※盛大に年齢操作、未来捏造してます。



大人になったなあと、しみじみと思う場面がある。
それは例えば、鏡の中に見える自分の唇が紅く染まることに違和感がなくなった時だったり、いつの間にか門限がなくなって、デートの待ち合わせに「夜から」が増えたと気付いた時だったり、喫茶店で二人が頼む飲み物がジュースからコーヒーに変わった時だったり、「みんな」で祝っていた誕生日を二人で祝うようになった時だったり、凰壮と「またね」と手を振りあった帰り道が同じになった時だったり。

その都度たしかに「大人になったなあ」と、その時ばかりは実感するのに、後から振り返ってみれば「あの時は子供だったなあ」と毎回反省してしまうのは何故なのだろう。人間は毎日成長する生き物だから、過去の自分は必ず未熟なのだろうか。
竜持に尋ねれば、それは歳を重ねるたびに「許されること」が増えることで、「自由」を「成長」と勘違いしてしまうからだと言った。大人になることと、成長することは全くの別物だとも言った。それにはどこか、幼少期、彼に辛酸を嘗めさせてきた大人たちへの皮肉が込められていて、如何にも捻くれ者の竜持らしかった。

大学を卒業して四年。二十六歳になった私と、彼氏である凰壮が同棲を始めて二年が経っていた。
社会で働くことにも随分慣れた。スーツを身に纏い、ヒールを履いて会社に向かう自分にも違和感はなくなった。未だに慣れないのは、通勤ラッシュくらいだ。
仕事で疲れた日は同僚と飲みに行く。給料日を待って好きなブランドの鞄を買うのを楽しみにする。休日は家事に追われる。
家で待てば凰壮が帰ってくる。デートで待ち合わせをすることがなくなる。会えない日が続いて寂しく思うことが少なくなる。よく玄関を閉め忘れる凰壮の癖で、喧嘩することが増える。仲直りすれば、同じ布団で眠る。朝起きたら、一番に凰壮が見える。
そういった、子供の頃にはなかった生活が今の私を取り巻く度に、成長したかは別にして、大人になったと実感する。いつか見たドラマの主人公のような生活が、自分にもやってくるだなんて子供の頃には思いもしなかった。ましてや、その相手が子供の頃から知っている凰壮だなんて。不思議。

だって、あの頃は目の前のことだけに夢中だったから。

忘れもしない小学六年生の夏。プレデターの、奇跡のような出来事。
あの夏の眩しさ、芝生から沸き立つ熱気、スタンドから聞こえる声援、ゴールを決めた仲間の背中を叩く感触、つらくなったときも支えてくれたチームメイトの、子供らしい真っ直ぐな屈託のなさ。まるで無敵だったあの頃。
無邪気に身を任せていた一つ一つの出来事がまるで尊くて、プレデターの一員としてサッカーをしていたこと自体が夢だったのではないかと思う。
いつだったか、あの夏の存在を凰壮に確認してみたことがあった。もしかしたら、私の夢だったんじゃないかって。凰壮は「プレデターがなかったら、俺とお前、今も他人のままだろ」と呆れたように言って軽く頬を抓った。
凰壮と初めて会ったのは小学六年生、紛れもない、翔に誘われてプレデターに入団した時だった。目つきと口が悪い凰壮は、兄弟三人合わせていい印象などなかった。
「例えどんな選択をしても、お前を好きになったぜ、とか言えないの?」
そんな淡泊な返答をする凰壮にそう文句を垂れると「んなわけねえだろ」と、幾分現実主義の凰壮に溜息を吐かれた。
「学校だって違ったのに、知り合うわけねえじゃん」
「中学一緒だったじゃん」
「クラス一度もかぶらなかったろ」
「私は、プレデターに入ってなかったとしても、凰壮のこと好きになったと思うけどなあ」
「女ってそういうの好きだよな」
凰壮の言う「女」が一体どの人を指していたのか、測り兼ねる。子供の頃からの知り合い故、凰壮の交友関係にそれほど女がいないことは承知済みだが、中学以外学校の違った私たちには知らないところもあるだろう。
それこそ知り合ったのは六年生の時であるが、実際付き合い始めたのは高校に上がってからだった。
「大体、もしもの話したってしょうがねえだろ。今がこうなんだから別にいいじゃねえか」
そう言って凰壮はこの話を終わらせた。

