彼女は物持ちがいい。やけに古臭いキャラクターがプリントされている筆箱を使っているから尋ねてみれば、中三のころから使っているそうだ。実に八年。ちょうど、僕との歳の差と同じだった。



「おかえりなさい、竜持」
「あれ、夢子さん来てたんですか?」

凍えるような二月の寒さから赤らんでしまった頬を携えて中学校から帰ってくれば、リビングから顔を出した夢子さんが僕を出迎えた。柔らかく微笑んだ夢子さんの頬は僕と同じように赤らんでいたけれど、僕よりずっと健康的。桃色に色づいているのは暖かい室内にいたからだろうか。夢子さんはまるで花が咲くように微笑むから、その頬だって陽だまりみたいに暖かいんだろうなって柄にもないことを考えて、恥ずかしさに冷たくなった頬をまた赤くさせた。僕を迎えた夢子さんが髪を揺らして再びリビングに戻っていく。蝶が覚束なげに飛ぶようにゆらゆらと揺れた髪先に誘われて、僕も彼女の後を追ってリビングに向かった。

夢子さんはリビングの真っ白なソファーに腰掛けて、何か本のような物を膝に乗せた。僕が荷物を適当に置いて、巻いていたマフラーを解きながら「それ、なんです?」と尋ねると「アルバム。整理してたら見つけたの」と目を細めて笑う。まるで懐かしさを慈しむようなその表情に、こちらも愛しさで胸が詰まった。
キッチンから夢子さんの好きなお菓子を持ってきて、リビングに戻る。(このお菓子というのは、夢子さんが子供のころから飽きもせず毎日のように食べてるお菓子で、それ故家にも自然に常備してあった)。それを見て「ありがと」と幸せそうな表情を見せた後すぐに「早くきて」と手招きする。夢子さんの隣にそっと腰掛けてお菓子をテーブルに置くと、夢子さんはアルバムを僕にも見やすいように傾けて「これ、懐かしいでしょう?」と一枚の写真を指差した。それは幼い時に僕が撮った夢子さんで、今では追い越してしまった彼女との身長差も、当時は青砥くんと多義くんのソレと同じくらいあったので、アングルは随分下からだし夢子さんもこちらを見下ろすように写っていた。(無理もない。八歳も年上なのだ、彼女は。いくら僕たち三つ子が同世代のよりも発育が早かったからと言っても、幼少期は彼女よりも随分低かった)。「随分な写真ですねえ」と僕は笑った。女性が下から顔を見られて、あまり嬉しいと思うとは思えない。けれども夢子さんは「え、そうかな。私好きだけど、これ」と言うので不思議に思い首を傾げると「竜持には私がこう見えてたんだなあって。竜持の目線が知れて、嬉しかったの覚えてるの」と笑った。

そんな風に笑うから。嬉しいのは、僕なのに。

思わず耐えきれずに笑みを漏らすと、それに答えるように夢子さんも笑うので、さっきまでの冷たかった頬だって陽だまりに誘われるように暖かくなる。
いつもそうだ。どんなに僕が落ち込んでも、どんなに僕が苛立っていても、頬が冷たくなっても、夢子さんが笑えば、それだけで。

そんなお花畑な思考を叱咤するように、緩む口元を引き締めていつもの自分らしく人をくったような笑みで向き直る。「でも、どうしたんです?急にアルバムなんて懐かしいもの」と尋ねると、花が咲くように満面に笑っていた夢子さんの表情が、萎んでいく気がした。夢子さん?と呼びかけようとすると、夢子さんは「荷物の整理してて、見つけたの」と小さく言った。
その言葉を聞いて、ああ、と僕も納得したような声を漏らした。
夢子さんの耳にかかった髪が、ゆらりと落ちる。
この写真の頃に戻れたらどんなにいいのか、なんて、相変わらず僕は夢子さんといると柄にもないことを考えるな、なんてぼんやりと頭の隅で思った。



夢子さんは僕たちのご近所さんで、所謂幼馴染という関係だ。幼馴染と言っても八歳も年上なのでどちらかと言うと「近所のお姉さん」という印象。両親ともに忙しい僕たちを、よく面倒を見てくれた。数年前まで三つ子の悪魔と呼ばれた僕たちも、最初からそんな風に忌み嫌われていたわけではない。物心つく前は人並みに素直で可愛い時期もあったわけだ。物心つくかつかないか、そういうあやふやな時期から一緒にいる夢子さんとはなんとなく反抗心を抱くこともなく節度あるお付き合いをしてきたつもりである。(と言っても生まれ持った性格は性格なので、人格形成がはっきりしてきた辺りではそれなりに生意気な態度で反抗したこともあった。けれどもヘラヘラ笑ってばかりで張り合いのない夢子さんに反抗心も削がれてしまって、結局友好的な関係にならざるを得なかったと言える)。
そして、節度ある付き合いはやがて、僕にとって淡い想いに変わっていったわけで。どこでどうしてそうなったのかなんて覚えていない。ただなんとなく。ずっと傍にいるからか、時々会えない日が続くと、どうしているのか気になってしまった。そういうのが何回も続いて「あ、これ好きってことですか」と思ったわけだ。
そんな夢子さんも今年で大学を卒業する。まだ中学生の僕を置いて、一人社会に飛び立ってしまうのだ。夢子さんの就職先は、まあ桃山町から通えると言えば通える距離だそうなのだが、何しろ県境の上に乗り換えやらなんやらで通勤に時間がかかるということで、一人暮らしを始めることになった。電車で一時間くらいのところ。会いに行けると言えば会いに行ける距離だけど、何しろ僕はまだ中学生で、彼女は社会人。今までみたいに、気軽に会えるような間柄では、なくなってしまうのだろう。大学卒業より一足先に行う引っ越しは来週末だと、先日聞かされたばかりだった。

