「キスしたいなあ」

それはまるで「おなかすいたなあ」と言うような、全く覇気のない声のトーンだった。
あまりに脈絡のない言葉に自分の耳がおかしくなったのかと疑ったが、テレビの中で叫ぶ芸人のツッコミと表示されるテロップが一致しているので、すぐに自分の聴力が正常だと確信する。

だとしたら今こいつはなんと言った?

俺は、おそらく声を発したと思われる人物、夢子にチラリと視線を向けた。
夢子は数分前に見たときと変わらず、棒付きのバニラアイスを租借しながらぼんやりとテレビを眺めていた。「箸が転んでも笑う」との定評がある笑い上戸の権化の夢子が、芸人がどんなにボケてもツッコんでも微動だにせず、決められた動作を繰り返すロボットのようにただただアイスを舐めつづけているので、こいつ別にテレビ見てるわけじゃねえな、と瞬時に察した。
加えて、夢子が舐めているアイスは夏の暑さに耐えきれずドロドロと溶け始めているというのに、夢子はその滴りを舐めあげようとはしない。ただぼーっとテレビに視線を合わせてアイスのてっぺんだけをチロチロと舐めつづけている。どうでもいいけどちょっとエロい。

こいつ、本当に今、キスしたいとか言ったのか?

しかし現在降矢家のリビングには俺と夢子しかいない。親も竜持もそれぞれ用事で外出している。虎太に至ってはスペインだ。
だとしたらテレビか?よくテレビの中で鳴るインターフォンとか呼び鈴に騙されるあれか?と自分なりに推察してみたが、せわしなく飛び交う芸人によるボケとツッコミの応酬や観客の笑い声が響き渡る画面を見て、違うなと、この可能性を否定した。

やっぱり考えられるのは夢子しかいない。つーか夢子の声だったし。

じゃあなんでこいつはこんな平然としてんだ?
確かにこいつの言った「キスしたいなあ」は同意や意見を求める趣旨の発言ではなく、ただの願望であるだろうが、なかなか人に聞かせるような内容ではない。しかしながらこいつはさっきはっきり言葉にして述べた。ということは人に聞かせたかったということになる。この場にいるのは俺だけだから、必然的に俺に聞かせたかったということになるのだろうか?
つまるところ考えられる可能性は限られてくる。

「おい」
「ふえ?」

俺が声をかけると、きょとんとした顔でこっちを見てきた。

「なんだよ、今の」
「今?え、なんの話?」
「はあ?なにって一つしかねえじゃん」

俺が何を言っているか本当にわからないのだろう、頭に疑問符を浮かべる夢子に俺は気付かれないようにため息をついた。

「いや、お前キスしたいって今言ったじゃん」
「え!!!」

俺が言い終わるか終らない内に夢子がでかい声をあげた。
うるせえなと悪態をつこうとしたが、顔をみるみる赤く染めて「え、なんで、凰壮知ってるの?え?あれ?」としどろもどろに困惑している夢子を見ていたら、怒る気も失せた。

「あ、れ?私声に出てた?」
「まじで気付いてなかったのかよ」
「うそだ!やだ!さいあく!はずかしい!」

夢子は照れ隠しか、目ん玉をぎょろぎょろと四方八方上下左右あらゆる方向に泳がせる。たまに俺と目が合うとますます頬を赤色にして、困ったように眉を下げた。
なにこいつ可愛いじゃん。

「恥ずかしいんだ?」
俺がからかうように追い打ちをかけると、「うるさい!」と言い返してきたが、顔は歪んで目も潤んできた。

「なんでキスしたいなんて思ったんだよ」

当然の様に浮かぶ疑問を素直に投げかける。
すると夢子は少し驚いた顔をした後、戸惑ったように目細めてもじもじ足を動かしていた。夢子の短いスカートが不規則に揺れてひだをつくる。短いスカート履くなよ、って何度も注意しているのにこいつは聞く耳を持たない。可愛いじゃん、とか言って。ブスのくせに生意気な。パンツ見えたらどうすんだこいつ。
しばらくすると意を決したように顔を上げた。

「凰壮と、いて」
「俺?」
「なんか、嬉しいなあって、思って」
「……」
「だから、その……」
「俺としたいんだ?」

からかうつもりで言ったのだが夢子は、凰壮としかしたくないよ、と消え入りそうなしかしはっきりとした声で言った。

……ふーん。

「する?」
「え?」
「何?」
「え、いや」
「したくねえの?」
「う、した、い」
「じゃあいいじゃん」

付き合ってるんだし、と俺は付け足した。

「う、うん」
俺の言葉を聞いて、夢子の声はますます消えるように小さくなった。

いつもはけたたましくわめいている夢子のしおらしい姿に、ガラにもなくドキドキしているのがわかった。
いや、だってこいつなんか可愛いし、何より俺たちはまだキスしたことがない。

俺が詰め寄ると夢子はまだ恥ずかしいのか、まるで防具を構えるように溶けかかったアイスで顔を隠した。言っておくけどそれ、防御力0だからな。
アイスを持ってる手ごと握って、もう片方の手をソファーの背もたれに置く。
観念しろよ、と耳元で囁くと、夢子の小さな肩が強張るのがわかった。
すっと耳元から顔をひいて真っ赤な顔の夢子と向かい合うと、互いの視線が絡んでじいっと見つめあった。
怯えたように目を細めるくせに決して逸らそうとしない夢子を、ひどく愛しく感じた。

ゴクン、と生唾を飲み込む音がしたと思ったら自分の喉から出た音だと気付いて、少し恥ずかしかった。がっついてるみたいだし、何より緊張してるのが伝わるようで、かっこ悪い。
そんな俺の気持ちなんて知らない夢子が「凰壮」と切なげに俺の名前を呼んだ。
それが引き金みたいに、夢子に顔をゆっくりと近づけてく。
緊張は最骨頂に達した。
蝉がミンミンうるさい。そういえば今日は今年の最高気温を更新したらしい。
ああだから通りで、こんなに熱いのか。

暑さに負けたバニラアイスが溶けて、二人の手の間を滴り落ちた。









「凰壮くんのエッチ」パシャ

あまりの脈絡のない言葉に、いや今度は脈絡はあったが、自分の耳がおかしくなったかと疑った。
寸前のところで動きを止め超至近距離の夢子を見ると、夢子も驚いたように目を見開いていて、私じゃないというように首を横に振った。
じゃあ誰が?いや、その前にあの聞きなれた機械音は……。

顔を上げてリビングのドアの方を見るとアイパッドを構えながら二ヤついてる竜持がそこにはいた。

「あ、おま……」
「家族団らんの場であるリビングであんまりふしだらなことしないでくださいね、凰壮くん」

ああもうだれかタイムマシン持ってこい。











(2012.8.11)

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