凰壮は知らないのだ。
私がずっと凰壮に片想いしていたこと。私がどれだけ凰壮のことを好きかどうか。
今だって時々、凰壮に好かれているか自信を失くしてしまうこと。
オリンピックにも出場して、凰壮は大分有名人になった。
どれだけ一緒にいる時間を重ねて、友達以上のことをしても、片想いしていると錯覚する時がある。告白は私からだったし元々凰壮は愛情を言葉にすることが少ない。何より、あまりに片想いの時間が長かったから。
それこそ、この時間が夢じゃないかと、頬を抓ることがあった。




「お前、今日遅くなるの?」

土曜の朝。出掛ける直前の凰壮がリビングに置いた荷物を持ちながら、私に視線を向けた。
二人分の朝食の食器を洗っていた私は、一度水を止めてから「うん、実家に行って荷物置いてくるね」と短く今日の予定を話す。

「夕飯、向こうで食べてこようと思ってるんだけど、凰壮どうする?作っておこうか?」
「んー、いや、外で食ってくる」
「そ」

それだけ聞くと凰壮が玄関に向かうので、私も後ろについて行く。

「ねえねえ、行ってきますのチューは?」
「馬鹿じゃねえの」
「馬鹿って言う方が馬鹿ー」
「あーはいはい。じゃあな」

面倒くさそうに出掛ける凰壮に「いってらっしゃい」と手を振って、再び洗い物に戻った。


休日の今日。事件は穏やかな春の日に起こった。
久しぶりに予定がないからと、桃山町の実家に行くことにした。久しぶりに親の顔を見に行こうと思ったのだ。凰壮は今日も柔道場に行くから帰りが遅くなると言うので、そのまま家で夕飯も済ませてしまおうという話になっていた。

実家に戻るとやはり落ち着く。
一通り寛いだ後、自分の部屋に埋もれていたアルバムや教科書を掘り返してケラケラ笑って実家を堪能してから、近所のスーパーへ買い物に出掛けた。せっかくだから夕飯の支度は私がすることになったのだ。

「キャベツ……」

野菜売り場に行くと特売品のキャベツが目についた。安いし、ロールキャベツでもしようかな。凰壮、ロールキャベツ好きなんだよね。たくさん作って、明日の朝にでも食べてもらおうかな、なんて思案しながら思わず頬を緩めた。どんな時でも、凰壮のこと考えてしまう癖は、自分でも嫌いじゃない。

「あれ? 夢子ちゃん?」

どのキャベツにしようか、と黙々と品定めをしていると、誰かに名前を呼ばれた。名前に「ちゃん」を付けられるなんて、随分久しぶりだと思いながら振り向くと、そこにいたのは幼馴染の翔だった。

「わー!翔、久しぶり!元気だった?」
「元気だよー。夢子ちゃんは?」
「元気元気!何してるの?」
「お母さんの代わりに買い物だよ」
「相変わらずねえ」

プレデターの皆とは定期的に集まってはいたけれど、皆就職してからは中々会う時間がなくなってしまい、翔と会うのも久しぶりだった。思わずスーパーで年甲斐もなくはしゃいでしまう。
そうして他愛もない挨拶に華を咲かせていると、ふと凰壮のことが頭をよぎった。
というのも、先週の金曜日。「今日のロードショーはジブリだから早く帰ってきた方がいいよ」と教えてあげたにもかかわらず、凰壮はいつもより随分遅く帰ってきた。別に遅く帰って来ること自体は珍しくないのだが、私が「早く帰ってきた方がいいよ」と言った日には、必ず早く帰ってきていた。凰壮とジブリ見たかったのになあ、と拗ねた口調で言えば「借りてくればいいじゃねえか」と元も子もないことを言われて、そういうところよくないと思う!と口に出さずに責めたのは今でも記憶に新しい。
「ちょっと飲んできた」
「え、飲んできたの?誰と?」
「んー、翔」
凰壮は確かにそう言った。
「え、翔?いいなあ、私も呼んでくれればよかったのに」
「お前ジブリ見てたんだろ」
ガキ。
そう、凰壮はからかうように笑って頭を撫でるから、少し前まで拗ねていたことも、まんまと忘れてしまった。

そんなことを思い出し、何の気なしに翔に凰壮の話題を振った。

「そういえば翔、先週凰壮と会ったんでしょ?」
「先週?ああ、金曜日?うん、会ったよ。偶然。びっくりした」

翔は昔と変わらない、屈託のない笑みを見せる。

「いいなあ、飲んでたなら私も呼んでくれればよかったのに」
「え?」

私の言葉に、翔がきょとんと、不思議そうに首を傾げた。

その表情に、嫌な予感がした。

「え、違うの?」
「えっと、確かに飲もうよって誘ったんだけど、断られたよ?夢子ちゃんが早く帰ってこいって言ってたからって」
「え?」

え、でも、金曜日、凰壮遅く帰って来たよ。翔と飲んでたから、って。

確認するように翔に言うけれど、やっぱり翔も不思議そうに眉を下げた。
どうやら翔は嘘をついていないみたいだし、それ以前に嘘をつく意味もないし、意味もない嘘をつくような人ではないし、というか嘘をつける人でもない。

では何故、凰壮と翔の言う事実が食い違うのだろうか。
理由は一つだ。どちらかが嘘を吐いている。そして、それが翔でないとするならば……。

「……でも、なんで凰壮、嘘吐いたんだろう……」

嘘をつかなければいけない理由があったというのだろうか。
帰りが遅くなった理由を、私に隠さなければならなかった理由……?

それは……。

「……浮気?」

そう、ポツリと。自分から言った割には丸い目を更に丸くさせて、いかにも驚いた表情を見せる翔は、未だに時々、子供みたいな表情をした。小学生のときよりもずっと背が高くなって、声も低くなったのに。
翔の言葉に私が目線をあげると、翔はいかにも「しまった」という表情をした後、取り繕うように「そ、そんなわけないか!あの凰壮くんが!ね!」と、昔グラウンドで響かせた大声で言う。こういう時第三者、それこそエリカがいれば「翔くんのアホ、いらんこと言って」とフォローかどうかわからないツッコミをしてくれただろうに。今この場にいるのは私と翔だけで、その分酷く気まずい雰囲気が拭えなかった。

「……あのずぼらな凰壮が、浮気なんてマメなことできるとは思えないけど」
「そ、そうだよね!僕もそう思う!それに、凰壮くんは夢子ちゃんのこと大好きだしね!」
「……それは知らないけど」
「あ、えと、ごめん……」

思わず突き放した言い方になってしまって、ハッとした。
翔に気を遣わせてしまっている。私と凰壮の問題なのに。こんな話されたって、翔だって良い気はしないだろうに。申し訳ない。


翔とは「また今度ご飯でも食べよう」と約束をしてすぐ別れた。
そそくさと買い物を済ませ、スーパーから家までの短い帰り道。両手に買い物袋をぶら下げて、ぼんやりと爽やかなまでに青い空を見上げながら、先程の翔との会話を反芻させる。

「(別に、凰壮が浮気してるとは思わないけど……)」

ただ、嘘をつかれていたという事実が、酷く私を不安にさせた。
凰壮は、嘘をつかない人だ。何でも思ったことは口にする。お世辞も建前もない、歯に衣着せぬその性格故、嘘とは無縁の人間だ。だから、こんな些細な嘘ですら、なにか大事があるのではないかと、勘ぐってしまう。凰壮に隠し事なんてされるはずないと、今まで疑いもしなかったのに。

「(信用、が)」

何か理由があったのだろうけど。しかしながら、その理由がわからない以上、モヤモヤしてしまうのは仕方がないことである。ましてや、初めて嘘をつかれたのだし。
いや、もしかすると、これが初めてじゃないかったり、して。
一度悩むと悪い方向に考え込むのは悪い癖だ。凰壮にも何度も注意された。

けれども、凰壮の言葉を全て絶対的に信用していた自分に、自信がなくなってしまった。
時々襲う、好かれている自信が食われてしまうのと、同じ感覚だった。



告白したのは、私からだった。
高校に上がって少ししてからだ。当たり前に、凰壮とは高校が離れてしまっていた。
プレデターで知り合って、その後同じ中学に進んだので、離れることの淋しさに初めて襲われた。私も凰壮もサッカーはやめてしまっていたし、中学に上がってからは小学校の時のように頻繁に会うことはなくなっていて、学校以外で会うことはほとんどなかった。
学校が変わってしまえば、凰壮と会うことはもうなくなるだろうと。
そう確信して、怖くなった。それまでは、関係が壊れるのが嫌だからとか、そういう生ぬるいことばかりを言い訳にしていたけれど、凰壮に会えなくなることは、もっと嫌だと思った。フラれてもいい。フラれてもいいから、学校が変わっても時々会ってほしいと、そう言えればいいと思った。
意を決し、凰壮の高校まで行って、部活帰りの凰壮を捕まえ、告白した。
凰壮は面食らったように驚いていた。「は?」と間抜けな声を出した。まさか私から告白されるだなんて、思ってもみなかったのだろう。プレデターの仲間は戦友みたいなものだったし、エリカや玲華はそれぞれ好きな人がいたみたいだけど、男子たちはサッカーに夢中でそれどころじゃなかったから、私のことだって、そういう対象に見たこともなかったはずだ。
「お前、俺のこと好きなの?」
恥ずかしさと不安から、とても凰壮の顔なんて見れず、新品のローファーばかりを眺めていると凰壮の声が降った。
「す、好き」
言葉にして返すと、眼球が熱くなるのがわかった。熱くなる眼球を潤すように、涙の膜が張る。悲しい時の涙は、鼻の奥がツンとするけれど、それとは違う涙だ。緊張だったのだろうか、凰壮への恋心が、涙となって具現化したかのようだった。
「……悪いけどさ、お前のこと、そういう風に考えたことないんだよね」
予想していた答えだった。だった、はずなのに、実際言われると、酷く苦しい言葉だった。
「あ、うん、そうだよ、ね。知ってた、あは」
「……」
「あの、えと、き、気にしなくて、いいから、わかってたし」
「っていうか」
「え、あ、うん?」
「お前のこと、っていうかそれ以前に誰とでもそういうこと、考えたことねえな。興味なかったし」
「そ、そう……」
「でも」
「……うん?」
「お前にそういうこと言われて、悪い気はしない」
「……え、と?」
「それでもいいなら付き合おうぜ」
「え!」

今思い出しても適当な流れだったような気がする。私のこと好きだったのか、と言えば、正直怪しい。
ただ、凰壮が女子に告白されたことなんて初めてじゃなかったし、その度全部断っていたから、私のことは「選んでくれた」には違いなかった。

けれどもやはり、根本はそこにあるのだと思う。
凰壮は、私みたいに元々私のことが好きだったわけじゃない。もちろん、月日を重ねる内に好きになってくれたみたいだけれど。でもやっぱりどうしても、付き合い始めてからだって片想いしている気分の時が多かったから。

最低かもしれないけれど、どうしても時々、凰壮のことが信じられなくなる。


結局、夕飯の支度だけして食べずに早めに帰ることにした。
親には悪いと思いつつ、どうしても凰壮のことが気になってしまったのだ。
実家を出て駅に向かう。凰壮に連絡しようか迷ったけれど、やめておいた。
今は、会って直接話す以外に凰壮と接するのは、不安になる気がした。顔が見たい。顔を見れば、安心すると思った。それで浮気してんじゃないのって聞いて、いつもみたいに「なにくだらねえこと言ってんだよ」って溜息を吐いてもらえればいいと。

実家から家まで、そう離れてはいない。数十分電車に揺られて、凰壮との部屋に戻った。
ドアノブを引いても扉は開かず、鞄から鍵を探して開けた。時間は八時を回っているが、凰壮はまだ帰っていないみたいだった。

「(食べてくる、って言ってたからな……)」

人と食べているなら、遅くなるかもしれない。
私も今日は遅くなるって言っていたわけだし。

明かりのついていない部屋に上がる。
電気もつけずにリビングのソファーに寝転がった。

「早く帰ってこないかなー……」

返事の帰ってこない部屋で一人呟く。私の願望は暗がりに消えてしまう。
浮気なんて、されるはずない。
そう思えば思う程、対照的にその疑惑が頭にこべりついて離れなくなってしまった。

もしも、凰壮が私に嘘をついて、誰か女の人と会っていたら?

降って湧いた疑心暗鬼に、心臓が鉛のように重くなった。手に嫌な汗をかく。

今、どこで誰と何をしているんだろう。
一緒に住むようになって、共有することが増えたのに。それでも知らないことがないわけじゃないのは、当たり前だ。私と凰壮は違う人間なのだから。今までは、それを理解していたし、特に詮索したいとは思わなかった。
けれども、今はそれが怖い。

凰壮と近くなる度に、我儘が増えた。
初めは、一緒のチームでプレーできるだけでよかった。それがだんだん、もっと一緒にいたいと思うようになって、私のこと少しでも女子として見てほしくなって、可愛いって思われたくて、付き合うようになったらデートしたくて、抱きしめてほしくなって、キスしてほしくなって……。
私のこと、世界で一番好きになってほしくなった。私のこと以外、見てほしくなんかない、のに。

どうして嘘なんかつかれたのだろう。私には言えない人といたのだろうか。それって、どういうこと?


凰壮に、浮気されてたらどうしよう。



「お前、何してんの。電気つけないで」

視界がぼんやりとしてきた頃。
突然部屋の明かりがついて、眩しさに目を細めた。
起き上がると、リビングの入り口で不思議そうな顔をした凰壮がこちらを見ていた。

「あ、お、おかえり」
「いないと思った。意外と早かったんだな」
「うん、ちょっとね」
「ふうん……」

気怠そうに相槌を打った凰壮が、荷物を置いて私の隣に腰掛ける。
突然距離が近くなって、驚いて一瞬仰け反ると「なんだよ」と不機嫌そうに眉を顰められた。

「なんかあったのかよ?」
「な、なんもないよ」
「元気ねえじゃん」
「ちょっと、眠いだけ。うとうと、してて」
「ふうん」

すうっと、凰壮の手が伸びる。
思わず目を瞑ると、私の髪を絡ませながら、耳の辺りを撫でた。まるで猫でも撫でるみたいな手つきで、凰壮は私を撫でる。それがいつも、気持ちいいと思っていた。
目を開けると、ぼんやりと視線を向ける凰壮と目が合う。見つめ返すと、薄く唇を開いた凰壮が近づいてきて、そのままキスされた。
再び目を閉じてキスを受け入れると、重ねただけで、凰壮は離れてしまった。

「ど、どうしたの?」
「なにが」
「いや、なんか、凰壮、変……」
「そ?」

突然、こういうことしてくるのは珍しい。いつも、淡泊なくせに。

「なにか、あった?」

思わず声が震えた。
そういえば、ずっと前に見た雑誌に「突然優しくしてくるのは浮気のサインだ」と書いてあったことを思い出す。
どうして、こんな時に思い出すのだろう。今まですっかり、忘れていたはずなのに。

「あったっていうか、あるとするなら今からかな」
「今……?」

言っている意味が分からず思わず眉を顰める。今から、何か言われるのかしら。それって、嘘をついたことに、関係ある?
緊張から、心臓が速くなった。

「ひゃっ」

ふと、凰壮の指が私の鼻をつまんだ。
突然のことに驚いて「痛い」と小さな悲鳴を上げながら、逃げるように顔を逸らす。その瞬間に今度は左指を撫でられた。戸惑いながら再び凰壮を見ると、恭しく私の指先を左手で持っている。
「なに?」と呟くと、薬指をすうっと、光る輪っかがくぐった。


「え」


ゆび、わ?


「結婚しようぜ」


え。


「……え?」


結婚?


「お前、そろそろ行き遅れるだろ。もらってやるよ」

ソファーの背もたれに頬杖をついた凰壮が薄く笑う。私はと言えば、左手の指輪と凰壮を交互に眺めるだけで精一杯だった。思考が追い付かない。

「え、と……」
「なんだよ、嫌なのかよ」

いや、じゃなくて。

「凰壮、これ、いつ」
「先週の金曜日。悪かったな、早く帰ってこれなくて」

代わりに今日ジブリ借りてきたから。

凰壮が、まるで子供をあやすみたいに私の額を撫でる。
たしか、さっき、結婚しようって言われたはずなのに。いきなり子供扱いされるから、変なの。

「わ、わたし、わたしで、いいの?」
「何だそれ」
「だって、凰壮、元々私のこと好きじゃなかった、のに」
「いつの話してんだよ」

目を細めた凰壮の指が、私の眉間をぐっと押す。「変な顔になるからやめて」と言えば「元から変な顔じゃん」と言った。

「好きじゃねえ奴と十年以上も付き合うかよ」

でも、でも、私。

「そんな資格、ない」

凰壮のこと疑った。
勝手に悪い想像を膨らませて、勝手に不安になって、凰壮の気持ちを疑った。折角凰壮が、私のためにこんな綺麗な指輪、選んでくれたのに。凰壮が指輪を買ってくれていた時に、あろうことか浮気を疑うなんて最低なことをした。
どうして信じきれなかったのだろう。大した嘘なんかじゃなかったのに。

指輪をもらえるほど大人になったのに、私はまだまだ子供だ。

指輪が綺麗に輝けば輝くほど悲しい気持ちが大きくなって、目から涙がぽたりと落ちる。
それが指輪を濡らすと、凰壮の親指が私の頬を拭った。

「別に試験でもなんでもねえし、資格とかいらなくね?」

視線を凰壮に合わせると、伏し目がちの凰壮がいた。

「お前がどうしたいか、俺は聞いてるんだけど」

凰壮の鋭い目が、私を見る。
その目に見られる時、いつも緊張してるの。どんな些細な時だって。何年経っても凰壮に片想いしてるの、知らないでしょ。

凰壮の、私の弱気を振り払ってくれる言葉が、私を無敵にしてくれる。

「す、好き」
「……おう」
「結婚、したい」
「そ」

凰壮が、口の端を吊り上げて笑う。気の強い吊り目が優しく微笑むから、胸が苦しくなった。
昔、多義に「凰壮の、そ、って言う相槌、夢子の口癖だったよな。移ったのかな。なんか、そういうのいいよな」と指摘されたことがある。それから凰壮が「そ」と相槌を打つたびに、すごく、幸せになるの。一緒にいるって、こういうことなんだって。

左手の薬指に光る指輪を凰壮が撫でた。

ふと、プレデターにいた頃、休憩中に木陰でポカリを飲んでいると、凰壮が隣にドカッと腰掛けた時のことを思い出した。
どうして今、こんなことを思い出したのだろう。
隣に座る凰壮に、すごく緊張した。無駄にポカリを飲んでしまった。同時に、すごく嬉しくて。淡く、淡く。
あの時、私の世界は桃色だったの。

片想いしていた。ずっと昔から。あの頃は、凰壮とこんな風になるなんて思いもしなかった。

大人になった分、子供の頃を思い出すと、時々どうしようもなく泣きそうになる。ボールだけを追いかけて、無邪気だったあの頃。凰壮が隣に座るだけで、気持ちがはしゃいでいた頃。楽しかった。すごく楽しかった。翔がいて、エリカがいて、玲華も虎太も竜持も多義も青砥も、凰壮もいて。無敵だった。あの頃が世界で一番楽しかった。ずっとこのままでいたいって、何度も思った。もう、二度と戻れない。思い出だけのあの時間。

皆、自分だけの未来に歩き出している。何も知らなかった子供では、もうない。理不尽なことも、汚いことも、たくさん知った。少しの淋しさもある。

それでも、大人になってよかったって、そう思える。

自分だけの未来に、凰壮が加わって。凰壮と、歩き出せる。
あの頃の自分に、教えてあげたい。


好きになって、よかった。
好きになった人が、凰壮でよかった。


「どんな選択をしても、きっと凰壮を好きになった」


きっとよ、きっと。


「好きになってくれて、ありがとう」


凰壮を見ると、また涙が零れた。それを、凰壮が拭う。




大人になったなあ。





十万打ありがとうございました(20140330)
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