「降矢くんって、どうして彼女のこと好きになったの?」

部活の休憩時間。乱取りが終わって柔道衣で汗を拭いながら場外へ出ると、タオルを抱えていたマネージャーが「お疲れ様」という言葉と共に手渡した。「サンキュー」と軽く礼を言って受け取ると、「降矢くんってどうして彼女のこと好きになったの」と脈絡も突拍子もない質問をするので、俺でなくとも驚いた。実際、近くにいた同輩が「え、降矢って彼女いたの?」といかにも驚きましたというように声を弾ます。うわ、最悪。

「なんで黙ってたんだよ」
「別に、いちいち報告することじゃねえだろ」
「うわあ、ヤな奴。なあなあ、彼女ってどんな子?マネージャー、見たことある?」

マネージャーが同輩にタオルを一枚差し出して、しばしば同じクラスの男たちに「芸能人並に可愛い」と賞賛されている顔で愛想良く微笑む。

「あるよ。可愛い子だよね」
「へえ、やっぱ降矢って面食いなんだな」
「……可愛くねーよ」

女って、揃いも揃って何でもかんでも可愛いって言う。あいつのことすら「可愛い」なんて言うのだから、その内、ミジンコ見ても「可愛い」とか言い出すんじゃないだろうか。正直、理解できない。
俺が溜息混じりに吐き捨てると「照れることないのに」と同輩が笑うもんだから、会話をするのもうざったくなって「勝手にしろよ」と背を向けた。付き合っていられるかよ。

「ねえ、まだ教えてもらってないんだけど」
「何が」

小走りで追いかけてきたマネージャーがいつの間にか俺の前に回りこんで、覗き込むように見上げた。随分と見慣れたと感じる。背が低いからだろうか、こいつと話す時のことを思い出すと、いつもこの角度だった。

「彼女のこと、好きになった理由」
「……そんなこと聞いてどうすんだよ」

催促してまで気にすることかよ。
俺が訝しげに目を細めると、マネージャーは普段誰に対しても毅然として喋るはずの声をいくらかひそめて「今後の参考に」と呟いた。心なしか顔まで赤くなっている。こいつも存外、変なことを言うもんだと、眉をひそめた。
成績優秀、容姿端麗、立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿はなんとやら。男子生徒のアイドルだとかマドンナだとかオアシスだとか、そんな両手には余るほどの絶対的な賛辞を常日頃ほしいままにして、しばしば女子からの嫉妬にやっかまれながらも、本人自身は我関せずというように愛想の良い笑顔を崩さぬまま平然と振舞うこの女が。

「あいつなんか参考にしなくても、お前と付き合いたいって奴、たくさんいるじゃん」

マネージャーは、何かを言いかけるように口を半開きにした。それと同時に、休憩終わり、と部長が号令をかける声が響く。他の部員と同じように「ウス」と返事をしてから、マネージャーを置いて畳の上に戻った。

ぼんやりと、マネージャーに問いかけられた言葉を考える。
好きになった理由……。理由ねえ。そういえば、この前の大晦日にも、同じこと聞かれたな。
考えるのも面倒くさいから、すぐに考えるのはやめた。そもそも、好きになった理由なんていちいち覚えているもんなのか。
「あの時の」「あそこで」「あんなことをされて」「ああ言われたから」とか。生憎、そんな決定的で衝撃的な瞬間、持ち合わせてなどいなかった。あいつと一緒にいる時間なんて、それこそ物心がつくかつかないかって時からずっとだし、虎太や竜持を除けば一番長い。毎日当たり前のようになんとなく一緒にいて、一つ一つの何気ない会話や行動の小さな積み重ねが、どうしてかこういう関係をもたらしたのだ。俺の脳みそは長い時間をかけて侵食されてしまったに違いない。じゃなければ、あんな可愛くない女、好きになるかよ。竜持は、袖を通すとき、左から通さないと落ち着かないと言う。たぶん、そういうのと同じ。俺にとってあいつは習慣みたいなもんで、あいつ、夢子といないと、落ち着かないんだ。





「誰が一番綿毛を飛ばせるでしょうゲーム!」

小学校低学年の時だった。晴れた春の日、小学校からの帰り道。また夢子が思いつきでものを言った。俺たちが「はぁ?」と煩わしげな声を漏らすのを尻目に、夢子は傍に咲いていた丸くなったタンポポを摘む。コンクリートの隙間から逞しく咲くタンポポをなんの躊躇もなく摘むので、なんて残酷な奴だと竜持が言った。(もしかしたら、虎太だったかもしれない。俺が思ったのかもしれない。この辺の記憶は定かではないのだが、別にどうでもいいことには違いなかった)。ニ三歩駆けて、真っ赤なランドセルをガタガタと上下に震わすと、またしゃがんでタンポポを摘む。更にまた少し先の道で見つけたタンポポを摘みに車道に出ると、遂に竜持に首根っこを掴まれて叱られた。
夢子はタンポポを両手に二本ずつ持つと、意気揚々と俺たちに差し出す。意図が図れず仏頂面で睨みつける俺たちに「誰が一番綿毛を飛ばせるか競争だよ!」と屈託なく言った。

「競争……?」

真っ先に食いついたのは虎太だった。負けず嫌いなのはこの頃からで、俺は内心「うわ、また始ったよ」と舌を出してうんざりしていた。虎太が乗れば竜持も無下にすることをしない。「どうせなら、罰ゲームもつけましょうよ」とノリノリで提案した。元はといえば夢子の提案したゲームであったのに、竜持の一言であっという間に竜持色の濃いゲームに早変わりしてしまった。竜持もこの頃から、自分の筋書き通りに事を運ぶのが好きな奴だった。
負けた奴は家までランドセル持ち。
罰ゲームも決まり、四人でタンポポを持つ。歩道に並んで「いい?いっせーのだよ?」と隣に立った夢子が念を押した。
馬鹿馬鹿しい。風に乗ってしまったら、どれが誰の綿毛かなんてわからねえだろうに。名前でも書いてあれば別だけどな。でもこいつら楽しそうだし、適当に付き合ってやるか。
そんなことをぼんやり考えながら夢子の合図で綿を吹く。瞬間、春一番とも呼べる強い風が吹いた。タイミングよく吹いた虎太の綿毛は、風に乗ってぐんぐん高く飛んでいった。上へ上へ、まるで地球の外まで行ってしまうんじゃないかと錯覚するくらいに。ワンテンポ遅れて吹いた竜持の綿毛も、虎太のように上へは行かなかったが、斜めに向かって遠く、ずっと先まで飛んだ。あまりにも飛んだ方向がバラバラだったので、俺たちの吹いた綿毛の大群はそれぞれ区別されるように舞っていく。

「虎太くん、さすがですねえ。勢いが違います」

竜持が空を見上げて感心するような声で言った。「銀河まで行っちゃいそうですね」と言うと、まんざらでもないというように虎太が頷く。そんな二人を見て、俺は最悪だと顔を顰めた。何故なら。

「おや、夢子さん。面白いことになっていますけど」

竜持の嘲笑を隠さない声に、虎太も一緒になって振り返った。夢子は夢子で「びっくりしたあ」と大げさに驚いた仕草をした。
俺の吹いた綿毛が、夢子の頭にびっしりついていた。持っていた方向が悪かったのだろうか。風の煽りを受けた綿毛は空には上がらず、無残にも夢子の髪に絡まってしまい、とてもじゃないが勝負にはならなかった。

「夢子、そんなところにいて邪魔してんじゃねえよ」
「え、私のせい?凰壮の場所取りが悪いじゃん!真剣にやらないからこうなるんだよ!」
「まあまあ、面倒くさいんで喧嘩やめてくださーい」

竜持の気の抜ける仲裁で、文句たらたらだった夢子の口が拗ねるように尖った。

「じゃあ、ビリは凰壮くんですか?」
「いや……」

竜持が確認すると、虎太が首を横に降った。虎太の視線を追うと、夢子の手元には綿毛の残ったタンポポがあった。

「びっくりして、思わず風からガードしちゃった」

そう言って夢子はへらっと抜けたように笑った。
馬鹿な奴。言いだしっぺの癖に。

「はい。じゃあ、夢子さん、荷物持ちですね」

罰ゲームは男女平等にやってくる。それは例外なく。竜持と虎太は無常にも、ためらいなくランドセルを夢子に差し出した。夢子は「ええ!」と批難するような声を上げた。

「三つも持てないよ!」
「次の信号まででいいですから」
「早く行くぞ」
「あ、道路に引きずったりして汚さないでくださいね」

竜持がこれ楽しそうに笑う。同じ遺伝子ではあるが、こういう時一等愉快に口を吊り上げるのは昔から変わらず竜持の担当であった。
ランドセルを夢子に預けた二人がずんずんと先に行く。「悪魔、悪魔!」と連呼する夢子を横目で見ながら「懲りねえ奴」と呆れたように馬鹿にした。こうやって毎回思いつきの提案をしては碌な目に合っていないのに。
なんだって出来た。虎太も竜持も俺も、人よりいつも抜きん出た。できないことなんて、思いつく限りではほとんどない。だから夢子なんて、じゃんけんですら俺たちには勝てなかった。(ちなみに夢子は、いつも最初にチョキを出すと、俺たちは全員知っていた)。
どうしてこいつは学習できないのだろうか。馬鹿な奴。

「たく、しょうがねえなあ」

夢子の腕から、竜持のランドセルをひったくる。

「え?」
「お前に持たせてたら、日が暮れるだろ。どうせ俺の綿も飛ばなかったしな。お前のせいで」
「わ、私のせいじゃないもん!」
「はいはい」

わめく夢子を置いて、先を行っていた虎太と竜持の後を歩く。しばらくすると、後ろから追いかける足跡がするので振り向くと、顰め面をした夢子が「……ありがとう」と小さく呟いた。礼を言う時ばかり小さくなる。普段はあんなにうるせえのに。素直じゃない。それは成長しても変わらなかった。俺にばかり、素直じゃない。虎太や竜持の前では、もっと素直に笑うくせに。それを面白くないと感じるようになったのは、いつからだったろうか。少なくともこの時は、まだそんなこと思ってもいなかったと思う。こいつでも礼ぐらいは言えるんだな、なんて、ただ馬鹿にしたことを思った。
夢子の頭にはまだタンポポの綿が少なからず残っていて、目出度い頭にこの上花まで咲いてしまっては手に負えねえなあとぼんやりと考えながら、並んで歩いた。

こんな調子で、夢子は何かと手のかかる奴だった。
思い返せばそれはずっと昔から変わらない。幼稚園の時、あいつが竜持を怒らせて仲間はずれにされた時も幼稚園のコンクリートマウンテンの穴の中で引きこもってめそめそ泣くあいつを無理やり引っ張り出して仲裁してやったし、小学校にあがった時、買ってもらったばかりの自転車に乗せてやったらはしゃぎすぎて暴れて勝手に一人で自転車から落ちて大泣きするあいつをあやしてやったし(夢子は記憶違いで、俺が自転車を転ばせたせいだと思っているが)、小学校低学年の時、学年で行った遠足で、一人トイレに行ってはぐれてしまったあいつを探しに行って見つけてやった。あいつは昔から面倒くさいことばかり引き起こして、俺たちは(というか主に俺だったが)幼馴染のよしみで助けてやる羽目になった。その度に夢子はやはり蚊の鳴くような声で「……ありがとう」と言い、決して目線を合わせずに俯いたが、泣いてる間は決まって俺の服を掴んで離さなかった。
いつも口喧嘩ばっかりしているからだろう、そういうめそめそしている夢子といるのは調子が狂った。こういう雰囲気は好きじゃない。泣いてる夢子はやっぱり面倒くさいし。それよりも、くだらない口喧嘩して夢子を怒らせている時のほうが、ずっと楽しかった。
だから俺は、泣いてる夢子をあやすので、一生懸命だったのだ。
この頃から、虎太や竜持ばかり贔屓する夢子に、しばしばムッとすることがあった。単純に、夢子の露骨な態度の違いが面白くなかったのだと思う。一色単にされることもムカつくが、自分ばかりのけ者扱いされるのが嬉しいはずなかった。

小学校四年生の冬の時期。ある日突然、夢子が俺を避けるようになった。虎太や竜持にはいつも通りだったが、何故か俺とは目を合わせようとせず、話しかけても首を上下左右に振るだけで、碌に返事もしようとしなかった。俺たちの家に遊びにくることもなくなったし、放課後は一人で真っ先に帰ってしまった。俺のいないところで竜持とこそこそと話すところを何度か見たが、俺が来ると逃げるように去っていった。さすがの態度の悪さに苛立って、授業終わりに廊下でとっ捕まえた。(竜持に訳をきいても「企業秘密です」と教えようとはしなかった)。
「なに怒ってんだよ」と問い詰めると、やはり夢子は黙った。身に覚えのないことで避けられるのは正直言って気分が悪い。言いたいことがあるなら言えばいいんだ。夢子はよく一人でうじうじ悩んで勝手に落ち込むことがあった。そういうところが面倒くさいのだと、竜持によく鬱陶しがられていたし、俺も同意だった。
他の誰がいきなり避けようがどうでもよかったが、夢子に避けられるのは、落ち着かなかった。それはやはり、こいつと一緒にいることがもはや俺の中で習慣づいていたからかもしれなかった。
「……わかったよ。勝手にしろよ」
うんともすんとも言おうとしない夢子に痺れを切らしてそう吐き捨てた。そんなに俺が嫌いかよ。
掴んだ腕を離すと、夢子が何か言いたげに俺を見た。
「なんだよ」
言えよ、とでも言うように問いかけたが、結局夢子は何も言わなかったので、夢子を置いてその場を後にした。
その日の夜、竜持に「夢子さん、泣いてましたよ」と報告された。
「……へえ」
「もう。喧嘩するのも大概にしてくださいね」
「俺のせいかよ」
「凰壮くんのせいではありませんが、相手は夢子さんという手のかかるお子様なので、凰壮くんに大人になってもらわないと困るなあ、という意味です」
「なんだ、それ」
というか、訳を知っているくせに黙っている竜持はなんなんだ。面倒くさいのが嫌ならば言ってしまえばいいじゃねえか。竜持が俺や虎太に隠し事をすることは、自分の弱み以外でほとんどなかったので、竜持のこの行動にも少しの疑問と苛立ちを感じずにはいられなかった。
「まあまあ。それなら明日の放課後、河原に行ってみるといいですよ」
竜持はそう言って、意地悪く笑った。
次の日、学校が終わって練習に行く前に、一人で河原に向かった。自転車を走らせて土手沿いに自転車を止める。「何が行ってみるといいだよ」とぶつくさ文句を行って川辺を歩くが、特に変わったとこなんてなかった。また竜持に担がれたのかと思って帰ろうとしたが、遠目に人が川の中を歩いているのが見えた。こんな冬の時期に川に入ってるなんて、どんな馬鹿だよと思ったが、その背格好には見覚えがあったので思わず駆け出した。
「おい、何してんだよ!」
そいつのところに着く前に、怒鳴るように声が出た。川に入っていた人物は驚いたように肩を震わせてから、ゆっくりとこちらに振り返った。
紛れもなく、夢子だった。
「お、凰壮……なんでここに」
「それより何やってんだよ馬鹿!さっさと上がれよ!」
夢子の傍まで行って、手を伸ばした。川は浅く、夢子の膝までの深さしかなかったが、こんな寒い季節に川に入ってちゃ、いくら夢子でも風邪を引く。こいつの考えてることは単純でわかりやすいが、時々あまりの馬鹿さに突拍子もないことをするので、その度に俺は呆れかえっていたが、今回ばかりは呆れると通り越して怒鳴り散らしてしまった。夢子は俺に怒鳴られて驚いたのだろうか、それとも避けていた俺に見つかって戸惑ったのだろうか、二三歩後ずさると突然深くなった川に足を取られて後ろ向きにすっ転んでしまった。
「あ、馬鹿!」
バシャン、と豪快な音が鼓膜に届く。同時に靴も脱がずに川に入って、水を掻き分けて無我夢中で夢子を抱き起こした。夢子は胸の辺りまで水に浸かって、髪にも水滴が滴っていた。前髪から落ちた雫なのか涙なのかはわからないが、目から水の痕が伝ったので、ぎょっとした。怪我でもしたんじゃねえかって、転んだ時についた手とか腕を確認する。少し擦り剥いてはいたが、血は出ていなかった。小さく安堵して「どっか痛いのかよ」と訊ねたが、夢子はやはり喋らず、口を噤んだまま首を横に振った。この期に及んで喋らないつもりかよ、と思ったが、怪我をしていないならそれでいい。とりあえず、夢子を川から運んで、エナメルバッグに入っていた練習用のタオルで夢子を拭いた。
「こんな日に何考えてんだよ。川になんか入って」
「……」
「……言いたくねえならいいけどさ、馬鹿なことだけはすんなよな」
「……ごめん」
ぽつりと、俯いた夢子が呟いた。久しぶりに、その声を聞いた気がした。
「……何に対してだよ」
「全部……」
「……気に入らねえことあれば言えば」
「ち、違くて」
突然、夢子を拭く俺の腕を、夢子が掴んだ。その冷たさに、ひやっとする。こいつ、いつもこんなに冷たくない。いつから、こんな川に入ってたんだよ。夢子を見ると、唇はいつもに比べてずっと紫で、俺の顔も青くなる気がした。
「お、落として」
「落とす?」
「鍵……学校のロッカーの鍵、落として」
「はあ?それで川入って探してたのかよ。馬鹿じゃねえの、諦めろよ」
「だって、鍵、あの、ストラップが……」
「ストラップ?」
何を言っているんだ、こいつは。言っている意味が理解しかねて眉をひそめると、今度こそ確実に夢子の目から涙が一粒、二粒、数え切れないくらい零れ落ちるので、思わず息を呑んだ。
「お、凰壮にお土産でもらった、ストラップ……鍵につけてたの」
「は……?」
ストラップ?……って、二年生の時、サッカーの遠征で栃木に行った帰りのサービスエリアで買ってきた、ペンギンキャラクターのご当地限定のやつ?あんなの、夢子が集めてるの思い出して、気まぐれに買っただけなのに。そんなもの探してたのかよ。
「だ、だから、見つけようと思って、探してたんだけど、見つからなくて……ごめんね、折角くれたのに、落としちゃって、ごめ……」
時々しゃくりあげながら喋ると、最後まで言いきれず、夢子は顔をその冷たい両手で覆って泣きじゃくってしまった。こんな泣き方されたのは、長く付き合ってきて初めてだったので、正直、ガラにもなく戸惑った。いつもは顔を隠すことなんてしないくせに。まるで、合わせる顔がないとでも言うように、両手で隠してしまった。高々、お土産のストラップ一つで、どうしてこんなに思いつめているのか。こんな凍えるような寒い日に、顔を青くさせてまで川に入って。俺があげた物のために。馬鹿じゃねえの。
……馬鹿じゃねえの。
「ストラップぐらい、また買ってきてやるから」
「そ、そういうことじゃないもん……凰壮から、初めてもらった物なのに」
「……だからって、お前が風邪引いたり怪我したりして俺が喜ぶと思ってんのかよ」
三つ子の悪魔とはこの頃から俺たちについた通り名のようなものであった。別に、この通り名自体に嫌悪感はなかったし、竜持なんて気に入っていたくらいだ。ただ、幼馴染が自分のために川に入って無茶するのを喜べるほど、人間捨てているわけでもなかった。
「で、でも……」
「とりあえず帰ろうぜ。ここにいたって寒いの変わらねえし」
そう言って、近くに置いてあった夢子の荷物らしきを持ち、夢子の腕を引っ張って立たせた。引くように手を握って歩くと、後ろから「ありがとう」と呟くような声が聞こえた。同時に、夢子がぎゅうっと力を込めて俺の手を握った。
夢子が大人しいのは調子が狂う。この雰囲気は相変わらず苦手だった。
それに加えて、その日はどこか、こそばゆく感じた。
次の日、夢子は見事に風邪を引いた。竜持はまさか川の中に入って探しているとは思っていなかったようで、お見舞いに行って小一時間罵倒を含んだ説教をかました。その後ろで、虎太はお見舞いに持ってきたプリンを食べていた。
全快した夢子は、それからいつも通りになった。相変わらず俺と口喧嘩しては怒って竜持や虎太に泣きついた。顔を真っ青にして泣きじゃくってたなんて嘘だったんじゃないかってくらい普通だった。虎太や竜持を贔屓するのも相変わらずで、やはり面白くないと感じる俺も今まで通りだったが、それに加えてあの日の「こそばゆさ」がずっと取れなくなっているようだった。

五年生に上がってしばらくしたある日、虎太と竜持が揃って風邪を引いた。仕方がないのでサッカーの練習には一人で行った。サボろうと思ったのだが、大会が近いのに休んでんじゃねえよと虎太が怒った。虎太のこういうところが面倒くせえなあと内心思っていたが、ふらふらの体で練習に行こうとする虎太の背中を見てたら、なんだか「しょうがねえなあ」という気持ちになった。
だがこの日が最悪だった。
俺が一人なのをいいことに、コーチが俺を呼び出した。常日頃の、試合の態度が悪いと説教をしだした。子供相手だというのに三対一では勝てないとでも思ったのだろうか。それとも、口の回る竜持がいなければ言いくるめられるとでも思ったのか。どちらにしても、大人の癖に考えることが姑息で、酷く癪に障ったし馬鹿馬鹿しいと呆れたことを覚えている。正々堂々と説教の一つもできないのだろうか。子供の顔色ばかり伺いやがって。自分が一番安全な方法をとろうとする。言いたい時に言えなかったくせに、後から掘り返して何が説教だ。酷く、虫の居所が悪い。
その時自分が何を言ったかはよく覚えてないが、とにかく馬鹿にして笑ってやったことだけは覚えている。「お前みたいな大人になりたくないから、反抗的なんだよ」とかなんとか。コーチは顔を真っ赤にして怒ったが、怒鳴り声を聞いた別のチームメイトたちが萎縮したのを見て、平静を保ったようだった。
練習が終わって一人で家路に着く。いつも三人で自転車で帰る道がやけに長く感じたのは、腹の虫がおさまらなかったからだろうか。
なんとなく、家に帰りたくないと思って、公園に立ち寄った。虎太も竜持も、同じ遺伝子だからか、互いのことを分かりすぎている。心の機微には敏感だ。きっと、何があったんだと聞かれるだろう。別に言ってもいいが、また一から説明して腹立たしい思いをするのは嫌だったし、何よりチクるみたいで気分が悪かった。
「あれ、凰壮、どうしたの?」
公園に入ると、滑り台の上から声が降った。見上げると、夢子が頂上にいた。お前こそそんなとこで何してんだよ。
夢子は滑り台を滑って降りると、俺のところまで駆けてきた。「練習終わったの?」と満面の笑みで訊ねてくる。「ああ」と相槌を打ちつつもどこかばつが悪くなって視線を泳がせた。
「私もね、そろそろ帰ろうと思ってたの。一緒に帰ろうよ」
「……ああ」
軽く相槌を打ってから二人で公園を出る。自転車を引いて歩く俺の隣に、夢子が並んだ。何もこんな時に会わなくてもいいだろうに。内心、ちょっと面倒くせえなと思っていた。
「ねえねえ凰壮、手出してよ」
「……なんで」
「えへへ、いいからいいから」
嬉しそうににこにこ笑う夢子を訝しみながら、しぶしぶ手を出した。そうすると夢子が「はい、いいものあげるね」と言って俺の手に何かを置く。その物を見れば、有名なキャンディーの、中身のない包み紙だった。
「……ゴミじゃん」
「ゴミだね」
「ふざけんなよ、いらねえよ」
「待って待って、それゴミじゃないから!よく見てよ、その包み紙」
夢子が慌てて弁解するように包み紙を指差した。何がだよ、と文句を言いつつ包み紙を眺める。何の変哲もないその包み紙は、マスコットキャラクターであるペロちゃんが印刷されていて、数人のペロちゃんが柄のように並んでこちらをただただ凝視していた。
「それね、ペロちゃんが十人いるんだよ」
「……だからなんだよ」
「ペロちゃんが十人いる包み紙を持ってると、ラッキーなことがあるんだよ!凰壮、知らないの?」
知るかよ。
「じゃあ、お前持ってればいいじゃん」
「私はもう一枚持ってるから大丈夫。あ、でも虎太と竜持には内緒だよ。一枚しかないからね」
なんだそれ。
「虎太と竜持には、応募商品券のついてるゼリー買ってきたの。凰壮、後でお見舞いだって言って渡しといて」
はい、とコンビニの袋を俺に手渡す夢子。
「俺には包み紙で、虎太と竜持はゼリーなわけ」
「え、だって凰壮元気じゃん」
「……」
まあ、元気だけど。
「それに、包み紙のほうが貴重なんだからね」
「……あ、そう」
「そうそう」
夢子は楽しそうに笑った。
こいつは、本当に何も気付いちゃいないんだろうな。俺が機嫌悪いってこと。虎太や竜持みたいに察しはよくない。察したら察したで、もっとあからさまに態度に出る。分かりやすい奴だから。だから今こんなに能天気に笑ってられるんだ。鈍感なんだよな。馬鹿だから。
でも、そういうところが、今は有難かった。
何も気付けない、何も気遣えない、当たり前の態度が。馬鹿みたいなことで、楽しそうに笑うこいつが。こいつを見ていると、気が抜ける。ムカついてたことも、忘れさせられる。なんか色々、どうでもよくなった。
手の中で俺を凝視する十人のペロちゃんを見ていたら、またあのこそばゆい感覚がした。
家に着いて夢子が「また明日ね」と手を振った。「おー」と適当に返事をして、家の門をくぐる。自転車を車庫にしまうと、夢子にもらった包み紙を、財布の中にしまった。

六年生の五月。俺たちの誕生日に、虎太がまた風邪を引いた。怪我ばかりで風邪などめったに引かない虎太が珍しく一週間もこじらせた。
誕生日になっても熱が引かないと知ると、夢子はたいそう落ち込んだ。毎年俺たちの誕生日には凝ったことをしていたから、一層ショックだったようだ。その日一日、溜息ばかりを吐いていた。
夢子の気持ちは分からんでもない。俺たちだって、虎太がいない誕生日は面白くなかった。だからと言って、夢子がこれ見よがしに溜息を吐くのは、もっと面白くなかった。
まるで、俺たちは三人揃っていないと価値がないと言われているようだったからだ。
最初にそれを言われたのは、いつからだったろうか。三人揃って一人前とか。それを自分より下手な奴に言われるのだから、腹立たしいことこの上なかったし、一色単に扱われるのも心外だった。
「お前もさ、俺たちは三人揃ってないと意味がないって、思ってるわけ?」
思わず夢子に訊ねた。夢子はしばらく考えた後、困ったように言った。
「三人っていうか、四人じゃないと意味がないって思ってる」
正直、面食らった。そういう意味で聞いたわけじゃない。でも、やっぱりこいつは馬鹿だから、俺の質問の意味を図りかねたのだ。五年生の時、ペロちゃんの包み紙一つで喜んで俺の不機嫌に気付きもしなかった時のように。
図りかねたのは、そういう考え自体、持ち合わせていなかったからだろう。俺たちが三人で一人前とか、三つ子だからとか、そういうことよりも、こいつの中で俺たちは幼馴染という括り以外の何者でもなかった。相手によって簡単に態度を変える。虎太には甘えて、竜持には頼って、俺には悪態を吐く。こいつの中で俺たちは、全く別の人間なのだ。そんな当たり前のことが、今更、どうしようもない気持ちにさせた。
だからこいつの隣は、こんなに居心地がいいんだ。
虎太の風邪は次の日に治り、俺たちは一日遅れの誕生日を祝われた。

それ以降だろうか、虎太に甘える夢子に、妙な苛立ちを覚えるようになった。前々から面白くないと感じてはいたが、その面白くなさはより強固なものとなっていた。俺の苛立ちを察してか、竜持は後ろで楽しそうに笑い「どうどう」と言う。馬か。
「凰壮くんって、案外ヤキモチ妬きなんですねえ」
「なにが」
「またまたあ、隠さなくてもいいんですよお」
そうやって茶化す竜持の言葉の意味が分からなかったわけではない。自分でだって分かっていた。いつからかは分からないが、程度こそ違えど、ずっと前から虎太との距離を面白くないと感じていたのは事実だ。俺にはそんなことしないくせに。それと同時に、試合を見に来た夢子が、俺たちが試合で勝つと、当事者の俺たちより喜ぶのを、「馬鹿だなあ」と呆れつつ嬉しく思っていた。
嘘がない。分かりやすくて、馬鹿で、扱いやすくて、くだらないことに一生懸命になって、くだらないことで馬鹿みたいに喜ぶ。
もっと笑っていればいい。それで時々怒って、機嫌取ったらまた笑って。それが俺は楽しいんだ。





「あは、凰壮、ペロちゃんの包み紙お財布に入れてるの?」

部活終わり。補習で遅くなったと言う夢子と待ち合わせて、一緒に帰った。コンビニに寄ってお菓子を買う夢子に付き合って、俺も「そういえば電池がなかったんだ」と単三電池を買った。先に会計が終わった夢子が、俺の隣にやってきて、金を払う俺を見てくすくすと笑った。どうやら、財布の中に入っていた包み紙を見て笑ったらしかった。

「もしかして、十人いると幸せになれるってやつ?凰壮、そういうの信じてるの?意外と可愛いところあるんだね」
「……お前さ、それ本気で言ってるわけ?」
「え?何が?」

夢子が口元に笑みを浮かべたまま、首を傾げた。どうやら本気で言っているらしい。
自分があげた物も覚えてねえのかよ。

「……鳥頭。そんなんだから赤点なんて取って補習受ける羽目になるんだよ」
「うわ、何それ酷い!ちょっと笑っただけでその言い草なくない?」
「知らね。ばーかばーか」

軽く頭を小突くと、夢子はキーキー喚いた。
はいはい、と軽く流して、コンビニを後にする。後ろからついてきた夢子が「鳥頭って何?」としつこく問いただしてきた。

「脳内お花畑ってこと」
「そういう意味で聞いたんじゃない!」
「自分で思い出せよ」

夢子の先を歩く。ふと、夢子がいつまで経っても隣にこないことに気付いて振り返ると、数歩先をふて腐れたように歩いていた。

「なに拗ねてんだよ」
「す、拗ねてないし……」
「……」
「な、なに……」

じっと見つめると、次第に顔を真っ赤にさせる夢子の視線が、ちらちらと一点に何度も送られるので、察しずにはいられなかった。本当にこいつ、わかりやすいな。

「夢子」
「なに……」
「手繋いで帰ってやろうか?」
「!」
「嫌なら別にいいけどな、俺は」
「い、嫌じゃない!」

後ろにいた夢子が、犬みたいに駆け寄ってきて、俺の隣に立った。
お手でもするみたいに手を差し出すので、思わず吹き出すように笑うと「ちょっと、馬鹿にしないでよ」と夢子が顔を赤くする。

「分かりやすい奴」
「凰壮が察しいいんだよ」
「お前は察し悪いよな」
「う、うるさいな」

褒めてるのに。こいつはまた、馬鹿にされたと思うんだろうなあ。ま、言わないけど。面倒くせえし。




あの日、虎太の綿はぐんぐん上って、空高く、地球も越えてしまうんじゃないかっていう勢いだった。竜持の綿も、真っ直ぐではないが、捻くれて遠くに飛んでいった。
俺の綿はと言えば、夢子の頭に絡まってしまって、きっとあそこで新しいタンポポでも咲かせてしまったんじゃあないだろうか。そう思うと、あの日ランドセルを持たされたのも、悪くないと思った。

夢子はいつまで経ってもお花畑みたいな思考回路で、俺はそれに、幾らか感謝していたからである。




一年ぶりくらいだった(20140816)

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -