その年の夏休みは、いつもと違っていた。





「やあ、夢子さん。三百四十四日ぶりですね」
「え、竜持くん?何してんの……?」



夏休みも残り三週間となった日のことだった。
七月中ずっと外で遊びつくしていた私はその尻拭いとして、家にこもってタナカさんちのミチコちゃんと向かい合い一緒にせっせと宿題を片していた。
三つ子のやってくる一週間後までに、すべて終わらせておこうと思っていたからだ。

ところが、だ。


その三つ子の一人、竜持くんは今、私の家の庭にいる。


庭が見える縁側に机を広げて算数のドリル「夏休みの友」という名の夏休みの敵と睨めっこしていた私は、今度は突然現れた竜持くんに眉を顰めることになった。
竜持くん曰く、三百四十四日ぶりである竜持くんは、体つきが大きくなっていて去年よりもいくらか大人びて見えた。

一瞬、私が一週間彼らの来る日にちを間違えたかと思いカレンダーを見たが、「三つ子」と赤いペンで書きこまれている日にちまでやはりあと一週間ある。
それに虎太くんや凰壮くんの姿も見えず、ここにいるのは竜持くんだけだ。

何故竜持くんは一週間も早く、しかも一人で、私の家の庭にいるのだろうか?

頭に疑問符を浮かべる私とは違い、竜持くんは楽しそうにクスクスと笑いながら「随分な態度ですねえ」と言う。

「一人で来たんですよ、鈍行列車を乗り継いで。ここは遠いですね、疲れました」
「…なんで?」
「……聞きたいですか?」

竜持くんがニコっと、普段の意地悪い顔からは想像できないくらい柔らかく笑う。

同時に、心臓がきゅっとなって、私は慌てて目を逸らした。



ああ、またやって来た。
あの木の上にいる、竜持くんじゃない竜持くんが。



「い、いい……」
「そうですか、残念ですねえ」

竜持くんは眉を下げて、さほど残念そうではない声でフンと笑うように言った。
あ、今度はいつもの竜持くんだ。


竜持くんのことは、相変わらずよくわからない。
さっきみたいに優しそうに笑うこともあれば、いつも通り人を馬鹿にしたように笑ったりもする。散々毒舌を吐いた後に女の子扱いしてくれたりするし、約束の日がありながらこうして一週間も早く突然一人でやってきたりもするのだ。
元々何を考えているかわからない人だったけれど、それに拍車をかけたのは去年、二人きりで遊ぶようになってからだった。

二人で、秘密の場所に登って村を見下ろした日、からだ。

どうしてそうなったのかは、約一年経った今でもわからない。
ただ、あの時の竜持くんはどこか寂しそうで、儚そうで、何か思いつめているように見えた。
あの日の竜持くんが何を思っていたのかは、やはりわからない。
私にとって竜持くんは、わからないことだらけなんだ。

しかしながら、何より一番わからないのは、竜持くんに対しざわつく自分の心臓だった。

二人きりで遊んで距離は縮まったはずなのにどうしてか竜持くんといると緊張してしまう私は、やっぱり竜持くんが苦手かもしれない。
竜持くんに見つめられると、変な汗ばっかりかいてしまうのだ。


「(保留にしてたのに……)」

いつの間にか一年経ってしまった。
依然、この気持ちを知ることに抵抗があるというのに。





「なあ、夢子ちゃん。この人、もしかして都会の王子様?」

今まで戸惑ったように私と竜持くんの会話を聞いていたタナカさんちのミチコちゃんもといミっちゃんが、目を輝かせたように尋ねてきた。
「王子?」と聞き返し眉を吊り上げて怪訝そうな顔を見せた竜持くんを無視し、私は「そうだよ」と返答する。
私の言葉を聞くと、ミっちゃんは興奮した声をあげた。

「初めて見たあ!かっこええのう!」
「…………どうも、降矢竜持です」

きゃあきゃあとはしゃぐミっちゃんに、少しの沈黙を挟んだ後、ニコリと笑顔で竜持くんは対応する。

ふと、いつものような毒舌を吐かない竜持くんに、違和感を覚えた。
いつもならここで「うるさいですねえ」とかなんとかあの達者な口で攻撃して、こちらの口を塞いでるだろうに。ましてや微笑むだなんて。
初対面だから遠慮しているのかな?とも思ったが、私と初めて会った時「泥棒」呼ばわりしたのは紛れもない竜持くんだったことを思いだして、それは違うなと考えを改めた。
では何故?と再度脳内で自問し、新たな答えを導き出す。
もしかして、かっこいいって言われたのが嬉しかったのかもしれない、と。
竜持くんも年頃の男の子だ。褒められたところで悪い気はしないだろう。
かっこいい、と評したミっちゃんに好感でも湧いたのかもしれない。

「(竜持くんて、意外と単純なのかも……)」

竜持くんのことよくわからない、と思っていたのは私の深読みのせいで、意外と単純な人なのかもしれない、と思った。



「夢子さん、宿題ですか?」

竜持くんをじっとり探るように眺めていたら、くるっといきなり私の方に向き直った竜持くんに尋ねられた。

「うん、算数。昨日からやってるんだけど終わらないんだあ」
「……へえ、こんな簡単なのにですか?」

縁側に上がってきた竜持くんは机に広げていた私の算数ドリル「夏休みの友」をパラパラとめくってそう毒づいた後、きょとんとした顔で「もしかして夢子さんって、頭悪いんですか?」と聞いてきた。

ミっちゃんには笑顔で対応するくせに、なんで私にはこんな嫌味なんだ。
目に見えた差別的な態度に不服を唱えるようにムッとした顔をしていると「何面白い顔してるんですか?」と言ってクスクス笑ってきた。

どうせ笑われるような顔ですよ!

「うるさいなあ!ドリル返して!」
「おや、酷いですねえ。折角教えてあげようと思ったんですけど」
「え」

「僕、算数得意ですよ?」と竜持くんはドリルをパタパタと振って煽るように尋ねてくる。
竜持くんに教えてもらえれば百人力かもしれないし、苦手な算数が今日中に片付くかもしれにない。
しかしながら、ニタニタと「どうしますか?」と笑う竜持くんに頭を下げるのは、なんとなく癪だと思った。

「い、いいよ、宿題くらい自分でできる!」
「へえ、僕ならそのドリル、一時間で終われますけど」
「…………(心揺らぐ…)」
「……なあ、夢子ちゃんに教えんのなら、私に教えくれん?」
「え」

私がプライドと相談して竜持くんに頼むか頼まないかモタモタ検討している間に、ミっちゃんが我こそは、と名乗りを上げた。
まさかここでミっちゃんが「教えてほしい」だなんて言うとは思わなかったので、思わず驚きの声を漏らしてしまった。
ミっちゃん、算数得意じゃないの。

「ええ、と……」
「………僕は、いいですけど」

突然のことに答えあぐねている私の代わりに竜持くんが返答した。思わず竜持くんを見ると、同じように竜持くんも私にチラリと視線を向け「どうします?」と聞いてきた。
何故私に聞く?と思い口ごもっていると、ミっちゃんまで私に視線を向けた。
いきなり二人から凝視されて、何故か居たたまれない気持ちになった。
なに、この状況?

「……私は、一人でできるよ」
「……そうですか」

そう言うと竜持くんは私の側を横切ってミっちゃんの隣に腰を下ろし「どこですか?」と尋ねながらドリルを開く。ミっちゃんは「やったあ」と可愛く手を叩いて喜んで、竜持くんの手もとにあるドリルを覗き込んだ。

小さい机の一辺に二人の人間が寄り添いながら肩を並べてペンを動かすさまは、なんとも窮屈そうで、それに加え暑そうだ。この炎天下に、ご苦労なことで。


「(……断ってよかったじゃん)」


二人が仲良さ気に話す姿を盗み見ながら、心の中で誰に聞かせるわけでもなく言い聞かせた。


今までとは違う感覚で、心臓がざわついた。





空が赤く色付いて烏がカアカア泣きだす頃に、ミっちゃんのドリルは終焉を迎えた。
私はと言うと、二人がケラケラキャッキャッとうるさかったものでなかなか集中できず、思うように進まなかった。
帰り支度を始める二人をよそに、まだ三分の一は残っているドリルを眺めて溜息をついていると、竜持くんが私のドリルを覗き込みながら「随分進んだみたいですねえ」と嫌味っぽく笑った。