くだらない。会いたければ会えばいいし、どこに住んでいようが夢子さんが幼馴染のお姉さんには変わりないのだ。臆病になるなんて、らしくない。
いや、自分は案外臆病者だっていうのは、本当はずっと前から知っている。虎太くんや凰壮くんよりもずっと臆病だ。あの二人は僕より幾らか無鉄砲。勝算がないとわかっていても飛び込む勇気を持っている。それは愚行とも呼べるのだけれど、結局大概のことが上手くいってしまうので、あながち馬鹿にもできない。それをどこか羨ましいと思う自分がいる。
どうしたって頭の中で勝率を計算してしまう。僕はきっと、ダメだった時、幻滅されるのが怖いのでしょう。誰に、というわけではなく。

「ああ。ねえ竜持、これ見て。懐かしいねえ」

アルバムのページをめくった夢子さんがまた思い出を掘り起こす。写真を指差して「可愛い」と笑った。写真の中には、僕と虎太くんと凰壮くん。シロツメクサの花冠をかぶっていて、あんまりにも僕たちに似合わないものだから、自嘲気味に吹きだした。

「近所の空き地で遊んだ時のだよ、覚えてる?もうあそこ、今は立派な家が建ってるけどね。昔はよくあそこでかけっこしたりしてたのになあ」

そうでしたっけ?と特に覚えてもいないので素直に首を傾げれば、夢子さんがフフっと声を漏らして笑った。なんですか?と尋ねると「竜持、覚えない?あの時私にプレゼントくれたの」と言った。

「プレゼント?」
「そう、四葉のクローバー。見つけたからって私にくれたんだよ」
すごいでしょって得意気に笑うもんだから、可愛いなあって思ったの。

そう言われて「ああ」と呟いた。そういえば、そんなこともあった。というのも、自分がそんなことをしたというのは覚えていない。どちらかというと、記憶にあるのは、自分がもらったものだった。

「夢子さんもくれましたよね?四葉のクローバー」
「え?そうだっけ?」
「そうですよ。見つからなかったからって言って三葉を千切って無理矢理四葉にしてましたけど」
「えー、本当かなあ」
「なんでこんなことで嘘つかないといけないんですか。せこい人だなあって思ったの、ちゃあんと覚えてますよ」

僕の言葉に、夢子さんは不服だというように頬を膨らました。まるで子供みたいな態度に、思わず顔が綻んでしまう。
年上のこの人は、僕よりいくらか子供らしい。まるで僕らの子供らしくない部分を補ってくれているかのようだ。(もしかしたら、この人が子供じみていたので、僕らが大人びてしまっただけなのかもしれないのだけれど)。

「竜持、可愛げないなあ。この時はこんなに可愛かったのに。クローバー見つけてはしゃいじゃう竜持、可愛かったのになあ」
「可愛げがないなんて、今に始まったことじゃないでしょ」
「そりゃあ、そうだけどね」

夢子さんが眉を八の字にして笑う。それを見て僕も口元を緩ませるのだけど、こういうことがあと何回できるのだろうと考えると、自然に笑みは枯れてしまう。
今は、夢子さんの笑顔が寂しい。いつもは、その底抜けに明るい笑顔で僕の鬱屈をした気持ちを笑い飛ばしてくれるのに。冷たい気持ちを、すぐに暖かいものに変えてくれるのに。今はそれが失われるのを怖がっているんだから、どうしようもない。


「竜持」


夢子さんが僕を呼んだ。夢子さんに視線を向けると、虚ろな瞳で彼女が僕を眺める。どうしたんですか、とは聞けなかった。代わりに、息を飲んだ。その瞳が、僕に何かを求めていたので。

「竜持、私、今日はさよならを言いに来たのよ」
「……そうですか」
「……そうなのよ」


だから、だからね、竜持。最後に、私に何か、言いたいこと、ないの?


夢子さんが、真っ直ぐ僕から目を逸らさずに、そう尋ねた。
今度は息を飲まなかった。息は止まった。一瞬、呼吸の仕方を忘れた。時間が止まったのかと思った。夢子さんが、何を言ったのかわからなかった。いや、分かったのだけれど、理解したくなかった。
夢子さんが、僕に何を言わせたいのか、なんとなしに、分かってしまったから。

「……どうでしょうか」
「はぐらかさないで、竜持」

目を逸らす僕を、やはりじっと見る夢子さんに、居たたまれなくなる。
この人は、いつだって僕と正反対だ。
僕が神経質に苛立てば、彼女は能天気に笑う。僕の頬が冷たい時は、彼女の頬は暖かい。僕は一生懸命幸せのクローバーを捜すのに、彼女は葉を千切るだけで、簡単に幸せをつくってしまう。
僕が言いたくないことを、彼女は言わせようとする。

本当は知っている。夢子さんも、僕のことを憎からず思っていることを。彼女が、何を言わせたいのかも。何を望んでいるのかも。けれども僕は、それに答えることはできない。否、答えたくないのだ。
「好き」なんて、最も儚くて脆い言葉だろう。明日には、別の人を好きになってしまうかもしれない。嫌いな人が増えなくても、好きな人なんて簡単に増えてしまう。なにより夢子さんは、嫌いなものより好きなものがたくさんある人だから。だから、いつ僕が彼女の一番じゃなくなってしまうか、それが不安。嫌われることよりも、夢子さんの一番好きな人じゃいられなくなってしまうことのほうが。人の気持ちほど根拠のなくてあやふやなものはない。数式じゃ現しきれない。答えなんて、すぐに変わってしまう。
雑草をとって水を上げて日当たりのいいところに与えているのに、花はどうしたって枯れてしまう。好きだって同じこと。どんなに好きでいても、尽くしても、心変わりすることなんて簡単なんだ。あの日夢子さんからもらった四葉だって、すぐに萎れてしまった。
信用できない、どうしても。夢子さんのことも、自分のことも。そんな脆い感情に流されて、脆い言葉で君を縛れない。「好き」だという花のように脆い言葉で、夢子さんの薬指に何かを誓わせることなんてできない。夢子さんの気持ちを縛れない。いつ枯れてしまうか分からないのに、あなたを縛ることなんてできないんだ。
僕はどうしたって、無鉄砲にはなれないから。


黙りこくって俯く。今日でさよならと言われたって、僕は夢子さんに想いを伝えることなんてできやしない。目先の幸せより、いつかの不幸に怯えてしまう。だったら、最初から幸せなんてないほうがずっといい。
その方が、ずっと健全だ。

「竜持」
「……」
「竜持」

夢子さんが、子供をあやすみたいに優しい声を出す。いつもは僕より断然子供っぽいのに、こういう時ばかり、八歳という歳の差を突きつけられているみたいでなんだか心地悪い。子ども扱いなんてされたくないのに。でも、仕方ない。僕はどうしたって彼女より年下だし、なにより、だんまりを決め込むのは、子供じみた対応であるからだ。ただでさえ埋まらない歳の差を、自分の行いのせいで更に深めてしまうのは利口ではない。
僕はゆっくりと顔を上げて、夢子さんを見た。ジッと僕を見ていた両の目を捕える。少し潤んだその瞳があまりにも綺麗で、泣きそうになった。

「僕は」
「うん」

自分の感情を吐露するのは、苦手なのだけれど。
でも、夢子さんがぎこちなくでも笑って聞いてくれるから。僕は。

「いつか、夢子さんに、飽きられるのがこわいです」
「……うん」
「一番に好きだと思ってもらえなくなるのが」
「うん」
「だから、言いたくないです」
「……そう」

今度は夢子さんが俯いた。伏せた睫毛が少し濡れて光る。
泣かせたいわけじゃない。笑っていてほしい。いつだって、僕を幸せにしてくれるその微笑みで。四葉のクローバーをつくってくれたみたいに、簡単に僕の幸せをつくる、その。

「竜持」

俯いたままの夢子さんが、僕を呼ぶ。視線を向けると、夢子さんがさっきの僕のほうに顔をゆっくりと上げて、こちらを見た。
薄く笑った夢子さんは、今にも泣きそうだ。

「竜持、私、物持ちがいいの。同じ筆箱、もう八年も使ってるのよ」
――ええ、知ってます。
「好きなお菓子だって、飽きもせず子供のころから毎日食べてるし」
――それも知ってます。
「竜持にもらった四葉だって、押し花にしてとってあるの」
――……。

「竜持」
「はい」

夢子さんが笑う。僕の好きな、陽だまりのような、それで。


「私には、根拠があるのよ」


僕の幸せは、簡単につくられてしまう。



「……好きです」
「嬉しい、私もよ」


ふわり、と髪を揺らした夢子さんから、いい香りが漂った。シャンプーだろうか。庭先でよく香る、花のように気分のいい香りだ。
悪くない。


夢子さんが僕の頬に手を添えた。何かと思ったら「さっきまで、冷たそうで赤かったのに、竜持の頬、暖かくなってるね」と言って笑った。
暖かいのは、きっと夢子さんのおかげなのだけれど。
添えられた手に、更に僕の手を添えて「三月になったら、会いに行きますね」と言うと、夢子さんは少し驚いた顔をした後に、今度は困ったように眉を下げた。
どうしたんです?と尋ねてみれば「嬉しいの。竜持って、いつも私に幸せをくれるんだもの」と笑った。


花のように脆い言葉で、僕たちは幸せになれるのだ。






冬の英雄さまに提出させていただきました(2013.02.22)
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -