重くて見れない方こちら



竜持くんと初めて出会ったのは、三年前の春、夜の公園だった。

知らない道を散歩していたところ恥ずかしながら小学三年生にもなって迷子になってしまった私は、元来泣き虫な性分も手伝ってその日も例にもれず泣き続けて三千里、うさぎの如く目を真っ赤にさせてメソメソと泣いていた。足が棒のようになる、とは一般的な表現であるが果たして自分の足が棒になっていたかはわかりかねる。(いやなるはずなんてないのだが)ただ疲れてふくらはぎが痛んでいるのはわかった。どこかで休もうと目に付いた公園に立ち寄り、しばらくゆりかごのように規則的に揺れるブランコに身を委ねて気を落ち着かせようと試みたが、錆びついた鎖がギィギィと鳴るのが不気味に感じられて怖さに震えあがった。
せめて探してくれているであろう母親に見つかりやすいようにと、インクが剥げかかって年季の感じられるジャングルジムのてっぺんへ上ってみたが、あまりの高さに恐れおののいてしまって、より涙の排出に拍車をかけてしまった。普段は怖がって上ることのないジャングルジムのてっぺんから見える景色は一面闇で、むしろ闇しかなくて、到底絶景かななどと景色を楽しむことなどできないし、やはり怖いのでそんな余裕もあるはずない。
公園の電灯は隅っこに申し訳程度に二本だけ設置されているだけで、公園全体を照らしてくれているわけではない。時々不規則に点滅する薄暗い灯りは反来の役目に反して恐怖を増長させるだけではなく、ブンブン飛び回る小さな虫を掻き集めていて気持ち悪かった。

いつもは気にする人の目を、その日は気にせず泣き叫んだ。遊具から手を離すのが怖くて、手で顔を覆ったりすることもなかった。だって周りに人なんていなかった。
人の身体は70%が水でできていると学校で習ったが、こんなに泣きわめいてしまってはいつしか干からびて死んでしまう。コンクリートの上に干上がったミミズのように、水をもらえなくなった花のように、カラッカラのパリッパリに干からびて死んでしまう。呆気なく、誰も気にも留めず死んでしまう。
そう思うとまた悲しくなって涙の量が増えた気がした。
早くお家に帰りたい。誰かに見つけてほしい。
暗いし怖いし寂しいし帰りたいし帰れないしお腹すいたし眠いし歩き疲れたし泣き疲れた。

このままずっと一人ぼっちかも、と不安に蝕まれたころだった。

「うるさいですよ」

そう言った声は、私の泣き声で掻き消されてしまいそうだったけど、確かに聞こえたのだ。驚いて下を見ると公園の頼りない電灯に照らされながら悠然とこちらを見上げていたおかっぱの子と目が合った。
その子は訝しげに眉を顰めると、首を傾けた。切り揃えられた髪の毛が連なって揺れる。
少し長めの髪と中性的な顔立ち少しハスキーな声、何より暗がり且つ涙で薄ぼけた視界が手伝って、その子が男の子か女の子か確信的な判別はつかなかった。

私が何も言わず戸惑っていると「まったく近所迷惑です」とおかっぱの子は続けた。
ごめんなさいと風前のともしびの如く消え入りそうな声で謝ったが、その子には聞こえていないようで、「お子様ははやくお家に帰るものですよ」と言って嘲笑じみた笑みを見せたがその子はどう見ても同じ歳くらいであった。普段ならこのような毒舌をくらってしまっては私の涙は水道を捻ったように止めどなく流れてしまうのだが、今はそれどころではなく、私が助かる希望の光だと思った。
その子は踵を返して公園から去っていこうとしたので、助けを求めよ!と脳内でうるさく鳴り響く警報に瞬時に従い、私は普段出したことのない大声で「待って」と呼び止めた。
迷惑そうに眉を吊り上げてこちらに振り返ったおかっぱの子に、私は一生懸命自分の置かれた状況を拙い言葉で説明した。人見知りで人と話すのが苦手なうえに、泣きすぎて麻痺していた唇が言葉を紡ごうとするたびにプルプルと震えるのがわかったが、今はそれどころではなかった。

「帰りたいの、でも、迷子で」
「……」
「た、たすけ、て」
「どうして僕が」

鼻で笑ったような声だった。

「お願い……」

先ほど引っ込んだはずの涙がまた外界に出ようと眼球を通って外気に触れる。おかっぱの子は溜息をついて「助けて欲しかったら早く降りてきてくださいよ」と腕を組んだ。
私は急いで降りようと足を下の枠に伸ばしたのだけど、改めて地面を見るとあまりも距離がありすぎて、実際にそうだったのだけれど、目の前が真っ暗になるような気がするほど恐怖した。加えて泣き疲れた身体が眩暈と頭痛と吐き気と痙攣を訴えてきて、高所暗所に身体的不調といった要素が、私が下まで降りるために必要な勇気をぼこぼこに粉砕していく。
緊張して手汗までかいてきたのか、ペンキが剥げてところどころ鉄の見え隠れする棒と手がズルズルと摩擦する。

「お、降りれない、こわくて……」

私が言うとおかっぱの子はもう一度、今度は深く息を吸ってからため息をついて「間抜けですねえ」と呆れてから、複雑に組み込まれたジャングルジムを軽快に上ってきて、あっという間に私の隣までやってきた。

「はい、一緒に降りましょう」

そこで初めて目が合う。近くでよく見ると、中性的な顔立ちをしているものの、明らかに男の子だった。真っ直ぐに吊り上った瞳は気の強さを感じさせた。
男の子は、手を差し出してきた。枠から手を離すのは怖かったけれどこのまま一生鉄の棒を掴んでいては、手が鉄臭くなってしまう。否もうなっているかもしれない。そうして手を取ってしまえば男の子手も鉄臭くなってしまうかもしれない。それは申し訳なかった。

「鉄臭くなっちゃうけど、いい?」

ときくと男の子はきょとんとした顔をしてから「ああ」と納得したような声を出して「涙で皮膚でも錆びたんですか?」となんとも粋な返答をみせた。今度は私がきょとんとすると「冗談です」と男の子は口の端を吊り上げて笑った。
「臭いなんて洗えば取れますよ、そんなことよりさっさと降りないと夜が明けちゃいますよ」
通常こういう時の表現としては「日が暮れる」が適切であるけれでも、確かにこのままでは言葉通り夜が明けてしまう。

「僕、早く帰りたいんですけど」

その一言で、私は意を決して枠から手を離し男の子の手をとった。
「いい子ですね」と男の子は言って口の端を吊り上げるだけの笑みを見せた。子供をあやすようなセリフや鼻で笑うような笑い顔にどこか皮肉を感じたけれど、私は素直に褒められたととらえた。

月明かりに照らされて手を繋ぐ姿はどこか幻想的で、自分たちがまるでおとぎ話の王子様とお姫様のように感じられた。



男の子は私を交番まで連れて行ってくれて私は無事に家に帰ることができが、男の子は交番に着くとさっさと帰ってしまった。お母さんに叱られて私は反省と安堵の気持ちが混ざり合った涙がまた出たけど、頭では私を助けてくれた男の子のことで頭がいっぱいだった。


翌日、昼間なら迷わないだろうと思い、私は再び昨日の公園へ出かけた。道順は昨日の帰り道に覚えておいた。男の子にお礼をしに会いに行きたいと考えていた。
公園には昨日とは違いたくさんの親子連れで賑わっていた。私が昨日不気味に感じた錆びたブランコも怖くて降りられなくなったジャングルジムも、昼間は子供たちのよき遊び相手として活躍しているようだった。私はあたりを一度見渡してあの男の子がいないか探してみたけど、いるのは幼児か保護者ばかりであり、同じ歳くらいの子さえそこにはいなかった。
ここにいたところで昨日の男の子に会えるかわからないが、ここ以外に男の子の現れる場所などわかるはずもなく、結局私はこの公園しか恩人に対する手がかりはなかったので、仕方なしに公園のベンチに座って男の子が現れるのを待った。
目を凝らし公園の遊具で遊ぶ人や公園の前の道を通り過ぎる人を観察したが、その日それらしい人は現れなかった。

それ以降私は毎日学校終わりに通って男の子が現れるのを待った。時々今日も会えなかったと泣いてしまいそうになったけれど、あの子が言ったように皮膚が錆びてしまっては嫌だと思って、唇をギリギリ血が出ない程度に噛みしめて泣くのを堪えた。
来る日も来る日もあの子が現れるのを待つ私はまるで忠犬のようで、犬になってしまえば匂いを嗅いであの子のところに辿りつくことができるだろうと思いいっそ人間をやめてしまいたいと思ったが、あの子に会った時に犬だったらきっと気付いてはもらえずそれは本当に号泣してしまいそうなので、やっぱり人間でありたいと思い直した。

公園に通い始めて二週間くらいが過ぎた日曜日のこと、私はあの男の子にそっくりな後ろ姿に出会った。太陽が空にある明るい時間に見るのは初めてだったが、背丈が同じくらいだったし、何よりあの特徴的なおかっぱを見間違えるはずなどなかった。
やっと恩人に再開できたことへの喜びから心臓は鼓動を早め窒息してしまうのではないかと危惧されたが、人間の身体はそこまで軟なつくりではないようで、多少息苦しかったが私が酸素を取り込むこと自体になんら支障はなかった。代わりに私の軟な涙腺がゆるゆると緩まってゆらゆらと瞳が揺れた。目薬を差したように潤っていく眼球を叱咤するようにぎゅうと強く瞬きをし、涙を乾かした。

そして男の子を見失わないように、私は駈け出した。私の足は決して速くない、むしろリレーでは必ず抜かされるし徒競走では最初から最後までビリッけつだし50m走のタイムは二桁台であるほど運動音痴には悩まされているほどだ。それでも男の子を見失ってはいけないと思い、全力で足の筋肉に動けと命令した。
男の子は歩いていたが結構な距離があった。角を曲がられたりしたら見失ってしまう。そう思った私はあの日の様に普段発揮しないような声量で、男の子を呼び止めようとした。

「ま、待って!」
しかしながら男の子は立ち止まることなくスタスタと迷いない足取りで歩幅を進めていく。あの日はきちんと待ってくれたのに。自分が声をかけられていることに気付かないだろうか。それとも私の声なんて、あの子の耳には届かないんだろうか。
そう思うと乾いていた私の瞳は次第に潤いを取り戻していき、眼球と皮膚のわずかな隙間に留まってみせた。瞬きしたら流れてしまうので目を閉じないように努力すると、今度は目に空気が染みて痛くなった。

「ま、待ってよう」ほとんど鼻声で声を上げると思いのほか辺りに響いた。前を歩いていた男の子は一瞬肩をビクつかせると立ち止まってこちらに振り返った。

あの鋭く気の強そうな目と、目が合った。

「あ、あの」
いきなり振り返られたので少し驚いてどもってしまった。
男の子は表情を変えることなくただじいっと黙ってこちらを見つめた。その姿に少しだけ違和感を覚えた。あの時の様に迷惑だというように眉間に皺を寄せることもなければ毒舌が冴えわたることもない。あの男の子とはどこか違う気がした。しかし確かにこの男の子はあの男の子と同じ姿形をしていた。顔の造形はもちろん、髪形や背丈に至るまで、あの子とは寸分違わない。
私が戸惑っていると後ろから声がした。「虎太くん先に行かないで下さいよ」目の前の男の子は私の後ろに視線を向けて「ん」と相槌を打った。背後から聞こえた声に聞き覚えがあった。

振り向くと、あの日の男の子がさらに二人並んで立っていた。私は算数は得意ではないが、この程度の足し算くらいなら指を折らなくてもできる。あの日の男の子は、先に見つけた子と後からきた子の二人で、三人いた。頭のてっぺんからつま先まで全く同じ彼らは、かろうじて履いてるスニーカーの色が違うだけで、服装や鞄など身につけているものまで同じであった。
私は狐に化かされたような気持になって、ぱちぱちと幾度も瞬きを繰り返しきょろきょろと三人を交互に見渡したが、数は減るはずもなく男の子は三人いた。(増えなかったことがせめてもの救いだ)

わけのわからない状況に怖くなって、ギリギリで保っていた涙の雫がぼたぼたと落ちてしまった。
私はただ、私を助けてくれた恩人に会いたかったのだ。

すると三人のうちの一人、若草色のスニーカーを履いた男の子が「また泣くんですか?」と言った。見ると手を口元に添えてクスクスと笑っている子がいた。
「また迷子になっちゃったんですか?学習能力がありませんねえ、脳みそ働いてます?」

ああ、きっとこの子が、会いたかった人だ。




その後恩人の男の子はもう二人の男の子に先に行くよう言い、私たちは公園のベンチに座って少し話をすることになった。
男の子は名前を「降矢竜持」と名乗り、同じ顔をした男の子たちは三つ子の兄弟だと説明してくれた。歳は同じらしかった。三人は近くにある土手沿いの小さなグラウンドでサッカーの練習をしに行くところだったらしい。そういえば三人ともお揃いらしい黒のジャージを身に纏っていた。「引き留めてごめんなさい」と言うと竜持くんは「ですから手短にお願いしますね」と言った。

私は急いで鞄の中から家で焼いてきたクッキーが入ったラッピングされた袋を取り出した。あの日のお礼にと思って母親に教えてもらいながら一生懸命作ったものだった。慣れないことはするものではない。何度も何度も失敗してしまいその度に作り直した結果、一時期我が家は焼き菓子の匂いが充満し終始胸焼け状態になったあげく、失敗したクッキーの処理のため毎日クッキー三昧の日々を過ごして肌が焦げたクッキー色になってしまわないかと危惧するほどだった。

私がさしだした袋を竜持くんはじろじろと眺めて、中身が食べ物とわかると気味悪く思ったのか「知らない人からものをもらうなと母親から言いつけられているので」という体のいい断りを入れた。
思いもよらない返答に私はショックを受けてしまい、耐える間もなくほとんど反射的に涙が出てしまった。

どうして私の涙腺はこんなに緩いのだろうか。
私が泣くたびにクラスの友達は「また泣く」「すぐ泣く」とちゃかしたり呆れたりするけれど、私だってこんな自分に辟易する。その度にまた泣いてしまって、私の身体きっとおかしいんだと思った。病気かもしれない、と思った。そうじゃないとこんなに涙なんか出るはずもない。きっと病名はかっこよく言うと「涙腺弛緩病」とかそんなん。もっと簡単に言うと「涙ぼろぼろ病」とかだ。いつかこの病気のせいで私のたった70%しかない体内の水が少しも残らずなくなって、私が干物みたいに干からびてしまったら、私を惜しんでお母さんとかが代わりに泣いてくれるのだろうか。でもそれはすごく悲しいことで、そういいうことを考えると私はまた「涙腺弛緩病」もとい「涙ぼろぼろ病」が発病してしまって、残りいくらかはわからないがきっと30%にも満たなくなっているであろう水分を眼球を通してさらに体内から追い出してしまうのだ。
悪循環とはまさにこのこと。きっとこうして私は一生涙に暮れる毎日を送るのだろう。

私が泣くのを見て、竜持くんは呆れてしまうだろうと思ったが、意外にも竜持くんの口からは忍ぶような笑い声が聞こえた。
竜持くんの唇は弧を描くような笑みを携えていてしばらくするとその唇は「気が変わりました、ありがたくいただきますよ」と言った。
何故気が変わったかはわからないが、私はその言葉を聞いて素直に嬉しく思った。
竜持くんはクッキーを一つ手に取って目の前に持っていき、表裏側面をくまなく観察したし半分に割って中を確認してから、割った片割れを口に入れた。

「……どう?」と伺うように尋ねると竜持くんは「鉄の味がしますね」と言った。

確かに何度も失敗してしまって私は終盤半泣きになりながら作っていたが、もしかしたら涙が落ちて生地の中に混入してしまったのかもしれない。あの日竜持くんが言ったように私の皮膚は涙で錆びてしまったのかもしれない、と思った。

「冗談です」
竜持くんは言った。
「ちゃんと甘いですよ」
竜持くんにそう言ってもらえたのが嬉しくて、私は照れたように笑った。
竜持くんはクッキーをもっていないほうの手を私の方に伸ばしてきて、躊躇うことなく頬に触れた。
「涙が痕になってますよ」
そう言って親指の腹で私の頬を拭った。
私は綺麗に笑う竜持くんはやっぱり王子様みたいで、見惚れた。




その日から私と竜持くんは時々会うようになった。私が一方的に約束を取り付けて会いに行くだけだったが、竜持くんは必ず約束を守ってくれた。
竜持くんとは通っている小学校が違ったので、待ち合わせでしか会える方法がなかった。
竜持くんは二人の兄弟とよく一緒にいたらしいが、待ち合わせ場所である公園にはいつも一人で来た。サッカーの練習があるからと言ってあまり長い時間一緒にいられなかったが、それでも竜持くんに会えるだけで嬉しかった。
竜持くんとはベンチに座って話すだけの日もあれば、公園の遊具で遊んだり近くを散歩したり買い食いしたりと、色んなことをした。
相変わらず私は泣き虫でことあるごとに泣いてしまったが、その度に竜持くんは顔を綺麗に歪めて笑って、親指の腹で涙を拭ってくれた。この一連の行為はもはや恒例のようになっていた。

竜持くんは私にとって本当の王子様になりつつあった。

それはある日私が例に漏れず、泣きながら待ち合わせ場所に向かった日のことだった。
私が泣いていたところでいつも笑って流してくれる竜持くんがその日に限って私が泣いてる理由を聞いてきた。
「い、いつも通りのくだらないことだよ」と私が答えると「そのくだらないことの内容を聞いているんです」と言った。竜持くんはいつもみたいにニヤニヤ笑ってなどいなく、至極真面目な顔をしていた。
私は観念したようにその日にあったことを話した。

学校帰り、竜持くんの元に行こうとしたときのことだ。クラスメイトの男の子に声をかけられた。その子はクラスのガキ大将みたいな子で、大きいしすぐに怒るので私はこの子が怖かった。
男の子は放課後やるドッジボールの人数が足りないので参加しろ、と言った。私は竜持くんとの約束があったので、弱弱しくもはっきり断った。断られたことに腹を立てたのか、彼は私の髪の毛を引っ張ってるようにして持って、私を床に放り投げた。
ブチブチと髪の毛が抜けて痛かったしおでこが思いっきり床にあたって頭がジンジンした。痛かったし怖かったが、それ以上にショックなことが起こった。
叩きつけられた拍子に髪の毛につけていた髪留めが壊れてしまったのだ。お母さんに買ってもらったばかりの髪留めで、竜持くんに見せようとつけてきたものだった。私がメソメソと泣くと、彼は「ざまあ見ろ」と笑って他のクラスメイトを誘いに行ってしまった。

私が話し終わると竜持くんは「とんだ利己主義者もいたものですね」と鼻で笑った。竜持くんの言った言葉は難しくて意味が分からなかったけど、褒めているわけではないのだろうと思った。
私の頬を拭ってから竜持くんは「行きましょうか」と言って歩き出した。どこへと聞くと「ドッジボールをしに」と答えた。竜持くんは私が通っている学校まで行き、グラウンドでドッジボールをして遊んでいる団体を見つけると、考えるように手を顎に添えながらじいっと彼らを観察した。
「喧嘩はダメだよ」と私が困ったように言うと「そんな野蛮なことしませんよ」と言った。

しばらくすると竜持くんは一人の男の子を指差して「あの横に広い、ふくよかな人がガキ大将ですか?」と私に確認して独り言のように「見るに堪えないですね」と冷たい目をしながら呟いた。竜持くんは私に、ここで待ってるように言って、彼らに近づいて行った。

竜持くんはドッジボールをやっているすぐ横でホースを使って花壇に水をやっている先生のそばに行った。何をするんだろう、と私はハラハラしながら見ていた。竜持くんが怪我とかしたらどうしようと考えると鼻の奥がツンとした。
竜持くんは先生が持っているホースが繋がれた蛇口のそばに息を顰めるように腰を下ろした。しばらくそこでじっとしていたが、ガキ大将が花壇に近づいた瞬間を見計らって一気に蛇口をひねった。先生が持っていたホースは暴れるようにうねってから消防車のホースの如く叩き付けるようにすごい勢いで大量の水を出す。突然の出来事に先生はホースを制御しきれず、水はガキ大将を攻撃した。
「冷たい!痛い!冷たい!」
いきなり水攻めにあったガキ大将は文字通り叫んだ。先生は慌てて蛇口に向かい水を止めたが、すでに竜持くんはそこにはいなかった。
ホースを置いた先生はガキ大将に駆け寄って「ごめんね」と謝った。ガキ大将は上から下までびしょ濡れで、一人だけ大雨に降られたように無残な姿になっていて、白いTシャツがぴったり大きなお腹にくっついていた。
一緒にドッジボールをしていた子たちは少し面白かったのか、数人が肩を震わせて笑いを耐えているようだった。
竜持くんはさらに追い打ちをかけるように、皆からは死角となる物陰から「おっぱいが透けてて格好悪いですねえ」といつもより2オクターブほど高い声で囁いた。
どこから発せられたか分からない声に一瞬その場が沈黙したが、すぐにゲラゲラと笑い声が上がった。先生以外の皆が笑っていた。先生は「笑っちゃダメよ」と慌てたように皆を注意したが、おっぱいとかそういう少しエッチな言葉が大好きな小学生たちは休む間もなくゲラゲラ笑い続けた。
「男なのにゲラゲラゲラおっぱいゲラゲラあるとかゲラゲラ」「よく見るとゲラゲラ乳首透けてるしゲラゲラ」「ゲラゲラ乳首とかゲラゲラ」
腹を抱えて笑い転げるクラスメイトに囲まれて、ガキ大将は顔を真っ赤にして怒ったが笑うのをやめる子はおらず、ついにはガキ大将が泣き出してしまった。
先生はもう一度皆を注意してから、ガキ大将を保健室に連れて行った。

一部始終を茫然と見ていた私に、いつの間に帰ってきたのか後ろに立っていた竜持くんが「明日からはでかい顔できませんね、図体はでかいままでしょうが」と言った。

「ちょっと可哀想な気も……」
「ああいうのは一度懲らしめないとろくな大人になりませんよ」

竜持くんが自信満々に言うので、それもそうかもしれないと思った。

「ありがとう竜持くん。私を守ってくれて竜持くんて、王子様みたいだね」
私がそういうと竜持くんは少し目を見開いてから眉をさげて笑って「こんな陰湿な王子いませんよ」と言った。

帰りに竜持くんは駄菓子屋でおもちゃの髪ゴムを買ってくれた。私はそれを宝物にした。




その日は突然やってきた。
竜持くんと他愛もない日々を過ごしていたある日のことだった。
竜持くんは「今度引っ越すことになりました」と言った。竜持くんと出会って一年が経とうとしていた。

突然の報告に目の前が真っ暗になった。
三月に差し掛かった空気は、暦の上では春を示していたが、まだ寒さが残っていて息を吐くと白く染まった。吸った息は肺を凍えさせて、息をするのが苦しくなった。

私は顔をマフラーの下に埋めて、顔を見られないようにした。

並んで乗ったブランコは寒さのためか、揺らすといつもよりも低い音でギイとなった。

「……いつ?」
「来週です」
「急だね」
「……そうですね」

そう言った竜持くんは力なく笑った。いつも自信たっぷりに笑う竜持くんとは別人みたいで、変な感じがした。
会話がなくなると代わりにというように二人の乗ったブランコが交互にギイ、ギイと音をたてた。
私はふてくされたように地面を蹴ると、ブランコは振り子のように大きく上下に揺れた。

「じゃあ、もう、会えないね」
「……そういうことになりますね」

否定してほしかった言葉が肯定されて、ああもう本当に会えないんだと思った。

頬が冷たい、と思ったら、いつの間にかいつもみたいに泣いていた。
ただでさえ寒いと言うのに、外気にさらされた雫は凍えるように冷たかった。

竜持くんが私を見たので、私も竜持くんを見つめた。

「今日で最後ですよ」
そういって竜持くんはいつもと同じ動作で私の涙を拭った。
温かい竜持くんの指が離れていくのが寂しくて、待ってというようにポロポロと涙は止まることなく落ちていく。
竜持くんは何度も涙を拭ってくれた。
私の涙を拭ってくれる竜持くんの親指が、いつかふやけてしまうんじゃないかと心配していたが、それも今日で終わりだ。

「竜持くんがふやけなくてよかったあ」と私が笑うと竜持くんは一瞬だけ驚いて「そんな軟じゃありませんよ」と頬をひきつらせて笑った。

「僕のいないところで勝手に泣かないでくださいね」
僕以外の人が夢子さんの涙を拭うのは、嫌ですから。

それが竜持くんと最後に会った日のことだった。





それから竜持くんに会うことはなくなった。
竜持くんと待ち合わせた公園に行くことも二度となくなった。

私はサッカーを始めた。竜持くんがやっていたので、少しでも竜持くんに近づきたくて始めたのだが、思ったより夢中になった。
運動音痴なりにも一生懸命頑張った。スタメンになれたことは一度たりともなかったけれど、弱音を吐いたりサボることもなかった。ユニフォームをもらえたときは嬉しくて、家に帰ってからパジャマに着替えるまで親に見せびらかすように着ていた。お母さんは赤と黒の色合いが夢子に似合うね、と言ってくれた。


竜持くんが引っ越してから二年が経っていた。私は小学六年生になっていた。
あれから私は一度も泣いたことはなかった。
お母さんやお父さんは私が泣かなくなったことに喜んでいた。「笑っている方が可愛いよ」と二人は言った。
竜持くんがいなくなった時と比べれば、泣きたくなることなんてなんにもなかった。


夏になると、私の所属するサッカーチームが都大会に進んだ。
私たちは気を引き締めて大会に臨んだ。
竜持くんはサッカーを続けているだろうか、とふと頭をよぎったが、なるだけ竜持くんのことは考えないようにしていたので、すぐに振り払った。

都大会当日。
私は会場で迷子になった。チームの待機場所からトイレまでは割と遠く似たような景色が広がる会場は迷路のようだった。
試合はまだまだ先だからとりあえずは大丈夫だろうとは思ったが、早く帰りたいと思い、足早で駆けた。

会場にはサッカーのユニフォームを身につけた、似たような団体がたくさんいて、自分のチームを探すのも一苦労だった。

「(見つからないなあ……)」

キョロキョロとあたりを見回していると、自分のチームによく似た赤と黒のユニフォームを着た人を見つけた。
しかしながらよく見ると少し違うユニフォームだと気付き落胆したが、すぐに別のことに気付いて私の心臓が跳ね上がった気がした。


「(竜持くん……?)」

赤と黒のユニフォームを着たその人は、髪形は違っているものの竜持くんにそっくりな顔をしていた。心臓の音が聞こえるくらい大きくなった。

「あ…………っきゃあ!」

慌てて声をかけようとしたが、おろおろした足がもつれてその場で転んでしまった。
顔を上げると竜持くん似の人はどんどん先へ歩いて行ってしまう。呼び止めようとするが緊張した体が強張って上手く声が出なかった。

待って!待って!待って!

私が「待って」と声を上げる前に、彼と同じユニフォームを着たチームメイトらしき人が大きな声で「凰壮くん」とその人を呼ぶと、その人は振り返って返事をした。そうして二人は私からどんどん離れて行った。

「(あ、ちがった……)」

勘違いに気付いて、なあんだ、と一人心の中で呟く。気持ちが冷めていくのがわかった。
なあんだ。勘違いして、転んで、馬鹿みたい。恥ずかしい。
私は「はは」っと自嘲したように笑った。

地面にへたりこんで俯いていると視界がピンボケして次第に歪んでいった。
泣いちゃダメだ、と思うと同時に、いつも考えないようにしてきた竜持くんの顔が脳裏に浮かんで離れなくなり、記憶の中の竜持くんが「また泣くんですか?」と言って眉を下げて笑った。
瞬間走馬灯のように、竜持くんとの思い出が頭の中を駆け巡った。


一緒にかき氷を食べた時のこと。一緒にあじさいを見に行ったこと。ブランコに乗って他愛もない話をしたこと。近寄らない野良猫を手懐けて餌をあげた時のこと。文房具屋の屋根の下で雨宿りした時のこと。本屋で難しい本を勧められた時のこと。いじめっこのガキ大将に水をかけた時のこと。駄菓子屋で髪ゴムを買ってくれた時のこと。クッキーを食べてくれた時のこと。名前を教えてくれた時のこと。警察まで連れて行ってくれた時のこと。ジャングルジムの上で王子様のように私の手をとってくれた時のこと。一人で泣く私に「うるさいですよ」と声をかけてきたときのこと。
最後に会った日に「僕のいないところで勝手に泣かないでくださいね」と言って親指で涙を拭ってくれた時のこと。


全部があまりにも懐かしすぎて、それが寂しくて、ついに私は二年間我慢した涙が溢れてしまった。
ずうっと溜めていた涙はとどまることを知らず、このままでは二年間分の涙で私は溺れ死んでしまうかもしれないと思ったけど、いっそそうなってしまってもいいと思った。
そんなことになってしまったら私の皮膚は錆びてしまうかもしれないけれど、竜持くんに会えなくなってから心が錆びてしまったようで既に公園のブランコのように寂しくギイギイと音を立てていたので、今更そんなこと気にしなくてもいいかと開き直った。
竜持くんに会えないなら、私なんて錆びてしまってもよかった。
寂しい。会いたい。寂しい。竜持くん。会いたい。
竜持くん。



「ああ、また泣くんですか」



懐かしい声がしたと思った。
ぼやけた視界の端に若草色のスパイクが見えた気がした。
もしかして、と期待して、そんなはずない、と言い聞かせて、でもやっぱりこの声は、と思っておそるおそる顔をあげると、そこにいたのは特徴的なおかっぱと気の強そうな鋭い目を携えた、竜持くんだった。

私が、会いたかった、竜持くんだった。


「え、なんで」
「こっちの台詞ですよ。なんでいるんですか?」
「だって、都大会で」
「奇遇ですね、僕もですよ」

そういって竜持くんが二年前と変わらない顔で笑ったので、やっぱり懐かしくて、泣いた。

完治したと思っていた「涙腺弛緩病」もとい「涙ぼろぼろ病」は完全に再発してしまったようで、寂しくても嬉しくても泣いてしまうのは、しょうもないなあと思った。

竜持くんは地面にへたりこんでいる私と同じ目線になるように屈んで、楽しそうに笑って昔と少しも変わらない動作で涙を拭ってくれた。
二年分の年季の入った涙は滝のように溢れ出るので「竜持くん、指がふやけちゃうよ」と言うと「そんな軟じゃありませんよ」とあの日と同じような返答がきた。

「竜持くん、あたし、会いたかったの」
「……僕もです」
「本当?」
「嘘なんてつきませんよ」
「うれ、しい」

そう言って笑うと竜持くんは困ったように笑ってから、突然ギュウっと私を力強く抱きしめた。私は一瞬驚いたが、懐かしい竜持くんの匂いがして、また泣けてきてしまった。

ああ、竜持くんだ。竜持くんがいる。わたしの、会いたかった、人。

しばらくして体を離すと、竜持くんは右手を私の頬に添えた。
何事かと思って竜持くんを見ると、ゆっくりと顔を近づけてきた。

あ。と思う頃には私の唇は竜持くんのそれと重なり合っていた。

ゆっくり離れて見つめあうと、竜持くんは「鉄の味がします」と言った。
転んだ時に口の中を切ったからだ、とぼんやり考えると「冗談です」と竜持くんは笑った。

「ちゃんと、あまいですよ」

今度は恥ずかしくなって俯くと、竜持くんが片膝を地面に付けながら恭々しく手を差し伸べてきた。
「立てますか?」

私はその手を取って「ありがとう」と言った。


ああまるで、王子様とお姫様みたいだね。

そう言うと竜持くんは「こんなに泣かせる王子なんていませんよ」と笑った。

















(2012.08.12)

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