だって顔に書いてある。お前なんか嫌いだぞって。
人間という生き物は不思議なもので、言葉という歴史上最高に優れた発明を有していながら、表情だけで感情が伝わるようにできているのだ。人類が誕生してからどれほどの時が経ったかは知らないけれど、私たちの起源はやはり動物なのだろう。



「夢子さん、朝食ができましたよ」
「……はい」

降矢家にお世話になり始めて一日目。日曜日の窓からは健康的な陽気が差し込んでいた。
私を起こした声は、聞き慣れない男の人の声。普段なら「もう少し寝かせてくれ」と駄々を捏ねていたところだろうが、その声の違和感に、素直に目を開けざるを得なかった。視界に現れたのは、サングラスのおじさん。一瞬で寝ぼけた脳が覚醒する。
おはようございます。
かすれ気味に挨拶をすると「はい。おはようございます」とサングラスの奥の目が柔らかく弧を描いたのが見えた。

そうだ、ここは私の家じゃないんだ。

見慣れない天井と、落ち着かない匂い。五感で感じる全てが、自分の家のものとは違う。気が休まらない。ただでさえ、昨日の竜持くんが原因で、よく眠れなかったというのに。
あと三か月、この感覚が続くのか。そう思うと、起きたばかりだというのにどっと疲れるような気がした。

「朝食食べますか?それとももう少し寝ています?」
「あ、えと、た、食べます」
「はい。じゃあ下まで降りてきてくださいね。もうできているので」
「はい……」

部屋を出るおじさんに続いて、眠気眼を擦りパジャマのまま下に降りた。美味しそうな匂いが階段に香ってくる。ダイニングに入ると、既に食卓についていた三人が箸を進めていた。
朝食は白いご飯にお味噌汁と鮭、卵焼き、サラダと、日本人らしいメニューだった。家の外観よりもずっと純和風である。
昨日の夕飯時と同じ椅子に座ると、向かいに座っている虎太くんと目が合った。思わずたじろいで、急いで視線を逸らす。同時に、おばさんがお茶を運んできてくれた。お礼を言うと「おかわりもしていいからね」と微笑まれる。

「夢子さん、だらしない」

不意に話しかけられて驚いた。顔を上げると、お味噌汁を持った竜持くんがじっとこちらを見ていた。昨夜のことを思い出して、思わず息を呑む。
また何か言われるのだろうか。拒絶されるのだろうか。人に嫌われるのは怖い。竜持くんの態度は、それを直に感じるから、怖い。
私にとって竜持くんの冷たさに対する恐怖は、クラスの男子に意地悪される時よりも、女子に文句を言われる時に似ていた。

「だ、だらしない……って」
「こんな時間まで寝てることが、ですよ」

そう言われて時計を見たけれど、まだ朝の八時だった。

「に、日曜、だし」
「休日だからこそ早く起きるんですよ。だいたい、パジャマのままでよく降りてきましたよね。人の家でくつろぎすぎじゃあないですか」
「うっ……」

指摘されて、顔がカアっと熱くなる。言われるままに降りてきてしまったけれど、確かに着替えてくればよかった。
同年代の男の子、それも(誰かわからないとはいえ)初恋の人の前で、こんなだらしない恰好を見せるなんて、馬鹿なことをした。
竜持くんは口ごもる私を見て、冷たく細めていた目を丸く曲げて、ニタニタと笑う。何が楽しいんだろうと思って、変な汗をかいた。

「竜持、あんまり虐めんなよ」
「おや、凰壮くん優しいですね?」

竜持くんの隣の凰壮くんが呆れたように制止した。凰壮くんが卵焼きを掴んで頬張る。
もしかして、庇ってくれるの?
期待をして見つめると、凰壮くんは横目で竜持くんを見て「泣かれた方が面倒くせえじゃん」と言った。私の淡い期待と氷のような三人と打ち解けられるという希望は、脆くも崩れ去った。
いただきます。
小さく呟いて箸を持つと、ジッと睨む虎太くんと再び目が合った。今度は虎太くんの方が先に逸らす。相変わらず、歓迎はされていないみたいだ。

十二年間で一番気の重い、朝食を過ごした。



「夢子ちゃん、どこか行くの?」

朝食を食べ終えて身支度をし、玄関に向かうと、洗濯かごを抱えたおばさんに尋ねられた。これから洗濯物を干すらしい。

「あ、ちょっと、散歩……この辺、わからないので……」

しどろもどろに答えると、おばさんはニカっと歯を見せて豪快に笑った。
素っ気ない三人とは似つかない。

「ああ、それなら案内しようか? あの子たちがいればいいんだけど、三人ともテニスしに行っちゃったからさあ。私も今から学校行かないといけないから、帰ってきてからになっちゃうけど」

三人は、おばさんの言うように、朝食が終わるとすぐにジャージで外へ行ってしまった。
男の子は元気だ。それとも、私がいる家に、一秒だって長くいたくなかったのかもしれない。

「え、と、大丈夫です。遠くまで行かないので」
「そう、気を付けてね」

おばさんが手を振る。応えるように会釈をして、玄関で靴を履く。真っ白いスニーカー。扉を開けると、お日様の陽が反射して足元を眩かせた。
五月がはじまって、大分春めいてきた。徐々に暑さが増していく。きっと洗濯物も気持ちよく乾くだろう。
降矢家の長い庭を歩いて道路に出たところで、ハッとして足を止めた。振り返って、何度見ても圧倒される豪邸を見上げる。

洗濯もの干すの、手伝いますって言えばよかった。

後になって悔やむ。それは後悔という。後悔することが多い性格だ。引っ込み思案で内向的で、言いたいことも言えないで望まない結果を引き起こすことばかり。もっと気の使える人になりたい。こんな自分、私だって好きじゃない。そんなんだから、人にも嫌われる。例えば、竜持くん、とか。昨日の竜持くんは怖かった。

――詮索しようとなんて、思わないでくださいね。

一挙一動で嫌いだと言われているみたいだった。皆といる時よりも、ずっと冷たかった。どうしてあんな毛嫌いされてしまったのかはわからないけれど、私が何かしてしまったのかもしれない。そうでなければ、突然あれほどの敵意を向けられることもないだろう。

「……謝った方がいいのかな」

でも、なんて言って謝るのだろうか。理由もわからないのに。怒っているからとりあえず謝る、だなんて、失礼にも程がある。それって、反省なんてちっともしてない。自分可愛さに、媚を売りたいだけだ。

「三か月かあ……」

まだ始まったばかりだというのに、もう家に帰りたい気持ちでいっぱいになった。指を何度だって折り返しても数えきれない日数を思うと溜息が止まらないのだ。

住宅街を抜けると、土手沿いが見える。近くにある階段を登って土手に立つと、サッカーゴールが設置された広場と川が見える。広場は土手に沿って長く続き、その先には大きな橋が見えた。土手沿いを歩くと、サッカーボールを蹴って遊ぶ子供たちの声が耳に届く。時々自転車で通りすぎる人やランニング中の人と擦れ違いながら、大通りに出た。車の通りが激しい道をしばらく歩くと、商店街が見えてきて、今度は人で賑わう。そこを抜けると、最寄りの駅があった。日曜日だからだろうか、駅前に出ているアイスクリーム屋さんには、家族連れや恋人同士で溢れかえっている。みな楽しそうに笑い、子供は頬にクリームをつけて頬張っていた。
それを無性に寂しく思って見る。
このまま電車に乗って、家に帰りたい。もう六年生だもん。三か月くらい、一人でだって生活できる。夜はすこしだけ怖いけど、あの三人のほうが、もっとずっと恐い。
来た道を戻るのが躊躇われた。行きはよいよい帰りはこわい。

「……帰ろ」

駅前の時計を見上げると、十二時を回っていた。お昼には戻らないと、おばさんやおじさんが心配してしまう。(間違っても、あの三人は心配なんてしないだろうし、私がいない方が嬉しいだろうけど)
随分大回りをしてきたから、来た道を戻っていてはまた時間がかかってしまう。適当に近そうな道を探して、降矢家に帰ろう。
最後に、私の家の方面に走る電車を恨めしく見送って、歩を進めた。



迷った。
見渡すと見覚えのない道が続く。迷路みたいな住宅街から抜けられず、大きな道に出られる気配もない。もちろん、交番だってずっと見つからない。擦れ違う人には、勇気がなくて話しかけられない。
日はずっと前に暮れてしまった。今が何時なのかもよく分からなく、不安で胸がざわつくばかりだ。
どうしよう、帰れなかったら……。
最悪の想像に顔が青ざめる。心臓がバクバクと騒ぎ立てる。お腹もずっと空いている。足だって疲れから棒のように固くなっている。
あとどれくらい歩けば帰れるんだろう。先が見えなくて途方に暮れる。
街頭がポツポツと点灯し始めると、いよいよ本気で涙がじわりと滲んだ。

帰りたくないと思って、罰が当たったのだ。きっと神様が帰り道を隠してしまったんだ。
一人でだって平気だって、思ってたのに。いざ一人きりで放り出されると、こんなに心細い。私はまだ子供で、一人きりになって悲しくならないように、おばさんやおじさんはたくさんよくしてくれているのに。そういう人の気持ちを無碍にして、誰もいない我が家に想いを馳せてばかりいるからこういうことになるのだ。
後になって悔やむ。後悔することが多い性格だ。こんな自分、嫌い。

行きはよいよい、帰りはこわい。

「おい」

キィっと、ブレーキの甲高い音がした。振り向くと、そこには赤い自転車に跨った凰壮くんがいた。突然知っている人が現れて、安堵の気持ちでいっぱいになる。思わず傍に駆け寄った。同時に、先程とは違う感情で涙がじわりと滲んだ。

「お、お、ぞ、く」
「お前、こんなところで何してんだよ。みんな捜してんだぞ」
「ま、まよ、って」

一生懸命になって話すと、凰壮くんは眉を顰めて「馬鹿じゃねえの」と言った。心底呆れているような声で、思わず萎縮してしまう。

「ご、ごめ、なさ」
「ま、とりあえず見つかってよかったよ。帰ろうぜ、俺もう腹減ったし」

自転車を降りた凰壮くんが、私の隣に並ぶ。あっち、と凰壮くんが指をさす方向に二人で歩いた。凰壮くんはジャージのポケットからスマホを取り出して電話をかける。しばらくすると「あ、竜持?あいつ見つかった……ああ、二十分くらいで帰るから」と電話の相手と話した。恐る恐る「竜持くん、怒ってる?」と聞くと「カンカン」とぶっきらぼうに言うので、再び青ざめた。昨日の竜持くんを思い出す。またあんな風に睨まれるのか。想像しただけで、手足が冷えた。
そんな私を見て、凰壮くんがケラケラと笑った。

「そんなにビビんなって」
「だ、だって」
「竜持も虎太もさ、心配してたんだから、ちょっとくらい怒られろよ」
「……心配?」

心配していたの?
思わず問いかけると「そりゃあ、突然いなくなったって言われたら、ちょっとくらい心配すんだろ。あんた、なんか危なっかしいし」と凰壮くんは言った。

「(心配……あの、三人が)」

にわかに信じられず、茫然と瞬きを数回繰り返した。私なんて、いないほうがいいって、思っているくせに。

「っていうか迷子って言ってもさ、誰とも擦れ違わなかったのかよ。そんな泣きそうな顔してるくらいだったら、助けてもらえばよかったじゃん」
「……だ、だって、知らない人に、怖くて話しかけられないよ」
「……お前、その性格どうにかできないわけ?」

凰壮くんは、大きな溜息を吐いた。また呆れられた。心底。その事実に、顔が熱くなる。
彼の反応はもっともだ。こんな状況になっても勇気がでない自分の性格は、情けないにもほどがある。降矢くんたちのように、思ったことはなんでも堂々と口にしてしまう人には、理解だってできないだろう。きっと後悔だって少ないはずだ。
それってなんだか、羨ましい。

「ご、ごめんなさい……」
「別に謝ってほしいわけじゃないけど」
「そ、そうだよね、ごっごめん」
「……あー」

謝り癖が抜けない私に、凰壮くんは面倒くさそうに唸ると、徐にポケットを漁った。中から、金の缶が出てくる。昔子供たちの間で流行った、お菓子の缶だ。私も好きだったから、よく覚えている。懐かしい。それにしても、凰壮くんがお菓子を持ち歩いているなんて、意外だ。甘いものとか、好きなのだろうか。そんなことをぼんやり考えていたら、凰壮くんが蓋を開けて缶をひっくり返す。角ばったキャラメルがコロンと一粒、彼の手に降った。

「あんた、昼から何も食ってないだろ。食べる?」
「え?」

凰壮くんがズイとキャラメルを私の前に差し出した。
戸惑ってキャラメルと凰壮くんを交互に眺めると「早くしろよ」と苛立つような音色で言われたので、慌ててキャラメルをとった。

「……ありがとう」
「いーえー」

凰壮くんは金の缶を再びポケットに仕舞う。凰壮くんは、食べないのかな。私に気を遣ってくれたのだろうか。変なの。家では憎まれ口ばかりで、あんなに冷たいのに。どうして捜してくれたんだろう。どうして、迎えにきてくれたんだろう。どうして「帰ろう」と言ってくれたんだろう。
なんだか、知らない人みたい。

「……このキャラメル、懐かしいね」
「昔はまったよなー、それ。最近コンビニで見かけてさ、懐かしくなって。最近またはまってんだよね」

思い切って話しかけると、凰壮くんは思いのほか普通に返事をしてくれた。
「うるせえ」とか、言われるんじゃないかと思って内心ヒヤヒヤしたけれど、ちょっと嬉しい。まるで打ち解けたみたいで。勇気を出してみて、よかった。

「あんたもない?昔はまったやつ」
「えと……蝉の抜け殻とか集めてた」
「意外とたくましいな」

凰壮くんがケラケラと笑った。
結構、笑う人なのだろうか。そういえば、バーベキューをした時も竜持くんをからかって笑っていた。いつもこのギラギラした目で睨むことが多いから、気付かなかったけど。もしかすると、そんなに、恐くない、のかも。

「……凰壮くん」
「ん?」
「見つけてくれて、ありがとう」
「……ん」

凰壮くんが、また笑った。
今度はケラケラと声を出すようなものではなく、口角をあげて、目を柔らかくして、微笑むものだった。
ちょっとだけ、おじさんに似てる。

やっぱり、そんなに恐くない。



「ただいまあ」
「た……ただいま戻りました……」
「なんだよ、仰々しいな」

二十分かけて、やっとのことで懐かしの降矢家に戻った。凰壮くんが玄関で靴を脱ぐ。私の言葉に笑った。
だって「ただいま」って、敬語じゃないみたいで、人の家で使うのは苦手。
凰壮くんに続いて靴を脱ぎ、リビングに入ると、おばさんが足音を立てて駆け寄ってきた。そのまま豪快に私の肩を掴み、上から下まで確認すると、ホッと溜息を吐いて抱きしめてきた。驚いて目を丸くすると「心配したんだよ!」と言う。
まさか、他人からここまで心配されるとは思わず、目が丸くなった。
同時に、悪いことをしたと反省した。こんな優しい人を、心配させてしまった。

「ごめんなさい……道に迷って……」
「ううん、おばさんもついていってあげればよかったね。怖かった?ごめんね」

おばさんが私の頭を撫でた。
お母さんみたいで、安心する。ちょっとだけ、泣きそうになった。

「ご飯できてるけど、食べれる?それとももう寝る?疲れちゃったよね」
「あ、あの……い、いただきます」
「そ。じゃあ今から支度するから、待っててね」

おばさんはおじさんのいるキッチンに戻っていった。ぼんやりと見送ると、視線を感じて恐る恐る振り返る。ソファーに座った三人がジッとこちらを見ていた。
思わず怯む。
三人揃うと、その眼光はやはり迫力だった。

「あ、あの、えっと」
「全く、夢子さんは器用ですねえ。こんな狭い町でよく迷子になりますよ。僕はてっきり、イジメられすぎて逃げたのかと思いましたけど」

すかさず竜持くんの嫌味が飛んできた。
鼻で笑う様子に逃げ出したくなるけれど、凰壮くんの言葉を思い出す。
竜持くんも虎太くんも、心配して捜してくれてたっ、て。

「あ、の……ごめんね、心配かけて」
「本当ですよ。一つ貸しですからね」

驚いたのは、竜持くんが否定もせず、あっさり認めたことだった。
「心配なんてしてないですよ」と、また嫌味の一つでも言われると思っていたのに。竜持くんって、案外素直なのかもしれない。自分の気持ちには正直な人だから、あんなに思ったことズバズバと言えるんだろう。
それだからこそ、彼の言葉には嘘がない。

グウ。
竜持くんの隣から、低い音がなった。
視線を移すと、虎太くんが、ツンと前を睨みつけながらジッとしている。しばらくすると、もう一度、グウと低い音がなった。お腹の音だ。

「お腹すきましたねえ、虎太くん」
「どっかの誰かのせいで昼飯くいっぱぐれたからな」
「え……」

それって。

「お昼も食べないで捜してくれてたの?」
「しょうがないでしょ。練習中に母さんから鬼のように電話がかかってきたんですから」

竜持くんが冷たく横目で睨んだ。
けれども、今はそれがそんなに恐くない。

知らなかった。三人のこと。ちょっと冷たくされて、知った気になってた。恐い人で、私のこと嫌ってて、出て行ってほしいって思ってる、って。
でも、違う。私には、知らないことがまだまだたくさんだ。
知った気になって、一人で恐がって、勝手に怯えて、悪いことをした。

本当は、私が思うよりもずっと、いい奴らなのかもしれない。

「ご飯ができましたよー」

おじさんの声が響いて、三人が返事をしながらダイニングに向かう。
その後ろについて行った。

あんなに帰りたくなかった家に、帰ってこれてよかったと、心から思う。
三か月。長いと思っていた時間が、突然短く感じられたのは、三か月で三人のこと、どこまで知れるかなと思ったからだ。
もっと知りたい。三人のこと。知りもしないで優しくしてくる人たちのことを恐がりたくなんてない。そうして、ちゃんと向き合えば、初恋の人が誰かも、わかるかもしれないし。
まずは、自信をもって「ただいま」と言えるようになれたら、いいな。

六人で囲む食卓は、賑やかで楽しかった。
一人の夜だったら、きっと寂しかっただろう。
この家に帰ってこれて、よかった。


行きはよいよい、帰りは……。





(20140831)

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