「それで?明日も宿題ですか?」
「……まあね」
「じゃあ、明日も来ますね」
「……どうぞお好きなように」
「あ、私も来る!」

私と竜持くんの会話に、ミっちゃんが入ってきた。

「あれ?でもミっちゃん今日のドリルで宿題全部終わったんじゃないの?」
「でも竜持くんも来るんじゃろ?なら私も一緒に遊びたい!」

ええじゃろ?と尋ねてくるミっちゃんに「……僕は構いませんけど」と言いながらじっと私に視線を移してくる。

「なに、ジロジロ見て……」
「いや、夢子さんはどうしたいのかなあと思いまして」

そう言うと竜持くんは顔を歪ませて笑った。
だから、どうして私に結論を委ねる。

「私も……いいよ」

私の返事を聞くとミっちゃんは「決まりやね!」とはしゃいだ。
二人を玄関まで送って行くと、ミっちゃんがふいに私に近づいてきてヒソヒソと声を潜めて耳打ちをした。何かと思って私もミっちゃんに顔を寄せる。

「都会の王子様、皆が噂してたよりずっと優しいやん。夢子ちゃん、独り占めするのはずるいのう」

そう言ってミっちゃんは屈託なく笑った。
そんなミっちゃんの言葉に、私は思わず眉を顰める。

二年前、私が三つ子に村中を連れまわされていた時、一緒に遊ぼうと誘っても「感じ悪い都会もんと遊ぶのは勘弁じゃあ」と言って来てくれなかったのはそっちじゃないか。
それどころか三つ子と仲良くなったことで男子たちに裏切り者呼ばわりされた私を碌に庇ってもくれず「しょうがない」の一言で片付けたくせに。
ミっちゃんに「ずるい」などと言われる理由など、私にはなかったのに。

私の不機嫌そうな顔なんか気にも留めず、ミっちゃんは「じゃあまた明日!」と言って大きく手を振りながら竜持くんと畦道に消えて行った。
並んで歩く二人の背中を眺めながら、ぼんやりと手を振る。

「(随分楽しそうだったなあ)」

自分の友達と友達が仲良くなる。
それは間違いなくいいことである筈なのに、何故だか私の心中はモヤモヤとしたものが蔓延った。
理由はわからないし、知りたいとも思わない。
ただ、気分のいいものではないということだけは確かだ。


ざわざわ、ざわざわ。
ああ、面白くない。





次の日も二人は私の家に訪れたが、基本的には宿題をする私の横でぺちゃくちゃとお喋りするだけで、私の宿題を手伝うわけでも私に構うわけでもなかった。むしろ二人の会話が耳についてドリルに集中できない。
二人で仲良くしたいだけなら、私の家じゃなくてもいいだろうに。

「(じゃ、ま、だ)」

脳内に浮かんだ単語に、思わずはっとする。
友達に対してこんなこと思うなんて、初めてだったからだ。
なんて嫌なことを考えたのだろうと思い、そんな自分に嫌悪感を抱いた。

頭をフルフルと左右に振ってそんな考えは振り払おうとするものの、ベットリとこべりついた油汚れの如く、この嫌な感情は離れることはなかった。
それどころか、二人の楽しそうな声がだんだん耳障りになっていきそれに比例するように苛々も募っていく。


そういえば去年もこんなことがあった。宿題をする人間とその横でうるさくする人間という構図が、だ。
あの時は私の立場が逆だったけれども。
黙々と宿題を進める虎太くんと凰壮くんの側で、まだかまだかとうるさく催促した自分を思いだしこっそりと反省をすると同時に、ああなるほどと納得した。
凰壮くんに怒鳴られたけれども、その気持ち今なら分かる。
宿題やってる横でうるさくされたら、こんなにも苛々するものなのか。
今はまだ遠い東京にいるであろう虎太くんと凰壮くんを想って、心の中でごめんなさいと謝罪した。
加えて、この苛々は必然に生まれる感情なのだろうと思い、どこか安心した。

思えば竜持くんと二人きりで遊んだきっかけも、虎太くんと凰壮くんの宿題が終わらないためだった。
遊びに行きたいと駄々をこねる私を、竜持くんが連れ出してくれたのだ。
それまで距離を感じていた竜持くんを、ある程度近くに感じられるようになったのもこの時のおかげである。
まあ今でも、竜持くんのせいでよく分からない感情に苛まれるのでもしかすると未だ苦手意識はあるのかもしれないし、相変わらず竜持くんが何を考えているのかはわからないので、距離がなくなったとは断言できないのだけれど。

そう思うと、ミっちゃんは随分速いスピードで竜持くんと仲良くなっていると思う。
私と竜持くんなんて知り合ってもう三年目だと言うのに、傍目から見て、正直ミっちゃんと竜持くんのほうが距離が近いような気がする。

だって、私はあんなに楽しそうに竜持くんと喋れない。

あんな風にはしゃいで、手を叩いて声出して笑って、気軽に竜持くんの肩になんて触れられない。
竜持くんの繰り出す嫌味にムッとしてしまうし、竜持くんに見られると目を逸らしてしどろもどろになってしまう。竜持くんから私に触れることはあっても私から触れることは決してないし、触れられると汗をかいて体が強張ってしまう。

「(もしかしたら、私といるより楽しいのかも)」

こんなくだらない考えがどうして生まれるのだろう。
今日の私は、少し変だ。



「夢子さん、宿題進んでます?」

ミっちゃんとの会話に華を咲かせていた竜持くんが、思い出したように私に話しかける。
突然聞こえたその声に脳がはっとし急速に働き出すと、ぼんやりとしていた視界のピントが合って一気に目の前がクリアになり、ドリルに描かれた数字の羅列が目に飛び込んできた。
気付けばまだ一ページも進んでいない。

「……やる気あるんですか?」

私のドリルを覗き込んだ竜持くんが、訝しげに私を見た。

そんな顔、することないじゃん。

私もふて腐れたように黙っているとミっちゃんが「私たちおると集中できん?」と尋ねてきた。
私は口の中でごにょごにょと「うん、まあ」とはっきりしない声で呟く。
私の答えを聞くとミっちゃんは「じゃあ、私たち外に遊びに行かん?」と竜持くんに提案した。

瞬間、心臓がまたざわついた。
昨日から訪れるこのざわつきは、去年よく陥ったざわつきとは違って、心地悪い。
なんなんだこれは。
知りたくないけど、知りたい気がする。
病気だったら、困るし。

「……僕は、別にいいですけど」
それで夢子さんの宿題がはかどるなら。

そう言って竜持くんは私に「どうなんです?」と尋ねてきた。

だから、なんで、私に聞くの。


「好きにすれば」

口から出た台詞は、自分が想像した以上に冷たさを孕んでいて、心なしか驚いた。


お互い少しの沈黙を挟むと、竜持くんは「では行きますか」と言って玄関の方に歩いて行った。それに続くようにミっちゃんがついて行き「またね」と私に一言残して、二人はどこかへ行ってしまった。

玄関の戸を閉める音、靴で砂利を踏む音、二人の何をしようかと相談する声がやけに鼓膜に響いた。


「(うるさい人はいなくなったのに)」


部屋は静かになったのに、何故か苛々が収まることはなかった。





それから毎日二人は朝一で私の家に訪れて、宿題の進行状況を確認すると、二人でどこかに出かけて行った。
どこで何しているの?と聞こうと思ったけれど、去年凰壮くんに嘘をつきまくっていた竜持くんを思い出して、聞くのはやめた。
本当のことを教えてもらえなかったら、きっと悲しくなってしまうと思った。

では二人は何をしているのだろう。
去年みたいに、二人だけの秘密の場所を発掘しているのだろうか。
もしかしたら、あの、私と竜持くんの秘密の場所に行っているのかもしれない。

そこまで考えて、私ははっきりと「それはすごく嫌なことだ」と思った。
竜持くんと秘密を持つのも、あの綺麗に微笑む竜持くんを見るのも、私だけでありたいと思った。

「(それじゃあ、ホントに独り占めだ)」

私は竜持くんを独り占めしたいのだろうか。
竜持くんは、物ではないのに。

どんどん嫌な人間に成り下がっていく自分に、嫌悪感が膨れていった。





そうした日々が五日過ぎて私の宿題も無事終わり、いよいよ虎太くんと凰壮くんがやってくる日の朝になった。
朝日が昇ると共に眩しさから目が覚めて、布団の中で大きく伸びをしてから大きく息を吐いた。
ぼんやりと天井を眺めながら、今日これからのことを考える。

久しぶりに虎太くん凰壮くんの二人に会えるという喜びと、また仲良さそうなミっちゃん竜持くんの二人を見なければならないのかという懸念に、心が落ち込んだ。

こんなことを思っては、ミっちゃんにも竜持くんにも失礼だ。

「(二人とも、大切な友達なのに)」


なんとか、このモヤモヤとした嫌な気持ちをなくしたいと思った。
この気持ちを心臓に抱えるのは、とても疲れる。



「(そうだ……)」

私は思いついて、布団から起き上がった。
時計を見ると、二人の到着予定時間まで、まだ随分ある。

私は手早く身支度をして、朝食の準備をしていたお母さんに一言声をかけると駆け足で出かけていった。





久しぶりに登る山はなかなか疲れるが、まだ日が昇ったばかりで炎天下というわけではなかったので、いつもより幾分か登りやすかった。
草木をかき分けつつしばらく黙々と一人で登っていると、あの、竜持くんとの秘密の場所に辿りつく。

私は顎に伝う汗を手の甲で拭ってから、いつも登る木に手足をかけ、猿の如く軽快に登って行った。
そしていつもの、私の定位置ともなっている木の枝に腰掛けて上から村を眺めると、思わず「ほう」とため息が漏れて、なんとも言えない満足感に充たされた。
さわさわと頬をなでるような風が吹いて、気持ちがいい。
眼前に広がる村は早朝ということもあって、静けさに満ちていたが既に畑で作業している大人たちがいるのが小さく見えた。
畑民家畑学校畑畑時々人。

「(これが、私の全てなんだ)」

一望できてしまうほど狭いけれども、視界のいっぱいに広がる程度には広大で、去年竜持くんの言っていた「綺麗ですねえ」という言葉を改めて反芻した。

ほんとだ。すごく、綺麗だ。

去年ここに来ていた時よりも、素直にそう感じた。
同時に、自分の卑しくなった心が洗われるような気がした。
別に問題が何か解決したわけでないし、この感情が何故生まれるか分かったわけでもない。
けれども、ここから村を眺めている間は、綺麗な景色を眺めている間だけは、自分の心も綺麗になれるような気がした。

「(少しだけ、竜持くんの気持ちがわかった気がする)」

去年何度もここに通っては、儚そうに、綺麗に笑った竜持くん。
竜持くんも、何かから逃げに来たのだろうか。

去年の思い出に浸っていると、また心臓がざわついた。
でもこれは嫌なざわつきじゃなくて、竜持くんが笑ったり私に触ったりするときに訪れるざわつきの方だった。


ああ、なんか、今すごく、竜持くんに会いたい、な。





しばらく眺めて満足すると、そろそろ虎太くんと凰壮くんが来るころだろうと山を降りる。

戻ったら、とりあえずミっちゃんに謝ろう。煩わしく思っていたこと、ちゃんと謝ろう。
どうしてそんなこと思ってしまったのかは、うまく説明できないけれど。
竜持くんには……どうしようか。

そうやって悶々と考えながら降りていると、近いところでガサガサと音がした。
ふと足を止めて音のする前方を眺めると不自然に草木が揺れている。
明らかに風に揺られているわけでもないその光景を見て、不思議に思った。

ここに入る子供なんて私か竜持くんくらいしかいない。
竜持くんは家で二人の到着を待っているだろうし、大人だってこの時間は畑仕事やら家の家事やらで忙しいだろうから、こんなところにいるわけない。
じゃあなんだ?
動物?うさぎ?たぬき?くま?
たまに猿とかなら見たことあるとか聞いたことあるけれど、それも山奥の話でこんな村に近いような小高い山で見たなんて聞いたことない。

皆目見当もつかない正体に、私は思わず息をのんだ。
音はだんだん私に近づいてくる。
私は眉間に皺を寄せて、本能的に臨戦態勢をとった。


よくわからないけど、相手になるぜ!



「ああ、夢子さん。こんなところにいたんですね」
「あ」

なんですか、そのポーズ。
そう言って音の正体である、竜持くんは、クスクス笑い声を漏らした。

なんてことはない正体に、強張っていた身体が一気に脱力する。

「竜持くん、こんなところで何してるの」
「夢子さんを捜しにきたんですよ、もう虎太くんと凰壮くん着きましたよ」
「ええ!嘘!」
「嘘ついてどうするんですか」
さあ、行きますよ。

そう言って山を下る竜持くんの背中を追いかけるように私も続く。
さっきまで会いたいと思っていた人が突然現れて、心なしか私は上機嫌であった。

「それにしても竜持くん、よく私の居場所わかったね」

何の気なしに竜持くんの背中に問いかけると、竜持くんは振り向かずに「わかるわけないでしょう」と返事をする。

「え?じゃあなんでここに捜しに来たの?」

私の言葉を聞くと竜持くんはぴたりと足を止めて振り返った。
私も同じように足を止めて竜持くんと距離を保ちつつ竜持くんをじっと見る。

私を瞳に宿す竜持くんの目と目が合うと、頬が熱くなった気がした。
竜持くんは、眉を下げて笑う。


「わかったわけじゃなくて、ただ、ここにいてくれたらいいなと、そう思ったんです」
だって、ここは二人の秘密の場所ですからね。


ああ、心臓苦しい。



竜持くんが喋ると、息をするのが難しくなる。
水の中でもないのに呼吸困難にでもなったらシャレにならない。
私は慌てて話題を変えた。

「今日、は、ミっちゃんは?」
「今日は遠慮してもらいました。虎太くんと凰壮くんが嫌がるかもしれませんからねえ」

竜持くんの言葉に、首を傾げた。

「え、そうかな?竜持くんなんかは、初対面から仲良しだったのに」
「そんなことありませんよ」
「いや、そんなことありますよ。竜持くん、かっこいいって言われてニコニコしてたじゃん」

二人の初対面を思い出しながら、反論すると、竜持くんが怪訝そうに眉を顰めた。

「誰がですか。僕、ああやってかっこいいって騒がれるのあんまり好きじゃありません」
「ええ、何それ。じゃあなんであんなにニコニコしてたのさ」
「……ニコニコしたかったんじゃなくて、まあ極力仲良くしようとは思ってました」
「だからなんで」

再度尋ねると、竜持くんがじいっと私を見つめる。
同じように見返していると、竜持くんは小さな声で呟いた。

「…………夢子さんの友達だから」
「え」
「夢子さんの友達だから、感じ悪く、思われたくなかったんですよ」



また、心臓苦しい。





「さあ、さっさと降りましょうか」
「あ、うん」

私の心臓が上手く機能してないことなんか知らない竜持くんが急かすように言う。
慌てて竜持くんの側まで駆けると、竜持くんが手を差し伸べてきた。

「……竜持くん?」
「手、捕まりますか?」

竜持くんが真っ直ぐ私を見つめながら「どうします?」尋ねる。
前は強引に捕まらせたのに。

どうして、聞くの?

「夢子さんが、自分で決めてください」

竜持くんが、私の疑問を見透かすように言った。

いつもなら「いいよ」と断るところだが、算数を教えてもらう時もミっちゃんを遊びに誘う時もミっちゃんと二人きりで出かけてしまった時も、竜持くんの「どうします?」と言う問いかけを断って、結果嫌な気持ちになってしまった。

折角、秘密の場所で心洗われた時くらい、素直になってみたいと思った。


「……捕まる」
「どうぞ」

私が手を取ると、竜持くんは満足そうに笑った。





竜持くんと手を握りながら山を下って行き、いつもの畦道が姿を現してきたところで、凰壮くんの私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
久しぶりに聞く懐かしい声に嬉しくなって駈け出しそうになるけれど、それを制止するように竜持くんが手をぎゅっと握る。

どき、と大きな音を心臓が立てて、驚いた。

な、なに?と遠慮がちに聞くと「今出ていったら秘密の場所のこと凰壮くんや虎太くんにばれてしまいますよ」と竜持くんが言った。

「ああ、なるほど」
「こっちです」



竜持くんは私の腕を引いて、凰壮くんから隠れるように山の入り口から離れていく。
そうして草むらに腰を下ろして「ここで少し待ってやり過ごしましょう」と言った。
なんだか悪いことでもしているようで、居心地が悪かった。
おまけにひどく狭く縮こまっているため、隣にいる竜持くんの髪の毛が頬にあたるし、竜持くんの匂いがして、緊張してしまった。

こんなに近くで、竜持くんと寄り添ったことなんてない。

私は伏せ目がちに竜持くんを盗み見る。
草むらの陰から窺うように向こう側を見ていた竜持くんが、私の視線に気付いたのか、こちらを見た。


目が、合う。


いよいよ本当に息をするのがつらくなって、でもこんな至近距離でぜーはーぜーはー呼吸したくないと思うと、今までどうやって息してたんだっけ?根本的な謎にぶち当たる。
私、呼吸荒くないかな?なんてくだらないこと思っていたら、竜持くんが「夢子さん」と普段からは想像できないくらい真面目な声で私の名前を呼ぶから、竜持くんの息が頬にかかってなんだかくすぐったく思った。

「なあに?」

なるだけ呼吸を整えて平静を装ってから、視線だけではなく首を竜持くんの方に向けた。
じっと見つめあう。


あ、熱い。


日差しが?体温が?
何がと聞かれればわからないけれど、とにかく、熱かった。


「僕、早く夢子さんに、会いたかったんですよ。だから、先に、一人で来たんです」
「そ、う……」
「ええ、そうです。……会いたかった…」


ジリジリって蝉がうるさく鳴りはじめたのと同じくらい心臓がバクバク鳴って、でもそんなのまるで私には聞こえなくて、目の前にいる竜持くんが、真っ直ぐ私を見つめていた竜持くんが、目を閉じながら顔を傾けてきたので、ますます竜持くんから目が離せなくなった。
もともと近かった竜持くんが、もっと近くなって、目の前に、竜持くんがいっぱいになった。


竜持くん、目の色ちょう綺麗。



唇に柔らかい感触がして、少ししたら近づいていた竜持くんが離れていった。

お互いしばらく、目が離せないでいた。


なんで?


私が聞くと竜持くんは、私の家の庭に突然現れた時のようにフッと柔らかく笑った。


「聞きたいですか?」
「…………いい」
「そうですか、残念ですねえ」

そういうとまた前の方を向いて「凰壮くんたち、行ったみたいですから行きましょうか」と言った。

立ち上がる竜持くんをぼんやりと眺める。

なかなか立ち上がらない私に「夢子さん?」と竜持くんが声をかけた。

「あ、ああ、ごめん」
「しっかりしてくださいね」

竜持くんがクスクス笑う。


しっかりなんて、できやしない。
こんなに心臓が痛いのに。


二人で草むらから出ていき、私たちを捜す虎太くんと凰壮くんの元に何気なく合流した。

会うなり「お前どこいたんだよ」と言う凰壮くんに「え、と、友達の家……」と拙い嘘をついてしまった。
その横で竜持くんがおかしそうに笑う。

それを恨めしそうに眺めると、竜持くんは優しそうに笑うので、また心臓が跳ねた。


「今日は何するんだ?」

虎太くんが言うと、竜持くんはフイっと虎太くんのほうに視線を移して「どうしましょうかねえ」と相槌を打った。


そんな光景をぼんやり眺めていると、手に汗がたまっているのに気付いて、スカートの裾でそっと拭った。


竜持くんといると、緊張して、変な汗が出る。
やっぱり、竜持くんは、苦手かも。

……苦手?



「(違う、これ、は)」



俯く私に凰壮くんが「おい、夢子行くぞ」と声をかける。
「ああ、ごめん」と慌てて返事をして、三人の後について行った。


今年もまた三つ子と過ごす夏が始まるというのに、私は初めて気付いた感情に、戸惑ってしまった。
こんな爆弾みたいな感情抱えてこの先やっていけるのだろうか、と不安に思ったが、竜持くんの綺麗に切り揃えられた後ろ髪を眺めていたら、愛しくて、なんかどうでもよくなった。

だってこれは、昨日まで抱いてたざわめきより、何億倍も心地いい感情なんだから。
むしろ、楽しみに思うべきなんじゃないか?


去年まで、知るのが怖くて保留にしていたのに。

そう思うと、思わず笑い声が漏れてしまった。












「(ああ違う、これは、この感情は、苦手なんじゃなくて、恋、なんだ)」


















(2012.9.10)

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