何も見えなかった。
盲目になったわけではない。暗闇にいるわけでもない。
私の目は正常で瞳に反射した世界はきちんと認識できるし、辺りは人工の光で溢れている。
それでも何も見えなかった。

無造作に行き交う人の群が視界いっぱいに溢れかえって、それより遠くが見えなかったのだ。

「(こんなにたくさんの人、初めて見た……)」

初めて降り立つ東京駅の改札で、私は初めて見る景色に動揺していた。



竜持くんから電話をもらったのが三日前。実に急な話だったと思うが、夏休みも残り一週間弱しかないということで、迷う間もなく、私はこうしてここまでやってきてしまった。
正直、村の外に一人きりで出てくるのは不安しかなかった。
東京は人が多くてうるさくて怖いって印象があったし、随分昔に竜持くんも「都会は窮屈」みたいなことを言っていた気がする。そんな中に田舎で育った世間知らず兼都会知らずの小娘が一人で飛び込むのは普通に怖かった。
加えて、一人で遠出するなんて初めての経験である私は電車すら満足に乗れず、何度か乗り換えも失敗したし、新幹線では自由席と間違えて指定席に座っているところを注意されてしまうというアクシデントに見舞われ、その後は自由席で終始縮こまっておどおどしていた。
そんな田舎娘が未知なる世界への遭遇を余儀なくされることは間違いなく、着替えを詰めた小旅行サイズの鞄と一緒に抱えた不安に、胸をもやつかせていた。

そしてその不安は駅に降りたったことで確信的なものとなる。

見たことのないほど多くの人波に目が回った。おまけに、田舎ではお目にかかれない近代的な駅構内は、人が多すぎて見渡すことができない。確かにそこにあるのに目に映らないだなんて、不思議な話だ。
さすがコンクリートジャングル東京……。なんとも奇怪な。
人だかりで、見えるはずの景色が見えないのは、不思議と思うと同時に、どうしようもなく不安だった。

初めて見る光景に目を奪われ改札を出たところで立ちすくんでいると、後ろから改札を潜ってきた人が私の間をうまい具合に擦り抜けて足早に通り過ぎる。数人と肩がぶつかって「すみません」と言うが、そんな私に気付かないのか、皆気にも留めず過ぎ去ってしまって、私が謝り終わる頃にはその姿は随分小さくなってしまっていた。後ろを見ると私の他に新幹線から降りてきた人たちだろうか、止めどない列が改札を延々と潜っており、そこで初めて「あ、私ここにいたら邪魔だ」と気が付いた。
急いで隅っこに移動しようとするが、前に進む人の流れに対し垂直に歩き出してしまって、流れをぶった切る形になってしまい、より邪魔な人になってしまった。
数人に迷惑そうに眉を顰められ、すみませんと会釈しながら移動する。人ごみに流されながらもやっとの思いで壁際に辿りついた時には、どっと疲れてしまっていた。たった数メートルしか歩いていないのと言うのに。私は身を縮こまらせながら、壁に寄り掛かる。

「(山登るより疲れた……)」

隅っこで肩身の狭い思いをしながら待ち人を待つ。
今日から四泊五日、この地でちゃんと生活できるのかなどと考えると、自然と溜息が零れた。



「夢子さん」

ビクリ、と肩が震えた。
雑踏の中から私の名を呼んだ声は、先日受話器から聞こえてきた声と、同じだった。

ゆっくりと声のした方に振り向くと、いた。
待っていた人が。ずっと、四年間、待っていた人が。

「竜持くん……」
「すみません、探すのに手間取ってしまって。待ちました?」

そう言って、記憶の中より四歳も歳を取った、十五歳の竜持くんが、柔らかく微笑んだ。


「(ああ、そうだ。竜持くんって、こんな顔、してた)」


忘れかけてた竜持くんの顔が目の前にあって、まじまじと確認した。
もちろん、四年前とは微妙に顔つきが変わっていた。目は以前より切れ長になって大人っぽくなったし、襟足が少し伸びて眼鏡もかけている。背も随分伸びていて、それから、以前より雰囲気が明るくなった気がした。薄れた記憶の中の竜持くんと、全く同じというわけではない。けれどもあの綺麗な笑い方は変わっていなくて、微笑む竜持くんがあの頃の竜持くんをダブらせて忘れかけてた小学生の竜持くんを思い出させてくれた。


「荷物、これだけですか?」

竜持くんが私の抱えていた鞄を持つ。
ああそんなことしなくていいのに、と言うと「持たせてくださいよ」って言って、またも綺麗に笑うから、私はなんにも言えなくなってしまった。
この笑顔に、私は昔から滅法弱い。
「さあ行きましょうか」と言った竜持くんが私を人ごみから庇うように隣を歩いてくれて、相変わらず私を女の子扱いしてくれるんだな、と思った。

成長してしまった外見の中に、昔と変わらないところを見つける度に、先ほどまで私の中で渦巻いていた不安が少しだけ、解消されていく気がした。

さすが奇怪なコンクリートジャングル東京に住む人だ。
竜持くんは、不思議な人だな、と思った。



駅の構内を少し歩き階段を下ると、別のホームに辿りついた。そこにも電車を待つ人で溢れかえっていて「乗り換え?」と尋ねると「ええ、ここから三十分くらいですね」と竜持くんは答えた。
電車で三十分って、都会はやっぱり広いんだなとぼんやり考えて、竜持くんに言われるがままに電車を乗り継いでこれから四泊五日お世話になる降矢家に向かった。



電車に二十分ほど揺られ、一度乗り換えをし降りた駅を十分くらい歩くと、「降矢」という表札がかけられたお城みたいな豪邸に招かれた。お隣さん家と比べると、三倍くらい大きい。
大きい家だね、と言うと「夢子さん家も広いじゃないですか」と言ったが、土地の有り余った田舎の大きい家と都会に立てられた豪邸とでは、意味合いが違う。

「竜持くんのお父さんって、何してる人なの?」

こんな大きな家を建てられるのだから、会社の社長とかなのかもしれない。
好奇心から何気なく尋ねると「数学者です」と竜持くんは予想外の回答をした。

「数学者……?ってお仕事なの?」
「ええ、まあ。一応世界的な賞とか取っていて、有名みたいですよ」
「へえー……すごいねえ」

すごい、と言ってはみたものの、いまいち想像がつかない。私の村には畑で働く人や公務員といった人しかいないので、職業数学者、と言われてもピンとこなかったのだ。
とにかくやはりこれも東京という名の都会が成す現象なのか。
都会は本当に、私の知らないもので溢れている。


大きな門を潜って玄関に辿りつく。竜持くんはポケットから鍵を取り出してドアを開けるので「お家の人、いないの?」と尋ねると「夜には帰ってきますよ」と言った。

「おじゃましまーす」

人のいない家に挨拶をすると静寂が返事をして、「かしこまらなくていいですよ」と竜持くんが笑った。
リビングに通されて促されるようにソファーに座ると、竜持くんが「疲れました?」と尋ねてきた。

「うん、少し」
「それなら今日は家でゆっくりしてください」

そういって竜持くんは私を客間に案内してくれた。トイレの位置など、一通り説明してくれた後に「僕はリビングにいますね」と言って、部屋を後にした。
私は荷物を置いて、とりあえず中身の整理をしようと、鞄を開けた。


「(聞く、べきなのだろうか)」

荷物を広げながら、自問自答する。


四年間、聞きたくても聞けなかった、あの、キスについてだ。


聞くべきかどうかの結論は、四年経った今でも、未だ出ていない。
正直、竜持くんの気持ちを聞いてしまうのは、やっぱり怖いという気持ちが大きい。知ってしまったら、それが良くても悪くても、私たちの関係が変わってしまうのは必至だからだ。それは想像もつかない未知なる未来であり、私にとっては不安なことでしかない。
かと言って、ここで聞けなければ、私は一生この問いに悩まされることになる。
それはそれで怖い。


「(ゆっくり考えよう、まだ五日もあるんだし)」


四年かけて結論がでなかった問題を、たった五日でどうにかできるかは甚だ疑問だが、怖がりな私は先延ばしをすることを選んだ。














(2012.10.02)
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