」

竜持くんが続ける。私をまっすぐ見つめる竜持くんを、私もおずおずと見上げた。

「でもね、僕たちのことを認めてくれる大人に、出会えたんです。肯定してくれる大人に、出会えたんです。そうしたら、窮屈だったこの世界も、すこし生きやすくなりました」

竜持くんが嬉しそうに笑った。子供みたいに。
初めて見る顔だと思った。

それから竜持くんは少し黙って、顔を伏せた。
絡めた指が、ぎこちなく動いた。指先を撫でられて、くすぐったかった。

「だから、僕はここで、もう少し頑張ってみようと思います」

ピタリと、撫でていた竜持くんの指が止まって、絡んでいた手が解かれた。
なんとなくその動きを見守っていると、竜持くんはポケットからハンカチを取り出して「はい」と私に差し出した。
私は小さく「ありがとう」と言って涙を拭く。
竜持くんは立ち上がって「さあ、新幹線出発しちゃいますよ」と言った。



「さよなら」

新幹線に乗り込もうとした私に、竜持くんが言った。
振り向くと、儚げに笑う竜持くんがいた。

たまらない。

もしもここで、私が竜持くんに手を伸ばしたら、竜持くんはその手を取ってくれるかしら?

先ほど指を絡ませたみたいに。体調崩して蹲った私に駆け寄ってくれた時にみたいに。秘密の場所からの帰り道、手を繋いで帰った時みたいに。
初めて会った時、逃げるように帰ろうとした私を引き留めた手は、今も、私を引き留めてくれるだろうか。

そんな浅はかなことを考えを振り払うように、首を振った。
私はずっとここにいるから、と言った私の言葉が嬉しかったと、竜持くんは言ってくれた。
だったら、私は、やはりあそこにいるべきなのだろう。
私の居場所はここじゃない。竜持くんのいる都会じゃなくて、竜持くんを待つ、あの村なんだ。あの、眩いばかりの夏休みを過ごした、あの愛しい、私の大好きな村。
私はあそこで、ずっと竜持くんを、待つべきなんだ。

「さよなら」

私は下手くそに笑ってそう言い、新幹線に乗り込んだ。
発車ベルが鳴って、扉が閉まる。

途端、扉越しの竜持くんが、悲しそうに顔を歪めるから、私はすごく悲しくなった。

新幹線が走り出す。
竜持くんがどんどん見えなくなっていって、私は堰を切ったように泣き出した。




車窓から見える景色が、次第に見知った景色に巻き戻っていく。
それは同時に、あの、自由で無敵な、くすむことのない、宝物のような夏休みにも。

もう今年の夏も終わる。
けれども、来年の夏休みを待ち遠しく思うことは、もうなかった。

さよなら、竜持くん。さよなら、大好きな夏休み。
さようなら。





さあ、今日は何をしましょうか。
小さい頃の竜持くんが、あどけなく笑った。












お付き合いいただき、ありがとうございました!(2012.10.21)

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